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ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』という戦い
ウィトゲンシュタイン 『哲学探究』という戦い
野矢茂樹/岩波書店
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総合評価

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    論理哲学論考。言語ゲーム。使われている言葉は平易だが、何を言わんとしてるのか理解できないところが多々あった。比較的最近しったゲーデルの不完全性定理を想起した。

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    投稿日: 2025.09.09
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    メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1958128996690096582?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw

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    投稿日: 2025.08.20
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    著者が冒頭で書くように、ウィトゲンシュタインといえば『晦渋な表現は何ひとつないのに、そこに何が書かれているのか、なぜそんなことを言うのかが分からない』、これである。引用されている『哲学探究』本文を見る限り、対話的な問いかけや例え話、『考えてみよ』で終わる示唆などが多く、これを有識者の解説なしで有意義に読み込むことは困難だと思われる。そういった意味で、著者に寄り添ってもらって読み進む本書は大変ありがたい。 『哲学探究』は執拗に、我々が素朴に心の中にあると思っているような『言語以前の思考』の存在を否定する。著者の説明によると、そのような『言語使用を導くとされる感覚の存在』というのは『哲学的なでっちあげ』なのである。例えば、発語になる以前に『痛み』と名指される何かが内的に在るという事態が否定されるのである。これには著者ですら『あるタイプの感覚が同定されていないのであれば、何を「痛み」と呼んでいるのか分からないじゃないか』という思いから離れられないでいると吐露している。ウィトゲンシュタイン自身の表現では次のようになる。 『いや、違う。感覚それ自体は何ものかではない。しかし何ものでもないというわけでもない!(第三〇四節)』 『「君はいつも繰り返し感覚それ自体は何ものでもないという結論に行き着く。」(第三〇四節)』 『いったいどうして私が心的過程の存在を否定しなければならないのか?!(第三〇六節)』 私の理解したところだと、言語以前にはいかなる意味での『思考』も見出せないと主張されているのだと思う。それはおそらく、『思考』というのは言語によるものであり、その言語とは言語使用の集積である『言語ゲーム』において意味を獲得するのだから、という理由によるのだ。同時に、『心的過程の存在』そのものが否定されているのではなくて、しかしそれはいかなる意味でも『思考』ではない、ということだと思われる。 このような調子で、従来の哲学や心理学で扱われてきた概念も、そのほとんどが一蹴されているというか、それらは『ナンセンス』=『いかなる言語ゲームも開かない』と位置づけられている。このように考えることも一つだとは思うけど、それが正しいかどうか、正直私には分からない。 様々な点で『論理哲学論考』の対極でありながら、『語りえないことについては、沈黙しなければならない』という結論だけは何も変わっていないようにも思う。ウィトゲンシュタインは『言語ゲーム』の中で意味をもつものに『思考』を限定する。私としては、それでは『思考』というものがあまりに狭い領域で捉えられているように思う。私が「もっと広い意味で思考というものを捉えたい」と言ったとしたら、ウィトゲンシュタインには「そのような哲学的病から人々を治療することが哲学の唯一の役割だ」と返されそうな気がする。そうだとしても、私としては、猫や赤ちゃんも、言語とは別の仕方で『思考』しているように思うのである。 『哲学探究』に名前は出てこないが、ここで主に批判されているのはソクラテスその人ではないかとも感じた。もちろん表立って批判されるのは主として『論理哲学論考』の考え方であるが、それも哲学の樹になった果実の一つである以上、その樹の根元にはソクラテスの営みがあるはずだ。ソクラテスは言語のみを用いて「本質」を追求する。その姿勢は後に続く哲学の姿勢そのものである。ソクラテスは言う、「君が言っているのは勇敢さの例だろう。それでは、勇敢さそのものとは何か?」。これに対して、『哲学探究』のウィトゲンシュタインなら「勇敢さをいう語を使用できれば何も問題ない。語の意味とは、その語の使用なのだから。」と応えるだろう。そうであれば、これほどラディカルな反哲学も無いように思う。著者は『ウィトゲンシュタインの考察を読む面白さ』は、『いままで誰も(非哲学者だけでなく、哲学者たちも)悩んだことがないような問題をウィトゲンシュタインが取り出してくることにある』と評している。 このような次第で、いったいどのように考えれば良いのか、途方に暮れてしまった。まさしく同じことをウィトゲンシュタイン自身が書いていたことは、この私の困惑と関係があるのかないのか、それも判断がつかない。 『哲学問題は「私は途方に暮れている」という形をとる。(第一二三節)』 著者はウィトゲンシュタインと共に歩む哲学について、それは『どうすれば、哲学問題に悩まされず、霧が晴れ、憑き物が落ちた状態で晴れやかに生きることができるのか』という問題意識によって動機づけられた、『われわれを、とりわけ哲学問題に悩まされる哲学者たちを、本来の生の流れへと呼び戻すための技術の集積』だという結論を与えている。極端に戯画化して考えれば、「言葉を定義によって輪郭づけないと僕は誰とも会話できません!」と主張する変人に対して、「でもそうやってお話してるじゃないですか。」と指摘して、普通の生活に戻してやることだ、というようにも理解できる。

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    投稿日: 2025.04.23
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    何回行ったり戻ったりを繰り返したかわからないですが、ヴィトゲンシュタインの言葉を切り取って見てもわからない大きなものの表層を見た気がしました。そもそもどの時期の発言なのかと。 論理哲学論考と哲学探求の主張の違い。使用自体、使えること自体が言語の意味であり言語の使用に論理や一般概念や心の働きやらを持ち出す必要はない(日常の中に存在しない)ということ…? 論理空間、色空間あたりからきつくなり、意図、意味の否定あたりは飲み込み難い感覚がすごかったです。ちょっと何回かいろんな本を行ったり来たりしたら沼にはまりそうな気がしました。

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    投稿日: 2022.08.04
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    「心という難問」を読んだ直後ということもあって、全体を 通して非常にわかりやすく、すんなりと読破できた。哲学を 潜水に例えるのが印象に残る。潜りっぱなしだと窒息して しまうのだな。 問題は、例によって原本、ウィトゲンシュタインの「哲学 探究」をまだ読んでいないということだ(苦笑)。いつかは やっつけたいです、ハイ。

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    投稿日: 2022.05.02
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    ほとんど(いや、まったく?)誰の助けも借りず、誰の威を借りることもなく野矢茂樹はウィトゲンシュタインの畢生の大作『哲学探究』と戦う。ここで行われている議論は野矢のこれまでの著書の議論とシンクロするところがあり、そこから大きく前進したわけではないにしろベースに立ち返って徒手空拳で考え続ける姿勢に感心する。これこそウィトゲンシュタインが『哲学探究』という著書を通して教えたかったことかもしれない、とさえ思った。故に、この本を読むことは自分なりの哲学の「型」を見つけ、それを鍛え上げ「実践」することではないかと思う

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    投稿日: 2022.02.27