
総合評価
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powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
雑誌「新潮45」での連載をまとめた 「死と生」の続編 仏教はどのように死や生の意味を了解すればよいのか、という「死生観」をもっていない。むしろ、「死生観」というものが意味をもたないことを仏教は説いている。それもまた「死生観」だとすれば、そこに、仏教の独特の「死生観」の特徴がある。 老いは人の生の常ならざることをいやおうなく知らしめる。一切は無常というほかない。付き従うほかない。だがその事実こそが、われわれに、涅槃への深い希求を、つまり苦から解放された静寂の境地を希求させるのである。やがて発心へと導かれ、現前の対象の「無」という真理を知るべく修行に励むのである。『大乗起信論』にはこういうことが書かれている。 そして、ひとたび「空(無常)」に身をおけば、この世界が放つ光に照らしだされたように、あらゆる事柄が肯定され、作為も合理も働かないため、どんな形の死でも錯覚であり、仮像なので、生も死も滅もないのである。 「生」と「死」の間を隔てるとともに結びつける「間」が「空(無)」なのである。咲いた花ははかなく散り、川の水に浮かぶ泡は消えては現れ、現れては消えてゆく。 「近代」とは、ただこの時代なのではなく、ひとつの特有の思想を指す。人間の生に至上の価値をおくヒューマニズムを思考の土台とする道徳的な命題である。それらは自己決定にせよ、幸福追求にせよ、あくまで個人主義の大原則に乗っている。その上に、「自分のことは自分にしかわからない」という徹底した主観主義がでてくる。しかもこの場合に、「他人のことはわからないのだから、他人の生に介入するべきではない」という思想がその正当性を与える。 近代社会がたどりついた「自由」の観念の極致であって、今日リベラリズム哲学はこの三つの前提に基づいている。 しかし、それらはあくまで「生」における価値なのである。しかもこの場合の「生」は、健常者であり、自分の意思を表明でき、社会的なコミュニケーションが可能な理性的な近代人が想定されている。「生」が壊れ、崩れ、衰弱し、ほとんど「死」へと接近するような「生」は、近代的な価値原則ではどうにもならないのである。この近代が安楽死問題を生み出し、また同時にそれをほとんど解決不可能な状態に宙づりにする。 他者と共存して共同する人間である限り、何らかの「敬意に値する」という観念が生まれるのは必定であり、「人格を尊重する」というディグニティの意識もこことに生み出される。根底にある「共感(compassion)」「同感(sympathy)」の原理こそが「人格の尊重」を基本的権利に仕立て、そこに法的な正当性を与える。 敬意とは当然、他者による敬意であり、そこに他者の目があり、他者との関係がある。社会のなかで評価されたり、非難されたりするということだ。「善きもの」や「善き行い」が前提になっており、何らかの共有された「善」があり、それに関わる限りで尊重されるべき人格が現れてくるのである。だから「立派な人」や「立派な行い」という観念も、名誉の観念ももたない社会など存在しない。普遍的といってよい。 (英語圏における医学用語で、)病気とはディジーズ(dis ease)であり、安楽(ease)が失われた(dis)状態を指す。だから、医者の仕事とは、本来、患者を安楽の状態にすることなのである。それこそが「ケア(care)」である。それは時には、病気を治すこと(キュアcure)でもあるし、また時には、安楽死を与えることでもあるだろう。いずれにせよここで重要なのは、医者は、患者の主観に入り込み、寄り添う(共感する)ことである。 西洋近代とは、基本的に「生」の原理によって組み立てられ、「死」を排除した社会なのではないか。そこでは、「生」にこそ幸福があり、「死」は人から幸福を奪い取るものなのだ。 多くの場合、死は生の切断であり、生を切り裂くものであり、したがって、恐怖の対象であり、忌避されるべきものであった。中世に頻繁に描かれた髑髏の絵もまた、生を断ち切る死の恐怖から目をそむけるなと訴えていた。 