
総合評価
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powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
国学者として有名な本居宣長の前半生を辿り、彼が研究活動の上で、和歌の中に見出した日本の伝統的思想とはいったい何であったのかを解説する一冊。 宣長は勧善懲悪・当然之理といった唐心を基に和歌を製作、解釈することを嫌った。唐心は大陸から渡ってきた思想体系であるため、和歌本来の伝統的な親しみ方とは異なる。あるモノと対峙した時に「ああ」と心が動かされることをあはれとよび、それらを洗練された詞で自由に表現することこそが和歌の本質として存在する。また、伝統的な時間の流れを感じながら当時の人々と共鳴することが本来の楽しみ方であると宣長は主張する。儒教的教えが流行していた当時の傾向に流されることなく、日本特有の文化を適切に守った宣長の功績は計り知れない。 日本史は高校以来触れていなかったため読書前は読み通せるか不安だったが、著者の軽快な文章のおかげで終始江戸の世界観に没頭できた。高校の先生が先崎さんだったらよかったのになと思う。
0投稿日: 2025.11.03
powered by ブクログ『古今和歌集』や『源氏物語』にかんする本居宣長の思想を中心的にとりあげて、「もののあはれ」の解釈と「日本」のアイデンティティについて、彼がどのようなあたらしい見かたを提示したのかということが追求されています。 著者は、2023年におこなわれたG7広島サミットと、1943年におこなわれた大東亜会議の写真をならべて比較することで、本書の議論を開始しています。この二枚の写真は、普遍的な価値をもつ国際社会を意味する「西側」への日本のかかわりかたが、この間に大きく変わったことを示しています。しかし前近代においては、中国が普遍的な秩序を意味する「西側」の役割をになってきました。著者は、「西側」の秩序のなかにみずからを位置づけることでアイデンティティの確立をめざそうとする試みが、近代を境に大きな転換を遂げながらも、おなじ構図のもとでおこなわれてきたことを指摘し、それとは異なるしかたで「日本」を発見した宣長の思想の意義を掘り起こそうとしています。 仏教的ないし儒教的解釈をしりぞけて『源氏物語』における「もののあはれ」を重視した宣長の思想は、明治時代以降の日本文学における自我の解放とかさねて評価されることがあります。しかし著者は、こうした近代的自我の理解にもとづいて宣長を理解しようとする見かたを批判します。和歌とは、「詞」の伝統によって自他を架橋する役割を果たしているというのが宣長の考えであり、こうした考えは主観的な心情の発露が肯定される自然主義文学とは異なります。 こうして、近代的な枠組みにもとづいて宣長の思想を解釈する見かたをしりぞけた著者は、宣長による「日本」の発見を近代的なナショナリズムになぞらえる見かたに対しても、同様の批判を展開します。「西側」の普遍的な価値を前提に、自己のアイデンティティを対抗的に構築する試みは、日本人のなかに本来根づいていたやわらかな感受性を硬直化させるものでしかないと著者は主張します。 「日本」的なものを確定しようとする試みは、玉ねぎの皮むきになってしまうことを避けられませんが、本書はひとまず「西側」を皮に見立てることで宣長の思想を解釈しようとする試みといえるように思います。
1投稿日: 2025.05.29
