
総合評価
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powered by ブクログサンスクリット語文法の話、仏教文献の豊富な知識で的確な引用を誤りなく行うところまでは大変勉強になるのだが、その内容についての著者の理解・解釈がいちいち異様であって判断に困る。以下に列挙する。 1.前著にも本著でも、この著者は、「一切衆生が『平等』に仏陀になれる」というようなことを主張していたが、誤りである。何物にも執着しない仏陀の目の前には、万人が平等であることは仏典に述べられている。もしくは、仏陀の教えは平等に与えられるが、その成果は人それぞれであってそれぞれの実や花を咲かせる、ということが法華経『薬草喩品』で比喩的に述べられている。つまり、成果は平等ではない。 2.相変わらず縁起の法に関する理解が異様であるが、どうもそれは、著者が学生時代に頓悟したと錯覚した「「人」とは具体的な人格的側面、「法」とは人間としてあるべき理法のことであり、」なる魔境を未だに引きずっていることによるものらしい。西洋起源の法律を意味する「法」あるいは韓非子等法家思想の「法」と、仏教の「縁起の法」が文字上の同一性を由来として概念上混交された稚拙な誤りである。 3.本著にて著者が「法の下の平等」と主張しているが、立論が二転三転して異様である。 3−1.縁起の法を狭く解釈し、生育過程で感受した精神的影響の履歴のことであると考えよう。著者は『サンユッタ・二カーヤ』を引用して、「仏陀を仏陀たらしめるのは、その人格を実現させた『法』である」と、本書の一部では主張している。それならわかる。人間の人格が表現する生き方の1パターンであるような仏陀が、その人間が受けた影響の総体として成立するのである。しかし、上記1.の通り、法華経では、同じ仏陀の慈雨を受けたとしても、草木の生育はそれぞれに異なる、と述べている。同じ精神的影響を感受したとしても、仏陀になれるかなれないかは、個体差があるだろう。仏典に同意できる現生人も多いのではないか。 3−2.しかし、この著者は「法とは普遍的な真理のことである」「普遍的な真理としての「法」は、永遠不変のものとしてもともと定まっているものだ。」「普遍的な法が具体化されたものが仏陀である」などと主張しているため、上記3−1.が著者の解釈ではないことがわかる。 4.日蓮の思想そのものについては、ぶつ切りの文章で法華経の数秘術的な読解を行っているところまでは読み取れた。日蓮に仕えた六人の高弟たちのように、日蓮に仏性を見出し、己の悟りを求めて読解に果敢に挑戦することもまた修行なのかもしれないが、私としては、それは仏陀が戒めた無益で苦痛な道なのではないかと思ってしまう。
0投稿日: 2025.10.26
powered by ブクログ一口に仏教と言っても、その教えは多種多様だ。そのうち仏教の本質(と著者が信じるところ)である法華経にフォーカスして、日蓮の思想を解説している。同じ内容を手を変え品を変え様々な表現で繰り返し説明しているため、非常にわかりやすい。ある程度仏教についての知識があり、特に法華経を詳しく知りたい人にはピッタリの良書である。 ただ、日蓮を宗祖とする宗派(日本に39団体あるそうだ)にありがちな独善的原理主義がチョイチョイ垣間見えるところが気になる。南方の上座部仏教を異教と融合した小乗仏教と見下したり、阿弥陀如来や大日如来を誰も見たことのない架空のスーパーヒーローとして切り捨てる。それを言うなら久遠の過去から永遠の生命を持った釈尊がたまたまヒトの形に仮借して教えを説いたというストーリーも想像上の産物でしかない。また極楽浄土の存在もファンタジーとして一蹴するが、法華経でも地獄の存在は想定しており、その違いがわからない。畢竟宗教とは「信仰」で成り立つものであり、他人が何を信じていようが余計なお世話である。
1投稿日: 2025.04.30
powered by ブクログ読みやすい。 よくも悪くも著者の価値観、倫理観が色濃く出ている。 著者は学者であると同時に説法者でもある。珍しいケース。 ところどころ、仏教学以外の分野への言及で勇み足を感じてしまった。 身分差別を超克した不軽菩薩の教え。男女の差別を乗り越え、男性原理、女性原理の両方の面で人格の完成ができるとした日蓮。 その普遍的な価値観は、思想レベルでの平等性は分かるが、現実に身分、性別で差別されているものを厳しく言えば見捨てていることになり、放逐すべき物を放置していることにならないだろうか。苦悩に満ちた現実を忘れ、完成された思想に酔っているかのようだ。 袴谷憲昭の『批判仏教』を再読したくなった。
3投稿日: 2024.07.19
