
総合評価
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- Go Extreme"powered by"
現代社会における遊びの変容と課題: 遊び場や教育現場における管理化・効率化の進行により、子供たちの自由な発想や創造性を損なう現状を指摘。 スマートフォンやインターネットの普及による子供の遊びの変化と、直接的な体験の減少への懸念。 「安全」の名の下にリスクが排除され、子供たちが挑戦や冒険を通じて学ぶ機会の喪失。 遊びを通じた学びと育ち: 遊びは単なる娯楽ではなく、子供たちが主体的に環境と関わり、様々な経験を通して学びを深める重要な活動であると強調。 身体的な遊び、創造的な遊び、ごっこ遊び、自然の中での遊びなど、多様な遊びが子供の成長に不可欠であることを解説。 遊びを通じて、他者とのコミュニケーション能力、協調性、共感性といった社会性を育む可能性を指摘。 利他性を育む遊びの要素: 遊びの中に、他者への配慮、協力、分かち合い、共感といった「利他」の精神を育む要素が含まれていることを考察。 例えば、ごっこ遊びにおける役割交代や感情の共有、集団遊びにおけるルール遵守や協力などが利他性を育む契機となる可能性を示唆。 自然の中での遊びにおいては、他者との協力だけでなく、自然環境への配慮といった広義の利他性も育まれると論じる。 多様な遊びの事例紹介: 冒険遊び場(プレーパーク)のような、子供たちの自主性を尊重し、多少の危険も許容する遊び場の意義を紹介。 例:「プレーパークは、禁止事項を立て看板で示すのではなく、むしろ『自分の責任で自由に遊ぶ』というメッセージを発信している。」(第4章) 自然を生かした遊び場や、廃材などを活用した手作りの遊具による遊びの可能性を探る事例を紹介。 インクルーシブな遊び場など、多様な子供たちが共に遊べる環境の重要性を指摘。 遊びと学び・教育との接続: 幼児教育や小学校教育において、遊びの要素を取り入れた教育の重要性を提唱。 教師や保育者が、子供たちの遊びを観察し、その学びを深めるための適切な関わり方の必要性を説く。 学習内容を一方的に教えるのではなく、遊びを通して子供たちが主体的に学ぶ機会を創出することの重要性を強調。
0投稿日: 2025.04.08 - のっぴ"powered by"
遊び場での子どもの遊びに注目し、利他的な空間を考察した図書。 昨今、公園の危険性の排除のため、遊具の撤去や管理が増え、遊具も遊び方も厳格に決められ、決まった遊びしかできない空間になっている。社会の効率的な管理化が進むなか、利他という精神が公園の子どもの遊びをよりよく自由度の高いものにしていくことが示される。 なお、本書でいう利他とは、難しい概念であるため、明確な定義をせず、遊び場における「空間」「モノ」「人」の織りなる相互行為の瞬間を利他の視点から読み解いている。 この利他の空間を作るには、余白を組み込むことで偶発性を高め、計画・管理を手放したゆるい設計を目指すこと、そして何より遊びの精神が大事と最終章で示されている。 子どもの遊び以外にも日常生活や仕事で覚えておきたい。
0投稿日: 2025.03.20 - いちばやし"powered by"
事故が起きるから、危ないから、保護者が心配して見守れるから、子供達を守るため、管理しやすいからという理由で公園の遊具が減ったり、年齢が制限されたり、遊び方が規定されるような状況が現代の公園を取り巻く現状である。特に、事故が多発した箱ブランコや地球儀の撤去に始まり、安全なスプリング遊具などへの移行、見栄えが良く子供達の人気を得やすいタイプの遊具が公園で多くみられるようになった。筆者は、こうしたルールを制限してしまうことは、本来公園が子どもたちに与えるはずの自由な遊びの機会を奪い、創造性やタフネスが育まれないずに自然な利他を生み出すことにならないため、子供達を守ることと、健全に育てるための遊びの場を提供することの二軸を考える必要があると述べ、幼稚園や、府中の森公園などの好例を紹介している。
