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powered by ブクログ河内春人「倭の五王」(中公新書) これまでの倭の五王の日本の皇統譜への比定について、中国史書と考古学の知見から批判している。 0. 4世紀後半、中国は南北朝時代に入っていた、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅、さらにいまの釜山あたりには加耶諸国があった。日本(倭)は百済や加耶とは国交があり、新羅とは和戦両方の関係にあった。高句麗は北朝とは緊張関係にあり、つねに南進を目指していた。高句麗、百済、倭ともに南朝との関係を保つことで東アジアでの地位を高めようとしていた。その中で倭の5人の王、讃・珍・済・興の南朝・宋への使節派遣が宋書に記録されている。 1. 讃は421年に南朝・宋に使節を送った。東晋を2年前に滅ぼした宋が高句麗や百済との関係強化に動いたことに刺激されたと推定。倭讃を名乗ったが、この二字名乗りは、扶餘族出身を標榜する百済の近肖古王が餘句を名乗ったことに倣ったと推定。倭は朝鮮半島南部の鉄資源を必須としており半島での権益維持は重要であった。讃は倭国王安東将軍の称号を与えられたとみられる。 2. 珍が438年に宋に使者を送り、兄の讃の死を伝えた。珍は宋に対し使持節・都督倭百済新羅任那秦韓募韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王への任命を要求した。大将軍号については高句麗、百済が大将軍だったのでそれと並ぶことを要求したとみられる。都督---六国諸軍事も半島南部の加耶諸国の盟主としての地位を得ようとしたもの。ただし宋はこれらの要求を却下し、安東将軍・倭国王にとどめた。また珍は倭国内の豪族13人に将軍号を求め承認された。倭国王の権威を上げる手段として中国官職を利用したと思われる。百済等も同様のことをしている。この中で倭隋に平西将軍を付与したことが注目される。倭姓なので王族と思われ、珍の平東にたいして対となる平西という称号は対等感がある。著者は倭珍が古市古墳群(大阪南東部)に本拠のある王族、倭隋は百舌鳥古墳群(大阪南西部)に拠る王族に属しているのではないかと想像している。 3. 済が443年に宋に使節を送る。済と珍の続柄は記されておらず、近親でなかった可能性が高い。上記の倭隋のグループに王権が移った可能性がある。451年に再度使者を送り、使持節・都督倭百済新羅任那秦韓募韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王への任命を求めている。今回は百済を除き加羅を加えた使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓募韓六国諸軍事を獲得できた。ただし大将軍は認められず安東将軍にとどまったとみられる。また国内豪族23名への官職付与を申請し認められている。 4. 興は462年に済の世子として使節を送り、済の死を告げて国王への任命を要請した。これまでは倭国内で即位した後に宋に通知しているので、独力での即位に何らかの支障があったことが推定される。興は済の称号を引き継ぐことを認められた。 5. 武は478に宋に使節を送った。宋は武に使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓募韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王を認めた。これまでの倭国王は遠国の王への称号なのに倭王は近国・軍事的支援を期待する王への称号。将軍から大将軍への昇格と合わせ、宋が北朝に対し不利になるなら倭の軍事力への期待が高まっていた可能性はある。武が送った長文の上表文が中国の史書に残されている。古典からの引用を含め当時の文書外交の儀礼に則ったものであり、中国から渡来した文官が外交文書の作成など倭国内で大きな役割を果たしていると思われる。 6. 倭の五王と皇統譜の比定:讃について音韻の推定でサザキ(仁徳)、ホムタ(応神)、珍と兄弟であることから履中とする説がある。珍は字形から瑞歯別(反正)とする説がある。済は允恭とする説が多いが状況証拠的推論に留まる。興は雄略の兄である安康とする説があるが、雄略の比定次第である。武はワカタケルのタケル、あるいは書記の若武の武から雄略とするのが一般。ただし武をタケルと読む訓読みが5世紀の倭で成立していたかは大いに疑問。5世紀の刀剣銘を見ると一音一字である。 また系譜論(兄弟親子関係)についても継体以降の王たちにとって、継体自身の祖父についても曖昧なのに、関係の薄い仁徳系王朝の系譜が正しく口承されていたのか疑問がある。結論として、倭姓の王家が讃グループ、済グループ、のちに継体を生む北陸グループの3集団に分かれていた程度しか言えないのではないか、というのが著者の結論。
