切羽へ
井上荒野(著)
/新潮文庫
作品情報
かつて炭鉱で栄えた離島で、小学校の養護教諭であるセイは、画家の夫と暮らしている。奔放な同僚の女教師、島の主のような老婆、無邪気な子供たち。平穏で満ち足りた日々。ある日新任教師として赴任してきた石和の存在が、セイの心を揺さぶる。彼に惹かれていく──夫を愛しているのに。もうその先がない「切羽」へ向かって。直木賞を受賞した繊細で官能的な大人のための恋愛長編。
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この作品のレビュー
平均 3.3 (64件のレビュー)
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何かを成す途中にはとても大切と思われていた場所が、終わってしまえば影も形も消えてしまう、そんな場所をあなたはご存知でしょうか?
これはなかなか難しい質問です。簡単には思い浮かばないと思いますが、例…えばビルや家の工事現場がそんな場所と言えなくもありません。もちろん白い幕に覆われていて容易には目にできないという突っ込みはあるかもしれませんが少なくともそんな場所をイメージすることはできると思います。私たちが当たり前に目にするビルや家が今の姿になるまでにはその途上の姿がある、それが工事現場です。しかし、最初の質問の解答としてはこの答えは少し不適切です。何故なら工事途中の形状こそなくなってしまうとはいえ、そこにはその途中の積み重ねの結果としてのビルや家が姿をとどめているからです。
では、そんな質問に対する答えはあるのでしょうか?全く思いもしなかったそんな答えを私は偶然にも手にしました。井上荒野さん「切羽へ」というこの作品。直木賞も受賞されたその作品の書名となる『切羽』とは、”トンネル掘削の最先端箇所”のことを指す言葉なのだそうです。トンネル工事にたずさわる方でもない限り決して見ることのできないその現場。それは、トンネルを掘るという一大事業を進める中では一番大切な場所です。しかし、トンネルが完成してしまえばそんな風に定義される場所自体どこにもなくなってしまいます。
そんな『切羽』という文字を書名に関するこの作品。それは、人がいっ時抱くある感情の存在を思わせる描写が淡々と続く物語。いっ時が過ぎればそんな感情がこの世にあったこと自体消え去ってしまうことを感じる物語。そしてそれは、登場人物から消え去った感情が、読者の心の中にいつまでも余韻として残り続けるのを感じる物語です。
『明け方、夫に抱かれた』と、『私を眠らせたまま抱こうとする』夫の存在を『眠りの中で感じ』ているのは主人公の麻生セイ。そんなセイが『目を開けて、夫を見上げ』ると、『できあがった』『明日。一緒に見よう』と得意そうに夫の陽介は微笑みます。朝になり『小さな丘のてっぺんに建っている』という家の庭に出て『野蒜を抜いていると』、『見る?』と陽介が声をかけてきました。そして、『手を繫いでアトリエに向か』う二人。『かつて父の診察室』だったアトリエは『雨戸もカーテンもすでに開け広げられていて、明るい日差しがいっぱいに差し込んでい』ます。そこに、『百号の大きなキャンバス』に『海を描いた絵』が『日を浴びてい』ました。『これは、どこね?』と訊くセイに『俺たちの島たい』と答える陽介はセイ『の腰に腕をまわし』ました。『一日中でもそうしていたかった』ものの、『小学校の養護教諭』でもあるセイは『今日は卒業式だ』と出かけます。『小学校へ行くまでに私は丘を三つ越える』という丘の多い島に暮らすセイは、三つ目の丘の麓にある港で『港湾課の村崎さん』に声をかけられます。『人間より先に荷物が着いてしもうて』と言う村崎は東京からの荷物を見て、『家賃が格安』で、『本土から島へ渡ってくる人は、たいてい』入るという『岬住宅』に引っ越してくる人のことを話します。そして、再び歩き出したセイは『生徒は九人』という小学校へと着きました。『今日で、アキラとミドリはいなくなる』という別れの日。