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収容所(ラーゲリ)から来た遺書
収容所(ラーゲリ)から来た遺書
辺見じゅん/文藝春秋
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総合評価

142件)
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    途中までは遅々として進まなかったが、後半はページをめくるのももどかしい引き込まれ感だった。人間の底力に、涙なしでは読めなかった

    1
    投稿日: 2018.01.31
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    日本の歴史、知らないことがまだまだたくさんあるんだ、と痛感させられた。1945年に戦争は終わったけれど、シベリアの強制収容所では、全然終わっていなかった。収容所(ラーゲリ)がどんな場所だったのか、収容された日本人たちはどんな想いで暮らしていたのか、知らないことばかり。 希望を失いがちな仲間たちへ、「必ず帰国の日が来る」と言い続けた山本幡男氏の心の強さは信じられないものだった。同じ状況に置かれた時に、あんなふうに自分を保ち、仲間を鼓舞することができるのか…。読んでよかった。

    0
    投稿日: 2018.01.14
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    今では想像もできないシベリア抑留での厳しい環境下で、いかに人間性を保っていられるか。 帰国を夢見ながら、俳句にこころの拠り所を見出し、苦難に耐える日々。 抑留から解放された人々が日本に持ち帰ったものは‥ 山本幡男の人間性と、周りの人々の暖かさに、驚かされ心を打たれる作品でした

    0
    投稿日: 2017.11.24
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    これは第二次世界大戦敗戦の後、過酷なシベリア収容所で長い年月を生きた日本人捕虜たちの話であり、なかでも山本幡男を軸にしたノンフィクションだ。帰国の日を待ちわびながら死んでいった人は、全体の捕虜の一割強である7万人以上だ。山本もその中の1人だが、遺書が家族に渡ったのはその二年後、しかもソ連軍に没収される為、生き残った仲間達がその遺書を記憶して書き起こし家族に手渡したという。その遺書に感動し、著者はひとりの男の肖像を描こうと思ったという。 極限の中で生きていくなかで、山本の、希望を失わない強さ、俳句を詠むことで楽しみを見出し収容所内で句会も度々開いていた。そして感受性豊かな日本語、周りの人間にも楽しい気持ちを伝播させる、、その精神の強さには感嘆するしかない。 強制収容者が最後に帰国したのは昭和31年12月。終戦11年後、、 最後の方の、母親への遺書を読んでいたら急に涙が止まらなくなってしまった。

    0
    投稿日: 2017.08.16
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    太平洋戦争の敗戦直前に不可侵条約を結んでいたソ連が突如満州へ侵攻してきて事や、その後捕虜になった人がシベリアで過酷な労働を強いられ、飢えや寒さの中祖国の地を踏まずに白樺の肥やしになってしまったことなど知識としては知っていたが、具体的にシベリアのどこなのか? 強制労働でどんな仕事をしていたのか? 何年間拘束されていたのか?という事は知らなかった。 逃亡防止のため、ノートに文字を残すことも禁止されている中で2,3人を集めて俳句を詠んだりした山本幡男の話。 その俳句会も、徐々に規制が緩くなるに従い、公式的なものになり参加者も増え、280回近く俳句の会を実施したらしい。 彼はシベリアで病気のため、亡くなってしまうが、その遺書を日本の家族に届けるため、手分けして彼の遺書を一言一句記憶して、日本に戻った人が、彼の家族に遺書を届けたという信じられないような本当の話。

