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ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ
ダイアローグ――対立から共生へ、議論から対話へ
デヴィッド・ボーム、金井真弓/英治出版
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総合評価

36件)
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     集まって話し合いをするときや、何かを共同で行うとき、自由に耳を傾ける能力を「ブロック」 しているかすかな恐怖心や喜びを、一人ひとりが自覚できるだろうか? こうした自覚がなければ、話されたことすべてに耳を傾けろと命令したところで、何の意味もないだろう。しかし、コミュニケーションを実際に「ブロック」しているものに各自が充分に注意を払い、適切な態度で、 コミュニケートされている内容に参加すれば、何か新しいものを人々の間に創造できるかもしれない。個人や社会において、現在のところ未解決の問題に光明をもたらす、非常に意味あるものを作り出せるかもしれないのだ。  この「ダイアローグ」を「ディスカッション(discussion)」という言葉と比較してみよう。「ディスカッション」は「打楽器(percussion)」や「脳震盪(concussion)」と語源が同じだ。これには、 物事を壊す、という意味がある。ディスカッションは分析という考え方を重視する。そこにはさまざまな視点が存在し、誰もが異なった視点を提供している――つまり分析し、解体しているのである。それに価値がないわけではないが、限界があるし、多様な視点が存在する段階からさほど先へは進めないだろう。ディスカッションはピンポンのようなもので、人々は考えをあちこちに打っている状態だ。そしてこのゲームの目的は、勝つか、自分のために点を得ることである。 他人のアイデアを取り入れて役立てる、といったこともあるだろう―――誰かの意見に賛成したり、反対したりすることもあるかもしれない――だが、基本となる点は、ゲームに勝つことだ。それがディスカッションで最もよく見られる状況である。  しかし、対話では勝利を得ようとする者はいない。もし、誰かが勝てば、誰もが勝つことになる。対話にはディスカッションと異なった精神がある。対話では点を得ようとする試みも、自分独自の意見を通そうとする試みも見られない。それどころか、誰かの間違いが発見されれば、全員が得をすることになる。これは、お互いに満足のいくゲーム、と呼ばれる状況だ。一方、対話以外のゲームには、勝者と敗者が存在する――私が勝てば、あなたが負けるというように。しかし、対話には、ともに参加するという以上の意味があり、人々は互いに戦うのではなく、「ともに」戦っている。つまり、誰もが勝者なのである。  いわゆる「対話」と呼ばれているものの多くは、私がこの言葉を使う場合の性質を備えていないことがはっきりしている。たとえば、国連では頻繁に対話らしき行動がとられるが、非常に貧弱なものだ。人々が行っているのは、対話というよりはむしろディスカッションである。または、 取引とか交渉と呼んだほうがいいだろう。話し合いに参加している人々が、自分たちの根本的な想定を問題にすることなど実際にはない。彼らはさほど重要でない点について、取引しているだけである。たとえば、核兵器の保有を増やすか減らすか、という交渉のように。しかし、体制が異なる二つの国の全体的な問題について、真剣に議論されるといった場合はない。そんなことは話せないのが当然だと見なされている――話したところで、何も変わらないだろう、と。その結果、国連でのディスカッションは、真の意味で重大であるとは言えなくなる。いわゆる「ディスカッション」と呼ばれるものの大半が、さほど真剣なものではない。交渉の余地がないとか、触れられない、または口に出すことさえ望まれないといった、あらゆる事情があるからだ。そうした点が問題の一部なのである。  では、なぜ対話は必要なのか? 小規模のグループ内でさえ、人々がコミュニケーションをとるのは難しい。まして三十人か四十人、もしくはそれ以上の人がいるグループでは、目的が設定されるか、グループを率いる人がいない限り、コミュニケーションが困難だと思う人は多いだろう。これはなぜか? 一つには、誰もが異なった想定や意見を持っているからだ。そうした想定や意見は、単なる表面的なものではなく、根本的なものである。たとえば、人生の意味について、 あるいは自己の利益や国家の利益、宗教上の関心についてなど、人が本当に重要だと考えるものに関する想定なのだ。  こうした想定は挑戦を受けたとき、守りの姿勢に入ろうとする。人は自分の想定を正当化せずにいられない場合が多く、感情的に相手を攻撃することで、それを守ろうとしがちである。詳しくはのちほど論じるが、ここでは一つの例をあげておこう。数年前、イスラエルである対話集会が開かれたことがあった。政治について討論していたとき、話のついでにこう言った男性がいた。 「ユダヤ人とアラブ人の関係を改善する上では、ユダヤ主義がかなりの問題となっている。それが第一の障害だよ」。彼の語り方はとても穏やかなものだった。だが、そのとき突然、ある男性が自分を抑えられずに立ち上がった。ひどく感情的になっており、血圧は上がって、目が飛び出しそうだった。彼は言った。「ユダヤ主義がなければ、この国はめちゃくちゃになってしまうんだ!」  この男性には根本的な想定があったし、もう一人の男性にはまた別の想定があった。この二つの想定は真っ向から対立するものだった。となると、「どうすればいいのか?」という問題が生まれてくる。こうした想定によって、あらゆる政治的な問題が世界中で起きている。私がここで述べたケースは、政治上で対処せねばならない想定のいくつかに比べれば、比較的簡単なほうである。大事なのは、誰もがさまざまな種類の想定を持っている、ということだ。それは政治や経済、宗教の問題にとどまらない。人が何をすべきか、人生とは何かといった問題などにまで及ぶのである。  こうした想定を「意見」と呼ぶこともできるだろう。意見とは、つまり想定なのだ。「意見」という言葉は多様な意味で使われている。たとえばある医師が意見を提示したならば、それは患者の症状から判断して、彼には最も考えられる想定を意味する。医師はこんなふうに言うだろう。 「そうですね、確信は持てません。ですから、別の医師の診断(セカンド・オピニオン)を求めましょう」。その場合、彼が優れた医師なら、自分の想定を守ろうとする行動はとらないはずだ。セカンド・ オピニオンが自分の診断と違えば、その医師はユダヤ主義について質問されて感情的になった、 先に登場した男性のような行動はとらず、このように言うだろう。「どうしてそう判断できるのですか?」。この医師の意見は、理にかなった意見の一例である。しかし、そうした振る舞いができない人は多い――大半の人は強い反発を示して、自分の意見を守ろうとするものだ。別の言い方をすれば、人は自分自身と、自分の意見とを同一視する。人の意見は、自己の利益への投資に縛られているのである。  要するに、想定の裏にあるあらゆる圧力を、対話は検討しなければならない。