そんな日にピアノを弾くのは『何かと噂の的』になる『グラマーで、その上いつでも体にぴったり張りつく服を着てい』る月江先生。その横に『風貌のやさしい』校長先生と、『がっしりした山男タイプ』の教頭先生が並ぶ卒業式、そしてその後の懇親会も終わった中、月江が『季節はめぐっていくのよ』と話しかけてきました。『新入生?』と訊き返すと『新任教師。男。東京から』と答える月江に、朝の一件がピンときたセイは『もう会った?』と訊くと、『まだ何もしてないわ』と悪ぶって答える月江。そして、四月となり、『石和聡(いさわ さとし)といいます』という『歳は三十歳前後 ー 私より少し下かもしれない』、『背はさほど高くなく、少年のようにするりと瘦せている』という一人の音楽教師がセイの前に現れました。そして、そんな石和のことを強く意識しだすセイのそれからの一年が描かれていきます。
「切羽へ」という書名の意味と読み方がまず気になるこの作品は、2008年に第139回直木賞を受賞している井上荒野さんの代表作です。私は井上さんの作品を初めて読みましたが、美しい表現とともにゆったりと展開する物語の中に、独特な世界観が作り上げられているのにとても魅了されました。まずはそんな表現の数々を見てみたいと思います。
この作品の舞台は『かつて大きな産業が栄え、そして衰退した』という一つの島が舞台となっています。そんな島の豊かな自然を感じさせるのが、『蒸し暑い晩だった』という夜に『散歩ばせんね』と誘う夫と共に出かけたセイが見ることになる光景です。『植物ではなく、動物を思い起こさせる草の匂い』が立ちこめる屋外へと、陽介の後に着いて出たセイは『土手を越え、小川のほとりに下りる』陽介の後を追います。『どこへ行くとね』と訊いても教えてくれない夫を追うセイは、足元ばかり気にしていたことで『夫が見ているものに気がつ』きませんでした。そして、『わあ』と思わず声を上げるセイの前には『小川の向こうの林の中から川面にかけて、小さな光が幾つも浮遊してい』ました。『どがんね』と得意そうに言う陽介に『もう、こがん飛んどったとね』と返すセイ。そんな二人の前には蛍が『乱舞してい』ました。『どんぴしゃり、まっさかりやったね』と言う陽介に『いっそう呆然とした』セイは、『目の前の蛍の美しさにうたれ』ます。そして、『まっさかりの蛍を、私たちは毎年ちゃんと見てきたはずなのに、これほど美しい光景をはじめて見た気がする』と思うセイというこの場面。蛍を見ること自体が容易でなくなった現代において、小説中に蛍が登場すること自体なくなりつつあるように思います。私が読んできた小説の中にも、そんな描写をすぐに思い浮かべることはできません。そんな身には、清らかな水の存在があってこそ成り立つ、蛍が舞うという光景は読んでいてハッとするものがありました。そして、井上さんは、さらにこんな言葉を使ってその光景の素晴らしさを決定づけます。
『私は、蛍が雪のように舞い落ちているほうへ歩いていった』。
季節が真逆のまさかの雪に蛍を例えるこの絶妙な表現。そして、そんな中にスケッチブックを取り出して鉛筆を動かす陽介…と続くこの場面の美しさにはうっとりと魅せられるものがありました。
また、ハッとするような描写は自然だけではありません。セイが意識する石和に対してこんな表現が登場します。『石和聡はジーンズをはき、白いシャツを着ていた』という十月のある日の描写。『石和はずいぶん日に灼けている』と彼のことを見るセイ。そんな理由を『白いシャツのせいだろう。そのシャツはしわくちゃで、新品にはとても見えなかったが、奇妙に真っ白だった』と、セイが見る光景をそんな白いシャツと秋の空を絶妙に組み合わせてこんな風に表現します。
『初秋の濃い青色の空が、石和のかたちに切り取られていた』。
石和を意識するセイの感情を見事に絵にしたこれまた絶妙な表現だと思いました。
そんなこの作品は、東京から新任の音楽教師として島に赴任してきた石和聡のことを、主人公の麻生セイが強く意識の下に置いていく姿が全編に渡って描かれていきます。それは、作品に登場する『石和』という名前の数の多さが象徴しています。同じ言葉が繰り返し登場すると数えずにはいられなくなる さてさてとしては、”正”の字を書いてその登場回数を数えてみました。