    0
    投稿日: 2017.08.02
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    辺見じゅん氏の著書『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』は、1992年に刊行された文庫本ですが、1年前まで全然知りませんでした。第11回(1989年)講談社ノンフィクション賞、第21回(1990年)大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作だそうです。 1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。終戦したそのとき、満州にいた日本人はソ連へと連行されました。その数なんと60万人。極寒のシベリアで強制労働に従事すること12年。本作は、そんなシベリア抑留者のうちのひとり、山本幡男氏を中心に、彼らが過ごした収容所(ラーゲリ)での日々が淡々と綴られています。 満鉄調査部や特務機関にいた経歴から、戦犯扱いされた山本氏。地獄絵のような拷問を受け、わずかな食事で激務を課され、7万人もの人が亡くなったと言われるラーゲリの生活。 誰もが生きる望みを失うなか、山本氏だけは決してあきらめませんでした。シベリアの空だって青い。空が美しいと感じることを他の抑留者たちに思い出させます。ロシア語堪能で知識豊富な山本氏は、抑留者たちに俳句を教え、句会まで結成。俳句の心得などまったくなかった彼らが、俳句を詠むことで癒やされます。もちろんおおっぴらに句会を開くことは許されませんから、脱衣所などにこっそり集合。最初は数名だった句会メンバーが徐々に増え、最終的には300回近い句会を数えたというのだから驚きます。 生きて日本に帰国する、あきらめないと宣言していた山本氏。しかし、それは叶うことなく、シベリアの地で病死してしまいます。亡くなる直前、彼が日本の家族に宛てて書いた遺書。ほかの抑留者たちは、いったい何年後に帰国できるかわからないけれども、いつか帰れる日が来たときに必ず、山本氏の遺族に遺書を届けると誓います。 シベリアからは紙一枚持ち出すことも許されません。帰国の日が来たときのため、抑留者たちは山本氏の遺書を丸暗記しはじめるのです。山本氏が最後の力を振り絞って書いた何十枚にも渡る遺書を7人が手分けして暗記。帰国後、1人ずつから遺書が届けられ、7通目の遺書が山本氏の未亡人のもとへ届いたのは実に1987(昭和62)年のことでした。 これは個人の遺書ではない。シベリアの空の下、むなしく死んでいった人びとの、祖国日本に宛てた遺書。心が打ち震えました。生命を支える力を感じます。

    2
    投稿日: 2017.04.24
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    5年ぶりに再読。改めて名著だと実感。 シベリア抑留という明日をも知れぬ極限状況に置かれた人間の運命との向き合い方を描いて、勇気や希望、忍耐や知恵などについて深く考えさせられる。これは日本版「夜と霧」といっても過言ではないと思う。そして、山本幡男という人物の名前は一生心に留めようと思った。

    0
    投稿日: 2016.09.04
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    多くは語れない。 どんなフィクションよりも壮絶な実話。 映画「ライフ イズ ビューティフル」を思い出した。 なんと格好よい人だったのだろう。なんと「人間力」のある人だったのだろう。彼がもし、生きて日本の土を踏むことができたなら・・・・その後、どんな人生が待ち受けていたのだろうか。  そんなことを、しみじみと考えてしまった。 ★4つ、8ポイント。 2016.06.24.古。

    1
    投稿日: 2016.06.28
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    辺見じゅん(1939~2011年)は歌人・ノンフィクション作家で、角川春樹・歴彦兄弟の実の姉である。 本作品は1989年に発表され、大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞している。1992年文庫化。 主人公の山本幡男は、終戦から9年間シベリアに抑留されたが、その間、極寒と飢餓と重労働に苦しめられ、精神的にも過酷きわまりない収容所生活の中で、穏やかな性格ながらも強靭な精神力をもって、「生きてれば、かならず帰れる日がありますよ」、「ぼくたちはみんなで帰国するのです。その日まで美しい日本語を忘れぬようにしたい」と仲間を鼓舞し、アムール句会を作るなどして仲間の精神的な支えとなった。 そして、山本自身は日本への帰国叶わずに現地で病死したのであるが、終戦から12年後、山本家に同じラーゲリにいたという男が最初の遺書を持参し、その後全部で6通の遺書が届くことになる。それは、ソ連軍の徹底した監視網を逃れるために、仲間がそれぞれ分担を決めて懸命に暗記して持ち帰ったものであった。 戦中戦後のラーゲリでの経験を記した作品にはフランクルの『夜と霧』、石原吉郎の『望郷と海』などがあるが、本作品はそれらの作品と少々異なり、想像を絶する抑留生活の痛ましさだけではなく、そうした中でも失われなかった山本を中心とした人間関係の暖かさが伝わってくる。 内容の大半は帰還した兵士たちへの取材によるものであるが、極限の状況にも屈せずに生きた男たちの姿を丹念に再現したノンフィクションの力作と言えよう。 (2014年10月了)