想定そのものだけでなく、その陰に存在する思考プロセスまで調べる必要があるのだ。  さて、社会における我々の通常の思考は、「一貫性のない」ものと呼んでもいいだろう。それは対立し合ったり、互いに打ち消したりする思考とともに、あらゆる方向に向かっている。しかし、人々が「一貫性のある」方法でともに考えるようになれば、驚異的な力が生まれるだろう。それが私の提案である。対話できる状況――かなり長い間、対話に取り組んでおり、人々が互いに懇意になっているグループなど――であれば、思考やコミュニケーションはコヒーレントな動きができる。それは人が認識しているレベルにおいてだけでなく、暗黙のレベル、つまり漠然としか感じていないレベルでもコヒーレントなものだろう。その点がより重要である。 「暗黙」という意味は、言葉に出されないとか、表現が不可能だとかいうことだ――自転車に乗るために必要な知識のように。それは事実上の知識であり、コヒーレントなものかもしれないし、 違うかもしれない。思考とは実のところ、鋭敏な暗黙のプロセスのことを指すと、私は提案したい。考えることの具体的なプロセスは非常に暗黙的なものである。基本的に、その意味は言葉に表されない。そして明確に言い表せるものは、意味のごく一部にすぎないのである。このような暗黙の知識によって大半の行動をとっていることに、誰もが気づいていると思う。思考は暗黙の領域から生まれてくる。そして、思考におけるあらゆる根本的な変化が、暗黙の領域から現れるだろう。そのため、暗黙のレベルでコミュニケーションを行っているとしたら、思考は変化しつつあるかもしれない。  暗黙のプロセスは人に共通である。それは共有するものだ。この共有とは、単に明確なコミュニケーションや、ボディランゲージなどを指すのではない。確かにそうしたものも一部だが、人に共通の、もっと深い意味での暗黙的なプロセスが存在するのである。百万年の間、全人類がこの点を知っていたと私は思っている。その後の五千年にわたる文明の中で、我々は暗黙的なプロセスを失っていった。そのようなプロセスを行うには、社会が大きくなりすぎたからである。だが、コミュニケーションをとることが急を要するようになった今、もう一度それを始めなければならない。必要なことを賢明に実行するには、意識を共有し、ともに考えねばならないのだ。対話グループで繰り広げられることに取り組み始めれば、社会全体における現象の、核心めいたものをつかめるようになるだろう。自分一人ではそうした核心をかなり見落としかねない。一対一の対話をした場合でさえ、正確にはつかめないものである。  実を言えば、我々が論じてきた問題はどれも基本的に、この自己受容感覚の欠如が原因である。想定を保留状態にする目的は、自己受容感覚を可能にするのを助けるためだ。自分の思考の結果を見ることができる、一種の鏡を作り出そうというのである。人は自分の中にも鏡を持っている。 人の体はいわば鏡として働いており、体内に緊張が生じた場合、それを見ることができるからだ。 他人もまた、鏡としての役割を果たしている。グループも同様である。人は自分の意図に気づかねばならない。それができれば、何かを言いたい衝動に駆られたのとほぼ同時に、言った場合の結果がわかる。  もし、誰もが注意を払い続けているなら、人々の間に、もしくは個人の中にすら、自己受容感覚を備えた新しい種類の思考が生まれるだろう。そして、思考がたいてい陥りがちな混乱に陥ることはない。つまり、自己受容感覚のない状態にはならないのである。人類の問題はすべて、思考に自己受容感覚がない事実が原因だと言っていいほどだ。思考は絶えず問題を生み出し、それを解決しようとしている。しかし、問題を解決しようとして、さらに悪化させてしまう。というのも、問題を作り出しているのが思考そのものだと気づいていないからだ。そこで、考えれば考えるほど、さらに問題が発生する――思考が自分の行動に対して、自己受容感覚を働かせていないせいである。もし、体がそんな状態なら、たちまち厄介なことになり、長くはもたないはずだ。 仮に、我々の文化が同様の状態なら、文明もやはり長続きしないだろう。このように、違う種類の意識を集団が生み出すのにも、対話は役に立つのである。 対話では、人を納得させることや説得することは要求されない。「納得させる(convince)」いう言葉は、勝つことを意味している。「説得する(persuade)」という語も同様である。それは 「口当たりのいい(suave)」や「甘い (sweet)」と語源が同じだ。時として、人は甘い言葉を用いて説得しようとしたり、強い言葉を使って相手を納得させようとしたりする。だが、どちらも同じことであり、両方とも適切とは言えない。相手を説得したり、納得させたりすることには何の意味もないのだ。そうした行動はコヒーレントなものでも、筋の通ったものでもない。もし、何かが正しいのであれば、それについて説得する必要はないだろう。もし、誰かがあなたを説得せねばならないとしたら、おそらくその人間はなんらかの疑念を抱いているはずである。  誰もが意味を共有できるならば、それはともに参加していることになる。共通の意味を分かち合うわけである――食物を分かち合うのと同じように。我々は関わりを持ち、コミュニケーションをとり、共通の意味を作り出す。それが参加するということであり、「ともにする」とか「加わる」という意味でもある。こうして参加することによって、共通の考え方が生まれるが、これは個人を排除することにはならない。個人はそれぞれ別の意見を持っていて、そうした意見が徐々にグループの一部にもなっていく。  要するに、誰もがかなり自由な存在である。意味の共有という考え方は、集合意識に支配されている暴徒のものとは違う――まったく異なっているのだ。それは個人と集団との間に存在するものであり、そこを動き回ることができる。そして個人と集団との調和を取っている。その中ではすべてがコヒーレントに絶え間なく動いている。つまり、集合意識と個人意識という、二つの意識が存在し、その両者の間をあたかも川の流れのように意味が流れているのだ。したがって、 意見というものはあまり重要ではない。最終的に、すべての意見からどれかを選択することになるかもしれないが。やがて、我々はそうした意見を超えて、別の方向へ、つまり創造的な新しい方向へと動き始めるのである。  鋭敏さとは、何かが起きていることを感じ取る能力だ。自分の反応の仕方や他人の反応の仕方を察知し、ごくわずかな相違点や類似点に気づくことである。こうした点をすべて感じ取るのが認識の基本なのだ。この感覚があれば情報は得られるが、そのためには細心の注意を払わなければならない。たとえば、とてもよく知っている人と通りですれ違った場合、あなたは「彼に会った」と言うだろう。しかし、その人がどんな服を着ていたかと尋ねられれば、答えられないかもしれない。というのも、本当の意味では見ていなかったからである。あなたはその知人に会ったことに対して、敏感ではなかったのだ。思考というスクリーンを通して相手を見ていたからである。そうした態度は鋭敏と言えない。  つまり、鋭敏さにはさまざまな感覚と、それ以上の能力とが求められている。感覚とは自分が反応する事柄に敏感であることだが、それだけでは充分でない。感覚は何が起きているかについて教えてくれるだろう。それから意識は、起きている事物を一つにつなげるために、なんらかの形を作るか、ある種の意味を作り出さねばならないのだ。