風待ちのひと
伊吹有喜(著)
,吉實恵(画)
/ポプラ文庫
作品情報
“心の風邪”で休職中の39歳のエリートサラリーマン・哲司は、亡くなった母が最後に住んでいた美しい港町、美鷲を訪れる。 哲司はそこで偶然知り合った喜美子に、母親の遺品の整理を手伝ってもらうことに。 疲れ果てていた哲司は、彼女の優しさや町の人たちの温かさに触れるにつれ、徐々に心を癒していく。 喜美子は哲司と同い年で、かつて息子と夫を相次いで亡くしていた。 癒えぬ悲しみを抱えたまま、明るく振舞う喜美子だったが、哲司と接することで、次第に自分の思いや諦めていたことに気づいていく。 少しずつ距離を縮め、次第にふたりはひかれ合うが、哲司には東京に残してきた妻子がいた――。 人生の休息の季節と再生へのみちのりを鮮やかに描いた、伊吹有喜デビュー作。
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商品情報
- シリーズ
- 風待ちのひと
- 出版社
- ポプラ社
- 掲載誌・レーベル
- ポプラ文庫
- 書籍発売日
- 2011.04.01
- Reader Store発売日
- 2018.03.02
- ファイルサイズ
- 1.9MB
- ページ数
- 399ページ
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この作品のレビュー
平均 4.0 (87件のレビュー)
-
あなたは、『たしかに自分は今、何もかも保留、宙ぶらりん、先送り中だった』という今を生きていませんか?
この世を生きていく中には、楽しいこと、やりたいことがある一方で、嫌なこと、やりたくないこともたく…さんあると思います。これは誰だって同じです。前者だけしかないという方がいたらそれはとても幸せで前向きな人生なのだと思います。誰にだって多かれ少なかれ、またその時々の状況によって嫌なこと、やりたくないことというものはあるはずです。そして、当然の感情として、そんなことごとを後回しにしたい、そんなことがあること自体を考えないでいたい、そんな風に考えると思います。
しかし、残念ながら人の人生が有限である以上、嫌なこと、やりたくないことをいつまでも先延ばしにできるはずがありません。また、先延ばしにすればするほどにそんな事ごとの難易度が上がっていく場合だってあると思います。早めに踏ん切りをつけて、そういった事ごとを一気に解決してしまう、それも生きていくには大切な事だと思います。
ただ、そうは言っても私たちは人間です。教科書に書いてある通りそうは簡単に行動できるかというとそんなに容易くもないものです。そういう私も読書&レビューの日々を送る一方で家庭が抱えるある問題をさき送りしていることに気づきます。というより気づいているからこそ、読書&レビューにのめり込んで、そのことを忘れようとしている、そんな自覚自体はあります。どうしたものですかね…。
さて、ここに妻の『ペンディング』という言葉をきっかけに人生が宙ぶらりんになってしまったと感じる一人の男性が主人公となる物語があります。そんな物語には、もう一人、息子と夫を相次いで亡くし、二人の面影をいつまでもひきずる一人の女性が登場します。この作品はそんな二人の主人公が『紀伊半島の南東部、熊野灘に面した』『海沿いの町』という美鷲(みわし)に出会い、暮らす中で”凝り固まった哲司の心と身体がゆっくりとときほぐされ”ていくのを見る物語。そんな二人の間に通い合う人と人との繋がりを感じる物語。そしてそれは、そんな二人の人生が再生する瞬間を見る物語です。