    0
    投稿日: 2016.01.11
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     11年。シベリアの収容所(ラーゲリ)に閉じ込められて、強制労働と飢えと絶望に耐え続けた時間である。抑留者の1割強、約7万人が帰国することなく亡くなった。その中の一人は巨星であった。誰もが絶望を感じて下を向いて強制労働へ向かう隊列のなか、一人空を見上げて、シベリアの空の青さを讃える男。驚くべき知性と、ユーモアと、そして抑圧や拷問にも屈しないしなやかな精神力。自然とその巨星の周りには人々が集まった。  しかしその巨星は癌に侵され、シベリアの白樺の根元に眠ることになる。その男が書いた遺書。母親と、妻と子ども達に当てた遺書。しかしそれは普遍的で、収容されたものすべての代表しているようであった。したがって、それは絶対にその家族の元に届けなければならないものだった。  日ソ共同宣言が調印されて、すべての抑留者が帰国できるようになってからでさえ、一切の紙片さえも持ち帰ることができない中、彼を敬慕する仲間たちは驚くべき方法でその遺書を持ち帰り、彼の家族へ届けた。なんと、分担して記憶して帰ったのである。そして再現した。  収容所のなかでその男が辿り着いた思想。それは子ども達宛の遺書や、没収されてしまいはしたが少しだけ仲間が垣間見た「平民の書」に書かれていた、資本主義でも社会主義でもない「第3の道」。あの状況になかで、すでに「第3の道」に辿り着いていたという、それは驚異的なことであろう。  収容所での労働、生活、その他様々な活動、出来事を生々しく描くと同時に、極限の状況のなかでも、人間は知性的で、創造的で、逞しくあり得るという希望を描き出した。日本人における「夜と霧」である。

    0
    投稿日: 2015.08.12
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    書店で平積みになっており、何気なく手に取った一冊。 読了後、何故この作品にもっと早く出会わなかったのかと激しく後悔。 教科書に取り上げられる事の少ないシベリア抑留。 膨大な資料・多くの関係者の証言から紡がれるその記録に涙を禁じえない。 想像する限り、筆者の取材活動に対して、ただただ頭が下がるばかり。 自分のような世代ではなく、もっと若い世代に是非読んでもらいたい。 ここに記録されている男の様に生きたいと思うであろうし、 ここに記録されている様な男を愛しいと思うだろう。 全日本人必読の一冊。

    1
    投稿日: 2015.04.19
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    太平洋戦争は終了しているにも関わらず、シベリア抑留という生きて帰国できるかわからない絶望と、家族との再会との一途の希望との闘いを丁寧に描いたノンフィクション。 この主人公はもちろん、記録されない人達が、家族との再会を思いながら、悔しい思いをした人達が、多く存在したのかと考えさせられる。 そして、当たり前の様な扱いをしている平和を謙虚に受け止め、感謝し、維持のための努力しなければならないと思う。 もはや戦後ではないと宣言したはずの日本国民であるシベリア抑留者が、敗戦国である報いのために、帰国するまで難航した事実を読んだ後に、戦争とは、ここまでも後遺症をもたらすのかと思う。

    0
    投稿日: 2015.02.13
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    いつまで続くか分からない心身共に過酷な環境下で、どうやって人は希望を見出すのか?という命題に答えてくれる作品。 美しい言葉、共に耐える仲間、思想、そういうものが支えるのだと教えてくれた。 フィクションのようなノンフィクション。そんな馬鹿な、ということがあるのですね。 収容された男たちもキツイ生活だけれど、子どもを託された女たちの生活だってキツイ。一緒に暮らせなくて悲しいとかそんな生易しいことではなく、育てなければならないということ。生きねばならないということ。 妻を賞賛したい。泣いているだけではだめだ。私もそうでありたい。 親の必死さを見て育った子どもは、その子なりの才能(抜きんでて賢くなかったとしても)を花開かせ、よそ様に迷惑をかけず真っ当に生きてくれるのではないだろうか。次の世代へ命のリレーを繋いでくれるのではないだろうか。

    0
    投稿日: 2014.05.18
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    50年前。戦争の犠牲。日本人として、知っとくべき歴史。家族への思いは胸に迫るものがあります。危機に直面した時、周りの仲間を励ましながら、明るく飄々と生きた主人公。僕はどうだろうか?

