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1945 最後の秘密
1945 最後の秘密
三浦英之/集英社
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総合評価

9件)
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    第一章 の「真珠湾の空」から第七章 「原爆疎開」まで、どの章もそれぞれ驚きに満ち、語り継がなければならない物語だけれども、中でも満州について書かれた第四章の「101歳からの手紙」は圧巻。 「満州事変の夜」何があったか?その場にいたものにしか語ることのできない迫力と、その後のなりゆきは、高市政権が誕生した今こそ、多くの人々に読まれるべき。

    6
    投稿日: 2025.10.31
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    筆者の綿密な取材から、本のタイトルにもあるように、ほとんど表に出ていないような戦時中の真実を知ることができ、新たな発見があった。 例えば原爆疎開にしても、新潟自体が原爆投下の可能性があったことは知っていたが、当時多くの人が知事の命令により疎開し、人が街から消えていたことは初めて知った。 結局は何事もなかった訳だか、自分が処罰の対象となることを恐れず、多くの市民の生命を守ろうとしたリーダーとしての判断は素晴らしかったと思う。 取材を受けた生き残った人達は、本当に奇跡的に生死の分け目から生き残った方達であり、戦争の悲惨さと平和の大切さを未来に引き継ぎ、伝えるため取材に応じたのだと思う。その想いを深く受け止め、二度と同じ過ちを犯さぬよう平和を願うとともに、まずは如何にあの戦争ははじまり如何に終わったかをしっかりと知ることから始めたい。

    3
    投稿日: 2025.09.11
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     今年は戦後80年という節目でもあり、例年以上に報道の情報発信や著作の販売促進に注力されている気がします。ブク友さんたちも、私の知らない多くの関連本を読まれ、意識の高さに感心します。  三浦英之さんの新刊は7章立ての内容で、そのほとんどが私にとって未知の事実でした。タイトルに"最後の"と付してあるのは、世に送り出す"タイミング"としての意味合いのようですが、最後の生き証人の意も当然あるでしょう。  あの太平洋戦争を生きた人々の、知られざるエピソードに心震わせられ、力強く前向きな勇気をもらえます。三浦さんの文章には、いつも胸を熱くさせられます。それは、誇張や美談による感動を誘引する作為的なものでなく、誠実さと温かな視点からくるのでしょう。だからこそ、単に新しい知識を得た以上に、感情が揺さぶられます。  本書の根幹とも言える第4章「101歳からの手紙」を読み、2015年刊行の開高健ノンフィクション賞受賞作『五色の虹』もいつか読んでみたいと思えました。旧満州に実在した「満州建国大学」の実情も、戦争の愚かさ、無情さを強烈に伝えます。  1947年に発表された「終末時計」がよく取り上げられます。核戦争や気候変動など、人類滅亡につながる脅威の象徴は、今年の1月に残り時間が89秒と発表されました。開始以来最も短く、人類が最も危険な状態にあり、待ったなし状態です。  同じ過ちを繰り返すか否かは、私たち自身にかかっていますね。

    82
    投稿日: 2025.08.19
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    戦後80年 戦争で実際に兵士として生きた人々の記録。御年90歳や100歳。この世に残していく最後の秘密。 満州国の阿片14トンの行方と岸信介の解放との関係が1番興味深い。白洲次郎は知っていたのだろうか。その阿片を海外に売り捌いていたら日本の復興はどのようになっていただろうか。その阿片はどの国の人の人生を破壊し、結局誰がその利益を懐に入れ何に使ったのか。今となっては歴史の闇の中。 80年目の終戦記念日の前後に訪れた鳥羽と海の見える丘公園が縁の地として出てきた。今はまだ戦後が続いているのであって、戦争前夜なのではないと思いたい。

    1
    投稿日: 2025.08.18
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    単純ではない大東亜戦争の当時の姿。 第一章「真珠湾の空」: 「ヘルダイバーズ」と呼ばれた真珠湾攻撃隊の若者たちの青春時代に焦点。飛行機乗りから戦後は操縦教官となる。自由な空。 第二章「アフリカを攻撃した日本人」: 特殊潜航艇でアフリカを攻撃した日本兵の最期を描く。潜水艦伊16号。マダガスカル島北部のイギリス軍攻撃。島に漂着した日本人二人の運命。 第三章「ミッドウェイの記憶」: 空母「赤城」の整備兵が語るミッドウェイ海戦とその後の人生。 第四章「一〇一歳からの手紙」: 101歳まで生きた元満州国官僚が、死の直前に書き残した最後の「極秘計画」について。満州国に作られた建国大学。満州に残されていたアヘン密輸計画と岸信介の釈放。 第五章「東光丸の悲劇」: 回天が配備されていた八丈島から出港した疎開船「東光丸」の悲劇。 第六章「園井恵子の青春」: 原爆によって命を奪われた元宝塚歌劇団の女優、園井恵子(そのい けいこ)の希望に満ちた青春時代。 第七章「原爆疎開」: 国家の命令に背いて、全市民の「原爆疎開」を決断した新潟県知事の覚悟。

    2
    投稿日: 2025.08.16
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    「事実を正確に後世へと引き継ぐ。そうすることでしか、『過ち』はたぶん防げない」 「衝突を恐れるな。知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ。」 今作も名文揃い。重みのある言葉。

    3
