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岩倉具視 言葉の皮を剥きながら
岩倉具視 言葉の皮を剥きながら
永井路子/文藝春秋
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総合評価

9件)
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    情報通 下級公家の岩倉具視が最後には右大臣まで上り詰めた秘訣は、5年に及ぶ蟄居生活時代に朝廷、幕府双方の機密文章も含めた最新の動向情報を収集し分析、文にて多くの関係者に寄与(政権交代への影響力を与えた)、情報の知恵袋的存在が大きかった、と言う。手入れ(現在の賄賂)も然り、公家内での親族のコネを優先利用し、偽勅・偽錦旗などを作り、摂関制度等を蹴散らし王政復興を盛り上げるなど波乱な人生を生き抜いた岩亀・ヤモリ(岩倉具視のあだ名)的存在だった。現代でも「情報通」は先手必勝に必須だということだ。

    8
    投稿日: 2024.07.22
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    ちょっと難しい。やっと三章読んだところ。 最後まで読めるかな。 巻頭の岩倉具視の写真が、ゆずの岩沢さんに似ていると思うのは私だけ?

    0
    投稿日: 2016.12.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    言葉の皮を剥きながら…。日本の言葉の7割は皮を被っている。だからその本質を知るためには丁寧な解釈が必要。そういうことか。  永井路子が40年の構想の時間をかけて書いた、長期熟成歴史小説。ストーリー仕立てではなく、解説なので、硬い文章を読みたくない人にはお勧めできない。岩倉具視の概要を知った人が改めて好むべき作品。  おもしろかった。岩倉具視のイメージが変わるし、やっぱり歴史に女の影響力があった。(堀河紀子) ______ p12 馬車  永井路子の歴史観。  「一台の馬車に付けられた数頭の馬が、思い思いの方向に車を引っ張ろうとするように、一人一人が主役のつもりでひしめき合い傷つけあううちに、いつの間にか流れが帰られてゆくーーそうした歴史という物を描くための一つの試みとして」 p14 皮を剥ぐ  日本語賛美は昔からある。美しい日本語を正しく使おう、とかね。詩的表現として言葉は美しいものであるが、、、言葉は虚偽の衣装を身に纏う曲者である。  幕末に流行った「尊王攘夷」あの言葉は本当に尊王で攘夷を実行したか。結局、攘夷とかあっという間にイギリスには白旗振ってそれどころか支援してもらってるし。尊王といって天皇は担ぐだけだし、、言っても倒幕急進派だろう。  言葉はその事柄を表すが、本質を隠すこともある。その皮を剥くのがこの小説のテーマで、副題。 p17 秀忠すごいよ  永井氏曰く、秀忠は家康をしのぐ政治手腕を持っていたという。なるほど、大権現の暁光で陰って目立たないもんな。調べよう。  二人は、譜代には権力を、外様には富を、一門には血の優位性を、与えて絶妙な力のバランスを取ってきた。  官位と言う虚像の権威を用意することで人々の心を巧みに騙した。本当かよとも思うが、実質そうなってるんだから、そうだったのだと思う。秀忠もすごいよ。 p19 嵯峨天皇からの権力と権威の分裂  嵯峨天皇の前、つまり桓武天皇や平城天皇までは天皇が直接執政し、権力と権威を共に有していた。それゆえに天皇家の血みどろの歴史がある。  しかし、嵯峨天皇以降、天皇は「権威」摂関家が「権力」を持つようになった。藤原家はその力を振り下ろせば天皇家を潰すこともできたろうが、それをしなかった。ここが頭の良い所である。歴史上、権威と権力を一手に収めようとした者はいる。しかし、もれなく失敗している。(後鳥羽、後醍醐天皇たちな)  人の手では負えないモノなんだなぁ、「権」というものは。だから分散しないと暴れ回って血の海を作る。  鎌倉幕府を作った源頼朝も初めは権力者だったが、その死後三代のちは源氏と言う血は「権威」になり、「権力」は比企氏や北条氏や三浦氏などが血なまぐさい争奪戦を起こした。 p25 学習院  岩倉具視は若いころは影が薄い存在だった。宮廷に入っても鳴かず飛ばず、そこで鷹司政通という孝明天皇の摂政役だった男にすり寄った。(歌の弟子として)政通は学習院を作った男でもある。あと、歯に衣着せぬおじさんだったらしく、岩倉具視もそう言うところで学んだからゴリ押しができたのかもね。 