    0
    投稿日: 2014.05.05
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    このレビューはネタバレを含みます。

    過酷な状況のなかにありながらも楽しみをみつけだし、それをまわりにも伝播し、生きる希望・夢を与えた山本さんの生き方に感動でした。

    0
    投稿日: 2014.03.15
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    前半、シベリアに抑留された人々の長く辛い日々がその悲惨さを必要以上に誇張されることもなく淡々とつづられており、そのことによってその日々の過酷さがさらに胸に迫る。それぞれのご家族に宛てられた山本幡男氏の遺書の内容は、ご家族のみならず私たち日本人に向けられた力強いメッセージだ、とあとがきにも書かれている通り、ずっしりと心に響き身の引き締まる思いだった。そして氏の享年が今のワタシと同じ45歳ということに愕然。山本幡男氏の成熟した人格にくらべわが身のなんと未熟なことよ…とただただ恥じ入るばかりの読後感。。。

    0
    投稿日: 2014.02.03
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    10年以上前にこの本を元にしたドキュメントをテレビで見て、即座に購入し積読状態になっていた本です。戦後の時代の流れも平行して考えることが多かったです。当時のソ連の社会主義の現実、そして日本の左翼運動の歴史などを平行して考えながら読みました。個人的にはフランクルの「夜と霧」の読後感と同じ感じでした。極限状態に置かれても人間の人間らしさを感じる読後の爽やかさもあります。一読をお勧めします。

    0
    投稿日: 2014.01.13
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    昨日Amazonから届いたのだけど、あっという間に読んでしまった。明けない夜はない。逆境に屈しない人間は強くて美しいのだ。

    0
    投稿日: 2013.11.16
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    [胸には、望郷の襷]「遺書を、記憶してきました」。過酷なシベリアでの抑留の中、故郷への思いを抱きながら亡くなった山本幡男の妻の元に、ある日男たちが訪ねてきた。そして、彼らの話から浮かび上がってきたのは、壮絶な環境に置かれながらも、明日への希望や愛する者への思いを忘れず、生を諦めなかった夫の、そしてその周りの人々の姿であった......。数々のノンフィクションの賞を獲得した珠玉の作品です。著者は、作家・歌人としても活躍された辺見じゅん。 読み終えてページを閉じた瞬間に頭がまっさらになる類の本があるのですが、まさしくこの1冊がそれ。強制収容所という絶望の中で人間性という光明を武器に第二の戦争を闘い抜いた山本氏をはじめとする人々の姿勢に胸を打たれます。歴史に残らなかったかもしれない個人のとてつもない勇姿を陽の当たるところに届けてくれた著者の思いにもまた喝采を送りたい。感動という言葉では表現しきれない感動が詰まっています。 シベリア抑留についてはあまり学校でも習うことがなかったのですが、60万人以上の人々がどのような生活を強いられていたのかを現実感をもって知ることができたのも非常に勉強になりました。事実は小説よりも奇なりとは言われますが、これがたった数十年前のことであるということにも、改めて驚きを禁じ得ませんでした。下記は、山本氏が日本の土を踏むことを望みながら詠んだ歌です。 〜海原の沖辺にともし漁る灯は明かしてともせ大和島見む〜 オススメとされてたけれど、本当に読めてよかった☆5つ

    0
    投稿日: 2013.10.26
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ソ連の収容所の中で、最後まで帰国という希望を失わず、俳句の会や勉強会を開催し仲間を作り、生きていこうとする主人公の信念を持った生き方に感銘を受けた。

    0
    投稿日: 2013.07.10
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    多くの仲間の手によって、命懸けで遺書が遺族に届けられた事もさることながら、そこに書かれた強い遺志に、ラスト滂沱の涙。

    0
    投稿日: 2013.06.15
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    ソ連の人間、日本人のアクチブ側の人間の自分の想像を超えるであろう残酷さが描かれており、逆に山本幡男という人物の不屈心や素晴らしい人間性がよく分かる。また山本によって周りの人の生きる喜びや生き抜く力を与えられることが私自身の人生についても考えさせられる部分がある。