『手洗いを使いたくて、このドライブインに寄ったこと』を『心から後悔』するのは主人公の須賀哲司(すが てつじ)。そんな哲司の前で『あの車のドライバー、どちらさん?』と『トラックのドライバーが』『軽自動車の持ち主を大声で捜して』います。やむなく『私ですが』と答えた哲司に『あんた、美鷲(みわし)の人?もし帰るんなら、あの人乗せてやってよ』とドライバーは一人の女を指差しました。『一人でいたかった』と思う哲司ですが、『乗せるの、乗せないの?』と詰め寄られ『仕方なくうなず』きます。そして、女を乗せて走り出すと『兄さん、どこの人?去年の夏は見かけなかったけど』と訊く女に『夏の間だけ、しばらく美鷲にいることになって』と返す哲司。その後もさまざまなことを訊かれて『うっとうしくな』った哲司は『ipodのイヤフォンを耳に入れ』ます。そして、『車は美鷲の町に入ってい』きます。『三重県の私立の女子校で教頭を務めていた母』がリタイア後、『家を建てて暮らしていた』美鷲。そんな母親も『二ヶ月前に病院で亡くな』りました。そんな時から『突然、夜に眠れなくなった』哲司は『首が右に曲がらなく』もなりました。『体に異常はなく、精神的なもの』と診断された哲司は『六週間の休職が認められ』たこともあって『母の家を整理しがてら、美鷲で静養することにし』たものの、『静養して何になる?』、『いっそこのまま何もかも捨て、息をすることすらやめてしまいたい』とも思います。そんな時、女に肩を叩かれイヤフォンを外すと『防波堤の手前で車を止めるよう』言われます。『目の前の店を指さし』遊びに来いと言う女は『うんとサービスするから、ぜひ来てね』と言うと車を降りました。『「ミワ」と赤いネオンサインが』またたくそのお店。そして、家に着いた哲司は、『台所で見つけたウォッカを飲』みます。『思えば昨日も一昨日も眠れず、酒の量ばかりが増えている』という哲司は『不意に海が見たくなり』庭に出ると、今度は『海水に触れたくな』り、砂浜へ出て、『水の中に進』みます。『体が軽くなるのを感じた』哲司は『楽になりたい』『疲れた』と思い目を閉じました。『大学卒業後に入った銀行は相次ぐ吸収合併』に見舞われるも転職の踏ん切りがつかない日々の中、『妻がスポーツクラブの若いインストラクターと体の関係を持っていた』ことを知った哲司ですが、『中学受験を控えた娘』のために『ペンディング』となったそれから。『沈んでみようか』と思った次の瞬間、『体が沈んで』『息苦しくなり、手が水をかいた』という緊迫した状況。そんな時、『大丈夫。力、抜いて』という声、そして体が引かれ『砂地に着いた』のを感じた哲司に『救急車、救急車を呼ぶよ』と声が聞こえました。顔を上げるとそこには車に乗せた女の顔がありました。『兄さん、岬の家の人なの?』と肩を貸してくれる女に家まで送ってもらった哲司は、女に風呂に入れられ、マッサージまでしてもらい介抱されます。そして、福井喜美子と名乗ったその女。そんな喜美子との関わり合いの中で、『自分は今、何もかも保留、宙ぶらりん、先送り中だった』という哲司の人生が再び動き出していく物語が描かれていきます。
“「心の風邪」で休職中の男と、家族を失った傷を抱える女。海辺の町で偶然出会った同い年のふたりは、39歳の夏を共に過ごすことに。人生の休息の季節と再生へのみちのりを鮮やかに描いた、著者デビュー作”と内容紹介にうたわれるこの作品。第三回ポプラ社小説大賞特別賞も受賞するなど、伊吹有喜さんの今に続く小説家としての出発点となる作品です。そんな作品は、”「心の風邪」で休職中の男”とされる須賀哲司と、”家族を失った傷を抱える女”とされる福井喜美子といういずれも39歳同い年の二人に交互に視点を切り替えながら展開していきます。では、そんな作品を三つの視点から見ていきたいと思います。
まず一つ目は〈プロローグ〉と〈エピローグ〉の効果的な使い方です。伊吹さんの作品では現時点での既刊14冊のうち半数の作品で〈プロローグ〉と〈エピローグ〉が構成に盛り込まれています。とはいえその使い方は作品によって異なり、それぞれに物語の読み味を絶妙に作り上げています。この作品では上記の通り、哲司と喜美子の主人公二人に交互に視点を切り替えていきます。このような構成の場合、二人それぞれの相手を見る心の内が視点の切り替えによって読者にもはっきりと見えてくるという効果があります。しかし、そんな二人は周囲からどういう存在として見えるのかという視点がなくなってしまいます。もちろん、そんな視点なしに描かれた作品もありますがこの作品では〈プロローグ〉と〈エピローグ〉を全くの第三者である一人の『青年』の視点とすることで思わぬ効果を生んでいます。