powered by ブクログもののあはれとは何かとここ数年気になっていて、その言い出しっぺについての最新の本なので読んでみた。 本居宣長の生涯、ちょうど大河ドラマでやっている時代と重なっているので、その時代背景がリンクして勉強になる。 もののあはれ論の最大の発見は色好み、すなわち男女関係と国家のかかわりを論じたこと。恋愛と国家の関係を論じた思想家は近代以降でも折口信夫や柳田国男、三島由紀夫といった系譜がある。 男女の恋の駆け引きがおびただしい数の和歌を生みしずかに降り積もった。そして源氏物語の時代になるとその詞の伝統に耳を傾け、共鳴することが日本人としての生き方となったのであって、それがもののあはれをしることなのだと宣長は定義した。 日本は常に東として西側(それが中国なり西洋なりと時代で変わる)との関係の中にあったということと、日本という国家は本来男女の恋愛という関係の中に成り立っていたという2つの大きな視点が面白かった。 特に古今和歌集が編纂されたのは、唐が崩壊し西側によるグローバルな秩序が衰退していくなかで、自分たちの言葉で混乱に秩序をもたらそうとする試みだという定義は面白い。また、紅葉を錦とするのは古今集以降は常識だが、漢詩では錦とは二月早春の花を詠む言葉だったというのも、最近読んだ漢籍伝来などとも重なるところがあった。 「日出づる処の天子」という国書が中華秩序に対抗し仏教的国際秩序観を持ち出したものだったり、日本という国号がいつ頃始まったのかといった話も今まであまり意識しなかったけど知ると面白い。 もののあはれについて、和辻哲郎はかけがえのない時間が永遠に続けばいいのにと願うがそれが絶対にかなわないこと、この事実を感得した際に溢れでる嘆息をもののあはれといっている。 哀れだな、悲しいなと思うとは心が動くこと、その心の動きが物の哀れをしるということだと宣長は源氏物語蛍巻に対する解釈で示している。
5投稿日: 2025.02.23
powered by ブクログ「知の巨人」ともいえる国学の大成者、本居宣長の前半生とその和歌論、源氏物語論を中心とする著作に焦点を当て、宣長の儒教や仏教等の「西側」の普遍的価値との葛藤を明らかにするとともに、これまでの「もののあはれ」論の更新を目指し、宣長は恋愛や女性的思考を重視し、「肯定と共感の倫理学」を提起したと主張する、宣長の実像に迫る論考。 単なる本居宣長の伝記というのではなく、日本文学史や日本思想史を縦断する重厚な中身の作品で、本居宣長の思想にとどまらず、江戸時代の儒学の展開、和歌論、源氏物語論、日本の国号論などのトピックも含め、とても勉強になったし、考えを深められた。 原典も豊富に引用しつつ、丁寧に読み解かれていて、その部分はむしろ読み進めやすかったのだが、著者の文体自体が文学的で、縦横無尽に先行研究も踏まえて深く思索されているため、「肯定と共感の倫理学」という本書のキーワードも含め、自分にはちょっと難解に思うところもあった。
1投稿日: 2024.11.23
powered by ブクログ本居宣長の「もののあはれ」論を、自我論としてではなく、男女の恋愛を基礎にした人間関係論として、つまりは倫理学であり日本語学として更新する試み。 著者は言う。 宣長にとって自然の風景には、それをどう見るのが適切なのか、古典をふまえた感性の基準が堆積している。人が風景を見て、そこに伝統の息づかいや、古代日本人の感じ方を発見し、それを言葉に発することが歌を詠むことなのだ。「もの」それぞれが含みもつ色あい、味わい、手ざわりを歴史と呼んでも伝統と呼んでも差しつかえない。その歴史と伝統への共感こそ、「もののあはれをしる」ことなのである。宣長は決して個人の内面など重視していない。過去の人びとの感性に共感すること、時空をこえた人間関係の海にみずからをゆだねている。 核心は「もののあはれ」ではなく「もののあはれをしる」こと。この違いは繰り返し吟味に値する。 私が最も感銘を受けたのは、宣長による「やまと」のイメージである。山外とも、山跡とも、あるいは契沖による山止(契沖は、論語の仁者楽山、仁者は天命に安んじているから、山のように静かで不動であるという一節を引用しながら、論じているという)など、夥しい解釈史を越えて、宣長に現れた太古の日本人が眼にしていた「やまと」とは「山処」だった。山々に抱かれた国としての「山処」。なんと静かで、力強く、そしてなつかしい響きであろうか。
1投稿日: 2024.08.08