世界中のあらゆる場所にまで進出しようという拡張主義や、とことん富を増やそうという経済成長主義や、ありとあらゆる情報技術を駆使してエンターテイメントを生み出そうという快楽主義が幅を利かせるのも当然であろう。 生まれたくもなかったなどといっても仕方がない。では、生まれてしまったなら、できるだけ早くこの世におさらばすればよい、ということになるのではなかろうか。 しかし仏教はそうはいわない。なぜなら、生も死も、自分で選択し決定できる種類のものではないからである。もちろん、西洋近代のいう自由意思などというものはどこにも存在しない。すべて錯覚である。 仏教でいう「苦」とは、「思い通りにならないこと」なのであった。だから老も病も死も「苦」である。 「AはAである」とは、通常の論理であり、認識である。この自己同一性を示す同一律は自明性をもった反復的な定義に過ぎない。 そして、般若心経はこういっている。「この世界は存在しない、それゆえにこの世界である」と。この「AはAでなくしてAである」という論理は、存在の背後に、存在がない(無)という状態を透かしてみる。哲学者の西田幾太郎は、それを、「有るものは無の場所において有る」といった。こういう論理が日本思想には色濃く漂っているのではなかろうか。われわれは常に「いつでも死ぬ」可能性に取り囲まれている。だからこの一瞬の生は、常にその奥底に死を持っているというべきであろう。生は死によって支えてある、といった死生観である。 色、受、想、行、識という五蘊(物質、 感覚、表象作用、意志、認識作用)が、仮に、しかも一時的に結合したものにすぎず、それはいずれ分解して霧散する。この霧散した状態が死であって、また次にそれらは別の形で仮の結合を生み出す。この仮和合の連鎖はことごとく過去からの因縁生起によるもので、主体であるべき自己も世界も、確かな実体をもたない。不定形で、たえず転変し流動している。そこでの無実体を無あるいは空という。 われわれは、他人に対する優越感の確保、地位や富を手に入れること、愛の対象を獲得こそが、生の充足であると考えているし、ならばこそ、そこに生の愉悦を感じ取る。 だが考えてみれば、仮に一時的に手に入れたとしても、いずれそんなものはすぐに失われてしまう。だとすれば、「私」も、草木も花々も、さらには山河などの自然も、そしてこの世の中すべてが、その底に「無・空」を持っている。どれほどすぐれた人物も、どれほどいとしい異性も、いくら栄華を誇り富を蓄えた王朝といえども根本には「無・空」を宿している。 それと知ることが「真如(真理)」に達する道であって、この境地に入ることが解脱なのである。極楽浄土は、死後の世界のあの世ではなく、まさにいまここにあるのだ。 こういう立場にたてば、自己決定などということも、あるいはまた人格の尊重などというヒューマニズムも、実はありもしない自己への執着であり、盲信が生み出した仮象に過ぎないということになるであろう。 p103 古代社会では「神的なもの」はほとんど「自然」と一体に理解された。自然の中にある「カミ」のもつ力、あるいは作用があらゆるものに命を与えている。いわば「自然」のうちに「生命エネルギー」のようなものがあって、それが万物を生かしている、という理解である。 自然へのほとんど無条件の信頼よりも、不気味で何が生息しているかわからない山や森林を支配しているのは「荒ぶる神」だとする。自然は「神」であり、そこにある目にみえない力=エネルギーが働き、人間の生を可能としていた、ということである。 死ねば魂が肉体から抜け出して霊魂になる。魂からすれば、生死にさして違いはないのだ。死は、すべてのものの消滅でもなければ、「無」へ帰すことでもない。 この力=作用は、人間の現実の生である「顕」の世界のすぐ背後に、目にみえない「幽」や「冥」の世界があるという感覚であった。われわれにはわからないが張り付いているのである。だから「顕」の世界と「幽」の世界は往来が可能なのである。 われわれは言語によって様々なものを名指し、出来事を了解し、それに様々な意味を与え、こうして世界を実体的なもの(もしくは実体の集まり)として眺めている。 