物語の冒頭については上記でまとめていますが、それは実際には〈第一章〉の冒頭となります。〈第一章〉では美鷲へと帰るところだった哲司の車に喜美子が乗り込むというところから始まり、『一人でいたかった』という哲司にはなんとも迷惑な展開になったという物語が描かれます。しかし、ここに〈プロローグ〉が差し込まれることで見え方が全く違ってくるのです。そんな〈プロローグ〉の『青年』は『ドライブインの駐車場の隅で小柄な女が男の髪を切ってい』るという光景を目にします。『丸みを帯びた』『どこか福々し』い顔を見た『青年』は、『先輩ドライバー』から聞いたこんな噂を思い出します。
『「海沿いの町」という紙を掲げた中年女がヒッチハイクをしていたら、必ず乗せて丁重に扱え。不二家のペコちゃんに似たその女は腕利きの理容師で、乗せるとその礼に必ずドライブインで髪を切ってくれる』。
そして、ポイントが次の結果論です。
『そうして男ぶりが上がったドライバーにはその後、きまって多くの福が舞い込むらしい』。
いかにも噂という感じのお話ですが、どこかロマンティックな雰囲気感も漂わせます。そして、そんな女が乗ることになったのが哲司の車。〈第一章〉へと物語は繋がっていきます。どうでしょう。上記の〈第一章〉の物語に一気に厚みが出てくるのがわかります。そして、そこにはそんな噂が本当になるのかな?という読者の期待感が生まれます。これは、二人の視点の切り替えだけでは決して得られないものです。第三者である『青年』を登場させるからこそ生まれた効果とも言えます。一方で〈エピローグ〉に触れることは即ネタバレとなるために避けたいと思いますが、〈プロローグ〉同様に『青年』が再び登場し、物語を実にあたたかな眼差しで見る中に物語は幕を下ろします。これから読まれる方にはこの見事な〈プロローグ〉と〈エピローグ〉の演出の妙には是非ご期待ください。
次に二つ目はクラシック音楽に関する描写です。物語ではクラシック音楽を愛する哲司と、『やはりクラシックは特別なものなのだろうか。それを楽しむにはもっと教養みたいなものが必要なのだろうか』という中に哲司にそんな音楽の魅力を教えてもらおうとする喜美子の姿が描かれていきます。『そう構えるものでもないよ。たかが音楽だ』と言う哲司に『なのに、どうしてすがるようにあの人はそれを聴いているのだろう』と思う喜美子。そんな二人の掛け合いがなかなかに面白く描かれていきます。一つ取り上げます。一枚の『レーザーディスク』を手にした哲司。そのジャケットを見ながらの二人の会話です。
喜美子: 『ねえ、なんでこの男の人は白ずくめなの?』
哲司: 『白鳥の騎士だから』
喜美子: 『はーくーちょうの騎士?いやだ、もう。哲さん、真面目に言ってるの?』
哲司: 『本人が白鳥じゃないよ。白鳥が牽いてくる小舟に乗ってくるんだ』
喜美子: 『それ、どういう舟なの?おまるみたいな舟?』
哲司: 『演出による』
喜美子: 『弱そう。出てきたらすぐ死にそう』
哲司: 『強いよ、主役だから』
なんとも軽妙なやり取りですが、オペラをご存知の方はお分かりだと思います。これは、ワーグナー「ローエングリン」の『レーザーディスク』を手にしてのやり取りになります。こんな感じでこの作品にはクラシック音楽の話題が多々出てきます。それは、衣裳にまで及ぶなど、この作品の骨の部分を絶妙に彩っていく重要な役割を果たします。クラシック音楽はあまり知らない…という方もご心配なく。主人公の一人・喜美子はそんなあなた同様にクラシック音楽の知識ゼロから出発するという位置づけです。この作品を読み終わったあなたは無償にクラシック音楽を聴きたくなること請け合いです。
最後に三つ目は、内容紹介に”人生の休息の季節と再生へのみちのり”と記された時間を二人が過ごすことになる『紀伊半島の南東部、熊野灘に面した』『海沿いの町』という美鷲(みわし)の魅力溢れる描写です。人は美しい景色に癒される、一般論としてさらっと言われる通り、特に都会のゴミごみとした街並みの中で生活している人ほど、美しい自然に囲まれた場所で癒されたいと思うものです。そもそもこの作品はそんな癒されていく主人公たちの姿を描くわけですから、そこに説得力は必須です。そんな場面の描写を引用します。喜美子からマッサージを受ける中に心地良い眠りに入ってしまった哲司が、ふと気付くと『喜美子はいなかった』という場面です。
