
総合評価
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- ふわふわオムレツ"powered by"
芸術作品は、芸術家の生きた時代背景やその意図に迫ったとしても、今を生きる人が解釈する場合、どうしても今の時代背景や文化のバイアスから完全に逃れることは難しい。ドラマティックな構成をもつ第九の場合にはそれが如実に表れているということを丁寧に分析された実例から学べたのが収穫。
0投稿日: 2025.03.22 - ikaojo"powered by"
第九が好きなんだけど 読み物というより、資料に近い。 冒頭の2000年のウィーン・フィルのコンサートについては知れて良かった。YouTubeで後で見よう。
0投稿日: 2025.03.08 - ケン"powered by"
壮絶な時代背景を踏まえ、強烈な力を用いて作られた作品だからこそ、聴衆が自分を重ね、表現するものとなり、逆に作品を通じ背景や作者の肖像を作り上げていく。古典作品の楽しみ方を一つ増やせた気がする。
0投稿日: 2025.01.15 - Go Extreme"powered by"
西洋音楽史を塗り替えた第九 混乱する革命と第九への道: 疾風怒濤とシラー 啓蒙主義・歓喜と理性 フリーメイソンと歓喜 啓蒙主義的改革の小宇宙ボン 啓蒙専制君主の理想と現実 ナポレオン台頭 混迷する政治体制と第九の萌芽: 合掌バラードの系譜 合唱幻想曲 市民に音楽開放ーウィーン学友協会 ウィーン会議 もの言えぬ時代 理想の希求: フィルハーモニック協会 荘厳ミサ曲ー第九に通じる世界観 未知への挑戦: 弁証法とソナタ形式の哲学 1楽章ー死から逆算・闘争 2楽章ー危険ないたずら 3楽章ー究極の平安 5楽章ー限界のトパ 第初演の経緯: 3人の指揮者 全聾説の虚実 再演と楽譜出版 ワーグナーの奮闘 激動の現代と第九の変容 1. 「第九」を巡る多様な解釈と演奏: 同じ楽曲、同じ指揮者、同じオーケストラによる演奏でも、演奏ごとに微妙に色合いが変わるというクラシック音楽の醍醐味を指摘。「文字通り同じ料理人が作った同じ料理であっても、季節や素材で微妙に味わいが違うように。」 2000年と2002年のサイモン・ラトル指揮ウィーン・フィルによる「第九」演奏の決定的な違いを例に挙げ、演奏家や聴衆の経験、時代の変化が楽曲の受け止め方に影響を与えることを示唆。 マウトハウゼン強制収容所で行われた「第九」演奏会の事例を紹介。ユダヤ教の追悼歌の後、「第九」が演奏され、演奏中には収容所の映像や慰霊碑のショットが映し出されるという特異な構成。演奏後には拍手喝采はなく、静かな沈黙が支配し、「過去を忘れる者に未来はない」というテロップが映し出されるという、楽曲が持つ普遍的なメッセージと歴史の重みが交錯する特別な事例として提示。 2. 「歓喜に寄す」とベートーヴェンの思想: シラーの詩「歓喜に寄す」が発表当初から音楽と深く結びついていたことを指摘。ベートーヴェン以前にも多くの作曲家がこの詩に曲を付けていた事実を紹介。(ミヒャエル・ハイドン、ツェルター、シューベルトなど) ベートーヴェンが「第九」で用いたのは、「歓喜に寄す」の改訂版のテキストであることに注目。初版では旧体制への告発や転覆が叫ばれていた箇所が、改訂版では調和に満ちた新たな世界の出現への呼びかけへと変化している。 ベートーヴェン自身も「歓喜に寄す」のテキストに大幅な修正や追加を行っていたことを指摘。「「乞食は王侯の」等々のようなばらばらの文句、それは…」。これは、ベートーヴェンがウィーン体制下の思想統制を意識し、検閲を避ける意図があった可能性を示唆。 初版の第9節(革命に殉じる姿勢を説く部分)が削除されたこと、ベートーヴェンが「悪人(Böse)」という言葉の解釈を独自に行ったことなどを挙げ、ベートーヴェンの思想や意図を読み解く。シラー自身も「Böse」を批判的な意味合いで用いていたことを指摘。 ベートーヴェンが「歓喜」を神や君主ではなく、人々自身の中に見出し、それによって実現する新たな世界への希望を高めようとした解釈を示す。