    0
    投稿日: 2013.01.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    いわゆる「シベリア抑留」を扱ったものを読むのは、 不毛地帯以来。ノンフィクションは初めてでした。 60万人もの日本人が強制連行されていながら、 その事実は、なかなか知れなかったので、 貴重な一冊だと思います。 極寒の地での強制労働は、文字から感じる以上だったんでしょうね。 日本同士を「反共」というレッテルをつけ、引き裂き 懐柔していく事実も見逃せません。 この作品は、山本さんという無名の軍人を中心とした 収容所での日々を巡る作品ですが、 ラストはどきりとするというか、どう言葉にしていいのか わからないほどのシーンを迎えます。 山本さんの遺書に関わった人たちの、 その信念というか、怨念にも近いものを 感じました。

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    投稿日: 2012.08.02
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    【読書その93】終戦後12年後、遺族に届いた6通の遺書。戦後シベリアに抑留され酷寒の地で飢えと重労働に苦しみ収容所で病死した一人の抑留者が、愛する家族に宛てた遺書。その遺書は、壮絶な収容所生活を共にし彼を慕う友人たちにより、ソ連の厳しい監視網を決死の覚悟で届けられた。それは単なる一人の抑留者の遺書ではない。酷寒の地で愛する家族を思いながらも心ならずも命を落とした多くの抑留者の想いが込められた遺書である。

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    投稿日: 2012.06.23
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    ずいぶん前に読んだのですが、感動。泣きました。 零戦モノや戦艦モノ、捕虜モノではなく、大戦の中で、こんな話があったのか。ただただ感動でした。

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    投稿日: 2012.04.19
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    ノンフィクション。 終戦後、10年以上シベリアに抑留されていた日本人兵士たちの記録。 紙切れ一枚持ち出すことができなかったそこから、ひとりの日本兵の遺書をある方法で持ち帰った仲間たち。 思想の自由とは違うけれど、どれほど力でねじ伏せられても、考えたり記憶することはできるんだと考えさせられた。

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    投稿日: 2012.03.22
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    戦争が終わっても、10年以上敗戦に人生を翻弄された多くの人々がいたという事実。日本人が読むべき本だと思う。絶望の中にも、希望を忘れなかった山本幡男氏の生き様と、決死の覚悟で遺書を持ち帰った収容所の仲間達のノンフィクション、涙が止まらなかった。

    0
    投稿日: 2012.03.12
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    遺書すら持ち帰ることが困難だった時代において故人の遺書を慕う人々が記憶して日本に帰国したという事実に深い感銘を受けた。人の想いの深さや生きることさえ希望を失う収容所生活から生還した人々の生き様を垣間見ることができた。著者はよく取材しており、すばらしい作品だと思う。

    0
    投稿日: 2012.01.03
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    いちばん涙を流した本 追悼・辺見じゅん 作家の辺見じゅんさんが一昨日亡くなった。享年72歳。 彼女の作品を読んだのは「収容所から来た遺書」たった一冊だけである。 たった一冊だけだが、この本は私が今までの読書暦のなかでいちばん涙を流した本である。 読んだ後しばらく本当にワーワー泣いた。ツーンとかジーンではなく、滂沱の涙を流した。 そんな読書経験は初めてであった。 読んだのは20年近く前、出張途中で泊まった山形、肘折温泉のひなびた温泉宿の一室でひとりだけ。泊り客もほとんどおらず川の流れる音だけが大きく聞こえていた、秋だった。 太平洋戦争後ソ連軍によってシベリアに連行された日本人は約60万人、極寒の異郷で飢えと重労働の日々、望郷の思いを抱いたまま果てた人びとは一割を超える約7万人。そのなかのひとり、無名で偉大なる凡人山本幡男。彼を中心にした収容所生活のノンフィクションである。 極寒、重労働、飢えのなかで皆考えることは唯ひとつ望郷。「日本へ帰りたい!家族に会いたい!」その願いは容易には実現せず、最後のシベリアからの帰還船が舞鶴へ帰ったのは何と戦後12年目(「もはや戦後ではない」と言われ、当時私は小学校4年生で平和に暮らしていた。そんな時代にまだシベリアで地獄の日々を送る人たちがいたとは!)のことである。 最初は抱いた帰国の夢も薄らぎ寒さ、重労働、空腹の絶望的な日々のなかで、山本幡男は文集や句会で周囲の人びとを励まし生きる力を与えていく。彼自身は結局帰国することなく昭和29年(戦後9年も経っている!)病死するが、彼の生き方考え方に支えられ救われた多くの戦友たちが彼の奥さんや子供たちへの遺書を一言一句暗記する(収容所では文を書いたり持ち出すのは厳禁で句会も地面に棒で書いていた)。そして無事帰国できた戦友たちは、彼の遺言を句読点に至るまで一言一句、奥さんと子供たちに伝えた。 彼の遺書を一言一句暗記して家族に伝えた話は感動的であるが、それ以上にこの本で感じるのは、「今」を生きる人間の強さである。過酷な状況に置かれてもなお人間らしく生きるとは「今を生きる」ということである。投げやりにならず今を生きる、今を楽しむ。簡単なことではないが、どんな状況でも今を生きること! 子供たちへの遺書(抜粋) 「君達はどんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するという進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ」 辺見じゅんさん、素晴らしい本をありがとうございました。       合掌