    投稿日: 2025.08.13
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    1945(昭和20)年を知る人たちの、(おそらく)最後の証言。 え、こんなことがあったのか、という知られざるエピソードが満載だ。 とりわけ圧巻だったのが「101歳からの手紙」。 もと地方紙のワシントン支局長としてケネディ暗殺事件を伝えた人物から 著者に分厚い手紙が送られ来る。 差出人は、満州国の建国大学の卒業生であった。 建国大学は自由は教育で知られたが、満州の瓦解とともに7年で閉校・・・ あ、この話、知っている、知っている・・・ あたりまえ、『五色の虹 満州国の建国大学卒業生立ちの戦後』の 著者だったのだ。すっかり忘れていた! ここでも満点★をつけているくせに!あ~、やだやだ。 ともかく、建国大学卒業生が語らなかった秘密に 度肝を抜かれ、戦後史の闇に深さに暗澹としてしまった。 あとがきでいう。 戦争を知る第一世代と数えるならば、今は第三世代の時代に入ろうとしている。 かつては第一世代が書かれモノについてクレームをつけることもできた。 でも、その世代がいなくなったら? 第一世代という「光源が失われたとき、わたしたちは未来に何を語れるのか。 困難な、新しい時代が始まろうとしている」 怖い。 歴史を歪曲して語ろうとする、声の大きい人たちが跋扈する時代が やってくるのではないだろうか。

    3
    投稿日: 2025.08.10
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    このレビューはネタバレを含みます。

    1945最後の秘密 著者:三浦英之 発行:2025年6月30日 集英社クリエイティブ 初出: 第1章 集英社クオータリー「kotoba」(2016年夏号) 第2章 集英社ウェブサイト「imidas」(2023年12月27日) 第3章 朝日新聞(2021年12月2日~6日) 第4章 朝日新聞ウェブサイト「withnews」(2021年9月18日~10月17日) 第6章 朝日新聞(2024年9月30日~10月4日) 第5章、第7章 書き下ろし (2025年8月2日読了) さすがは三浦英之氏。衝撃、渾身の一冊。 終戦直後、満州国に溜め込んだ大量の阿片を、日本の政府と軍部が日本に密輸し、横浜から海外へと売りさばき、資金調達しようとしていた驚愕の事実を、なんと、関わった本人から聞き出している。告白したのは、あやしげな人物ではない。日本人エリート。満洲で官僚を務め、帰国後は西日本新聞社の記者として大活躍(ケネディ暗殺も伝えた)し、常務取締役まで上り詰めた人物。彼が101歳になってようやく口を開いた、それも自ら進んで。もう、ちゃんと残しておかねばならない時期だろうと思ったのか。それだけ、三浦氏を信頼してのことだったのだろう。 1章から7章まで、七つの歴史的事実について書いている。著者が信条とする、できるだけ世の中に知られていない事実を発掘し、ノンフィクション作品として発表する、ということで、戦後70年である2015年から戦後80年である2025年にかけて、著者が新聞や雑誌などで発表したり書き残したりしてきたものに、加筆・修正したものである。なかでも第2章「アフリカを攻撃した日本人」、第4章「101歳からの手紙」、第5章「東光丸の悲劇」、第7章「原爆疎開」は、これまで日本では殆ど知られていない事実だった。メインは第4章に違いない。 三浦氏の本を読むと、現役新聞記者でありながら、記者らしくない面を感じる。完全なフリーのノンフィクションライターのように、いろんな出版社からも本を出している。かといって、フリーライターのようなガツガツして取材相手にたどり着く面もあまり感じない。どことなく、朝日新聞という大看板でおっとりじっくりと相手の信頼を勝ち取りながら取材していくという雰囲気も感じる。 以前に『白い土地 ルポ福島「帰還困難区域」とその周辺』という福島県浪江町を取材した本を読んだ。メインは浪江町の町長へのロングインタビューだが、それ以前に、原発事故避難から帰らない人たちが多く、わずか85部だけを新聞配達している読売新聞系の福島民報の老舗新聞販売所店主に、思わず配達を手伝わしてくれと言ってしまい、半年も配達をしたという三浦氏。飯の種を探すのでもなく、かといってジャーナリストとしての本能が全面に出ているのでもなく、どこか人と人とのつながりを大切にしてしまう、そんな面を感じる人でもある。 その点について、今回の本ではこんなことを明かしている。 2008年晩秋、東京社会部のかつての上司から「新潟勤務を2年で切り上げ、来春には東京社会部に戻ってくるように」との内々示を受けた。私(著者)は元来、同業他社との特ダネ競争はジャーナリズムの本質とはかけ離れたものであり、それを過酷なまでに求められる東京勤務を極度に忌避しており、東京に異動するとこれまで継続してきた原爆疎開などの取材を続けられなくなってしまう懸念を抱いた。 そこで「禁じ手」を使うことに。その年の秋に第一子が生まれていたため、1年間の育児休業を申請した。元上司からは「社会部に戻れなくなるぞ」の忠告も受けたが、著者には既に東京で働きたいという意思はなく、将来的には読者との距離が近い地方勤務を希望していたので、忠告を喜んで受け入れた。なお、育児休業明けには都内版を扱う立川支局に配属された。 会社で出世しようとか、大物記者になろうとか、そういう野望は端から(?)なかったのである。 ◇◇◇ 第1章は、真珠湾攻撃に2人乗りの爆撃機で参加し、大きな成果をあげ、敵艦から攻撃を受けながらも、間一髪で帰還した伝説のパイロットへの取材記事。 第2章は、日本がアフリカでも戦闘をしていたという聞いたこともない事実の掘り起こし。場所はマダガスカル。そこで通信兵として働いていた人と、現地に行って長老への直接取材で詳細を解明している。なぜ、そんなところにわざわざ行ってイギリス軍と戦ったのか?しかも、そこでは行くだけ行って帰ってこられない秘密兵器も使っていた。 第3章は、ミッドウェイ海戦に参加して生還した数少ない兵士の話。取材当時、100歳。