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完全解読 カント『実践理性批判』
完全解読 カント『実践理性批判』
竹田青嗣/講談社
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総合評価

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    原典の展開に沿って内容を要約し、日本語の文章として読めるように置き換え、合間に少々の解説を加えた本である。原典への忠実度は私には分からないが、理解困難なまま原典を読むよりはよほど得るものがあると思う。原典の要約の部分と、それに対する著者の解説がはっきり区別されているのも良い。 カントの道徳論であり、有名な『定言命法』が序盤から登場する。『定言命法』=『君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ』を基礎的な根拠に据え、それが規定の事実であるという前提で論が展開される。私が理解した限りでは、現代人にはなかなか受け入れ難い道徳論であると感じた。とはいえ、『定言命法』の考え方自体は現代でも有効であって、自分の行動原理を誰も彼もが採用したとしたら世界はどうなるだろうと考える、といった使い方がすぐに思いつく。例えば「ポイ捨て」をする人ですら、世の中の全員がそれをして良しとは思っていないだろう。このように「エゴイズムを克服する原理」として理解することはできる。さすがにこれだけで個人に善行を期待するのは理想的過ぎるが、法律や組織のルールを作る際の大前提となるガイドラインとして有用だろう。 しかしだからといって、本書で展開されるような形而上学が必要かというと、やっぱり無理があると思う。カントは繰り返し『傾向性』、つまり個人的な感情や好みを排除し、各人の『自由意志』によって『普遍的』な『道徳法則』=『善』に従うという『義務』が重要であることを主張する。そして、この『自由意志』は、『人間は一方で感性的、自然的な存在者であるが、しかしもう一方で自然法則から独立した原因性(自由)をもつ存在』であり、『人間は理論理性としては、自然法則の原因性を絶対的なものとしてとらえるほかはないが、実践理性としては、自ら対象のありようを規定する自由意志という原因性として存在するものと見なされる』という理屈で確保される。正直、この言い分は無理やり過ぎではないか。この説明はまるでトートロジーであり、「人は自由意志をもつ、だから、人は自由意志をもっている」と主張するのと何も変わらないではないか。さらに言えば、個人的な満足を完全に排除する道徳論など空疎であると言わざるを得ない。むしろ、個人の行為の牽引力としてのエゴイズムと、成すべき行為の交わる線を探求するのが賢明だと思われる。 もう一つ、大きく問題ありだと思うのが、カント道徳論においては、行為の結果は道徳の考察においては考慮の外だと断言される点である。行為のもたらした結果それ自身は問われないわけだ。これは個人的な(つまり経験的な)道徳基準を排除するために必要な措置だと理解できる。しかし、正しいと確信する『意志』による行為の結果が大惨事だったとしても、それは道徳的に肯定されるのか、という反論がすぐに思いつく。むしろ歴史上の大惨事は、当人からすれば「正しいことを為そう」とした結果であることが多いのではないか。結果を問わず『意志』のみを問う(ように読める)道徳論など無責任ではないかとすら思う。例えばポル・ポトでもカント道徳論の枠組みで自己の所業を正当化できるのではないか。ここを考えていくと、カントのこだわりである『先験的』=『純粋』=『普遍的』=個人的な『傾向性』を排して、という方針で論を組み立てるのが、そもそも無理があるように思う。 しかしここでカントは奥の手、二世界論を使うのである。つまり、その無理を無理じゃなくするために『要請』されるのが『自由』、『心の不死』、『神』の三つの『理念』だ。『自由』は『傾向性』ではなく純粋な『意志』で『道徳法則』に従うために必要であり、『心の不死』は道徳的な『善』を目指す努力をこの世を越えても持続しようとする決意に必要であり、『神』は『善』と『幸福』の一致の可能性を保証するために必要である、とされる。こうなるともう現代人は肯首できない。これらの『理念』についてカントは『思弁的理性から出るものではなく、ただ絶対的に必然的な実践理性の目的と必要から現われるものであり、そのかぎりで正当な根拠をもつ』のであり、『純粋実践理性』の『信』と呼びたいと主張している。これはデカルトの神と同じで、形而上学の基底を支える概念として『要請』されているに過ぎず、私に言わせればギブアップ宣言であり、最終的には信仰頼みという事態が露呈しているように見える。また素朴に「人間ごときに要請される神とは何だろう」とも思われた。連想されるのは、プラトンが『パイドン』や『国家』において、ロゴスの応酬の後に神話的物語という超越的審級を置かずにはいられなかったことの背後に透けて見える、根拠なしに対する根源的不安である。 私が実際に読んで感じたような本書の議論の欠陥(と思われたもの)は、だいたいヘーゲル『法の哲学』において極めて自覚的に克服されているように思う。また、最後に要請されていた三つの『理念』が実際には無効であるとして(神が死んだとして)、この道徳論の底が抜けていることを声を大にして主張したのがニーチェであった。 また私は、天使や神は道徳的であることが可能なのか?という疑問をもってしまった。カントによると、道徳的であるためには、『傾向性』に抗う『自由意志』によって『普遍的』な『道徳法則』=『善』に従うという『義務』が重要である。それは『人間』=『一方で感性的、自然的な存在者であるが、しかしもう一方で自然法則から独立した原因性(自由)をもつ存在』でなければ原理的に不可能のはずだ。なぜなら、信じられているところによれば、天使や神は『傾向性』に流されることはありえないのであり、したがって『義務』への服従という事態は起こりえない。そうであるならば、逆説的に天使や神は道徳的ではない、ということにならないだろうか。