p54 水戸の反幕  水戸藩は幕府設立当初から辛酸をなめてきた。御三家でありながら尾張や紀伊とは格が一つ違った。それで天下の副将軍とか嫌味である。そう言うこともあって政権に反抗的な機運は古くからあった。  水戸の反幕府的思想は水戸光圀から急進化したのかな。光圀の作った「大日本史」は北朝正統とする幕府見解に真っ向から対抗する南朝正統を論じている。この中で楠木正成や新田義貞を賛美し、まさに異説日本史だった。  やはり常陸(茨城)には何かある。(QEDの読みすぎ) p62 井伊きみよ  井伊直弼と水戸斉昭は真っ向対立だった。井伊直弼が条約強行締結で桜田門外で暗殺されたときの落書でこんなものがある。「井伊きみと 御隠居陰で 舌を出し」  おもしろい。井伊が独裁の因果で殺されたのはさぞ良い気味だったであろう。 p71 同時進行  一般に皇女和宮の降嫁は、安政の大獄でやりすぎた幕府側が朝廷の関係を修復するための手段の一つとして親戚関係になるという手段に出たと取られているが、これはこの順番に起きたことでは無い。安政の大獄の前に井伊直弼は和宮の降嫁を考えていたようである。つまり安政の大獄と和宮降嫁は同時進行で井伊直弼によって仕組まれていた。攘夷派は置いといて、まずは公家から取り込もうという井伊直弼の計画が見え隠れしそう。 p84 岩倉具視は外戚狙いだった?  孝明天皇の妹:和宮降嫁(条約破棄ができたら嫁がせるよ)がうまくいかなかったら(和宮が嫌がったら)、代わりに「寿万宮理宮 」という幼い(三歳)娘を嫁がせるという案が候補に挙がった。この娘は岩倉具視からすれば、姪っ子になるのである。具視は藤原氏と同じで外戚として、権力を操りたかったんだろう。狙ったな。  数あるプリンセスの中で、運よく次のチャンスが舞い込むなんて。まさに、プリンセス→プリンセスだね。  しかし理宮 は3歳で早逝してしまい、野望は潰えた。それどころかこの降嫁事件は天皇への不敬罪だとして岩倉ら四人が蟄居を命じられた。四奸というやつ p100 生麦  公武合体路線を推進していた島津久光。幕府と朝廷が協力して攘夷は無理でも、修好条規以前の和親条約の頃まで国際関係を戻そうということだった。しかし、幕府の腰の重さに朝廷側は苛立っていた。  島津久光は江戸城から帰京する際に生麦事件を起こしてしまう。攘夷なんて無理だと考えていた人が、あっというまに攘夷の急先鋒になってしまった。こういうところからも攘夷という言葉の都合のよさがわかる。皮っかむりだな。 p102 尊王というのは…  久光の生麦事件を機に公武合体路線はとん挫した。久光が薩摩に戻ると同じころに、三条実美や土佐の山内容堂らが攘夷に向けての行動を開始した。ここから攘夷熱が高まる。(まぁもちろん勝てないけど)  孝明天皇の側近は四奸として排除され、尊皇攘夷派と言うやからが天皇を取り囲むようになった。しかし尊王と言う割には天皇無視が甚だしい。関白近衛忠熙(コノエタダヒロ)の会議からは全く締め出されていたという。  もうこの尊攘派というのは、イデオロギーを騙っただけの集団で、要は朝廷内での権力争いで新たに政権を握るために前政権と逆のことを言っていただけなのである。 p117 尊攘派の終わり  永井路子曰く、「1864年に攘夷は終わった」長州の敗北と薩英戦争の敗北で攘夷の可能性は潰えた。しかし、その後もこの言葉を使われる。それはおかしい。  これ以降は朝廷も幕府に実力を持って早急に外国を追い出すのではなく、交渉によって外国の侵入を阻止してほしいと言っている。「攘夷」ではなく「排夷」が正しいだろう。外国は討つのではなく、穏便に追い出すのを望んだのだ。  この言葉がずっと使われているのは、近代以降の日本が軍国主義に傾いたときに体よく使われ、定着してしまったからだろうという。この一言で当時のイメージがだいぶ変わってしまう。随分だな。 p157 毒殺説  岩倉具視が孝明天皇を毒殺したという論理はこう。孝明天皇は筆記の際に筆をなめる癖があったので、硯にこっそりとヒ素を垂らしたのだという。蟄居の身に遭った具視はこれができないから、妹で天皇に近侍していた堀河紀子が実行犯だと言われる。  しかし、この説には杜撰な部分がある。紀子は具視とともに天皇の側から追放されていた。(四奸二嬪)どちらも実行犯にはなれなかったのである。アリバイは無いけれど、もっともやりそうな奴だったからいつまでもこの嫌疑は晴れないのである。 p164 追放解除  岩倉具視は孝明天皇がなくなってしばらくして政界復帰を果たした。岩倉は実は孝明天皇が存命中から、天皇から「追放を解除してあげてもいいんじゃない?」