海軍整備兵として主力空母「赤城」に配属、そのあまりの大きさにたとえ何発魚雷を食らっても沈むことはないだろうと思ったが、現地では傾いて行く。救助艇の小型艇に乗れるのは上官から。順番待ちをしていたが、次はもう来ないと言われて、残っていた兵が次々と既に乗り込んでいる兵の頭の上に飛び込んでいく。国内での発表は、現地で体験したこととは全然違う嘘。そして、生き残った兵士たちが次に行かされたのは、戦死必至の戦場ばかりだった。口封じのためだろう、という。 第5章は、伊豆七島の八丈島に配備された人間魚雷「回天隊」の話。人間魚雷は2人1組で人間ごと突っ込み、死ぬしかない攻撃法。人権もなにもない。硫黄島を取られて八丈島を本土決戦前の最後の要塞とした日本だったが、結局は人間魚雷の活躍はなかった。メインは後半で、「東光丸」という疎開船が撃沈されたという話。要塞化で大勢の兵士が駐在したことから、八丈島では宿舎が不足し、島民は安全のためを口実に本土へと疎開させられ、その空き家を宿舎にされた。疎開船の一つ、東光丸が横浜へと向かっていて、御蔵島沖で米潜水艦に魚雷で撃沈され、島民55人を含む乗員乗客160人のうち149人が死亡した。沖縄の疎開船「対馬丸」の悲劇は有名だが、大量の疎開者が海に沈んだのはそればかりではないのである。 第6章は、岩手県出身の宝塚スター園井恵子が、32歳で被爆して死亡した悲劇の話。15歳の時に家出同然で宝塚に潜り込み、名脇役となって着実にスター街道を歩んでいたが、退団して演劇や映画に出演。映画「無法松の一生」でヒロインになり全国スターに。戦況悪化とともに高級享楽が禁止となり、国策演劇で全国を回らされることになったが、本人は行きたくなかった広島で原爆に被爆。宝塚殿堂入り105人目(2019年)。 第7章は、前代未聞の原爆疎開命令を出した新潟県知事・畠田昌福の話。当時、知事は官選だったため、所属内務省は市民のパニックを恐れて制止したが、広島の次に新型爆弾を落とされる可能性が高いのは新潟市だと考え、新潟市長に対してそうするように要請した。実は、新潟は原爆投下候補都市になっていて、長岡市などに模擬原爆のパンプキンが落とされた。 ******** (読書メモ) 第1章「真珠湾の空」 山川新作:当時80歳。2001年初夏に本人取材。 真珠湾攻撃に参加した搭乗員の生き残りで、伝説のパイロットと呼ばれた。 「私なら、ゼロ戦のような単発機であれば、地上に松の木1本生えてさえいれば、無事に着陸してみせますけどね」・・・機体をなるべく垂直に松の木にぶつけ、スプリングのように衝撃を吸収させて、無事着地を試みる。 大海に浮かぶ空母は上空から見ると、池に浮かんだ木の葉ぐらいにしか見えない。着艦はぶち当てる。激しく揺れる空母の甲板に、真上から機体をぶち当てて止める。 第一次世界大戦後、艦船への攻撃は魚雷主流→上空から爆弾投下して攻撃するものへ比重が移りつつあったが、天井から目薬と同じで上空から落としてもまず当たらない。そのため、比較的安全な高高度で艦隊海域上空へ行き、そこからまるで自らが墜落するような角度で機体を一気に急降下させ、艦隊の真上から近距離で爆弾を叩きつける戦法を採用していた。 1941年12月8日、午前零時、巨大空母「加賀」の飛行甲板に搭乗員たちが集められ、艦長から真珠湾攻撃の旨が宣言された。21歳の山川は第二次攻撃隊に加わる。午前2時30分、後部席に偵察員が搭乗する二人乗りの九九式艦上爆撃機で飛ぶ。女子学生たちの献金によって献納された「報告全日本学生号」という特別機だった。後部には17歳の中田が乗る。急降下、爆弾投下。米戦艦「メリーランド」の艦橋後部から大きな火柱。命中。 なんとか先頭空域を離脱し、あらかじめ決められていた第二次艦爆隊の集合空域へ向かうも、友軍機が一機も見当たらない。単独で空母へ。しかし、ガソリンタンクの横と主翼の付け根、偵察席の後部とエンジンの近くが被弾。燃料はあと30分しか持たない。披露がピーク、視界がかすみ始めたときに前方海面に潜水艦が浮かび上がる。高度を下げると日の丸。助かった。その先に加賀もいた。操縦桿を引いた瞬間、「パン」と音を立ててエンジンが停止。燃料切れ、まさに間一髪で甲板へ。 山川は2006年に他界。   第2章「アフリカを攻撃した日本人」 石川幸太郎著『潜水艦伊16号 通信兵の日誌』を読み、著者がマダガスカル北部を取材。 石川は1941年に通信兵として伊16号に乗り組み、真珠湾攻撃に参加。半年後の1942年5月には所属する潜水艦部隊がマダガスカルを攻撃した。日本がアフリカを攻撃していた事実を知った著者の驚き。 1940年代初頭、マダガスカルはフランスの植民地だったが、ドイツがフランスを占領するとマダガスカルもドイツの影響下に。イギリスが危機感を抱き、真珠湾で調子づく日本軍の駐留を認めさせないように1942年5月5日に港湾都市ディエゴ・スアレスを攻略して艦隊を配置した。それを打ち砕くべく、日本の潜水艦部隊が派遣された。 三隻の潜水母艦(伊16潜、伊18潜、伊20潜)が1942年4月30日にマレーシアのペナンから出港。それぞれに日本海軍の「秘密兵器」が搭載。二人乗りの小型潜水艦「特殊潜航艇」。全長約24メートル、水中速力19ノット、水上速力6ノット、2本の魚雷搭載可能。通常は子が目のように潜水母艦の甲板に乗せられて輸送され、戦域近くで離れて標的に近づく。しかし、一度出撃すると、広大な海の中で帰還することが極めて難しい欠陥を抱えていた。本来は敵艦隊が日本近海に攻めてきた際に使う迎撃用として設計されていたためだった。 30日深夜、2艇の特殊潜航艇に乗り込んで出発した4人の若者。発進直後に湾内の偵察を続けていた艦載機が、実際に敵艦が停泊しているのに敵が見えないと誤断し、その報告を受けた司令部が特殊潜航艇に戻るように伝えよと命令した。しかし、もう海中の特殊潜航艇とは連絡が取れない。ところが、特殊潜航艇は進むと実際の敵艦がいて、1艇は防潜網をかいくぐって魚雷を発射しイギリス海軍の戦艦「ラミリーズ」を大破、タンカーも撃沈する大戦果をあげた。 (日本軍部内では情報共有されず、チャーチルが戦後の回顧録で明らかにした) もう1艇は湾外で座礁し、現地の漁師に2人は助けられてマダガスカル島に上陸後、徒歩で島野北部に向かった。