powered by ブクログ「やまと」とは、「山処」のこと。 山がたくさんある処だから、やまと。 国の成り立ちを語るにはあまりに単純。 けれど、そもそも何故、単純な話を人々は慕わないのか?その理由は、「対外的な権威を求める政治的意図があるため」に他ならない。 記紀編纂の当時、隋や唐よりも国家としての威厳を際立たせるためには、人々に頷かせる伝説が必要だった。 そのために、難しい話をあえて脚色した。 本来は、やまがある。だからやまと、で事足りたはずなのに—————— 記紀をはじめとして、古来から多くの思想家たちが批評、推察を繰り返してきた名著の歴史とは、理性的で、冷たく、鋭い、男性的なものによって切り取られた、「脚色された価値観」なのでしょう。 本居宣長さんは、その違和感に気づきました。 政治的、軍事的な思惑を持たず、また、儒教や仏教による性的な倫理を強要されるより遥か前の———古代から続く、神々の時代においては、人は今よりもずっと、おおらかで、恋や情けに直向きであったことを、時を超えて、私たちに伝えてくれたように思います。 令和現代においても、激動の時代です。 唐に敗れぬために日本国号を作った日本書紀の経緯が当時の賢明な努力なら、私たちが生きる現代は、医療・軍需・学業複合体による金融支配体制と、日本国内敗戦既得権益に、騙されず、負けないための努力が試されると言えましょう。 パブリックコメントを書いて政府に意見したり、デモに参加したり、政治的、軍事的に、より良い未来を目指して行動できることはたくさんあります。 それでも———そう、それでも。 それでも、政治的思惑の外にある、私たちが長く持っていたはずの、情緒的な、ただ思ったことに素直に生きていた感性や、「于多-うた-」のことは、忘れてしまっても、ときどきでいいから、思い出して欲しいと……本居宣長さんは教えてくれている気がするのです。 みなさん。私たちと一緒に、明るく生きましょう。 それでも持て余してしまう寂しさ、儚さ、悔しさ、悲しさは、ただ嘆くのではなく、歌ってみてください。 歌で伝える楽しさや心地よさを知ったら、意外にも、現代に続くPOPやROCKもまた、「もののあはれ」の楽しさがあるなぁと、直感できると思います。 是非、みなさんの好きな于多の歌詞を、じっくり浸りながら、声に出して、歌ってみてください。「ああ、私はこう思っていたのだなぁ」と、誰に許されずとも、自分で自分を許し、癒し、気を休め、また元気になって、明るく生きていくことが———きっとできるはずですから。 ・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ 余談 新渡戸稲造先生の武士道は、セオドアルーズベルトに日露戦争講和を持ちかけるきっかけとなったほど、アメリカ人を感動させた教養書でした。そして、教養となる、政治的に利用できるということは、本居宣長さんからすれば、それは「ますらをぶり」であり、元々の情緒的な于多ではなく、尊いものとは思えないものでしょう。 むしろ、儚さを物語の主題にすることが多い、シェイクスピアの作品の方が、あるいは共感できたのかもしれません。 そうこう鑑みると、「ブシドー!」と「儚い…」が口癖なキャラクター2人が登場する、「Bang_Dream!!」という作品は、奇しくも、「もののあはれ」の感性と、その平和を守るための政治的教養の二つを、同時に伝えています。筆者の中村航さんや、安田猛さんをはじめとした、ブシロード関係者さんには、そうした、于多と絆と心模様の大切さを伝えたい想いが、確かにあり、今も続いているのかもしれません。 特に、音楽を「きずな」と読む中村航さんの感性がふんだんに込められた、『Yes!Bang_Dream!』、『キズナミュージック』、『LIVE BEYOND!』は、検索すれば歌詞だけでも簡単に読めますので、気になった方は一度読んでみてください。Roseliaの『Neo-Aspect』もおすすめです。
2投稿日: 2024.06.25
