
総合評価
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powered by ブクログ異国のまなざしはときに自国の姿を鮮やかに映し出す。明代の中国人・鄭舜功が記した『日本一鑑』には戦乱の只中にあっても秩序と礼を重んじる戦国日本の姿が刻まれている。上田信『戦国日本を見た中国人』はこの貴重な記録をひもとき海を越えた眼差しから日本を照らし出す。武士の誇り、市井の営み、そして文化の奥行き。海は境界ではなくむしろ理解を運ぶ道だった。
0投稿日: 2025.07.26
powered by ブクログ1550年代に嘉靖大倭寇と呼ばれる争乱があった。日本人は凶暴と中国人に認識されていたが、実像を知ろうと日本に来た鄭舜功が著した日本一鑑から戦国の日本を見ようと。日本教会史とは別の視点の第三者視点という。名前とかやってること的に鄭成功と関係あるんかな? 寧波事件とか鉄砲伝来、三好政権、不殺の刀の話とかいろいろ取り上げてて勉強にはなる。面白いのが日本は女性が多いと鄭が思っていたこと。それから航海中の飲用水や航路の細かい話も扱っている。
0投稿日: 2025.01.21
powered by ブクログ中国から見た戦国時代、という内容を期待したが、中国社会史の教授の本ということで、あくまで戦国時代の日本を訪れた中国人と明朝の話だった。 野蛮な日本人のイメージの原因となった倭寇と、朝貢貿易のみが認められた時代の密貿易が絡みあう。鉄砲伝来も硝石や鉛の商売のためだった。 読み物として面白い訳ではないが、歴史を紐解く好奇心をくすぐる。
0投稿日: 2023.09.19
powered by ブクログいわゆる後期倭寇の時代。中国周辺での海賊行為を止めさせ、明朝の元での華夷秩序を回復すべく、無位無官の侠士・鄭舜功は広州を発ち、日本に向かう。暴風の影響もあり、彼はに行くことはできず、豊後大友氏の元にとどまる。しかし、同じく日本に来ていたライバルの動向もあり、彼は部下を京都に向かわせつつ、自らは中国に戻る。しかし本国の権力争いもあり、彼の功績は全く報われなかった。そんな彼の書いたものが『日本一鑑』。 確かに著者が紹介するように、鄭は尊大な偏見を持つことなく、日本の在りようをそのままに観察したように思われる。 ただ、彼の行程を見ると、 ・1556年6月 広州出発 ・同年7月 豊後着 ・1557年1月 帰国の途に ということで、その日本滞在は7か月ほどであり、会った人間も限られていただろうし、どの程度の見聞ができたのかやや疑問ではある。 本書を読んで勉強になった点。 〇後期倭寇の実態が良く分かった。 〇当時の大陸からの海上ルートの状況。その中でも、屋久島は標高2000メートル近い山がそびえ、島にぶつかった海風が上昇気流となり、島の上空には年間を通じて白雲が浮かぶ。そのため外洋の水平線上に、島の位置を遠方から見通すことができる。中国の船乗りたちは、屋久島を白雲峯と呼び、航海の目標としたとのこと。 〇日本周辺の海上ルートの状況。特に沿岸の地形に頼ることなく、羅針盤での外洋航海が可能であった中国船、ポルトガル船では、四国の遠洋を航行する太平洋ルートが開かれたのではないかということ。
2投稿日: 2023.07.18