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    投稿日: 2011.09.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    文春文庫ノンフィクションフェアで見つけて購入。 シベリア抑留の中で必死に生きた山本幡男氏とその仲間が遺族に手紙を届けた話。 後半は涙しながら読みました。

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    投稿日: 2011.07.11
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    永遠の0に続いて第二次世界大戦もの。 こちらも、現代人は知っておくべき歴史だと感じた。 まさに生き地獄収容所のなかにあっても希望を捨てず、さらにまわりの人間に笑顔を提供した山本さんにただ脱帽だが、なぜそんな彼が死ななければならなかったのか。人の運命の不条理さか身に染みる。 彼の遺書は号泣もの。 とくに息子へあてた遺書には現代人全員へむけたメッセージに感じる。 終始重いが読後感はすっきりしていた。

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    投稿日: 2010.10.17
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    第11回講談社ノンフィクション賞、第21回大宅壮一ノンフィクション賞、ダブル受賞。 終戦時にソ連の捕虜になった人たちの話。中心人物・山本幡男(はたお)は、周りのみんなに帰国の希望を抱かせる行動・発言をし、句会をするなどその知的で純粋な性格から、一目置かれる存在だ。 しかし喉頭ガンにかかり死亡。残された者たちは彼の遺書を日本に何としても持ち帰るべく、衣服に縫い付けたり暗記したりする。文書の類いは、収容所ではすぐ没収されるためだ。 もちろん本書も、文献が残っているわけではなく、体験談を編集して書かれたもの。どんな気持ちで捕虜生活を送っていたかが分かる、臨場感あふれる小説。

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    投稿日: 2010.08.03
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    昭和31年、経済白書は「もはや戦後ではない」と明記したが、シベリア抑留者たちの戦後は終わっていない。

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    投稿日: 2010.06.23
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     第二次世界大戦終結後、ソ連の収容所(ラーゲリ)に抑留された元兵士を描いた、ノンフィクション。 とあるラーゲリでの、精神的・文化的な中心人物であった山本氏の遺書を、共に生活を過ごした男たちが「持ち帰って」来るまでを捉える。 その顛末も驚くべきものがあるが、山本氏の「指」という誌が胸を打つ。 詳しくは(ないけど)、ブログにて。