したがって、意味とは、起きていることの一部なのである。あなたは意味に敏感かもしれないし、意味が見落としたものに敏感かもしれない。そう表現したければ、意味の認識と呼んでもいい。別の言い方をすると、意味とは、より繊細な認識のことである。起きている事柄を一つにつなげることなのだ。私が前に言ったように、それは「セメント」である。意味は静的なものではなく、流れている。もし、共有された意味があるなら、それは我々の間を流れ、グループを一つに結びつけるだろう。そのうち、自分の心の中で起きていることに対してだけでなく、グループに行き渡っているあらゆる微妙な意味合いに、誰もが敏感になる。そこから、意味の共有が形作られる。そうすれば我々は、コヒーレントに話したり、ともに考えたりできる。だが、総じて人は自分の想定にしがみついているため、 ともに考えることができない。一人ひとりが勝手に思考しているのだ。  鋭敏さの障害となっているものは、自分の想定や意見を守ろうとする行為である。しかし、あなたが自分の意見を正当化しているとしたら、自分を批判して、「正当化すべきではない」などと言わないだろう。むしろ想定や意見を守っていると、それについて――その中にあるあらゆる感情や、すべての細かい意味合いについて――敏感でいなければならないと思うのが事実のはずだ。我々は、人を非難したり、批判したりするようなグループ作りを目標としているわけではない。そうした行動が障害になることは、誰でも理解できる。そこで対話グループでは、人を非難したり、批判したりしないことを目指している。あらゆる意見や想定を考え、それを表に出すだけである。そうすれば、そこになんらかの変化が起きるのではないかと私は思っている。 「存在すること」は何かと関係することだと、クリシュナムルティは言った。だが、関係とは、 非常に痛みを伴うものになりうる。クリシュナムルティはこう述べた。あなたはあらゆる心理過程を考え、探り、そして克服せねばならない。そうすれば、何か他のものへ通じる道が開かれる、と。そのような事態が対話グループにも起こりうると私は思う。いくぶん苦しむ者もいるだろうが、すべてをうまくやり遂げなければならないのだ。  かつて、スウェーデンで対話集会を行ったとき、グループが二つの派閥に分かれたように見えたことがあった。「ニューエイジ」の人々が大勢おり、最初から、愛の美徳やら、この地には愛があふれているといったことやら、あらゆるところに愛があるといった話をし始めた。グループの残りの者たちはしばらく黙っていたが、次の一時間は口をききだした。彼らは、愛の話などすべて感傷的なナンセンスで、何の意味もないとほのめかした。あまりにも感情を高ぶらせて自制できなくなり、部屋から出ていった男性もいた。やがて彼が戻ってくると、ようやく全員がまた揃った。グループは真っ二つに分かれていたが、それは珍しくもない問題だった。二派に分かれていることに気づいたある人が、多少のユーモアを込めてこう言った。「ここには二つのグループがありますね。愛のグループと憎しみのグループとが」。その言葉で緊張状態は少し緩み、二つのグループの者たちはまともに話し始めた。必ずしも相手を説得することにはならなかったが、 彼らは互いの見解の意味がわかるようになった。そして、この両極に分かれていたグループが話し合うことが可能になったのである。  さて、彼らが互いを説得したかどうかよりも、話し合えたことのほうが重要だ。何か違うものを生み出すためには、それぞれの見解を捨てなければならないと、気づいたのかもしれない。愛を好む人がいれば憎しみを好む人もいたとか、疑り深くて慎重でいささか皮肉屋であることを好む人もいたとかいった事実は重要ではない。実のところ、一皮むけば、誰もがみな同じだったのである。どちらの側も頑なに自分の見解にしがみついていたからだ。したがって、その見解に妥協の余地を見いだすことが、鍵となる変化だった。  概して、自分の意見を正当化している人は、深刻になっていないと言っていい。自分にとって不愉快な何かをひそかに避けようとする場合も、同様である。人生の大半は深刻なものと言えない。人は社会からそう学んでいる。あまり深刻になるべきではない、と――インコヒーレントな物事はいろいろとあるが、それについて打つ手は何もないため、深刻になって動揺しても仕方ないということを。  だが、対話では深刻にならねばならない。さもなければ対話ではない――私がこの言葉を使っている意味での対話とは言えないのだ。フロイトが口蓋の癌に侵されたときの話をしよう。フロイトのもとへやってきて、心理学におけるある点について話したがった人がいた。その人はこう言った。「たぶん、話などしないほうがいいのでしょうね。あなたはこれほど深刻な癌に侵されているのですから。こんなことについてお話したくないかもしれませんね」。フロイトは答えた。 「この癌は命にかかわるかもしれないが、深刻ではないよ」。言うまでもなく、フロイトにとっては単に多数の細胞が増殖しているだけのことだったのだ。社会の中で起きていることの大半はこんな表現で言い表せるだろう―――それは命にかかわるかもしれないが、深刻なものではない、と。  とはいえ、個人や社会の生活に秩序を作ろうとするあらゆる活動をもうやめるべきだとか、一般的な難題を終わらせることを妨害する、心の中の無秩序に目を向けるべきだとか、言っているわけではない。むしろ、人の内部における活動と、外部的な活動とは協力して進んでいくだろう。 だが、この点は心に留めておかねばならない。つまり、何世紀にもわたった習慣や条件づけがあるため、人は一般に「基本的に、私たちは正しい」といった態度をとるということだ。そして通常の場合、我々が抱えている困難は外部に原因があると考えられ、それは「問題」と見なされている、ということも。自らの内面に秩序が存在しないとわかったときでさえ、何が間違っていて、 何が自分に欠けているかをかなり正確に指摘できる、と人は考えがちである。まるでそうした間違いや不足は、誤りを正すという「問題」を形作る思考活動とは異なったものか、別個のものだと言わんばかりに。  しかし、ここまで見てきたように、人が自分の「問題」であるとか、社会的な「問題」であるとか考える思考プロセスそのものが、考えた内容によって条件づけられ、コントロールされているのだ。だから一般的に、こうした思考は自由ではなく、実際には正直なものですらないと思われる。そのため、求められているのは深遠で真剣な覚識である。それは想像を上回るものであり、 混乱した思考プロセスを知的に分析し、また、混乱が生まれる原因となった、矛盾する前提や心の状態を見抜く能力を備えたものだ。そのようなアウェアネスがあれば、バラドックスの多くを理解する用意はできたことになる。こうしたパラドックスは日常生活や、もっと規模の大きい社会的関係において姿を現し、やがては一人ひとりの「最も深い部分にある自己」を構成していると思われる、思考や感情の中にも現れるだろう。  したがって、日常生活を申し分なく、完全に続けていくことは必要だが、次の事実には真剣かつ注意深く関心を払い続けてほしい。すなわち、何世紀にもわたって条件づけられてきた心の大部分が、パラドックスにとらえられる傾向があり、結果的に現れた難題を「問題」として考える間違いを犯しがちだということである。