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    投稿日: 2025.02.14
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    完全解読シリーズの趣旨も良く調べず手に取ってみましたが、基本原著をベースに適宜解説を加えるといった読み応えのある内容とは露知らず、寧ろモチベが高まりました。 「純粋理性批判」は難読で有名ですがこの「実践理性批判」はそこまで理解し難いことはないとの評判でしたが、やはりこの独特の言い回しと同じ主張を角度を変えながら論じていくスタイルは自分のレベルでは読み解くのに難儀。 とはいえ、欲や快楽などの傾向性に基づく行動や思想は経験的な出所で道徳的なものとは言えず、アプリオリに認識される道徳法則に基づく「~すべき」という定言的命法と自律(マキシム)が一致することこそが唯一の道徳的なもの、ひいてはそこに「自由」がありその意思に尊敬を引き起こすことにより「最高善」へと導かれる。 このような主張は、あながち自分の感覚と相違はないのかと感じていたり。(できているかは別問題) いわゆる自己的な利他ではなく、報酬や見返りを求めない献身的な利他こそが真の道徳であり、人間が生得的に秘めている能力なのでしょう。 しかしどうも自分の内面的な処理に完結しがちで、自然的(物自体)との関わりとか影響がやはり幸福という認識はありなのではないでしょうか?という素朴な疑問は沸き上がってきますね。一度通読するだけで決して腹落ちしていないのは確かで、折に触れて、理解を深めていきたいテーマと作品でございます。

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    投稿日: 2022.05.21
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    人間と社会についての根本的に新しい展望と構想が拓かれるべき時代が来ているのだ。そしてその課題を引き受けるのはつねに新しい世代である。さまざまな古い叡智とともに、近代についての基本構想として現われた西洋哲学の再理解が、いまなによりも重要なものとなっている。

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    投稿日: 2017.08.31
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    カントの『実践理性批判』を、本文の構成にしたがってパラフレーズした解説書です。 著者は「はじめに」で、カントが実践理性の根本法則を「君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という定言命法によって規定したことに触れて、「その内実は、いくつかの理由で近代社会の倫理の本質を表現している」と述べています。著者の『近代哲学再考』(径書房)などを読むと、近代社会における「自由」の本質について著者自身は独自の考えをもっていることがわかりますが、本書ではそうした著者の思想を開陳することは抑制されており、もっぱらカントの文脈の中で「自由」の概念がどのように規定されているのかということがていねいに論じられています。 著者自身の思想に関心のある読者のなかには、本書と同じ「完全解読」シリーズから出ている『完全解読フッサール『現象学の理念』』(講談社選書メチエ)に比べると少し抑制が効きすぎているのではないかという印象を抱く向きもあるかもしれません。

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    投稿日: 2017.05.16