0投稿日: 2025.04.29
powered by ブクログ第125回アワヒニビブリオバトル テーマ「人形」で紹介された本です。ハイブリッド開催。 2025.3.7
0投稿日: 2025.03.07
powered by ブクログ西暦400年代から500年代の日本と朝鮮半島(高句麗、新羅、百済、任那、加羅)と南北朝中国(東晋、宋、南斉、梁、前秦、北魏)の歴史を解説してあり、たいへん勉強になった。遣隋使の2百年前に日本(倭国)が外交を展開しているのは驚いた。中国には文献が残っているのに、日本側には外交文献が残っていないのは残念である。古墳つくる力があるのだから、何らかの石碑が残っていてもよいのに・・・ 倭の五王とは中国史書「宋書」倭国伝に記載されている讃・珍・済・興・武であり、それぞれ履中天皇(応神天皇、仁徳天皇の説もあり)、反正天皇、允恭天皇、 安康天皇、雄略天皇と目されている。作者は中国史書の文面、古墳や過去の学説や当時の朝鮮・中国との国際情勢をもとに自論を展開するが、結論は藪の中である。邪馬台国同様、証拠が少ないのであらゆる仮説が成り立つ。古事記・日本書紀を鵜呑みにせず、あらゆる方向に想像を広げていけるということは理解できた。
0投稿日: 2025.01.21
powered by ブクログ倭の五王の宋へ遣使 (421-478) それ以前は266年の邪馬台国による西晋への遣使 421 讃 425 讃 430 -- 438 珍 443 済 451 済 460 -- 462 興 477 -- 478 武 3c半ばに奈良盆地南東部の大和柳本古墳群、4cに奈良盆地北部の佐紀古墳群、 4c末頃から大阪・河内の古市古墳群、5c初頭に奈良盆地西部の馬見古墳群、 5c半ばに和泉の百舌鳥古墳群。 4c後半は、佐紀古墳群から古市古墳群に移動する時期。百済との外交を重視し、大和川流域の瀬戸内への交通の要衝。 (中国の状況) 中国が4c初頭いらい分裂 三国時代(220-280)、魏のあと西晋(265-316)、東晋(317-420) 五胡十六国時代(304-439) 南北朝時代(439-589) (北朝)北魏(鮮卑)、東魏、西魏、北斉、北周 (南朝)宋(420-479)、斉(479-502)、梁、陳 倭(ヤマト)からみた正統王朝は、前漢(BC206-AD8)、後漢(25-220)、魏(220-265)、西晋(265-316)、東晋(317-420)、宋(420-479) (朝鮮半島の状況) 馬韓(BC2c末-AD4c中)後の百済、辰韓(BC2c末-AD356)後の新羅、弁韓(BC2c末-AD4c)後の任那・加羅 三国時代(4c-7c) 高句麗(BC37?-668.10.22)、百済(4c前半-660)、新羅(BC57-935) AD370前燕滅亡により西の脅威がなくなる。 369年9月 高句麗の故国原王の南下2万の軍、百済の近肖古王、撃退。 371年冬にも攻撃あり百済は反撃し高句麗の平壌城を攻め、百済が大勝、高句麗の故国原王が死亡。 百済は都を漢城に移す。東晋への朝貢(372年,373年)、倭国との関係構築を開始。 七支刀 東晋太和4年(369)制作の銘、372に百済から倭国へ贈られる。(日本書紀では252=神功摂政52年) 高句麗南下に対する倭国と百済の対等の軍事同盟。 新羅は366と368年に百済と外交、373年対立、377年高句麗に随伴し華北の前秦へ使者を派遣。 (華北の前燕と高句麗) 342前燕は高句麗攻撃、王都の丸都占領、故国原王は単騎で敗走。前王の美川王の墓を暴く。 343高句麗は前燕に臣として朝貢。 369東晋が前燕に攻撃、370前秦が前燕に攻撃、前燕は滅亡。 383年前秦が100万の軍で南下、淝水の戦いで東晋と戦い、東晋が勝利。 394前秦が滅亡。 (広開土王碑) 高句麗の王、391年から22年の治世。対外戦争。414年に息子の長寿王によって碑が建てられる。 396百済親征、399倭人撃退、400倭・安羅攻撃、404倭との海戦、407百済と戦う。 戦争相手の登場回数は倭が最も多い。最大の敵国。391に倭国が襲来し百済と新羅を臣民にした。 新羅と倭国では、364倭兵を撃退、393倭人が金城を囲むも破れず撤退。 400年高句麗と倭国の陸戦で騎馬により倭国敗戦、倭国は馬の積極導入へ 高句麗、百済、倭国の鼎立。 (南朝への遣使) 高句麗は中国北方との外交が主だったが、413年、70年ぶりに南方の東晋へ遣使。 倭国も413年に東晋へ遣使?高句麗が新王の長寿王の威信を高めるための偽使。 歴代の百済王は即位時に東晋へ遣使。また、当時の人質は両国のパイプ的役割を果たす。 405年阿莘王がなくなり、 倭国の人質だった腆支王が倭国の支援を受け即位。 腆支王は406年に東晋へ遣使。416年に東晋から叙任。 (421年の国際情勢) 宋は東晋から禅譲を受けて2年目、高句麗は長寿王が413年から在位。 百済は420年に腆支王から久爾辛王へ。新羅は高句麗重視の外交。 宋が高句麗や百済との関係強化に動いたので、倭讃も遣使、朝鮮諸国同様に1文字名を名乗る。 高句麗は高姓、百済は扶余族の餘姓を中国に対して使用。 邪馬台国や卑弥呼は、中国側から当て字されてる。讃は好字なので自ら名乗った。 421年の時点で讃は安東将軍、倭国王に冊封されてるはず。 高句麗では広開土王のときに府官制を導入、百済でも府官制を導入。 倭国でも高句麗、百済との対抗意識の中で府官制導入、宋に対して官爵を要求。 438年、讃の弟の珍が遣使、官爵を要求するが、安東将軍倭国王とされる。 高句麗、百済と同格の大将軍格、また半島の支配権の承認を求める。 倭珍は安東将軍、倭隋は平西将軍となる。古市古墳群と百舌鳥古墳群の2つの王族集団。 倭讃、倭珍の「東」グループと倭隋の「西」グループ。 中国王朝の官爵により倭王権の強化。倭国全土の支配へ。 440、444年、倭国の豪族連合軍は新羅に侵攻。 443年、済が遣使。17代履中天皇から480年即位の22代清寧天皇の王位継承での抗争。 讃、珍と隋との二大グループ(古市古墳群と百舌鳥古墳群)なので、おそらく隋の後継者の済。 451年、済は使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭王を授与される。 百済に関しては却下。さらに23人の仮爵の承認。列島の有力豪族と渡来系の府官。 おそらく444年の新羅侵攻の功績による叙任。 462年には、興が世子として遣使、安東将軍 倭国王に。宋の叙任を得てから王位継承? 478年に武が遣使。477年興が高句麗による百済滅亡をうけて派遣したが休止したので翌年に遣使。 武の上表文。これまでの倭国と宋との良好な関係、高句麗の暴虐、高句麗討伐の必要性、官爵の要求。 26代継体天皇の正統性の保証は15代応神天皇。百済との外交での七支刀・七子鏡は神功皇后ではなく応神天皇の事績? 王権系譜の中での画期。後代まで意識。古事記の中巻最後の天皇、神話から歴史への移行期間。 古事記下巻は完成した天下的世界が推古朝まで引き継がれる系譜。 高句麗による百済の一時滅亡後、新羅に対しても攻勢をかける(481,484,489,494)。 高句麗・百済・倭国の鼎立から高句麗対百済・新羅へ変化。 継体大王の即位と王位継承のための大兄制度の創出。7c後半まで機能。 倭の五王を輩出した2つの王族集団は手白香皇女を通し統合されていく。 5cには倭姓を持つ王権が無姓の人々を治める体制が、6cでは大王は姓を持たず豪族以下に姓を授ける体制に。
0投稿日: 2024.04.24
powered by ブクログ主に中国と朝鮮半島との関係から倭の五王の時代に迫る。讃珍済興武と天皇との対照については、そもそもあまり意味がない、との立場。
0投稿日: 2024.02.29
powered by ブクログ五世紀に日本から中国に使節を派遣した王がいた。それも五人もの王が。宋の史書に倭の五王、讃、珍、済、興、武が中国に外交使節を派遣してきたと書かれている。この五王はそれでは一体誰なのであろうか?その謎解きの面白さがあるが、結論から言うと、その謎は解けていない。これからも解けないかもしれない。しかし、今までの各天皇に対応していた五王が、見方を変えれば違ってくるという面白さがある。また、考古学的に古墳群の成立時期とかを考慮する見方とか、「武」をタケルと読んでいたが、当時に訓読みは存在していなかったという話で、武だからワカタケルと呼ばれた雄略天皇ということにはならないのではないかとか。面白かった♪
0投稿日: 2023.05.01
