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「時間」を哲学する 過去はどこへ行ったのか
「時間」を哲学する 過去はどこへ行ったのか
中島義道/講談社
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総合評価

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    某所読書会課題図書.過去が重要だという主張は理解できないわけではないが、次々と関連引用が飛び出して、さっきまで何を議論していたのか分からなく場面が続出.読書会のメンバーも解読に苦慮していたようでしたが、哲学者がこのような思考をすること自体、並みの人にとっては理解できないことも含めて、その存在を認識する必要があるとの指摘もあった.

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    投稿日: 2021.10.27
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    ■メインテーマ 過去と未来の正体とは? ■筆者が最も伝えたかったメッセージ 過去とは、過去の出来事を現在想起することで、 未来とは、現在の心の状態。 ■感想 過去を知っている、過去が自分の中に生きているから、現在は支えられている。

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    投稿日: 2021.01.12
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    現象学系の「現在中心主義」を否定し、「過去中心主義」を唱えているが、結局のところ著者自身が「現在中心主義」から脱しきれていない印象を受けた。「未来本物論者」への否定として、「未来は無であり、未来は現在である」という論理にはそれなりの説得力があるとは思えるが、これは未来を現在化しているにすぎない。他方、「過去からスタートせよ」と主張したところで、過去からスタートするのは結局現在でしかないのでは?と思えるのだが。しかも、最後の最後に「剥き出しの<今>」に触れてしまったにも関わらず、これを回収せずに終わってしまっている。本人曰く、「大逆転劇」との事だが、これは過去中心主義者として蛇足だったのではないだろうか?

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    投稿日: 2020.01.29
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    過去というものは、あっという間に過ぎ去ってしまう。客観的時間と実感には大きな隔たりがあり、その点を理解することが時間に対する了解の第一歩ともいえる。 過去における実感を未来に投影した場合、人生とははかないものであるという悲観的な、人生の短さに対する嘆きが生まれてくる。 客観的時間とは、認識によって生み出されたものであり、認識とは、自己とは他のものに対する態度。つまり、自己の概念を、自分がいま見えているものという風に拡張すると、他者とは今見えていない、実感できないもの、それは不在ということになる。 過去の認識とは、とりもなおさず、不在への態度によって紡がれる。 屁理屈のような論理だが、実は人間は自分ひとりだけだと過去について証明できない。過去は人間の想起によってのみうかびあがるが、その想起自体は現在行われているゆえに、単純に過ぎ去ったものという感覚のみをまとった現在の運動なのである。 ジョージ・オーウェルの「1984年」にもあるように、過去の出来事というものは、他者が嘘をつけば簡単に改竄されてしまう脆弱性を持つ。 人間は忘れることができるため、実はそのことが起こっていなくても、起きたと多くの人に言われれば「自分が忘れているだけで起きたのかもしれない」と考えてしまう。 自分は忘れる可能性があるという経験が、過去に対する認識を押し広げる。つまり、過去を可能性の領域としてとらえるのである。そうとらえているからこそ、自分が見たことのない、実感したことのない人類の長い歴史を人は信じることができるのである。 人間は忘れるからこそ信じることできるのである。もう一つは、自分のいうことを信じてほしいという期待もあるだろう。先ほども述べたように、過去に起きたことは、厳密には自分一人では証明できない(このことは、多くの精神病の映画で扱われている。例えば、ビューティフル・マインドなどは最たるものだろう)。しかし、お互いその事実を二人そろって無視することによって、お互いを信じているのである。社会で日常的に行われている共犯関係を過去という不在に対する態度に拡張させたとき、人は過去を信じるようになる。そのような無意識の努力によって人は存在が証明されていない過去の存在を信じる。 哲学とは、このような確実ではないものを消去していく態度、デカルト的な態度であるように思える。確かに、それによって導き出された結論は嘘ではないが、その結論を引っ提げては社会という二人以上の人間のいる空間では生きていけない。しかし、今、時間にて証明された、不在への態度という人間的慣習は、時間のみならず、多くの人間行動の基礎に立つように思える。それは、人間の信じるという行動に重大な示唆を与えるものであるからである。人間は信じる生き物であり、まさしく信仰によって、人を殺しさえしてしまう生き物であるのは、こうした不在に対する態度が根本にあるのだと思う。時間論はまさしく、他者論でもあり、そこに深みがあるのだろう。

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    投稿日: 2016.04.11
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    通常殆どの人が想定する過去ー現在ー未来が一直線上にあるという見方がぐらつき、色々な場面で語られる時間に違和感を持つようになった。

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    投稿日: 2015.10.19
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    このレビューはネタバレを含みます。