『潮騒が響いてきて、木槿の花のまわりを飛ぶミツバチの羽音が聞こえた。タオルケットに顔をよせると、日向の匂いがして、心地良く肌にまとわりついた。顔を上げた。空の青さが目にしみた… 世界が突然、鮮やかな色と音を伴って目の前に現れた。海を見る。波の音とトンビの声が聞こえた。草花をそよがせた風が体を通り抜けていく』。
『…た』という末尾で淡々と目の前に見える光景、耳に聞こえる音、そして体に感じる空気感を哲司の感覚そのままに表現していく手法は、まるで読者が哲司になったようなリアルな雰囲気を伝えてくれます。”森が生み出す空気と海風のおかげか、空が澄んで光が明るく、山の緑と海の青がとても綺麗に見える地方です”とおっしゃる伊吹さんが描く癒しの町を舞台にした物語。哲司が回復していく様を見る物語はこの伊吹さんの描写あってのことだと思いました。
三つをあげてみましたが、そんなポイントを背景に描かれるのは上記もした通り哲司と喜美子というそれぞれの理由の中に傷ついた二人の再生の物語です。『たしかに自分は今、何もかも保留、宙ぶらりん、先送り中だった』という哲司は窓際状態の仕事に、妻の浮気と娘の中学受験という家庭の中に悩みながらも何も解決できない今に苦しんでいました。一方、息子と夫を相次いで亡くした喜美子はそんな二人の面影をいつまでもひきずる今を生きていました。そんな二人の今の状態はこんな言葉で表されます。
『それは、何かを先延ばしにしていただけなのかもしれない』。
そんな二人はお互いがお互いの立場を思いやる中に惹かれあってもいきます。男と女が惹かれ合う、それはイコール”恋愛物語”と言えます。しかし、そこに描かれる二人の繋がりは単純に”恋愛物語”とは見えないところがあります。その感覚を伊吹さんは”人と人として惹かれあった二人という気がしています”と説明されます。そんな伊吹さんは”美鷲という場所で同じものを見て、食べて、聴いて、触れて、心をふるわせて…。 五感の喜びを一つひとつ取り戻していくことで、生きる喜びを取り戻した、そんなふうにも感じています”と、二人のことを語られます。そう、この作品はそんな二人がまさしく再生していく姿を描く物語です。伊吹さんは、「雲を紡ぐ」、「今はちょっとついてないだけ」、そして代表作でもある「四十九日のレシピ」でも人の再生に光を当てられています。そんな作品に比してもこのデビュー作で描かれた再生の物語はとても初々しいが故に、あたたかく紡がれる物語がじわっと沁み出してくるのだと思いました。
『人も物も変わっていく。変わらぬものはない。ならば恐れずに越えていこう。変わっていくことでより良い未来が来ることを願いながら』。
伊吹さんのデビュー作となるこの作品では、伊吹さんの代名詞ともなる人の再生を描く物語が、『紀伊半島の南東部、熊野灘に面した』『海沿いの町』美鷲を舞台に描かれていました。『補給部隊にはマチルダさん…』というまさかの”ガンダムネタ”が登場したり、えっ!あの伊吹さんがこんなこと書くの!と驚く”下ネタ”描写の予想外の登場に驚かされるこの作品。〈プロローグ〉と〈エピローグ〉の絶妙な使い方など今に続く伊吹さんの構成の妙を堪能できるこの作品。
初々しさも感じさせるデビュー作の物語の中に、今に続く伊吹さんの優しい眼差しを感じることのできた、そんな作品でした。続きを読む投稿日:2023.03.29
辛い経験を経て失うものとそこから得るもの、人生で起こる小さな出逢いや縁の大切さを気づかせてくれました。
小説の中にしかないでしょ?といった筋ではなく、親近感が持てる人物像と現代家族の描写に、隣の家を…覗いているようなリアル感を得られました。
続きを読む投稿日:2024.04.06
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