そこが潜水母艦との合流地点に指定されていたからと思われる。 この2人が辿った足跡について、著者が現地で実際に道路を取材した。そして、途中で82歳の長老ドミニクが過去の記憶で術回してくれた。2人の日本兵はジャポンではなく、英語でJapanと言っていた。2人は周囲の動きを察して村から出ると、郊外にある北部の荒野でイギリス軍に囲まれた。降伏に応じず、銃撃戦の末に殺害された。 83歳の長老ベジルは「イギリス軍が2人を射殺したとき、村人がかり出されて埋葬を指示された。私も手伝ったが、その夜は恐くて眠れなかった」。 マダガスカル島北部の沖合では、潜水母艦が2艇の帰りを待ち続けていた。石川の「日誌」がその様子を伝えている。   第3章「ミッドウェイの記憶」 著者が2021年春から岩手県南行きを管轄する一関支局に赴任。驚いたのは、北上山地沿いにある岩手県一関の大東町地区における放射能濃度が思いのほか高いこと。岩手県南部に位置するとはいえ、福島県との間に宮城県があり、フクイチとは170キロも離れている。事故当時、巻き上げられた大量の放射性物質を含んだ雲が北西方向へと流れ、福島県浪江町の津島地区などの近隣市町村を放射能で汚染したと同時に、その一部が太平洋上も流れ宮城県金華山沖を迂回し、岩手県内部の陸側へと入り込んで、放射能の雨や雪を北上山地に降らしたらしい。 そんな知られざる岩手県内の原発事故影響を調べようと、椎茸農家のホダ場に通い初めて約半年、100歳の爺さんが、昔、巨大な空母に乗っていたという情報を得た。ミッドウェイで戦ったとのことだった。 須藤文彦、当時100歳。ミッドウェイ海戦に参加。 1921年生まれ、養蚕農家に生まれる。 徴兵検査を受け、希望通り海軍への配属が決まる。入営3ヶ月前の1941年11月に19歳の女性と結婚。 1942年、新兵教育を経て、海軍整備兵として主力空母「赤城」に配属、そのあまりの大きさに全体像がわからず、沈む、沈まないという概念ではもはやない、たとえ何発魚雷を食らっても沈むことはないだろうと思った。配属は飛行班で、ゼロ戦の整備。甲板のすぐ下にある格納庫が仕事場だった。 5月27日に「加賀」「蒼龍」「飛龍」とともに瀬戸内海を出港し、ミッドウェイに向かった。6月4日午前7時に米攻撃機の襲来を受けたが、敵機の多くがゼロ戦に撃墜された、魚雷も受けなかった。ところが、午前7時28分に敵が出現、慌てた。午前10時半ごろ、日本の空母部隊は急降下爆撃を受けて次々と援助し、赤城も飛行甲板に爆撃を受けて巨大な火柱が上がった。 「本艦は沈む。いまから淳司、退艦を命じる」と信じられないような上官の言葉。 錨甲板に集まっていた数十人の乗組員らは錨を降ろすための穴から綱を垂らし、駆逐艦から送られて来た小型艇で赤城を脱出することに。その際、脱出艇に乗り込む順番は階級が高い順。須藤は後回しになった。 赤城は傾いていき、何度も爆発音。辛抱強く順番を待っていると「もう次の艇は来ないぞ」という声が聞こえたので、慌てて錨の穴から小型艇へと飛び降りた。他人の頭の上に着地し、彼の体の上にも乗組員たちが次々と飛び乗ってきた。定員に達すると、小型艇はまだ多くの乗組員を館内に残したまま赤城を離れた。海面には母艦に着艦できずに不時着水した戦闘機の送受しや、艦船の炎上から逃れて海へ飛び降りた乗組員らが多数浮かんでいた。「構うな。引き上げたらこの艇は沈むぞ」と小型艇の操縦士。 辛うじて駆逐艦に収容された須藤。翌日未明、駆逐艦の横で赤城がまだ沈没せずに燃え続けていた。乗組員全員が舷側に並ばされ、米艦隊の手に渡らないよう、魚雷を発射して赤城を沈めた。「敬礼!」。不沈空母と呼ばれた巨艦が目の前で沈んでいく。 軍の発表は、航空母艦の一隻喪失と一隻大破、だった。現実とはあまりに違う。主力空母四隻を沈められ、約300機の航空機を失う大敗北だった。口封じのために鹿児島で監禁状態に置かれた生存兵たちは「軍の機密に関することは一切口外してはならない」と言明された。そして、須藤は空母「翔鶴」でソロモン海域へ。須藤はいう「おそらくミッドウェイの生き残りは口封じのためにみんな死んでくれということだったんでしょう。みんな気づいていました」。   第4章「101歳からの手紙」 先川(さきかわ)裕次: 西日本新聞の元ワシントン支局長。米国駐在時代にはケネディ大統領の暗殺事件などを取材、常務取締役まで務める。2021年8月28日に著者に手紙をくれた時、101歳。著者は、ある取材を通じて知り合った。 手紙は数十枚(2万字以上)の分厚い書面で、「満洲事変の目撃談」と冒頭に書かれていた。 1931年9月18日に起きた柳条湖事件を目撃していたという。これを読み、記事化して9月18日の紙面に載せるとしたら、あと3週間しかない。満州事変90周年の節目にあわせて送ってきたことは間違いない。 <建国大学> 日本の関東軍が満州事変によって作りだした傀儡国家「満州国」における将来的な官吏の育成を目的に、満洲事件首謀者である関東軍参謀・石原莞爾の発案で新京(現・長春)に設立された最高学府。 「五族協和」を実践するため、構成している日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族から優秀な若者たちを選抜し、「塾」と呼ばれる20数人の量に振り分けて約6年間、共同生活を送られせた。必修は軍事訓練や農業訓練。語学が授業の3分の1を占め、公用語である日本語yや中国語だけでなく、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、モンゴル語などを自由に学べた。当時には珍しい、ある「特権」が与えられていた。それは「言論に自由」だった。授業が終わると塾に戻って深夜まで座談会をするが、侵略戦争や共産党の政策などに関する議論を延々と続けた。 入学定員150人のうち、日本人枠は約半数。約1万人が応募するスーパーエリート校。全寮制で就学費用は全額国費。7年3ヶ月で閉学。 先川は第一期生。卒業式では同期の総代。著者は、2010年6月に東京で開催された建国大学の「最後の同窓会」だった。数人に翌日以降、宿泊先に出向いて取材したり、後日、遠方の自宅に赴いたりして取材。先川については福岡市の自宅へ行って5時間ほど話を聞いていたが、2015年に刊行したノンフィクション作品には盛り込まなかった。