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    投稿日: 2025.10.04
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    実務家が書いた壁打ちの本を読んだので、次は学者が書いたものを読んでみた。デヴィット・ボームという物理学者が対話について書いた本。対話に必要なことは、巧みな話術ではなく、相手と干渉しあう性質のものであると事前に理解しておくこと。つまり、自分の意見を押し通すのではなく相手の意見を受け入れる準備をしておくことである。必要なのは「意味=文化」の共有であり、そこから新しい価値を生み出すこと。ゆえに、何かに束縛、固執するのではなく、自由でなければならないし、創造的でなければならない。全体的な真実はないことを理解し推しはかる鋭敏さがなければならない。お互いが解決しなければならない「問題」の語源は「前に投げる、前に進む」と同義であるという。また、「参加する」の語源には、「分かち合う」という意味もある。初版は2007年だが、分断が進んでいると言われている今こそ、リーダーたちには読んでほしい。

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    投稿日: 2025.03.16
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    メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1827295105335881770?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw

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    投稿日: 2024.08.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ・対話とは、共通理解を探し出す行為 ・古い脳が主に活動しているのは現在に関してであり、本質についてではない。新しい脳は主に本質に関する活動をしている。 ・参加型思考と具体的思考

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    投稿日: 2024.01.06
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    人とのやり取りになやんでる方 対話とは相手を説得するのではなく、共通理解を探し出す行為 詳しくはこちら https://takeoido.hatenablog.jp/entry/2023/06/17/200000

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    投稿日: 2023.04.28
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    230415021 なぜ人は対立するのか。対話とは共通理解を探し出す行為だと理解できれば、議論とは違うということを認識できれば、分かるのだろう。 サステナブルという言葉を目にすることが多い現代において、対話の重要性は増している。