    過去は今では存在しない、それではかつては間違いなくあったのか? 私自身も子どもから今にいたるまで、不思議な気持ちにとらわれることが多くあります。夢と人生、時間の短さと速さ、今は存在しない過去とは何で、現在とは何の繋がりが?そして未だ来ない未来は本当に来るのか?時間は未来から押し寄せてくるのか(ハイディガー)、過去から充ちていくのか(ベルグソン)?興味深いことを分かりやすく独特の考えで説いていきます。芭蕉「つわものどもが夢の跡」、邯鄲一炊の夢、荘子胡蝶などの文学にも言及し、私たち人間が昔から思ってきたことの普遍性もさりげなく触れてくれます。浅田次郎「活動寫眞の女」の不思議な世界を読んだ後でピッタリでした。

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    投稿日: 2013.08.25
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    読了日は判らないので古い日付で適当に。時間論にハマッていた頃、それ系の本を何冊か買ったうちの一冊。気になる箇所につけた折り目の数はたったの二。さほど心には響かなかったと思われるが、要再読。

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    投稿日: 2012.05.16
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    小難しい。フッサールやらマクタガートやら"~によれば"が多いため、背景知識がない自分は入り込むのが難しかった。教養をつけて、再チャレンジしたい。

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    投稿日: 2012.04.24
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    ハイデガーやフッサールを現在中心主義者,未来本物主義者と位置づけ,彼らの議論を退け,時間を哲学的に捉えるには過去中心主義であるべきと著者は主張する。時間を空間として捉える「時間の空間化」についても,著者は,ベルクソンの論を例に挙げ,「本当の時間」と「本当でない時間」を区別するのは「空間」ではなく,「心身問題のモデル」としての「想起」であると議論している。つまり,「時間=空間・場所」ではないのだ。時間の空間化を論じる個所では,半ば強引な形でフロイトとユングの「自我」や「超自我」が登場するなど,著者の議論は一貫してはいるものの,脱線が多い。しかし,著者の議論,そして根底にある主張は,繰り返すが首尾一貫しているので思惟のプロセスを辿るのは非常に興味深い体験だった。特に,「不在の態度」を通してのみ実在を直観するという主張,時間の感覚とは「客観的時間」と「印象時間」の間にある「ずれ」を認識するということ,それがひいては「過去時間を了解すること」に繋がることなど示唆に富む議論がみられる。時間を了解することとは,著者曰く,物理的事象を了解することではなく,意味的事象を了解すること。そこに至るまでの思考プロセスが巧妙で面白いのだが,更に肉付けする,つまり過去の哲学的思惟を行った他者の論考を数多く引用・解説するなどの試みが欲しいところだ。

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    投稿日: 2012.03.16
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    読んだキッカケ: 時間について考えてみたくなった。時間は、どうして無尽蔵にあるように感じてしまうのか。人生は短いんだよということを手に取るように実感できる方法はないものか?と本書では答えば見つからずに今も模索している。