0投稿日: 2025.03.16 - kei tanahashi"powered by"
公園の遊具と子供の遊び方の変遷、特に自由で想像的な遊び場からルールによる固定化・年齢による分断が進んだ遊び場への変化がどういう影響を及ぼしていくのかという考察がとても興味深い。これは子供のみならず大人にとっても遊びや余白の重要さを示唆していると思う。羽根木プレーパークやいろはは聞いたことがあったがとても良い試みだと思う。未来食堂の「螺旋形コミュニケーション」も良かった。
1投稿日: 2025.03.12 - 高倉の健"powered by"
自分、不器用なんで 著者の頭でっかちな文体が なかなかに 読みづらかったです。 要は、なんなのよー?と 問いながら やっとこさっとこ最後のページまで たどりつきました。ゼェゼェです。 資本主義の上に乗っかった 消費史上の価値観が効率重視を ひたすら追求するので、 公園の遊具にも、大学の授業にも 幅を利かせてしまい、 古くからの仕組みやデザインに 含まれる【自由さ曖昧さ不確定さ】を 蹴散らしている、って指摘している本かなと 理解しました。 利他、って言葉をかざしているのが よく理解できないまま読了です。
14投稿日: 2025.01.26 - ざどだぞ"powered by"
東工大(東京科学大)の「未来の人類研究センター」に端を発した、利他と空間と遊びについての考察 第二さみとり幼稚園、羽木様プレーパーク、森と畑のようちえんいろは、ラジオ下神白、未来食堂、チロル堂といった例を元に、 余白、偶然、ゆるい、あそびといったことを分析している。 計画、効率、管理といったことを重視する現代社会に対する解毒剤的な内容。
2投稿日: 2024.12.20 - mayuharu21"powered by"
この新書に書かれている内容、 いちいちごもっとも、 納得のいくものである。 公園、遊具、タイパ、コスパ、利他、、 でも、一冊の新書としてとらえると、 なんだか混乱する。 安全第一で管理された遊具は一度遊んだら 終わり。 でも、羽根木プレーパークなどの、ある面危険と隣り合わせの遊具は、 子供たち自身が工夫し、いろんな遊びに変質する。 終わりがない。 いろんな子供が一緒になって遊ぶ。 もっともだと思う。 遊び方が決まってるものは、やれば終わり。 今はレゴも完成形があるものが多いらしい。 スターウォーズとか。 そこには自由な発想はない。 でも今の子は、何でもしていい、だと何をしていいかわからないと。 数パターンの答えがあるもので遊ばせると、 それらを組み合わせ、楽しむと。 映画を倍速で見る話になる。 ・・・私もよくやる。そこに情緒はない。 確かに。 そして利他、、、、 混乱する。 他人のために自分がすることが押し付けに ならないか。 神保町の未来食堂の話になる。 そこには押しつけはない。 50分働いてまかない券をもらって、 自分で食べてもよし、 壁に貼って誰かほかの人が使ってもよし。 いい話だ。 ・・・遊具も、子供同士一緒になって 新しい遊びを作ったり、 譲りあったり、と、 利他の部分がかなりあるのは分かる。 でもそうした利他の話と、 今の安全第一で面白みに欠ける遊具の話と、 どう絡めるのか?? わからなくなった。 そのあたりが、それぞれはいい話だが、 新書全体を通して何をいっているのか わからなかった、 ということに落ち着いた次第。 序 章 21世紀の遊び場 第一章 利他論――なぜ利他が議論されているのか 第二章 公園論――安全な遊び場 第三章 遊びを工学する――第二さみどり幼稚園 第四章 遊びを創り出す――羽根木プレーパーク 第五章 森で遊びを生み出す――森と畑のようちえん いろは 第六章 遊学論――空間を組み替える 第七章 学びと娯楽の環境 終 章 利他的な場を創る