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    投稿日: 2023.04.15
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    約2ヶ月かけた読書会で読了。以前ABDでも読んでるので2度目。 「対話的なもの」を大切にするなら一度は読みたい本だがわかりやすい本ではないし、後から一冊にまとめた本なので体系的でもない。それこそ本書を題材に「対話とは何か」を対話するところからがスタートな気もする。 対話的な手法を活用しつつ二回読んでもなかなか難しい本書ですが、特に後半で語られる「参加」や「思考」「意識」「感情」など抽象的に話が広がったり深まったりした部分を他の方との対話の中で考えるヒントをつかめた気がする。「保留」の重要性や「(思考の)プロセス」、相互性の重視などは(國分功一郎先生の『中動態の世界』で語られていた)中動態的な態度や考え方に通じる部分もあるように電撃的に直感して、ひさしぶりに思考を深めたい方向を強く感じた。まだうまく言語化できないけど、また色んな本を参考にしつつ考えていきたい。

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    投稿日: 2022.12.04
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    例え話が極端に少ない、もしくは分かりづらいものが多く、抽象度の高い難解な本であろうと思います。 今回、私はペア読書という3,4人で1ヶ月かけ、1日10ページ程度に区切って、読んで、その箇所の感想や質問をしながら、少しずつ読み進めるという方法で読みました。まさにその場は、ダイアローグという形で、難読書ながらも共通理解を得ようとした試みでした。その記録を少し残したいと思います。 コミュニケーションの語源は何かを共通のものにすること。対話は言語を通じて、共通認識を作り上げる行為。 現在の社会では、あらゆる対立、議論、説得に基づくコミュニケーションがなされ、共通のものが作られずインコヒーレントな状態を作り出し、あらゆる地球上の問題の原因となっている。そのカウンターとして、共通理解を作り出す対話が重要である。 著者によると、思考とはその人の描写(思考の前提となる、人生経験、知識、価値観、信条など)から提示(意見や感想など)を作り上げる行為。冒頭イスラエルであった対話集会の話のように、提示で対立が生じた場合は、恐怖、不安、怒り、暴力のような感情は一旦保留し、相手の描写側にアプローチすることが大切。 個人的には、社会システムの変化や技術の進歩により、マズローの5段階欲求の低次から高次側への遷移が起きてきた。低次側では生きのびることが目的である一方、高次ではどう生きるかが大切になる。その中で、あらゆる価値観や生き方が必要とされ、それらの間で対立が生じやすく、インコヒーレントな状態になっていると著者は指摘していると感じた。個人は全体の一部であることを想起し、著者の提案する対話を実践していく必要があると思いました。 また、後半に載っている自己受容感覚の喪失した女性の話やイヌイットのアザラシのような数少ないメタファーはどれも印象深かったです。

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    投稿日: 2021.12.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    タイトルから期待していた内容と違くて、あまりすっと入ってくる本ではなかった。 要するに、個人は集団からの影響を受けながら自分の想定、つまりバイアスや思い込みを持っている。それを自覚していることがまずは大事なのではないか。その上で、目的のない対話をすることによって、共有される意味の流れを見つけ出す。 それが「断片化」されている社会をつなぎ合わし、機能させるために重要だ。 ということを伝えたい本何なのかなぁと思った。 日本的な感覚として『空気の研究』という本を思い出した。

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    投稿日: 2021.05.03
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    デヴィッド・ボームは、アインシュタインと共に研究をしていた20世紀を代表する物理学者の一人ですが、そんな人が晩年に提唱したのが「On Dialogue」,「対話」でした。 * 彼のいう「対話」をまとめてみると、参加する人々の背景に小川のように存在する「意味」の流れを汲み取りながら、「想定」(バイアスのようなもの)にとらわれずに、新たな意味をつくりあげる営み、という感じでしょうか。 * 私は大学生の頃からファシリテーターのような役割を経験してきましたが、2013年頃にこの本を読んでから、姿勢が変わったように思います。なんというか、本当に、話し合いの場に参加するときには「小川」をイメージすることから始めています。 * 7年以上経ったいま、読み直してみましたが、うなずきが止まらないというか。熟練のファシリテーターにとっては当然のことが滔々と書かれている本だと思いますが、何度読んでも色褪せない、原点回帰できる本だと思いました。 * 人々の行動や発言の背景には必ず、ボームのいう「想定」があると思います。人々が個別にもつ「想定」をぶつけ合い、それを認めさせようとする話し合いはディスカッションであり、それは対話とは明確に異なるものである、とボームはいいます。 * そうではなくて、対話にはそもそも、特定の目的や議題などは存在しない。お互いがもつ想定の意味(どうしてそう思うのか?)を導き出し、共有し、(小川の流れに意見を乗せていくように)その意味をつなぎ合わせながら、そのグループにおける新たな意味をつくりあげること。 * いわゆる「ブレインストーミング」と呼ばれる場で、おしゃべりな人がバババーっと喋ったことがそのままグループの意見になることや、付箋に書かれた意見を見た目だけで機械的に並び替えて「グルーピング」して「グループの意見がまとまりました」ということがたまにあります。 * というよりは、「どうしてそう思ったのか」「それについて、あなたはどう思うのか」を(もちろん、言葉による発言を強要するのではなく、その人に合う表現方法で)導き、つないでいく、という感じかなあ、と。 * 無目的、かつ言葉の意味を拾いながら雑談する場を大切にしたいものですね。

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    投稿日: 2021.01.26
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    ただ話す場を継続的につくってみようかなという気持ちになった。この本でいうところの対話グループ、インコヒーレントからコヒーレントに向かう場、何も起こらなかったり単に同調したりするのではなく、対話をしたことによって何らかの変化(干渉の結果)が起こる場を体験してみたい。