「彼(ベートーヴェン)は、慈しみや平和をもたらす存在を、神や君主から「喜び」にシフトさせ、それによって初めて実現する新たな世界への希望を謳い上げた。」 3. ベートーヴェンの音楽的挑戦と革新性: 交響曲というジャンルにおいて声楽(合唱)を導入することの革新性を強調。当時、交響曲は器楽のみによるジャンルと考えられており、声楽の導入は「言語道断」であった。 「第九」以前のベートーヴェンの作品(オラトリオ「オリーヴ山のキリスト」など)における声楽の扱いや、ケルビーニのオペラ「二日間、または水の運搬人」からの影響を示唆。「「闇から光へ」の実現に向かって闘う人間像を描いた内容となっている。」 ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」や第31番などの先行作品における音楽的実験が、「第九」の着想に繋がった可能性を指摘。特に、低音によるレチタティーヴォの手法が「第九」の第四楽章に繋がると分析。 第四楽章におけるレチタティーヴォによる先行楽章の否定と、喜びに満ちた合唱の出現という劇的な構成の意図を考察。「つまり、オーケストラによる「喜びの歌」は、第四楽章全体の、ましてや猛烈なクライマックスではなく、むしろその途中の過程に過ぎなかったのだ。」 トルコ風の行進曲や打楽器の導入など、異質な要素を大胆に取り入れた第四楽章の音楽的特徴を解説。 4. 「第九」の受容史における政治的・社会的文脈: ナポレオンの台頭とフランス革命の影響、ウィーン会議後の保守反動体制下における思想統制が、「歓喜に寄す」の改訂やベートーヴェンの表現に影響を与えた可能性を指摘。 ワーグナーによる「第九」の解釈と上演の意義を考察。ワーグナーは「第九」を「ドイツ音楽の楽劇」として祭り上げ、自身の音楽劇との連続性を示唆した。ただし、ワーグナーの反ユダヤ主義的な側面にも触れ、彼の「友愛」の概念の排他性を示唆。「「第九」の第四楽章は、次のようなプロセスを人々に提示する。喜びの輪に加わる資格のない者は排除する…」 ベルリン・オリンピックにおける「第九」演奏が、ナチス・ドイツのプロパガンダに利用された事例を紹介。表面的にはスポーツを通じた友好と平和を謳いながらも、実際にはナチスの国威発揚の手段として用いられた。「近代的オリンピックの理念、つまりスポーツを通じた世界の友好と平和の建設を推し進めるという路線に則っていた。」 ベルリンの壁崩壊後に東西合同で行われた「第九」演奏会の意義を強調。バーンスタインが「喜び(Freude)」を「自由(Freiheit)」に替えて歌ったエピソードを紹介し、冷戦終結と自由への希求という歴史的文脈における「第九」の新たな意味合いを提示。 日本における「第九」受容の歴史を概観。第一次世界大戦下のドイツ兵捕虜による演奏会が、日本における「第九」受容の萌芽となったことを紹介。板東俘虜収容所での演奏会や、映画「バルトの楽園」における描写を紹介しつつ、史実との差異も指摘。 年末に「第九」を演奏する習慣が日本独自のものであることを指摘。高度経済成長期における「大衆教養主義」と結びつけて、その背景を分析。「日本では年末になると「第九」のオンパレードと化すような事態に至ったのか…」 5. 現代における「第九」の意義: トーマス・マンの小説「ファウストゥス博士」の一節を引用し、「第九」が持つ両義性、理想と現実の乖離について考察。「君のいうことがわからないよ、「第九交響曲さ」」。 グローバリゼーションや格差拡大など、現代社会が抱える矛盾や課題を背景に、「第九」の普遍的なメッセージを改めて問い直す必要性を提起。 ラトル指揮ウィーン・フィルの演奏のように、演奏者と聴衆が共通の特別な思いを共有することの難しさに言及しつつ、それこそが「第九」の理想的な上演のあり方であると示唆。
0投稿日: 2024.12.15 - 千葉経済大学総合図書館"powered by"
配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。 https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=01435726
0投稿日: 2024.12.02