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    投稿日: 2010.04.24
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    (2005.11.14読了)(2005.09.28購入) 「戦場から届いた遺書」NHK人間講座、の第8回『「記憶」で届けられた遺志』で取り上げられていた山本幡男さんの話です。日本の敗戦直前に満州に攻め込んできたソ連軍により多くの日本人(約60万人)が、シベリアに連行され、強制労働(ソ連側では矯正労働というのだそうです)に従事させられました。山本さんもその一人ですが、満鉄調査部のソ連担当であったこと、日本の敗戦の半年前にハルビン特務機関にいたことが、ソ連の国内法第58条6項の「ソ連に対する謀略諜報行為」に当たるとされ、スパイ罪で裁かれ、重労働25年の刑を受けました。日本へ帰るという希望を失うと、生きる気力をなくし死亡してしまう(死亡すると白樺の根元に埋められるので、これを白樺派というのだそうです)。山本さんは合法・非合法の俳句会を開いたりして仲間を励まし、自分も帰るつもりだったのですが、喉頭癌性肉腫のため1954年8月25日に死亡した。死亡する前に4通の遺書を書き仲間に託した。日本に帰る時は、書いたものはすべて没収されることが分かっているので、遺書を仲間で手分けして覚えて帰ることにし、必死で覚えた。彼らが帰ることのできたのは、1956年12月末である。日本に帰りついた仲間たちは、自分の担当した分を、紙に書き付けて山本の妻のもとへ次々と届けた。自分で届けに行ったものもあり、郵送した人もいる。一番早い人は、1957年1月に届けている。最後に届けられたのは、1987年の夏であった。 この本は、山本さんに出会った人たちに取材し、その内容を年代順に構成し、シベリアにおける山本さんの様子を再現したものです。実に丁寧に描かれていて、日本へ帰るための船のタラップに足をかける場面では、思わず涙がこぼれてきました。(朝の通勤電車の中だったけど。) 「極光のかげに シベリア俘虜記」岩波文庫、の高杉一郎さんの場合は、4年で日本に帰国できたのですが、長い人は12年近くも収容所生活を送ったということです。国家というのは、なんとも理不尽なことをやるものだと思います。 ●「日本新聞」(33頁) 「日本新聞」が創刊された1945年9月15日は、敗戦後一ヶ月目に当たり、ソ連が公式に占領終結とみなす9月9日から数えて一週間もたっていない。ソ連が早い時期から対日参戦を考え、日本人俘虜を抑留してシベリアでの労働に従事させることを決定していたと見ることができる。終刊が1949年11月27日であったのは、戦犯とされた人々を除く大多数の一般俘虜たちの帰国が、この年の内にほぼ終了したからだ。 ●軍事俘虜送還(77頁) 日本人の軍事俘虜送還に関するソ連政府の公式発表が、1950年4月22日付の「プラウダ」紙に載った。「第二次世界大戦における日本人俘虜の送還が完了し、残っているのは戦犯またはその容疑者のみである」「ソ連邦から送還された日本人俘虜は、1945年に戦闘地域から開放された7万810名を別とし、51万409名である」と報じられた。 また、送還されない者たちについては、「戦犯行為により処刑されたものと審理中のもの1487名、病後静養中の者9名、中国人民に対する重大な犯罪のため中華人民共和国に引き渡される971名の軍事俘虜である」と書かれていた。 ●スターリンの死(169頁) ソ連側が月に一度「俘虜郵便」として支給した往復はがきの発信人住所には、必ず「CCCP」と書かせた。「ソビエト社会主義共和国連邦」の略称である。しかし、それを書くたびに日本人抑留者達は、「スメルチ・スタリーナ・スパスチ・ロシーユ(スターリンの死はロシアを救う)」と読み代えて溜飲を下げていた。そのスターリンが、1953年3月5日に死んだ。 ●日本政府の対応(178頁) 日本政府が吉田外相の書簡を国連総会議長宛に送り、ソビエトが俘虜に対する国際協約に違反しているとの批判を行ったのは、1951年が初めてだった。 ●山本さんの「日本文化研究会」(193頁) 「かつて、日本に『枕草子』『源氏物語』『徒然草』が現れた頃、イギリスはまだバイキングの時代だった。古く美しい文化を有する日本が、戦争に敗けて世界の劣等国と見做されている。古代の文化に限らず、彫刻にせよ、絵画や建築にせよ、私たちはもう一度、祖先の偉業に立ち返ってみる必要があるのです・・・」 ●「幻兵団」(246頁) シベリアから特殊な任務を帯びて帰国してくる日本人俘虜の一部を名付けて、「幻」或いは「幻兵団」という言葉で呼ばれたことがある。この人びとの特殊な任務は、ソ連に抑留中と、日本へ帰還した後との二種類に分けられた。抑留中の場合は、元憲兵や情報機関等の「前職者」の摘発や反ソ的な行為をする者たちを探らせ、密告させるスパイ任務で、スパイの数はおよそ8千名といわれた。また、後者は帰還後に日本政府や米軍に関する情報を入手し、思想的、政治的な諜報工作を行うようにと指令されたもので、5百余名いたという。 著者 辺見 じゅん 1939年 富山県生まれ 早稲田大学文学部卒業 1975年 「呪われたシルク・ロード」で作家デビュー 1984年 「男たちの大和」で第3回新田次郎文学賞受賞 1988年 「闇の祝祭」で第12回現代短歌女流賞受賞 1989年 「収容所から来た遺書」で第11回講談社ノンフィクション賞受賞 1990年 「収容所から来た遺書」で第21回大宅壮一ノンフィクション賞受賞 ☆関連図書(既読) 「長崎の鐘」永井隆著、中央出版社、1976.06.20 「五十年目の日章旗」中野孝次著、文春文庫、1999.08.10 「極光のかげに」高杉一郎著、岩波文庫、1991.05.16 「戦場から届いた遺書」辺見じゅん著、NHK人間講座、2002.12.01 「パール判事の日本無罪論」田中正明著、小学館文庫、2001.11.01 「命こそ宝」阿波根昌鴻著、岩波新書、1992.10.20 (「BOOK」データベースより)amazon 敗戦から12年目に遺族が手にした6通の遺書。ソ連軍に捕われ、極寒と飢餓と重労働のシベリア抑留中に死んだ男のその遺書は、彼を欽慕する仲間達の驚くべき方法により厳しいソ連監視網をかい潜ったものだった。悪名高き強制収容所に屈しなかった男達のしたたかな知性と人間性を発掘して大宅賞受賞の感動の傑作。