    1
    投稿日: 2020.03.15
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    ディベートできないようでは、子供のチーム。しかし、ディベートだけで物事を決める組織文化は、寒々しいし、人には感情があることを考えればベストなものとはいえない。そこで提案されるコミュニケーションスタイルがダイアローグである。この主張はある程度は納得できるが、実践は非常に困難であると思われる。まずは、ディベートできるチーム作りが肝要かと思う。

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    投稿日: 2018.10.23
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    "物理学者のデヴィッド・ボームさんが「対話」ダイアローグに焦点を当てた本。人間はとかく、自らの主張というものを守ったり、押し通したりしがちだ。そこから、より俯瞰した高次元に意識を持っていって、社会、世界全体を連続性を持って見る必要がある。この連続性(著者はコヒーレントという言葉で表現している)が大切で、連続性のないものでは、不毛な争いを避けて、全員が望む未来を作れない。 ダイアローグを通じて、我々は多くの人が望む未来を作ることができるはずだ。国家、社会、人種、個人を超えて、より高次の視点を我々全員が共有する必要がある。"

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    投稿日: 2018.10.20
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    カバーの色が黒と白で、同時発売のジャウォースキーの「シンクロニシティ」と対になっている「コミュニケーション論の名著」だそうだ。 著者は、物理学者のデヴィッド・ボームで「シンクロニシティ」にも、印象的に登場している。「シンクロニシティ」が、個人的な経験談、自伝であるのに対して、こちらは対話に関する理論的な考察で、かなり難しいというか、読みにくい。 物理学者による対話論ということで、まずイメージしたのは、ニルス・ボーアなどのコペンハーゲン学派が、自由な対話、議論ということを重視していて、その自由な風土は、さまざまな物理学の研究所の模範とされた、といったところ。しかし、この本には、そういう話はほとんど出てこない。でてくるのは、そのボーアとアインシュタインが、お互いに理解しあうことができず、次第にお互いに嫌い合うようになった。つまり、対話が成立していなかったという悪い事例だけ。 で、この本になにが書いてあるかというと、まずは、対話のやり方、始め方みたいな手法論から始まるのだが、最後のほうでは、なぜ、対話が重要なのか、なぜ対話がなりたちにくいのか、進化論とからめた大脳生理学とか、観察者は観察物に影響を与えるといった観点とか、私たちの思考は精神的なものではなく、物質的なプロセスであり、より大きなものの一部である、など、最近の私の関心事(=ポジティブ心理学、大脳生理学、量子力学、スピノザ、人類学)に近い哲学的主張となって、エキサイティングだった。 とはいっても、やっぱり難しくて、到底、分かったとは言いがたい。とくに、前半の手法的な部分には、なんだか著者独自の理想的な状況が前提としたうえでの議論になっているような気がする。 具体的な方法論として、「使える」感じはすくない気がする。 あと、この本は、エッセーやレクチャー、即興のコメントなどを編集したものらしいけど、それぞれの章が、いつどこで発表されたものなのか、が分からないのもやや気になった。編者のイントロダクションによると、この本の各章の書かれり、話された時期は、1970年代の初めから1990年代のはじめまでと幅があり、ボームの語っている社会的な問題を理解するときのコンテクストとして、「いつ」というのは、結構、大切な気がした。 「対話の目的は、物事の分析ではなく、議論に勝つ事でも意見を交換する事でもない。いわば、あなたの意見を目の前に掲げて、それをみることなのである」 ここのところは、やっぱ肝かな?

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    投稿日: 2017.04.30
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    最近自分の「対話力」が低下しているのではないかとの危機感から、4年ぶりに再読。単なるディスカッションではなく、Win-Winを実現するための「対話」に必要なスキルとプロセスを解説した一冊。 人は自分が所属する社会・集団の中で身につけた「思考と感情」により、事実をありのままに見ているつもりでも無意識の「想定」を行っており、他人が異なる「想定」から述べた意見に対して「守り」の姿勢を取ってしまうことが、対話を阻む障壁となる。著者はその背後に、現代社会に浸透した「科学的思考」があり、人々が”唯一絶対の真実”を追求する姿勢が社会の「断片化」を招いたのだと指摘する。 これらの課題を克服して「対話」するためには、一切の判断や行動を「保留」し、自己の感情をひたすら観察することにより、自分の「想定」を意識するとともに、科学的思考の対極である「参加型思考」を用いて、自分も相手もより大きな「全体」の一部であると認識する必要がある。「勝ち負け」を競いがちな文化とは真逆の価値観を組織的に許容することの大切さと難しさを再認識することとなった。

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    投稿日: 2015.06.08
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    邦訳のサブタイトル『対立から共生へ、議論から対話へ』というのが、本書を平易なものだと勘違いさせる原因になっているのではないかと思います。 自身の知識と読解力の貧弱さを棚に上げて…というのは気恥ずかしいですが、それでもやっぱり生易しい内容の論文ではありません。 物理学者という背景が、文章を複雑にしているのでしょうか? 内容も、断片化や論理性の重視を否定する一方で、本論では対話の過程を細分化して論理的に考察しているようにも思えたり。 とにかくそんなことは置いておいたとしても、これは難解な一冊です。 全体の十分の一も理解できていないのではないか、と残念な気持ちです。 通常、目次を見れば大筋を把握できるものだと思いますが、いかがでしょうか? 各章でなにが語られようとしているのか、ちっとも想像できないでしょう。 ただし、様々な名著の下敷きになっているこの主張が理解できるよう、今後も再読を重ねていこうと思います。 <目次> 1 コミュニケーションとは何か 2 対話とは何か 3 集団思考の性質 4 問題とパラドックス 5 見るものと見られるもの 6 保留、肉体、自己受容感覚 7 参加型思考と無限