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    投稿日: 2012.03.15
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    中島は、心身二元論の根本にあるのは、現在と過去との対立だと言う。これは、客観世界とは過去の集積であり、現在とは主観というところから理解できるように思われる。そしてこの二元論からすれば、自然とたどり着くのは、過去の否定であろう。還元すれば、現在中心主義である。自分は主観によって世界を認識している、それは現在である。だが、この認識ということすらも過去となりうる。そこにはタイムラグがある。だとすれば、純粋視覚やもっと簡潔な言い方をすれば直感至上主義となる。これは西田にも当てはまるだろうし、個人的には自分もここに含まれると思われる。この考え方の過去への姿勢として、過去はそのものとして思い出せないというところが挙げられる。過去を思い出すときは、文章的に想起される。なぜならば、そこにはそのとき感じた感情や感覚は伴わないからである。それは文章を読んでいるときのある種の淡々とした気持ちが伴うのである。だが、そこにも感慨や感傷と言った者は伴いうる。三木清は、過去とはすなわち感傷であると述べて過去を攻撃していたように思われるが、個人的にはそれに賛同したくもある。つまりここでいう過去とは感傷用に都合よく美化されたものとなってしまっている。そして都合の悪い部分は取り除かれる。取り除かれなければトラウマなどとして異常状態として定義される。ちなみに中島は時間の空間化をベルクソン同様に批判している。この空間化は、時間軸を連続性で捉えようとする在り方であり、とはいえ時間は実際にはこのように連続をしてなければ空間的でもない。むしろ、我々は生きていくために空間的な時間を無理やり取り入れている。それゆえに、「あっという間に終わってしまった」などといった感慨をもらすこととなる。とはいえ、中島はベルクソンのように「純粋持続」といった言葉でぼかすことも嫌がれば、過去を亡き者として現在中心主義へと進んでいくことに対しても、違うと考えている。中島はむしろ、過去こそが基軸となっているのではないか?と考えを進める。この取り掛かりとして、この心身二元論を用いる。つまり我々は過去=客観世界=不在の可能性が無ければ認識なんてものもできなければ見ることもできないのではないか?そして過去を語る場合には必ず現在が含まれる。そうしなければ過去は成立しえない。だとすると、無理に心身二元論へと分割すること自体がそもそもおかしいのではないか?現在と過去は不可分であり、我々が過去を語るには現在が含まれ、現在を語るにも過去が含まれる。それでは現在と過去との境界はどこに存在しているのか?それは我々が過去を想起するときであり、還元すれば文章化するときと言えると中島は考える。我々にとって認識することは文章化することであり、想起もイメージは浮かぶものの、そのイメージは文章を読む際のそれに似ていると中島は言う。実際はこれでは零れ落ちるものがあると思われる。イメージが浮かぶ際には、文章的なものと認識など無い視覚先行のものがあるわけで、それは夢に近しい。とはいえ、大森は過去を夢のようなものであり存在しないのだと述べている。大森からすれば夢とは文章なのであろう。その哲学観はかなり強烈な現在中心主義によって支えられており、それは更に言えば強烈な自我によって裏打ちされている。そういえば大森はヴィトゲンシュタインに影響を強く受けた独我論者だったそうなので納得がいく話である。さて、中島に戻るが、中島は結論としては上述したが、現在と過去しかなくて、それらは不可分の関係にあると述べている。我々は強烈な現在中心主義に陥りやすいが、しかし冷静に考えれば我々が捉える「今なるもの」は実は過去との区別においてしか生じないと中島は言う。このあたりは正直賛同しきれない。つまり、中島は直観を捨て去ろうとしているのだろうと思われる。直観によってぼかされるのが嫌なのだろう。それゆえに現在は過去によって認識される、と説明をつけているのだ。だが、これは説明に思われてならない。ちなみに未来について言えば、中島は未来なんてないとすっぱりと言ってしまう。我々が未来というものは、現在あれこれ先のことを考えているので現在に含まれる。レヴィナスやらハイデガーは未来に重きを置き、とりわけレヴィナスにいたっては絶対的他者、無として未来を表現しているが、彼らが言うところの未来は現在であり、彼らは無と言いながらも無以上の厚みをこめている。つまり現在をやせ衰えさえ、その分未来に可能性を託している。その内実は彼らが現在を分断させているだけなのである。また過去のA地点から過去のB地点を指して、「A地点から見てB地点は未来だった」と言うことはできるが、この文章自体が既に過去形となってしまっており、過去から延長された未来でしかなくこれはトリックであり実情はただの過去である、と中島は未来を跳ね除ける。この論調から言えば、中島は心身二元論に対しても実はそれらは不可分であり片方があるから片方が認識されるのだと考えているのではないかと類推される。ちなみに、中島の以上の時間論は、心理学的に言う大脳への蓄積とはいかなることか?といった問いであり、ある種の科学史観よりも更に一歩突き詰めようとする試みと言える。個人的には時間は二つあり、一つ目がカレンダー的な空間化された時間。もう一つは、主観的な時間。とはいえ、カレンダー的な空間化された時間も、人類という種によって構築された主観的な時間と言える。そのような意味で我々は人為的に時間といった概念を作り出している。我々が必要なのは結局のところ現在だけである。現在があれば生きていけるし、現在しか生きれない。その現在は無限の現在であり厳密には特定されえない現在でもある。現在がある以上、そこには過去が含まれる。未来は可能性として推測されうるものとしてしか存在せず、それは現在に推測されるという点で現在となる。さて、ここで時間は主観か?主観でないのか?このあたりは相対正論や量子力学を交えた上でのかなり高度な議論になりそうで今は手が出せそうもない。

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    投稿日: 2011.07.27
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    [ 内容 ] 過去は消え去り、未来は到来する。 過去―現在―未来という時間の常識的理解からは見えてこない「過去と未来の正体」を考究する。 [ 目次 ] 1 夢と人生 2 人生の短さについて 3 時間の速さとは何か 4 過去はどこへ行ったのか 5 過去はどこへも行かない 6 「死ぬ」時としての未来 7 現在という謎 [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]

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    投稿日: 2010.10.09
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    過去を考えるときは「今」であり、未来を考えるときは「今」である。結局ヒントは今にあると思う。過去や未来は幻想なのかもしれないと思った。過去、未来はクオリアなのかもね。

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    投稿日: 2008.10.30
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    第78回:振り返ってみた一年がとても短くて  1「夢と人生」〜...(07.12.27)

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    投稿日: 2008.01.21