・『石和』の登場回数: 365回
この作品は文庫で240ページ程度の作品です。にも関わらずこの登場回数はもう異常とも言えます。『石和は音楽の専任教師だった』、『石和聡は料理がとても上手だった』、そして『石和は希望してこの島へ来た』といったように『石和』、『石和』、『石和』と繰り返し登場するその名前に、読んでいてセイの石和への意識の強さがいやがおうにも伝わってきます。麻生陽介という夫がいて、その夫に決して不満な感情を示すそぶりが全く見えない中に、ただただ盲目的に石和を意識し続けるセイ。しかし、そんな作品を読んでいてふと不思議なことに気付きました。それは、石和を意識するセイの感情とはどのようなものなのだろう?というものです。夫がいるのに他の男性のことを思うのは一般的には不倫とされる感覚です。もちろん、この作品の中でセイが石和の体に溺れるような描写がなされていくわけではありませんが、これだけ他の男性を意識するシーンが登場するとそこには、恋愛感情の存在がどうしても想像されます。しかし、この作品には肝心のセイの石和に対する想いというものが全くと言っていいほどに描写されないことに気づきます。これは非常に不思議な感覚です。この作品は全編に渡って主人公である石和セイ視点で展開します。ということは、そこにセイの内面が描写されて然るべきとも言えます。しかし、描写されるのはセイが石和を見る、石和と共にある、そんなある意味淡々とした描写のみです。こんなに意識する存在であればそこには”好き”だとか、”愛する”といった表現が登場してもいいはずですが、こういった表現は一切登場しません。また、これは夫の陽介にも言えます。『もちろん、夫は帰ってきた。それも、予定よりも一日早く』という展開には、妻の何らかの異変を感じ取る夫・陽介の心情が伺い知れます。もちろん、セイ視点なので陽介の内心が表現されることはないとはいえ、二人の会話にはセイの異変を訝しむ表現さえ登場しません。登場人物たちが相手をどう思っているかを表す表現がほとんど登場せずに情景描写だけで進んでいくのがこの作品の特徴と言えると思います。そんな作品を読んでいると、ふと自分自身が、セイの心がそのシーン、そのシーンでどのようなものであるかを類推していることに気付きます。そんな私の類推が正しいかどうかはわかりません。何故なら私はセイではありませんし、そもそも書かれていないことでもあります。逆に言えば書かれていないからこそ、そんな心情を類推する感情が生まれてくるとも言えます。そう、この作品は登場人物の感情を敢えて書かないことによって、そこには読者の数だけ物語が存在する、そんな非常に大きな可能性を秘めた物語なのだと思いました。
『トンネルを掘っていくいちばん先を』指す『切羽』という言葉。『トンネルが繫がってしまえば、切羽はなくなってしまう』一方で『掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽』であるという事実。そんな『切羽』という言葉を書名に冠したこの作品では、穏やかな島の暮らしの中に現れた一人の男性を強く意識する一人の女性の姿が描かれていました。物語の背景に描かれる美しい島の自然と、ほのぼのとした小学校の日常が一年に渡って淡々と描かれるこの作品。読者の想像力に委ねるかのように、直接的な感情表現が抑えられた極めて落ち着きのあるこの作品。何か大きな出来事が起こるでもない平板な物語に、しっとりとした大人の小説とはこういう物語のことをいうのかもしれない、そんな風に感じた作品でした。続きを読む投稿日:2022.04.16
たまたま図書館で手に取った一冊。
淡々と進んでいくお話の中で、切羽とは何を意味するのか、なかなか読み取ることが難しかった。
初読みの作家さんだったので、他のお話も読んでみたいと思います。投稿日:2023.09.24
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