powered by ブクログ倭の五王について、これまでは記紀と中国史書の突合で、記紀の天皇との比定を行うことにエネルギーが注がれていた。 本書では、記紀は八世紀における王権確立のためのナラティブ(全て正しいわけではない)との視点から、(間違いもあるにせよ)記録である中国史書を中心に、朝鮮史書や、広開土王碑や古墳群のような考古学的物証を活用しつつ、倭の五王がどの天皇かという点はさておき、五王の時代の国際関係や五王の遣使の意図などについて分析を試みている。 意図としては、高句麗の南進という国際情勢の中で百済と同盟してこれに当たるという中で、国際的に宋から中国官位を得て正統性を得る必要があったこと(百済も同盟国ながら高い官位を求め合うライバルだった)。また、古墳群の分立が示すように王権が絶対では無かった中で、中国の官位を権威の源とし、更に下位の中国官位を部下に配分することで権威を確立していたこと。の二つが主な理由となっている。後者については、倭珍の時代に珍と同格やや下の地位に倭隋が任命されており、倭王権の中に王と同種の格の人間が居たことを宋への任命要請から導き出している。 また、五王で派遣が終わった点については、国際的には、将軍号の獲得で相対的な優位を高句麗・百済と争うよりは、朝鮮半島における高句麗対百済・新羅の熱戦や任那への波及があり、称号獲得に意味が無くなったことが挙げられている。また、国内で雄略後に、武烈に至るまでに内乱が続き、王統が離れる継体天皇の成立に至り、王権基盤が強化され、親子承継が基本になり、外部権威に依存する必要が無くなったことも挙げられている。 その上で、天皇との比定については、様々な問題点を論じて比定は行っていない。乱暴に理解すれば、継体以前は、継体後の視点に基づいたナラティブであり、ナラティブ内の主人公に比定しても仕方がないといったところだろう。 以前読んだ倭と日本の関係を論じる本で、日本書紀は倭内部の弱小勢力であった日本国の歴史で、乙巳の変で一気に歴史の舞台に躍り出た、古事記は倭国全体を捉えたものと推測を立てていて、荒唐無稽だがなるほどと思ったことがある。筆者の言わんとするところも、概ね似たようなことなのかなと。確かに、天皇との比定に全力を挙げるよりも、史書や考古学的資料の分析と奥の深い思慮こそが歴史の実相に近づいていける道だなと思った。
0投稿日: 2022.09.25
powered by ブクログ倭の五王ときいたら当たり前のように日本の天皇と紐付けていたが、この本では五王が誰かという点はおいておいて、中国や朝鮮の歴史から倭の五王がどんな外交を展開していたのか、その時代中国、朝鮮、そして倭はどんな情勢だったのかにまず迫っていく。そのうえで日本の天皇と結びつけている様々な説について検証していくが、今まで自分が信じていた説もかなりこじつけであることがわかってきた。歴史の思い込みを捨てて、ゼロベースで史料にあたることの大切さを教えてくれた。
0投稿日: 2022.05.05
powered by ブクログ五世紀に中国南朝へと遣使した倭の五人の王について、記紀に依拠せず中国史料と考古学の成果に基づいて、その実像を検討する内容。記紀の天皇との比定に関する従来の議論についての批判も章立てされており興味深い。
1投稿日: 2021.12.21
powered by ブクログ讃・珍・済・興・武 日本史史上有名な倭の五王。 宋書倭国伝に記載されて、日本史を少し齧った人間なら、一度は聞いたことのある用語。 その倭の五王を記紀に依存せず、様々な資料から倭の五王を描いているのが、非常に新鮮であった。 しかしながら、古代日本の基本史料は記紀。 この記紀を検討してこそ、倭の五王を理解できるのではないか。 記紀の勉強もしなければと思いながら、改めて中世が好きだなと思っている自分がいて複雑である。
0投稿日: 2021.11.25
powered by ブクログ「本書に意義があるとすれば、 記・紀に多少言及するにしても依拠せず、 中国・朝鮮史料や考古学的な成果から 描き出したことであろうか」 と、あとがきにあるように、 5世紀の東アジア情勢を背景とした考察は興味深い。 「ワカタケル」と「武」を、同一とする違和感。 「武」は「ム」であって「タケル」と読む訓が、 5世紀にそもそもあったのか・・・など、 もやもやしていた疑問を述べていることに好感を得た。 しかし、 「倭の五王」は、謎のままのファンタスティックな響きを残しているところがいい。 継体天皇をも少し読もうかな。。。
2投稿日: 2020.07.24
powered by ブクログ倭の五王の正体について無理に記紀の記述にあてはめようとはせず、最も客観的と思われる視点からアプローチしようとする。 最も客観的な視点とは、中国による倭国の支配者への官位の叙任、巨大古墳の分布状況、朝鮮半島の情勢、記紀による内紛の記述、国内の出土品などである。少ないヒントを頼りに五王が統治したであろう日本の古代国家に迫る。継体以前にも複数の大王輩出の系統があったことや、国内の権力バランスが常に一定ではなかったことなど詳細に説明があり、豊かな想像力で歴史的テクストを読ませる。緩やかな三王朝交代説を様々な視点から補強する論述となっている。