ただ「いま・ここに・ある」ものだけでは満足できず、「いま・ここに・ない」ものを想像しうる能力、つまり言語を始めとするシンボル操作能力をもってしまっているわれわれは、ただ目の前にあるものをそのままで受け取るだけではなく、「いま・ここに・ない」ものまで含めて自らが生きるこの現実世界を構成しているのである。 そして、目にみえないもの、自分の手元にないものを「欲望する私」さえ、何か別の働きによってもたらされている。あらゆる現象は、かくてすべてが無常であり、無自性であり、無我なのだ。 森羅万象のすべては原因と結果という縁起によって結びつけられ、それらが相依相即しつつ、いまここでの現象として現成するという縁起説は、ただ、われわれは、その働きを理解不能なものとして受けとめるほかない、といっているようにみえる。実在の根拠としようとしてもすべて底がぬけてしまう。根源的に理解不能なのである。 解脱・涅槃(ニルヴァーナ)とは、安寧の寂滅の境地である。 これは快楽苦楽、善悪、優劣、勝敗、貧富など、「分別知」によって価値づけられ秩序化された現実世界(世間)の全否定となるほかない。 だが、生きるとは、この区分け、区分、分別に首尾よく従うことである。であれば、解脱とは、死より他にありえないのでないか。 どうして、仏教は「死こそが救済」だといわないのだろうか。この世の苦を拒否することが究極の解脱であれば、死こそが本当な解脱ということになるのではないのか。 それは、これ以外にありえない恐るべき逆説を含んだ、究極の幸福観である。これは、たとえ漠然としたものであっても、日本の伝統的な死生観からすれば、とても受け入れがたい考え方であろう。 だが、この疑問は割と簡単に氷解する。 すべてが因縁生起なら、その作用は延々と続き、その作用がもたらす帰結も延々と続くだろう。それを「輪廻(サンサーラ)」だと考えれば、輪廻を引き起こすものは延々と続く「業(カルマ)」なのである。「業」とは、人間のなす様々な行為であって、私自身ではない。私が「何かする」とその行為がまた別の行為を引き起こす。 それは、決して魂の問題でもないし、永遠の霊魂といった何らかの実体を想定しているわけでもない。 仏教が唱える悟りによる救済とは、この現実世界が汚濁に満ち、我欲と我欲が衝突する世界であるからこそ、意味をもってくるのである。 ここ日本における大乗仏教では、生や死という苦に満ちたこの現実世界がそのままに=涅槃「安らぎの境地」だとされる(「生死即涅槃」)。親鸞は、凡夫が凡夫のままで阿弥陀仏の本願を絶対的に信じることが救済である、という。弥陀のはたらきが信心を起こさせるのである。だから信心が生じるということは、この現実のなかですでに仏の救済を得ていることになろう。現実の生や死のあり方が、そのまま悟りの現れとみることになるだろう。これは大乗仏教が到達したひとつの極地とでもいうべき境地である。 しかし、ならばすでに悟りの境地に至っている(はずの)われわれは、自力救済はもちろん、他力さえ不必要になるであろう。なぜ現実の生に苦悩や痛みをみているのだろう。表層に顕れたすべての欲望は許され、肯定されるという思想は西洋では「ニヒリズム」と呼ばれる。 これに対し道元は、「すべての存在は仏性である」という。すべてのこと(万法)を受け取って自己を修証(顕)するのが覚りである、と。この現実のすべてが、己を覚りに導くのである。万法と関わることのうちに、その一瞬、一瞬を常に新たな覚りの時節として生きるという日常が、修行そのものなのだ。 自己を中心にしてすべてのことを計るのは迷いである。 衆生は無明のため、心が汚れ曇らされている。「無明」とは人間のもっている本能的というべき生存欲のようなもので、この根源的な次元にある真理を人間はまったく知らない、ということだ。ここに人間の根源的な無知がある。このために迷い、苦痛にあえぐという。「無明」を根本に抱え込んで、しかも「無明」をいっさい意識することもできず、そこから次々と漏れ出る煩悩の火に焼かれる普遍的な人間存在そのもがもつ問題に至ったところに、仏教が普遍宗教へと展開する基本的な理由がある。 物事に名前を与え、言葉によって仕分けを行うことが世界の秩序化だとすれば、われわれの心が世界を秩序づける。