と政界復帰を望まれていたが、その側近に阻まれていた。しかし、天皇が死んで側近の力もなくなったから、具視が政界復帰できるようになった。  「天皇が死んで政界復帰が果たされた」こう書かれるとやはり、政界復帰のために工作したと考えられる。天皇が死んで一番得をしたのはどう考えても岩倉具視、だから毒殺説が信憑性を持つのだ。果たして本当にそうだったのか。  しかし、当時の岩倉具視は天皇あっての存在だったし、毒殺説の実行犯とされる堀河紀子は具視あっての存在だった。それぞれ、自分の後ろ盾になる人物を追いやるようなことはしないはずである。誤認だ。という。 p198 摂関制度の終わり  大政奉還で幕府は政権を失った。だからと言って平安以前の貴族が政権を取る摂関政治の構図になったわけではない。政権を取ったのは薩長土肥の藩閥政治である。  摂関制度も同時になくなった。それに終止符を打ったのが、岩倉具視である。摂関という壁に悩まされ続けた具視だからこそできた革命なのかもしれない。幕府を打倒したことだけに注目されがちだが、9世紀以降続いたさらに古い摂関制度を打倒したことにも注目されたい。 p212 毛利の祖は大江広元  毛利家は大江広元の子孫から来ていると言っている。 p229 使いっぱしり具視  頑固おやじ島津久光に廃藩置県の説得をしたのは岩倉具視である。朝廷の勅使として岩倉が出向いたから久光も動いた。勅命に刃向くということになれば、薩摩対vs新政府ということになってしまう。ここでは具視がキーマンだったのだ。  しかし、具視は翻弄に主役だったのかというと、大久保利通や木戸孝允の使いっ走りだった感を否めない。 p231 日本人が着れば日本服だ  廃藩置県が制定されたその年、天皇から服装改革の内勅が出され、軍隊などは西洋風の軍服を義務付けられ、それに対する反発もあった。それに対する見解が「日本人が着ればそれは日本服だ」という。やっぱ昔の人はすごい。これを論理として押し切るなんて、できない。 p235 欧州旅行  岩倉具視の欧州使節団は一応、条約改正が目的だったが、近代化もままならない日本の国家制度ではできるはずもなく。これは本当にただの見学旅行になってしまった。当初は10か月の予定だったが一年と10か月になり、そんなに時間をかける必要はなかったのである。(征韓論関係で焦らしたのかなぁ)  その中で、使節団は「万国公法くらいは知っている」という態度で各国のお偉いさんと対談したが、ドイツのビスマルクとの会談で良いことを教わった。  ビスマルク曰く「何だあんなもの。あれは強国の並べた理屈さ。弱肉強食の押し付けでしかない。表面は礼儀を重んじて交際しているが、腹の底は知れている。万国公法は自国に有利の時にだけ振り翳すのだ。ドイツは弱小国だったから、それらに対抗すべく努力を重ねてきた。」大久保なんかはこれに感激し、「日本の行くべき道だ」と考え、それ以降、日本のあらゆる制度がドイツに倣ったものになった。 p236 デスポット  木戸孝允が岩倉使節団として渡欧した時の収穫。伊藤博文の手紙に「建国の大法はデスポチック(独裁的)に之なくては相立ち申す間敷」この政治感覚は伊藤博文や山県有朋に受け継がれ、その後も長州勢が日本のリーダーとして圧倒的に人材を輩出しているところからも引き継がれていることがわかる。   p237 岩倉具視が考えたこと  渡欧中、岩倉具視が欧州列強から学んでいる最中に考えたことは「いかに天皇を護ることか」だったろうと永井路子は言う。  いずれ成立する立憲政治では天皇の存在は守られ難いと思った。天皇の権利を制限する規則が多すぎる。そのためにイギリスの貴族院なる華族制度を作ろうと考えていただろうという。天皇の回りにあった壁(摂関制度)をぶち壊した男が、天皇を護る壁を作ろうと考えていたいう、歴史の面白いトコ。 p248 史料の読み取り方  永井路子は岩倉具視を書こうと思ってから40年経って実際に書いた。それまでに、史料の読み取りの未熟さや時代把握の月並みさを思い知らされ、史料というものは問いかけによって別の答え方もするし、時代によって違う顔を見せたりする、ということが解ったという。 ________ 「言葉の皮を剥ぎながら」という言葉はすごくすごく大事だと思った。  言葉は人類が作り出した最高に便利なものだが、ものすごく不便なアイテムであると思っている。自分の感情を表現でき、他人との理解を図れるが、それはどうしても完璧に離れず誤解を生むことは避けられない。本当に便利で不便なアイテムだ。  だから、言葉の本質を知るために、皮を剥いて味わう必要があるのだ。