理由は二つ。 1.建国大学で学んだ異民族の学生たちは、戦後、それぞれの祖国で「日本の帝国主義者の協力者」と激しく糾弾、弾圧された。日本の元学生たちも、多くがシベリアへと送られ、帰国後もGHQから公職追放などされて満足な職に就けなかった。一方、先川は卒業後に満州国政府の官僚となり、日本で終戦、シベリア送りもない。西日本新聞に記者職を得て、常務へと上り詰めた。 2.先川は幼少期や青春期のことは比較的明瞭に語ってくれたが、大卒後に勤務した満州国総務庁内の仕事内容や、戦後携わったとされる「極秘任務」については、一切、口を割ろうとしなかった。記者だけにとぼけるのも上手い。 <柳条湖事件の目撃談> 先川は1920年8月16日、大連生まれ。満州事変の夜が起きた際、一家は奉天(現・瀋陽の八幡町三番地という南満洲鉄道(満鉄)の付属地で暮らしていた。父は朝鮮銀行の支店長で、時折、鉄道守備隊の昇降がやって来て父と碁を打っていた。父は事前に爆破のことを知らせていたのだろう。1931年9月18日午後10時20分、寝ていた小学5年の先川と姉を父がたたき起こした。 「今、大連行き列車が通過した。何か起こるかもしれんが、慌てるな。いいか!」と言った。次の瞬間、北側の窓が「パーッ」と真っ赤に染まった。「ズドーン」という大音響が家を揺るがせた。それから、一連の轟音と振動がまるで何かの放送を持っているかのように規則正しく繰り返された。 (79P~) 先川はいろいろな体験をする中、何でもかんでも中国人を悪くいうのは間違っている。柳条湖事件は日本の軍隊による不意打ちだったのではないかと子供心に感じるようになっていった。 戦争が始まり、パールハーバーで日米開戦も。戦争のない平和な社会をつくるためにできた建国大学なのになぜ?という疑問がわいた。しかし、大学での異民族学生同士は仲良く交流をし続けた。ある夜、みんなでテントをはって過ごしていると、中国共産党軍が来たことが分かった。ヒューヒューという流弾の音に怯え、震えていると、中国人Iが立ち上がり、話をつけにいった。彼は清朝皇室の一人として育った。しばらくすると共産党は引き上げていった。Iが身分の高い人間だとわかり、おずおずと引いたようである。Iの名前は愛新覚羅だった。 建国大学の日本人卒業生は兵役を免除され、卒業試験が政府の高等文官試験を兼ねていたため、第一期生は高等官試補として満州国の各省庁などに配属された。先川は満州国国務院総務庁にある弘報処という部門。表向きは「広報」だが、実際には内部に外国の「諜報」に携わる部署が設けられていた。 しかし、戦局悪化とともに、兵役免除の特例を解かれ、1943年12月、徴兵によってソ連軍国境に近いハイラルの部隊に配属されることが決まった。約3ヶ月の新平教育のあと、幹部候補生としてハイラルから軍用貨車で約1週間かけて熊本の陸軍予備仕官学校へと移動。1944年夏、徳島連隊に配属される。やがて敗戦。先川は徳島市の営舎に戻ったものの、直後に腸チフスで入院。退院時には部隊は解散しており、退職金3000円と鼻緒のついていない下駄2足を軍事金の残り物として手渡された。幹部らは召集兵たちをいち早く解散させた後、占領軍に没収される前に軍事品などを払い下げ、山分けにして持ち帰っていた。 <明かされた極秘計画> 2010年夏、建国大学「最後の同窓会」二次会で、著者は極秘計画の一端を同級生の一人から聞いた。それは、終戦直後、満州国に関するよからぬ極秘計画に従事させられたこともあった、という話から始まった。「阿片の密輸」だという。 「満州国の経済は阿片で回っているようなもので、敗戦と同時に現地には国家予算に匹敵するほどの大量の阿片が残されていた。そこで、経済が破綻した日本はその大量の阿片を国内に密輸し、海外に密売することで当面の利益を得ようと考えた。その計画の一部を担っていたのが、一期生の先川さんだと聞いている」(その同級生) 福岡に行った際、先側に確かめると、「その話、誰に聞いたんだ?」と先川は言った。著者は、これまでの経験で、それが、容疑者が公には知られていない事実を突きつけられた際に見せる反応に酷似していると思った。まさか、事実なのか? 先川は「取材なら、話せない」とは言ったが、「いまはまだ、生きている人がいるんだ。時期が来たらわたしから話そう。約束する」と言った。その約束が、2021年夏に来た手紙の後半だった。 ▼▼▼ 先川は療養後、満州国総務庁時代の外国情報科の元科長から呼び出され、満洲からの引き揚げ支援事業を行うので手伝え、と言われた。福岡に行き、博多港近くに解説された「満蒙同胞援護会」での仕事は、表向きは引揚者への支援事業だったが、もう一つの任務は満洲側と日本側の情報連絡を担うことだった。日本政府には満洲側の情報がまったくつかめていなかったが、とくに重要なのが満洲に残されている「資産」、具体的には闇の資産を日本に持ち帰れるかどか可能性を探ることだった。 満洲側には情報提供者がおり、それらの情報は「米粒に百人一首を書く技能者」によって和紙に小さな文字で記された後、紙縒(こより)にして、引揚者の袖口に縫い込んだり、靴の踵に忍ばせたりして伝達されていた。満蒙同胞会の同僚の中には、75万円で機帆船を購入して佐賀県呼子港から中国に上陸、現地で任務を果たして引揚者に扮して情報を持ち帰った猛者もいた。 そうした情報のうち、機密性の極めて高い案件もあり、その一つが、戦時中に奉天の倉庫に「軍用物資」として保管されていた大量の阿片を日本に密輸し、横浜港から外国へと売却する秘密計画だった。 阿片の総量は14トン。当時は金塊と同じ価値とうわれ、闇価格で満州国予算の3分の1から5分の1ほどの金額になると見込まれていた。ところが、1946年初頭、機帆船で九州から横浜港へと輸送中に和歌山県の港でそれらが米軍に取り押さえられてしまい、計画が頓挫した。(先川の)同僚が裁判にかけられ、長崎の刑務所に収監されたものの、なぜかその「物質」だけが行方不明になってしまった。 ▲▲▲ 上記、先川の手紙を読み、過去の記録で裏付けるべく、岩手県立図書館や一関市立図書館にこもり、徹底的に調べ上げた著者。その結果、1946年3月の朝日新聞に阿片密輸計画の証拠となりそうな記事が掲載されていた。 →和歌山県大崎港で7トン半、時価700万ドルに上る阿片が募集、7人の日本人が逮捕。主犯は三共公司社長・・・自供によると8月上旬三共公司に対し満州国総務庁の岩崎参事官から満州国倉庫にある阿片600箱(1箱15貫、時価総計72億円)を日本に向け至急送出すべしと指示があり、終戦3日前の8月12日鉄道貨車で400箱を積み出したが、暴徒の襲撃を受け、朝鮮仁川、唐津港を経て、1月中旬に5箱、145箱が大崎港に入った。和歌山県海南署では岩崎参事官も取り調べているが、積み出しの際、関東軍も強力したと述べている。 第一復員省談:軍としては感知していない、関東軍としてそんなことをやるとは考えられない、特定の個人がやったのだとしか考えられない。 なお、1945年当初の満州国一般会計予算が17億8500万円。 著者はさらに図書館で、1985年に刊行された『阿片と大砲 陸軍昭和通商の七年』(山本常雄著、PMC出版)も見つけ、そこに次のような記載があった(海老沢行秀という人物の手記を紹介する形式)。 →ソ連が国境を突破し日本の敗戦が真近に迫ったときのこと。関東軍、日本の厚生省、満州国軍西部は語らって、ひとつの極秘任務を画策した。関東軍の倉庫にあった12トンの生阿片をそっくりそのまま日本に持ち帰ろうという計画である。即、実行され、6台の軍用トラックに積まれ生阿片は、吉林市に。鉄道で朝鮮に入り、半島を南下、20年9月2日夕刻、九州の唐津に到着した。 唐津陸揚げには県警の部長、地元警察署長も立ち会った。調べると阿片は8トンに減っていた。途中、様々な工作や宣撫用に消費されたことを物語る。阿片の出荷人は関東軍、荷受人は厚生省だった。運送責任者は、関東軍の陣野大尉、補佐役の満州国総務庁経済部の岩崎事務官らであった。 神戸に向かう途中、いったんどこかに保管する必要が出て来て、和歌山港に運ばれ、徳島県の小松島港にある冷凍庫と保管契約を結んだ。黒糖や黒糖類とした。ところが、明日は出帆という夜に、船員のひとりが和歌山市内で酔い潰れ、荷物のことを喋ってしまった。それをそばで聞いていたのが朝日新聞の記者だった。(*著者はあまりにこの説は無理があるとしている) 誰が得をしたのか?8トンだとしたら、末端価格は当時でも優に1兆円は下らない。記録的なものである。紀伊水道で拿捕された船の荷物は、和歌山県に陸揚げされえて米軍のトラック3台に。東京のGHQ本分に向かったが、到着せず。(場所はおそらく)箱根の国道上にトラックは乗り捨てられていた。一緒に蒸発した人間が一番得をしたことになる。 著者は先川に手紙受取から約2週間後に会った。2021年9月15日、九州の自宅。先川は指摘した。自分は関与していないといいつつ極めて具体的に。 ・1946年3月15日朝日新聞にある密輸の経由場所「唐津港」は間違いで「呼子港」。その時の荷揚げは自分(先川)の部下も立ち会っている ・阿片の総量は12トンではなく14トン。奉天の星製薬の倉庫に眠っていたもの。 日本政府や軍は否定しているが、関与していたのかどうかを著者が先川に尋ねると 「君もわかっていてあえて質問しているのだろうが、政府が管理していた大量の阿片を満洲から日本に密輸するという大規模な計画について、関与なしで一体誰が実行できるんだよ」 14トンもの阿片の行方については 「わからん。でも間違いなくGHQの手に渡り、横浜港から国外に売られたんだろう。中国かもしれんし、インドかもしれない。書籍に書かれているような1兆円になるかどうかまではわからんが」 誰がGHQに情報をもらしたかは 「それも、わからん。あの阿片の売却益は日本の戦後復興に必要なカネでもあった。そのための資産がどこに消えたのか、いまとなっては誰にもわからん。ただ、言えるのは・・・しばらくしてから、満洲の『怪物』が巣鴨から出て来た。満洲政府の上官だった人物だ」 その人物は、言うまでもなく岸信介を差している。 *先川の長男、信一郎は、かつて北海道新聞でカイロ支局長やワシントン支局長、北京支局長などを歴任した国際ジャーナリスト(その娘も現役新聞記者)。 *先川裕次は2021年11月17日。その日は知人とカラオケを楽しんだ後、自宅のベッドで就寝。翌日に予約していた病院に現れないので見に行くと死んでいた。著者はその2週間前に長男を交えて3人でビールを飲んだ。   第5章「東光丸の悲劇」 山田平右エ門、当時86歳(2010年?)。戦時の様子を最もよく知る人物。 冊子『戦時下の八丈島』をまとめて配布した人。そこに元海軍大尉・小灘利春の手記(八丈島で回天部隊を指揮)を掲載した。 林勲:八丈町教委、著者を案内してくれた人、山田を紹介してくれた、元小学校教員 ◆◆◆ <手記によると> 21歳、海軍兵学校卒のエリートである小灘は、1945年4月、八丈島行きを命じられる。隊長を務める、12基からなる回天隊は「第二回天隊」と命名。拠点である山口県徳山市から(列車で)横須賀港経由で、まず先行8基が八丈島入り。彼は、残り4基の配備先を島内に探した。 1943年9月に海軍兵学校を卒業した小灘が、上官から八丈島行きを命じられたのは1945年4月初め。「君、行け」と言われ、「歓喜の衝撃が背骨の下端から頭のてっぺんまで、ズンと一気に突き上げた」と書き記している。 *以下、『戦時下の八丈島』より 出撃すれば、そのあと僅かな日数で自分の生命は確実に絶ち切られる。それは既に覚悟の上。当時の戦局の下、日本の人々の存亡の危難を救おうとの若人の使命を果たす意義が大きい。その喜びは回天部隊の搭乗員には共通する、極めて自然な感情であった。 船艦が陸上に向けて艦砲射撃をする際には、命中精度を高めるために海岸に近寄って低速で前進する必要があった。八丈島ではそのタイミングを狙って回天で船艦を攻撃しようというのだった。だが、第二回天隊が出撃することは最後までなかった。米軍はB29で本土を空襲するためのマリアナ諸島や硫黄島などの陣地を既に確保済みで、あえて八丈島を攻略する必要など全くなかった。 8月15日を迎え、その後、ソ連が千島列島に侵攻してきたことを知る。8月24日、八丈島の守備隊は全軍が一斉に実弾射撃を行った。一度も砲や機銃を使用せずに放棄するのは無念だったから。 <東光丸の悲劇> 〝第二の硫黄島〟にはならなかったものの、八丈島でも多くの島民が命を落とした。その最大の悲劇が疎開船「東光丸」(約530トン)の沈没だった。1945年4月16日、八丈島から横浜へと向かっていて、御蔵島沖で米潜水艦に魚雷で撃沈され、島民55人を含む乗員乗客160人のうち149人が死亡。 日本軍が八丈島を要塞化して大量の兵員を送り込んだため、島では圧倒的な宿舎不足に。公共施設の接収で賄おうとする一方で、より多くの家屋を確保するため、女性や子供、高齢者については、表向き「いつ米軍が上陸するかわからない」と告げ、1944年7月以降、島の各村に本土への疎開要請を出した。島から出た殆どだったので外の暮らしに怯えたが、最終的には約7割にあたる約6000~6500人が本土に渡った。 戦後、何度も映画や本になった疎開船「対馬丸」(沖縄→長崎)とは対照的に、東光丸の悲劇についてはメディアで殆ど報じられてこなかった。 今回の調査は、以下の2本柱が中心。 豊田市三は、東光丸の生存者11人のうちの一人。衛生兵だった。既に死亡しているが、戦後にインタビューに応じた証言テープや証言記録が残っていた。 寺島健次は、東光丸が撃沈された際にすぐ蕎麦で護衛していた海防艦の水雷長。生存しているので、著者が直接取材した。2014年、90歳だった。 東光丸の出港前、米軍機が来て海防艦と打ち合いになった。それが悲劇につながる。米軍機はきっと近海に潜む潜水艦部隊に伝達したであろうから、冬眠は空襲に備えて船倉に入っていた方がいいと言われた。転覆した際、自力では脱出できない。結局、魚雷で転覆してしまう。豊田市三は、たまたま軍医の私物を探しに甲板に出ていたので生きのびられた。 魚雷は4発放たれたが、海防艇はジグザク航行によりかわすことが出来たが、東光丸はそうした素振りを見せずに直進した。寺島が言うには、恐らく東光丸は魚雷に気づいていなかったのだろう、とのこと。   林によると、八丈島の地下壕はまだ全体像がよく分かっていない。ある海軍少尉の手記には総延長69キロの記録がある。硫黄島の地下壕は総延長18キロ。 1944年8月にマリアナ諸島を奪われた日本軍は、次なる防衛拠点として伊豆諸島に目をつけ、最南端の八丈島に兵力を集中、硫黄島玉砕後は島を徹底的に要塞化した。 ******* ユネスコが2009年に発表した世界中で消滅の危機にさらされている言語として「アイヌ語」「沖縄語」などと並んで「八丈語」も。言語学に携わる人々に大きな衝撃と驚きを与えた。八丈島で話されている言葉は世界的には「独立した言語」と認定されている。八丈島と他の伊豆諸島との間に流れる黒潮が海域を分断してきた。   第6章「園井恵子の青春」 園井恵子:本名・袴田トミ、1913年、岩手県北西部生まれ、15歳で宝塚歌劇学校へ(家出同然)、名脇役になる。宝塚退団し、丸山定夫らの「苦楽座」に参加、映画「無法松の一生」でヒロインになり全国スターに。原爆に被爆。享年32。宝塚殿堂入り105人目(2019年) 小夜福子:園井がずっと憧れていた戦前宝塚の大スター 流(ながれ)けい子:小夜の義理の娘、元宝塚女優 柴田和子:「園井恵子を語り継ぐ会」会長、岩手県芸術文化協会会長 伊藤宣夫:岩手県原爆被害者団体協議会の顧問、1945年8月6日は陸軍船舶通信補充隊の通信兵として広島市南部の宇品港にいた。17歳だった。被爆。 佐々木光司:岩手町長、園井恵子を語り継ぐ会の事務局を兼務 大橋孝之:「小樽史談会」で小樽の歴史を調査、元校長 ◆◆◆ 盛岡市から少し来た、川口という田舎町。 園井は1913年に松尾村(現・八幡平市)で生まれ、生後1年で川口村(現・岩手町)に転居、雪深い山里で幼少期を過ごす。宝塚への憧れ。 盛岡の小学校高等科に進学、盛岡の叔父・多助の家から通学。しかし、小樽転勤になり、祖母の計略にハマって小樽高等女子校入りを勧められる。憧れの宝塚行きの両親への交渉を約束してくれたはずなのに・・・ただ、それなりに小樽生活を楽しむ 1929年6月、小樽の女学校中退、岩手に戻る。知人から10円を借りて家出同然で宝塚へ。入試は終わっていたが、憧れの大スター小夜福子から声をかけられ、そのコネで追加入試が認められて翌年に初舞台、演技派女優に。 岩手の両親が事業に失敗し、宝塚に逃げて来た。家族を養わないといけない。 小林一三から100円もらう。2年後の1937年、父親が鉄道に投身自殺。 1940年代に入ると「戦争」と「映画」という大波が押し寄せる。 東条英機は父親が岩手出身のため、園井を贔屓にして宝塚を訪れたときに一緒に撮影をしている 1942年の「ピノチオ」(ピノキオ)での主演を最後に退団し、苦楽座へ。無法松の一生で一気に全国区スターになるが、小夜福子が妊娠中だったために代わって抜擢された主演の座だった。 1943年10月に公開して大ヒットしたが、身分の低い車夫が亡くなった軍人の妻に思いを寄せる場面が検閲で問題となり、約10分カットされていた。園井はそれについて「きられきられになって松さんがすくわれない。可哀想な松さん」と記す。 1944年2月、政府の決戦非常措置要綱により。演劇を含む高級享楽が停止し、劇団は「日本移動演劇連盟」に加わり、軍需工場などの慰問をして国策演劇を演じることに。苦楽座も「桜隊」と名を変え、広島へ。園井は大空襲の噂があった広島行きに反対していた。 「桜隊」の宿舎は、爆心地からわずか700メートルの場所にあった。8月6日は園井の誕生日。朝食後に爆風で家の下敷きになった彼女は、生きていた同僚と近くの比治山に逃れた。 8月8日に復旧した山陽線で宝塚時代に世話になった神戸の知人宅へ。園井は無傷だったが、大量の放射能を浴びていて急変、下血が止まらず、熱が下がらず、皮膚が浅黒く変色。8月20日は立ち上がれなくなり、21日に絶命。 桜隊は9人中5人が即し、残り4人も8月末までに全員死亡。   第7章「原爆疎開」 畠田昌福(はたけだ・まさとみ):原爆疎開命令を出した当時の新潟県知事、8月10日に発出。1945年4月に官選知事として赴任。所属内務省は市民がパニックになる恐れがあるので出すべきではないと制止していた。 畠田冴子:昌福の孫(長男・昌幸の娘)、東京で写真家、 島田哲夫:昌福の三男、東京、脳梗塞で介護ベッド、取材時82歳(2009年?) ◆◆◆ 1945年3月、「裏日本地区短切揚塔作戦」に乗り出す。