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    投稿日: 2010.02.07
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    10代の終わりに読んで、非常に感銘を受けた本です。生きること、真摯に生きること、とことん生きること・・・。感動で本当に体が打ち震えることってあるもんなんだなと、読み終えたときの衝撃は今でも忘れません。

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    投稿日: 2009.09.26
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    戦後、シベリアの収容所で強制労働をさせられていた人たちの話。書き方が非常にマイルドなため、恐らく凄惨を極めたであろう状況をやわらかく伝えているような気がする。与えられる食べ物も少なく、寒さ、重労働、いつまで続けなくてはならないのか分からないといった状況の中で、希望を失わずに、また文化的な生活を送ろうと努力する中心人物がいる。あのような状況で信念を持ち続けた事を考えると非常に強い人だったのだと思う。

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    投稿日: 2009.07.19
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    おそらく現代日本では無名なのだろうけど 山本幡男という人の生き様に感動! どんな悲惨な状況でも、希望を失わない。 文に書くと簡単だが、いかにそれが大変なことか。 それが出来た稀有な方だったのだろう。 誰か映画にでもしてくれませんか?

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    投稿日: 2009.05.10
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    是非、映画にして後世に伝えたい1冊。但し黒澤なき後ではハリウッドメイドで製作お願いしたい。人道、人命、が紙屑の様に扱われる現実の世界。映画「ブラッドダイヤモンド」や「ナイロビの蜂」も同様。ラストは涙無しには読めない、日本人なら必読の書。拉致事件は何十年経ったら解決するのか。

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    投稿日: 2009.01.17
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    もともと浅草キッドの水道橋博士の影響で買って積ん読状態に。 たまたま観に行くことになったトム・プロジェクトプロデュース「ダモイ~収容所(ラーゲリ)から来た遺書~」観劇(8/1)を機に原作本として読みました。

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    投稿日: 2008.08.04
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    同僚から薦められた1冊。収容所での生活が淡々と綴られる。文字とか言葉、文学っていうのは心の支えになるのだと改めて思った。先の見えない生活、強制労働、そして空腹…。それらに耐えうるだけの力は広い意味での「故郷」なのだ、と。何か別の本を読んだ際、人々が記憶にある話(物語だったか、古典的なものだったかは忘れたが)を順に話していく、というのがあった。遺書を記憶するのもそうだが、人の脳は無限の可能性を秘めているのだと感じさせられた。 8月。もうすぐ広島、長崎に原爆が落とされた日、そして終戦を迎えた日がやってくる。

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    投稿日: 2008.07.30
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    シベリア抑留された人たちの話です。 いろんな意味で人の強さが見えます。 劇団四季「異国の丘」の原作らしい。

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    投稿日: 2007.11.02