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    投稿日: 2015.02.09
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    もし、量子力学のシュレーディンガーの猫とアジャイルマニフェストの「プロセスやツールよりも個人と対話を」に興味を持ったのであれば、この本はオススメ。

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    投稿日: 2014.08.07
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    自分には難解すぎた。 本によると、以下の引用のように、 「思考」の機能がさまざまな対立の原因である。 『人が持っているさまざまな意見が、過去の思考の結果だという』 『思考は結果を生み出すが、そのあとで、自分はそんなことをしなかったという』 『人類の問題はすべて、思考に自己受容感覚がない事実が原因だ』 このような思考の弊害を避け、物事の真の意味を把握するため、 「対話」という手法を提案している。 しかも対話では、一般的な会議、議論とは違って、 問題意識や目的を持たないで行う必要がある。 もちろん、無意味におしゃべりをして時間を浪費するのでもない。 対話の後ろを流れている共通の意味を探るのだ。 ということを書いている気がするのだが、 全く分からない文もあり、ちゃんと分かっている自信がない・・・ ボーム博士の別の著書を読みたい。

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    投稿日: 2013.07.23
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    (引用メモのみ) ・大破は、意識それ自体の理解を目的としたもの。日々の人間関係やコミュニケーションにおいて、問題がある性質を探るのと同様に。 p.24 ・対話における「聞くこと」は対話プロセスの中でしばしば誤解されている問題だ。対話における「聞くこと」とは、グループのメンバーの言葉や意図に徹底して注意深く、共感的な態度で接することを意味する場合が多い。 ・対話の狙いは、全体的な思考プロセスに入り込んで、集団としての思考プロセスを変えることにある。。これまでは思考をプロセスとみなす考え方に、あまり注意が払われなかった。思考には謹んでも、その内容だけに注目し、プロセスに関心を向けなかったのだ。p.49 ・社会とは、人がともに暮らせるように、人々と制度とを結びつけるものだ。しかし、社会がうまく機能するのは、文化が存在するときだけである‐そこには意味の共有が含まれている。すなわち、意義や目的、価値を共有するということである。そうしたものがなければ、社会は崩壊してしまう。 pp.67^68 (まっちー)

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    投稿日: 2013.06.28
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    コミュニケーションでの対話の重要性。 対話とはリーダーを置かず話題も決めずに話し合うこと。 対話では必要性を考えていくことで余分な反論がなくなり対立がなくなる。コヒーレント(一貫性のある)、意味の共有、思考における共通意識、暗黙的対話。 ダイアローグ(対話)とは、共通認識を高めることを目的としている。 解決の性質を持ったなにかから始める。 集団的描写の変化が必要。 全体的に、内容の難易度が高く理解するのに手間取った。

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    投稿日: 2013.06.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「学習する組織」のチーム学習の元になった書籍。知識を増強するために読んだ。 後半は、哲学的な内容になっている。

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    投稿日: 2013.04.03
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    一応の読了。 対話とは、各自の意見を持ち寄って確認すること、自分の意見に固持して対立するのではなく、お互いの意見の意味を確かめること。 ”コミュニケーション”の定義を「意味の共有」だと言う場合がありますが、その意味では対話の視点はコミュニケーションに欠かせないものだと感じました。ちょっとこじつけ過ぎでしょうか。 対話をしようとしても、対話をぶち壊す人間(例えば自分勝手に仕切り出してしまう人間)が居る場合どうしたらよいのでしょうか。著者は「それでも対話をすべきである」と言いますが、それは全員が「対話の姿勢」と言う共通の価値観を身に着けていないと難しいことです。 ただし、訳がちょっと分かりづらいのは、原文に飛び交う専門用語と訳者が格闘した跡なのか、そもそも原文自体が読みづらいということなのか・・・。

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    投稿日: 2012.11.06
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    対話の方法論ではない。世界観の話。正直、難しかった。特に後半は。分かったような分からなかったような。。表現を変えるなら、偉大な画家の描いた絵画を見たような感じ。機会があればまたあらためて読み返してみたい。

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    投稿日: 2012.11.05
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    本書によると、対話とは、共通理解を探し出す行為で、対話のビジョンとは、誰もが同じ立場にいること。ディスカッションと違って、物事の分析ではなく、議論に勝つことでも意見交換することでもなく、様々な人の意見に耳を傾け、それを掲げてどんな意味なのかをよくみること。 もともと、ディスカッションという言葉は、打楽器や脳震盪と語源が同じで、ものごとを壊す、という意味があり、ディスカッションとは、分析、解体作業を意味するらしい。 このあたり欧米人にはイメージつきやすいかも知れないが、対話やディスカッションに慣れ親しんでいない大半の日本人にはちょっと想像つきにくいのではないだろうか・・・また、対話についてはワールド・カフェで体感する方がわかりやすいかも知れない。 深く読み込む前に、内容が結構学術的で難しかったので、予備知識程度でしか吸収できませんでした。機会があれば、いずれゆっくり読んでみたいと思います。

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    投稿日: 2012.10.28
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    現在はネットを通じて、コミュニケーションツールが充実しているにも関わらず、 戦争や格差などで見られるコミュニケーション不全。 改めて「対話」の定義付けを行い、重要性をうたっている本。 概念的な内容で、正直ほとんど理解出来なかった。 おそらく専門用語を多用された原書、そしてその訳書という点も、 内容を難しくしている一因。 はじめのイントロダクションを難解だと思わずに読める人だけにお勧め。