3投稿日: 2024.12.19 - ホン読む子"powered by"
めちゃめちゃおもしろかった。 安全を優先して余白がなくなる遊具。 遊具の話だけど、効率を重視してしまうがあまり、偶然性や発展がなくなってしまってるものは、増えてる。 遊具の話から、そんな環境をつくってしまっている私たち大人の意識への警鐘を感じた。 利他は、他者のためにしているのとが、自分にもかえってくるものというのもプロボノ経験から思っていたこと。 うまく言語化できないけど、生活の中の色んな事柄と結びつきそう。 遊びとそれ以外のところでの、タイパと管理から自由になり、利他空間をどう作れるのか? 自分がどうかかわっていけるのか? 自分の生活に問いていきたい。
4投稿日: 2024.12.05 - takeshishimizu"powered by"
著者は東工大未来の人類研究センター第2期のメンバー。僕は、もともと中島岳志、國分功一郎両氏のファンでさらに伊藤亜紗を知り、この研究センター主催の利他学会議を1回目からYouTubeで見るようになった。そして、今年まですべてのセッションを見てきた。いつも何かしっくりいくものがある。参加されている方を次々に受け入れてしまっている。本書はこのプロジェクトを通してでき上がっている。そのため、聞いたことのある話も多いわけだが、カイヨワの遊び論などをあらためて知ることができた。前から書いていることだが、1995年のPL法というのが大きかったように思う。そこらあたりから、なんでも先回りして、安全な製品を提供するようになった。それは消費者のためにというより、製造者・販売者側の責任回避のためである。利他ではなく利己的な取り組みなわけだ。そんな中、公園の遊具もずいぶんと様変わりをしている。新しいものの方が子どもの興味をそそるように思うが、使い道が一通りしかなく、すぐに飽きてしまうのだそうだ。確かにそうかもしれない。単に、山の斜面とか、倒木とか、その辺にはったロープとか、そういうものの方が遊びの幅が広がっておもしろいのだろう。我が家の子どもたちは20年ほど前のことになるが、近くの公園で木登りなどもしていた。危ないなあと思いながらも、最近の子どもたちもけっこうたくましいなあと思ったものである。自分自身が子どものころは50年以上前のことだが、すでに周りがコンクリートで固められていて、遊ぶとすると、放課後も学校の校庭だったりした。泥団子を作っていたのをよく覚えている。外階段の途中から団子を落として固さを競い合ったりした。そのうち、自分たちも飛び降りたりしたものだ。京都の町中に住んでいたのだが、あまり魅力的な公園はなかったように思う。それに比べると、現在はまだまだ自然の多い場所に住んでいるので、子どもにも良い経験をさせることができたのかもしれない。子どもたちが集まって、それぞれがゲームをしている姿とかは見たくないなあ。まあ、最近はネットでつなげて、それぞれの家にいながら一緒に遊んでいるのだそうだが。ところで、本書で紹介されている「いろは」に通っている子どもたちの洗濯はまあ大変なことだろうな。ウタマロが欠かせないなあ。本書の後半では大学生の学びについても触れられているが、私より20歳ほど下の著者が、最近の学生たちは、と嘆かれているようだ。確かに、まじめに授業を受ける学生が増えたように思うし、出席していることを評価してほしいというような学生も多いと聞く。昔は授業に出ずとも、教室外での学びがいろいろとあったものだ、という言い方は、実はどの時代でも、後輩たちに向けて言っていることなのかもしれない。ところで、何か所かで第1期メンバーの若松英輔さんの名前は見かけたのだが、磯﨑憲一郎さんの名前はとうとう見かけなかった。なかなかユニークなメンバーだったのだけどなあ。著者とは接点がなかったのかなあ。まあ、まじめに利他学の研究はされてなかったかもしれんな。
1投稿日: 2024.12.04