大陸の食糧や軍事物資を比較的安全な日本海を通じて輸送し、新潟港で陸揚げして国内各地へと輸送。 米軍はB29により敗戦までの5ヶ月間で約1万2000個の機雷を日本の近海に投下。磁気機雷が多かったので、木造漁船などで機雷除去を行った。 1945年4月27日に第1回となる目標選定委員会開催、5月10日と11日に第2回委員会が開催。京都、広島、横浜、小倉の4都市が目標となり、翌12日にはこの4都市に対して通常の空襲を禁止する命令が出る。 5月28日に第3回委員会。横浜と小倉が外され、新潟が加えられて3都市に。 7月20日、2機のうち1機が、長岡市の津上製作所にパンプキン投下。上村組左近に落ちて4人死亡。 もう1機は長岡の工場を狙ったが雲に隠れていたため、福島県の平市(現・いわき市)に投下。 *新潟日報1997年8月6日付の記事 「模擬なんて代物じゃないやね。ものすごい爆弾なんだて」と長岡市左近に住む人は言う。「バラバラって、おかしな音」がして見上げるとB29が「ドラム缶ぐらい」の爆弾を一発投下。大きな爆音とともに砂煙で一面何も見えなくなった。「土手に上がって自宅の方を見ると、土台ごと吹っ飛んでなくなってた」 8月2日の作戦命令で、8月6日に3目標に攻撃ということになった。 第一目標 広島市街地工業地域 第二目標 小倉造兵廠及び市街地 第三目標 長崎市街地 (新潟は外されていた。新潟は工業が集中している地域と小工場を含んだ居住地域が互いに遠く離れているとの理由とも説明されている) 原爆疎開について哲夫に取材 福田昌福は淡路島出身、東京帝国大学卒、内務省の警察官僚に。神奈川や大阪で警察部長。戦争が始まるとジャワの司政長官に。 哲夫は知事公舎で知事の父と母親との3人暮らし。兄2人もう外で暮らしていた。 1945年5月、新潟市は建物疎開を実施。空襲による民家の火災が重要施設に延焼しないように、周辺家屋を取り壊して空き地をつくる。5月以降、3回にわたって発令され、家主にはわずかな補償金しか支払われなかった。8月7日の第三次建物疎開では、自力による移築は認められず、移転までの猶予期間も1週間だったのがわずか3日に短縮された。第三次は市街地の5分の1が対象だったが、結局は最後まで実施されず。第三次発令から3日後の8月10日、市民そのものを疎開させるという、前代未聞の強制疎開命令が発布されたため。 畠田新潟県知事の布告した強制疎開命令は、今も多くのことが判っていない。 昭和20年8月10日付けの知事布告では、広島を爆撃した新型爆弾が、我が国に僅かに残っている未被害重要都市の一つ新潟市に対して使われる公算が極めて大きいとし、新潟市に対する緊急措置要項を揚げた。 1.一般新潟市民の急速なる徹底的人員疎開 2.重要工場の有効かつ能率的な疎開 3.公共施設の疎開 4.新潟市における建物疎開の一時中止 10日付の布告が11日に発表されたが、10日にはすでに市民が噂を聞いていて、早くも逃げ始めていた。12-13日ごろまでに疎開すべき人々は全部疎開し、警察官の全部と消防署員、警防団員、県庁員などのわずかの市民が居残ったが、ほとんど人気のない新潟市が4-5日にわたって出現した。 知事が発出した強制疎開命令では、主要業務に従事する行政職員、警察官、水道・ガスなどの職員、報道関係者などについては、新潟市内に留まるよう命じられていた。しかし、実際には広島や長崎に投下された新型爆弾の威力が市民の間に伝わっていて、留まるべき行政職員の多くがしないから逃げ出してしまっていた。 哲夫と両親は3人だけで公舎に残り、気丈な母親は綺麗に着飾っていた。町はゴーストタウン。哲夫はすることがないので、どうせ死ぬなら、その新型爆弾をいっちょ見てやるかと晴れた日中は白山神社の芝生の丘で空を見上げていた。太陽の光で爆発するから、と当時の人々は信じていたのだった。 戦後、畠田知事は大政翼賛会新潟県支部長を兼ねていたため公職追放となり、家族とともに借家暮らし。満足に食べる物もなく、母親がどこからか手に入れてきたジャガイモばかりを食べていた。転居先の新潟市水道町での様子を、意外な人物が書き残している。野坂昭如。神戸の空襲で養父が死亡、下の妹を栄養失調で亡くした野坂は、1947年に実父が新潟県で初の民選知事となった岡田正平の副知事に抜擢されたことから新潟で暮らし始め、哲夫とも親交を結んで水道町の家を訪れている。

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    投稿日: 2025.08.07
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    1冊の本の中に戦争を生きた人たちの人生がギュッと凝縮された重い本だった。文章が読みやすいものだから、次々好奇心いっぱいでページをめくってしまうのだが、さすがにあいだあいだでは、その時、その場所、そこにいた人たちの心に思いを馳せた。 知らないことが多かった。私の無知もあるが、大方の人が知らないようなことを何年もかけて取材して本にしてくださってありがたいことだ。 本書にも書いてあるが、先の戦争を体験した人がどんどん亡くなっていく。それは仕方のないことで、101才まで生きて秘密を伝えてくださった先川さん、よくぞ長生きしてくださった。他の方も長生きしておられるからこそ証言してくださった方も多い。でも本当にギリギリの時期に来てるのだ。 戦争を生きた人たちが減っていくのに合わせるかのように、この国はまた戦争に近づいているように見える。 とても悲しいことだし、愚かなことだし、もっと力を入れて阻止していかなければいけないと思う。 信頼できる人の文章を読んで、自分で感じ、考えていかなければいけない。 どこに赴任しても、そこで人に知られてない話を見つけ出し、影が当たらなかった人々に光を当て、じっくり取材し、わかりやすい言葉で文章にしてくださる三浦さん。新聞記者を続けながら、どんどん異動してどんどん書き続けてほしい。

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    投稿日: 2025.07.18