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    投稿日: 2012.10.06
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    何世紀にも渡って条件づけられてきた心の大部分がパラドックスにとらえられる傾向があり、結果的に現れた難題を「問題」として考える間違いを犯しがちである。 観察者が目を向けるべき間違った点は、まさに本人の中に存在する。 ルーマンの自己記述にもつうじる「自己受容感覚」 インコヒーレンス:意図と結果が噛み合ない事 コヒーレンス:一貫性 両方必要、完全はあり得ない コヒーレントを人は好む(真実、や信念にも似た感覚?) 現代/単にコヒーレントを強要使用しようとするだけで、インコヒーレンスを探して取り去ろうとはしない。→インコヒーレンスがさらにひろがる。 終わった思考は消えるのではなく折りたたまれる。 自然/母の有限性 コミュニケーションは人対人だけでなく、科学者であれば自分対学問ということもありえる。 最終的には自分以外のものを通して自分の内部の自分が気づけていない部分に気づかされる事が必要だという事がいいたかったのだろうか。 社会秩序維持のための「仲良し」神話の副作用として、それが強ければ強いほど、現代ではどんどん人間嫌いが増えているのではないか?(秩序維持のためのコヒーレンスの押し付けによるインコヒーレンスの増大) そういった中での対話機会というのはもしかしたら想像しているものとは形態が違うかもしれない。何かのメディアを通したものである可能性も高いし、二者関係だけではない気がする。

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    投稿日: 2012.07.26
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    コミュニケーションの本であるが、コミュニケーション術には殆ど触れられていない。 自分の内面を知る事と対話の必要性を説いた本である。 これは実践が必要だ。社会をより良くするための力になる。

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    投稿日: 2011.01.02
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    http://umagoon.blog17.fc2.com/blog-entry-1108.html

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    投稿日: 2010.10.01
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    ORF2008の概要文を書くときに引用。知識の断片化の問題。「破片」か「部品」か。「本来なら適合し、一つにまとまるはずのものが、そうではないような扱いをされている。…」

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    投稿日: 2010.08.18
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    対話と議論は異なる。 議論は勝ち負けをつけるものであるが、対話は全員が得をすることだ。 レーザー光線はコヒーレントに同一方向に向かうため、強い力がある。 集団もレーザー光線と一緒で、ばらばらでは力が出せないが、同じ方向に向かうことで強い力を生み出す。 このちからを生み出すのが対話である。 対話では勝利を得ようとするものはいない。もし、誰かが勝てば、誰もが勝つことになる。対話では点を得ようとする試みも、自分独自の意見を通そうとする試みも見られない。それどころか、誰かの間違いが発見されれば、全員が得をすることになる。これは、お互いに満足のいくゲーム、と呼ばれる状況だ。

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    投稿日: 2010.05.26
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    単行本: 200ページ 出版社: 英治出版 (2007/10/2) 言語 日本語 ISBN-10: 4862760171 ISBN-13: 978-4862760173 発売日: 2007/10/2 商品の寸法: 19 x 12.8 x 1.8 cm おすすめ度: 5つ星のうち 5.0 レビューをすべて見る (7件のカスタマーレビュー) Amazon.co.jp ランキング: 本 - 12,917位 (本のベストセラーを見る) 各カテゴリー内でのランキング: 48位 ─ 本 > 人文・思想 > 哲学・思想 > 哲学 52位 ─ 本 > 人文・思想 > 哲学・思想 > 思想 74位 ─ 本 > ノンフィクション > 思想・社会

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    投稿日: 2009.05.03
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    ああああああああああああああああああああああああああああ あああああああああああああああああ ああ

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    投稿日: 2008.12.27
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    人と自分と思っていることを共有しようとするとぶつかるときがある。そして嗜好が同じだとしても、いつか自分の主張を通そうとすると仲が良かったと思っていたのに、修復出来ない関係に陥ってしまうことがある。そんな事例をもとに取り上げている。個人的にかなり好き。

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    投稿日: 2008.12.04
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    コミュニケーションが手段だとすれば目的は何なのでしょう? 何かを勝ち取る事、うまく進める事、それとも… 対話というコミュニケーションの基本の本質を記載した本。 リーダークラス、人事関連の方にはおすすめできる本です。

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    投稿日: 2008.06.22
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    【目的】:自分に役立つ情報を得る。 ・あるべきコミュニケーションは、ダイアローグ(対話)である。 ・ダイアローグでは、コミュニケーションの目的を設定せず、結論も出さない。 ・すべての意見は想定であり、自らと異なっても保留する。 ・宇宙の一部としての意識により、自らのなすべきことに触れ、行う。 #自分が求めていたコミュニケーションのあり方を提示してもらった気がする。 #しかし、ダイアローグの場を設定すること自体、理解を得られるか、また継続させることも、近代社会の意識の中では、なかなか難しそうだ。 #意見を批判せず、発展させる点は、目的をもってすればブレーンストーミングのようなイメージだと思った。 #自己認識の問題は、どこかのレベルで定まるものではなく、状況等に応じて変化する重層的なものだと思うので、ダイアローグの場との意識のすりあわせが常に上手くいくとも思えない。 #課題は多々ありそうだが、従来にない(あるいは古くからあった)コミュニケーションとして、参加してみたいと感じた。

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    投稿日: 2008.02.12
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    想定や反応がどんなものかを、ただ見るだけにしよう。自分の想定や反応だけでなく、他人のものも同様に観察する。他人の意見を変えようとしてはいけない。集まりが終わったあとで意見を変える人もいれば、変えない人もいるだろう。これこそ、私が対話と考えるものの一部である。つまり、一人ひとりが何を考えているかを、いかなる結論も導き出さず、判断も下さずに、人に理解させるということだ。(p.69)

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    投稿日: 2008.02.01