2投稿日: 2018.08.14
powered by ブクログ5世紀の日本と朝鮮半島、中国を取り巻いていた状況をあらためて見つめなおすところで、日本と朝鮮半島との交流、確執、戦いについて考えさせられた。現在まで続くこれら近隣諸国の繋がりが、これからどうなっていけばよいのか、現代にも置き換えて考えることができるだろう。 当時の大和政権の大王たちが選んだやり方、中国の歴史書をたどりながら紐解いていく内容になっているが、読み進めていくうちに、書かれたものから真実を得ることの難しさを想像した。古墳などから出土する物的証拠にこそ真実性があり、そのために地道な発掘調査が行われるのだろう。 倭の五王の後、越前から大和に入った継体大王がそれ以前とはまた別の日本を作り始めたのだろう。応神天皇五世の孫など後からの創作物語ではないかと思う。
0投稿日: 2018.06.09
powered by ブクログ讃・珍・済・興・武ら五王の中国との交流を通し、倭国の王権、文化レベル、中国・朝鮮半島との国際関係など、5世紀の倭の実態を描く
1投稿日: 2018.05.30
powered by ブクログ古事記、日本書紀をベースにした半親和的な古墳時代の天皇家の系譜を宋書をベースに再解釈を試みる。また、朝鮮半島、および中国の王朝の政治的状況を分析し、ありえたこと、ありえなかったことを考えて、日本の政治状況を推理している。 8世紀に成立した古事記、日本書紀は江戸時代から本格的に分析されているが、宋書と突き合わせてみると本当に5世紀に訓読みが存在していたかもわからず、倭の五王が本当は誰か、讃、珍、斉、興、武の最後の武が、獲加多支鹵(ワカタケル)であり、雄略天皇であるという定説が本当に正しいのかもわからない、とする。 訓読みのみならず、長子相続ではなく、兄弟あるいは一族の有力者が家督を相続していたようだし、架空の天皇、誇張の外交文書もあったと思われる。
1投稿日: 2018.05.25
powered by ブクログ倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武をいう。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への“接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを『古事記』『日本書紀』にはなるべく依拠せず、中国史書等から解読し、5世紀の倭や東アジアの実態を描くものである。 『古事記』『日本書紀』が主軸であったこれまでの倭の五王研究に対する挑戦ともいえる書だが、『宋書』倭国伝などを精緻に読み解くことで一定の説得力のある歴史像を提示できていると思った。特に、477年の遣使についての分析は緻密だと感じた。各地域が文化的な同質性を持っており、文書による「外交」が盛んであった、5世紀の東アジア情勢のダイナミクスを理解することができた。 ただ、逆に『古事記』『日本書記』の価値を低く見過ぎているのではないかという印象も持った。『古事記』『日本書紀』以上に信頼性があるのか疑問な、12世紀に編纂された朝鮮の『三国史記』を特に史料批判なく根拠として用いているのも気になった。 そして、『古事記』『日本書記』における天皇と倭の五王との関係について、これ真野研究の問題点の指摘はもっともな部分はあるものの、結局わからないと結論付けているのは、一種の逃げではないかと感じた。
0投稿日: 2018.05.16
powered by ブクログ2018/05/12:読了 倭の五王について、中国、朝鮮の資料から当時の状況を説明している本。 日本の日本書紀、古事記については、たまに比較のため参照しているだけ。 百済、新羅、高句麗、北魏、南宋の関係、伽耶の状況など、初めて理解できた気がする
1投稿日: 2018.05.12
powered by ブクログ中国を中心とした東アジア情勢を視野に入れないと日本の歴史を知ることはできません。古墳から考古学的に読み解けるものがある。記紀に縛られない。安易に天皇を比定しない。当たり前のことですが新鮮でした。この時代は王族集団が並立したこと。ホムタワケ系から継体系への移行など、時代をダイナミックに捉えることができる好著です。
1投稿日: 2018.04.18
powered by ブクログ前半は中国、朝鮮そして日本の朝鮮半島をめぐるAD5世紀頃の争奪戦の考察。白村江の戦の前哨戦。 後半は倭の五王の推察。 ロマン溢れる新書でした。
1投稿日: 2018.02.10