とすれば、この世界を世界たらしめている根底には、われわれの心(主観)というものがある。 世界のあらゆる物事を言葉で、分別をもって理解するのも、またあらゆるものが生滅を繰り返すのも、心(五蘊)がそのように現実世界を感じとっているからである。 現実には、われわれの外部に、世界(心)と呼びたくなる何ものかがある。だが、現実世界と思っているものは、すべて心が生み出したものに過ぎない。 この世界(心)の二重性を、東洋思想研究者の井筒俊彦は「双面構造」と呼んだ。表層では迷いの意識が、深層では覚りである仏性(如来蔵)がわれわれを形づくっているという。 この二相同体は「目にみえる心(世界)」と「目にみえない心(世界)」と理解される。「現」と「幽」、あるいは「顕」と「冥」など、なんといってもよい。 仏性とは、この現実が産み出され、胎動させられる動的な場である。人も動物も自然も含めすべてが、関係の体系なのであり、関係の網の目のなかで衆生である私もまた、仮像として、関係において現れでてくる。 ある意味では、あらゆる宗教が人間に対してこのような受動性の意識を植え付ける。宗教(レリジョン)とは、もともと「強く縛るレリガーレ」ことであり、それは人間を超えたものに人間が自ら縛りつけられることである。
0投稿日: 2026.05.12
powered by ブクログ医療技術などの急激な進歩によって死生観が変わっていることを危惧して70代の社会思想家が何かしら書こうとされたもの 仏教に詳しいわけでもなく、実践がなければ仏教など語ることはできないと書きながら、この方の仏教論が展開されている
0投稿日: 2026.01.05
powered by ブクログ第8章「死」とは最後の「生」である 214頁から215頁で、佐伯啓思氏が伝えたかったことが書いてあります。 それを紹介します。 本書で私が提起した問題。つまり、現代人の死に方、という問題について、本書は何かしらの結論めいたものを提出したわけではない。 ただ、「死生観」という観念からこの問題の困難さを洗い出し焦点をしぼろうとしただけである。 あるいは、現代人の死の困難の背後には「死生観」という問題がある、といいたかっただけである。 そして、死生観は、倫理観と同様に、多くの場合、論理的に導出できるようなものではなく、その国の歴史が積み上げてきた文化のなかに何層にもわたって重なりあい、また点在しているものであろう。 現代に生きるわれわれは、その表層にある近代主義的な合理性だけで生死を捉えてはならない。 そのもっと深いところにある死生観を掘り起こす必要がある、近代的な合理主義の背後には、もうひとつ、われわれは日本的な死生観を配置するべきであろう。 仏教や伝統的な日本の死生観が、安楽死のような今日の問題に対して、ある回答を直接に与えるものとはいえないであろう。 だがしかし、その見地からすれば、現代においてわれわれが関わっている死と生への態度は、あまりにも窮屈で閉ざされたものであり、自らをそこに縛り付けていることがみえてくるだろう。 生と死は、人間の根源的な問題であるが、その根源的な問題が、現代において再び火急の課題として浮上し、われわれの共通の関心になりつつある。 もちろん、生も死も徹底して個人的な事柄なので、誰もが自分なりの死生観をもてばよいということもできるが、現実にはそういうわけに、いかない。 生や死についての個人的な「覚悟」を決めるとしても、われわれは、先人の経験から学ぶほかはなく、文化のなかに伝えられてきた「目にはみえない価値観」にまずは寄りかかる以外にないからだ。 本書は、私自身の死生観を模索する試行錯誤の足跡といってもよいが、また、仏教を中心とする日本人の死生観を振り返ることが、一人一人の死生観の支えになればという思いもある。 われわれの精神の構えを未来へと拓くためには、それをまた過去へと開かなければならないであろう。 その対話の中から、少しでも現代の「死に方」についての手掛かりが得られれば暁光としなければならないであろう。 ということでした。 で、佐伯啓思さんの「死生観」の掘り下げ方として、第1章から第8章までで纏められています。 