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    投稿日: 2015.08.09
  • 「小説」であることを求めてしまう、魅力的な人物造形

    すごくいいのに、何かが惜しい。 そう思うのは多分、私が永井路子の小説が好きで、そしてこれが小説ではないからだろう。 本書は「評伝」というジャンルに属するらしい。 サブタイトル「言葉の皮を剥きながら」の通り、 「尊王攘夷」や「佐幕」といった言葉を剥きとり、その裏にある実態を 推測していくというものである。 塩野七生にしてもそうだが「歴史家ではない」という特権(?)をフル活用し、 鋭く大胆な推理を繰り広げており、面白い。 小田中直樹が『歴史学ってなんだ?』という本で言っているとおり、 歴史家は史料で裏付けできないことは「わからない」としか言えないが、 小説家は裏付けできなくとも史料からもう一歩踏み込んだ推測をすることができる。 本書はそういう意味で、塩野七生の『ローマ人の物語』に近い性格のものだ。 それで、何が不満なのかというと、別に不満なのではない(笑) ただどうしても自分の好きな「永井路子の小説」と比較してしまうのだ。 特に本書の場合、冒頭でデビュー作『炎環』についての言及があった。 あの名作を書いたときの気持ちを思い出しながら書いた、などと言われると、 読者としても、『炎環』を思い出しながら読んでしまうではないか。 本書はいろいろな学説を吟味した上で、岩倉具視とその周りの人々を描いている。 きっと、『炎環』を書くときも、こんな風にしっかり下準備をしたのだろう、と考える。 言葉の皮を剥いて剥いて、できあがったのが、あの悪禅師・全成たちなのだろう。 そんなことを思うにつけ、本書の先にある「小説」を夢想してしまう。 岩倉具視、孝明天皇、徳川慶喜、堀河紀子(具視の実妹)・・・ 「歴史家」には書けないような、エンターテイメント・文学作品としての人物造形がもうしっかりできあがっている。 幕末版『炎環』の輪郭のようなものが見えてしまう。 それだけに何だかものすごく歯がゆい。 でもそれは私が『炎環』を初めとする永井路子の小説が好きすぎるからで、 別にそうではなく幕末に興味を持つ人には、普通に面白い評伝だろう(笑) 何より、あとがきで読むことのできる、本書執筆を通して関わった岩倉家の方々とのエピソードがまた何だか深い。 これ一本でも小説になるのでは、と思ってしまう。

    10
    投稿日: 2014.11.11
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    読んだけど話が記憶に残らない! 朝廷内の資料も元に怪物岩倉具視を 丸裸に暴いてくれたんだとおもうのですが 読みづらい!   2013.6.8 2018.11.11 再読中 あれ、知識が増えてるからか スラスラ入る!

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    投稿日: 2013.06.08
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    岩倉具視を通して永井路子の時代の捉え方を書いた本。 歴史小説家としての題材の捉え方の独自性が面白い。 ただ、岩倉具視の小説を読もう!という気持ちで読んだら少し拍子抜けかもしれません。

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    投稿日: 2012.11.20
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    想像と違った内容だった。岩倉具視という題名だが、幕末の歴史観が書かれた本だ。小説というよりエッセー。作者の歴史観をどうこう言うつもりはない。岩倉具視という題名がいけないのだ。ちょっと残念。岩倉具視。500円札。懐かしいね。

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    投稿日: 2011.05.03
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    構想四十余年の岩倉具視の評伝、という帯に釣られて買ったが、 読み進むにつれて、白けさせられてしまった。 語り口にも内容にも。

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    投稿日: 2011.04.14
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    岩倉卿の題名の仮面の下、著者の幕末における歴史観を語っているだけのような気がして岩倉卿の物語を読みたい人向けではなかった。 維新後の話もほとんど触れられていない。

    0
    投稿日: 2011.04.03