第1章 安楽死という難問 第2章 安楽死と「あいましさ」 第3章 「死」が「生」を支える 第4章 日本人の「魂」の行方 第5章 仏教の死生観とは何か 第6章 道元の「仏性」論 第7章 「生と死の間」にあるもの 第8章 「死」とは最後の「生」である 最近、私は医師の立場からの「死」に対する考え方として、近藤誠先生、和田秀樹先生、養老孟司先生の考え方について一定の情報を得た。 今回、ギリシア・ヨーロッパ、キリスト、ユダヤに対する見識をお持ちの佐伯啓思氏の考え方、そして、最近仏教への関心も深められた氏の情報もこの本で知り得た。 後は、この本で紹介された本を読むことなどを行いながら、自分自身の「死生観」を深めていけるいいきっかけとなった本であった。
2投稿日: 2025.01.12
powered by ブクログ現代の日本人は死ぬことに対してどの様な心構えを持てば良いのか、について考えるヒントを提示している。古来からの思想と仏教伝来以後の思想、特に大乗仏教の死生観を顧みながら、生死一如と考えれば良いと提案している。非常に参考になったし、評論として優れた文章だと思った。
0投稿日: 2024.10.31
powered by ブクログ西欧と日本の「死生観」を対比した論考が興味深い。 仏教にかなり立ち入った後半は少々重たいので、ここでしんどくなったら、最後の章まで飛ばして読んでもよいと思う。 「結論」や「正解」は書かれていないが、著者の巡らす思いには共感できるところが多い。
0投稿日: 2024.05.13
powered by ブクログ人生の後半戦に突入した自分の今後を考える参考になれば、と思い手に取る。著者が冒頭で述べている通り、「これ」という結論が容易に出せる問いではないが、末尾で述べている通り、解を模索する試行錯誤の過程を辿ることで、いろいろと考えさせられた。 西洋的な近代合理主義では、二律背反となってしまう「死に方の自己決定」について、古代日本あるいは日本仏教の中に解の手がかりを求めようとすることは、やはり日本人である自分には響いた。 特に心に残った箇所は以下の通り。 ●「人格」とは、人を社会的存在として形成する接着剤であり、結節点である。人は相互に、それぞれの「人」の「格」を測定し、評価し、それによって、様々な共感のレベルを作り出し、多様な層をもった社会を生み出す。(中略)社会的存在としての他者に対する共感があってはじめて他者を「人格」として尊重できるのである。(P.51-52) ●われわれは常に「いずれ死ぬ」と思っている。しかし、よくよく考えてみれば、われわれは常に「いつでも死ぬ」可能性に取り囲まれている。だからこの一瞬の生は、常にその奥底に死をもっているというべきであろう。「生」は「死」によって支えられてある、といってよい。(P.79) ●「死」とは、最後の「生」であり、「生」の頂点であり、その到達点ともいえる。「よい生」にこだわる者が、「よい死に方」へと生の最後の精神の緊張を向けるのは当然のことであった。「生の尊重」というなら「死に方」も尊重されなければならない。(P.196)
0投稿日: 2022.01.25
powered by ブクログ佐伯啓思(1949年~)は、東大経済学部卒、東大大学院経済学研究科博士課程単位取得退学、滋賀大学経済学部教授、京大大学院人間・環境学研究科教授等を経て、京大名誉教授。京大こころの未来研究センター特任教授。専攻は社会経済学、社会思想史。一般向けを含めて多数の著書あり。 本書は、月刊誌『新潮45』に連載された「反・幸福論」(2018年6~9月)(同誌はその後廃刊)に、書下ろしを加えて出版されたもの。同連載は、2010年12月から、その時々の時流を勘案したテーマを論じ、いずれも後に書籍化されているが、死生観的な論考がまとまっているのは『反・幸福論』(2012年)、『死と生』(2018年)で、本書はその続編になる。(私は『死と生』は読んだ) 本書は、「安楽死」を導入に、日本的死生観、特に仏教に関わる死生観がメインに書かれているが、著者の他の著書同様、古今東西の先人の思想や著書が引用されており、本書をきっかけに思考を広めるのに大変役に立つ。 「死」、「死にかた」について様々な示唆を与えてくれる一冊である。 (2021年6月了)
2投稿日: 2021.06.22
