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powered by ブクログ戦前から戦後、現在に至る右翼の歴史と変遷が分かりやすいまとめられていた。 戦後の言論の自由、民主主義、人権、反戦平和に、右翼は"壊されていく国体"を見、あるべき日本が失われていくのを感じたーという説明は納得できる。しかし、最近のネトウヨの差別、暴言、排除はどう考えても理解も共感もできない。これを容認する時代の空気ができているとすれば、それは極めて憂慮すべきことだ。
0投稿日: 2024.12.16
powered by ブクログ右翼の戦後史について、実際に活動に携わった人々に対して多くの取材しながら描き出す。 出版順は逆だが、同じ講談社現代新書の日本左翼史シリーズを読んだことでこの本も読むことに。 興味深いのは、日本左翼史シリーズは(特に佐藤優が顕著だが)徹底的に文献・論文にあたるのに対し、本書の著者の安田は果敢に取材をして情報を収集するという点である。 これは、両者の執筆スタイルというだけでも無いと思う。共産主義・社会主義思想が理論ベースで演繹的に社会の構築を試みるのであれば、右派の民族主義的思想は共同体をベースとして、帰納的な方法で社会を構築しようとする特徴がある。こうした違いを鑑みると、両者の執筆スタイルは、そもそもの右派、左派の特徴と似通っていることが分かる。 丹念な取材をもとに、右派の戦後の様々な活動を描き出すことに成功していると感じた。決して一枚岩で無い様々な活動の内容に、驚くことも多いと思う。 注意したいのは出版が2018年と若干古いこと。第5部までは別に問題ないが、ネット右翼の問題を取り扱う第6部は、その後の世界情勢を加えた増補がどうしても欲しくなる。 この第6部で、筆者は「社会の極右化が進行している」と述べている。しかし、ここで言う「極右」と言うのは「右派」の定義とは若干違うものではなかろうかと感じた。そう感じるのは、本書の刊行より約6年、もはやこの本の第6部で言う「極右」の特徴、つまり排外主義的で短絡的な思想の劣化が、右派に限られず様々な場所で見られるようになったからだろう。 実際、当時だと排外主義的で短絡的な思想はネトウヨに特に蔓延っていたように思う。しかし、今やこの手の異なる思想・言動を徹底的に糾弾し、愉快犯的に攻撃を試みるやり口はネトウヨだけの専売特許というわけでは無くなってしまったように思う。左右に限らず、思想が劣化している。 インターネットというニューメディアの元で、今後思想がどのように変化していくのか。この辺りの議論を注視しつつ、本書で為された議論を受け止めていきたい。
0投稿日: 2024.09.11
powered by ブクログ880 安田浩一 1964 年生まれ。静岡県出身。「週刊宝石」などを経てフリーライターに。事件・社会問題を主なテーマに執筆活動を続ける。ヘイトスピーチの問題について警鐘を鳴らした『ネットと愛国』(講談社)で2012 年の講談社ノンフィクション賞を受賞。2015 年、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(「G2」vol.17)で第46 回大宅壮一ノンフィクション賞雑誌部門受賞。著書に『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)、『ヘイトスピーチ』(文春新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)、『学校では教えてくれない差別と排除の歴史』(皓星社)など多数。 「右翼」の戦後史 (講談社現代新書) by 安田浩一 「いまでは教育勅語を生徒に朗誦させるようなことはしていません。生活指導には力を入れていますが、かつてのような愛国教育と呼ばれるようなカリキュラムもありません」 当然、三島を「顕彰」する行事もないし、宮城遥拝もおこなわない。同校のホームページから伝わってくるのは、サッカーと野球に力を入れた学校、というイメージくらいのものである。つまり「普通の高校」になったということだ。 ワシントンハイツは比較的出入りが自由だったので、近所に住む日本人の少年たちが草野球を楽しむ場所としても利用された。そのなかから生まれた少年野球チームのひとつに「ジャニーズ」があった。監督として指導していたのは、やはり近所に住むジョン・ヒロム・キタガワという米国帰りの日本人で、後にジャニー喜多川を名乗り、少年野球チームから始まった「ジャニーズ」を日本有数の芸能事務所に育て上げることになる。 晩年、その鈴木は右派団体「日本を守る国民会議」に参加した。 81(昭和 56) 年に設立された「国民会議」は、我が国の改憲運動を牽引した。日本国憲法は米国の「押しつけ憲法」だとし、日本国憲法が、日本の堕落した「戦後」を作り出し、家族制度を崩壊させ、共産主義の脅威を招きこんだのだと訴えた。日本国憲法によって、日本が日本でなくなったという主張は、影山が一貫して訴えてきたことでもある。 「日本を守る国民会議」は 97(平成9) 年に、同じように改憲運動を続けていた右派宗教者による組織「日本を守る会」と統合し、さらなる右派大衆運動の拡大を目指して新組織を結成した。鈴木もそこに代表委員として加わった。 その新組織こそが──「日本会議」である。 「保守」とは思想ではなく、生き方の問題である。伝統を尊び、時代の流れに翻弄されることなく、地域や社会に尽くすことではないのか。日章旗を乱暴に振り回しながら街を練り歩くことで保守だ、愛国だと悦に入っている連中は、こうした地に足の着いた生活をどう感じるであろうか。 礼儀正しい担当の青年は、「いわゆる右翼として活動しているわけではない」と私に告げた。街宣車で街中を流すことなどしない。繁華街で声を張り上げることもない。あくまでも国学、歌道などを通じて日本の伝統精神護持、普及に努めているのだという。定期的に国学の講座や詩吟教室を開催し、道場ではフルコンタクトの空手教室も行っている。 〈日本の右翼は本質的に左翼に対抗して生まれたもの〉〈過去の国家主義者のなかゝら反米主義者が出現することは断じてないのである。むしろ、かつての国家主義者、すなわち、天皇と国家にあくまで忠実であった者のなかゝらこそ、真の親米派は生まれでることを自分は確信するものである〉 だが、多くの右翼はいとも簡単に「反米」から「親米」へと路線転換した。その逡巡や苦痛を表現したものは、ほとんど存在しない。これは戦後の右翼の軌跡を見るうえでは重要なことだ。民族主義、国粋主義の旗を振りながらも日米安保を肯定し、沖縄での米軍基地固定化に手を貸すのが、いまや右翼の大部分と言えるからだ。結局、右翼は常に権力の近場にいるしかなかった。 私はその話を三ヶ根山から遠く離れた熱海(静岡県) で聞いた。実は、三ヶ根山に眠る遺骨は、もともとは熱海の興亜観音に納められていたものが分骨されて、同地に届いた。その経緯を、私は興亜観音の住職・伊丹妙浄の説明で知った。 伊丹は私が熱海を訪ねた際、向こうから声をかけ、親切に案内に回ってくれた尼僧である。おそらく参拝客が訪ねるたびに、そうしているのだろう。 諳んじた歌を披露するかのような滑らかな口調で、伊丹は次のようにことの経緯を話してくれた。 なお、素顕が設立した「防共新聞社」を母体として、 55 年に誕生した右翼団体が「防共挺身隊」である。代表を務めたのは素顕の長男・進だ。彼は福田邦宏の叔父にあたる。 「行動右翼のパイオニア」とも呼ばれる「防共挺身隊」は、戦後右翼の象徴的な存在だった。現在、右翼と言えば黒塗りの街宣車と、大音量で流される軍歌といったイメージが強いが、そうした街宣スタイルを確立させたのが、まさに「防共挺身隊」だった。 しかし、昭和に入って転向。これは活動資金を地元財界に求めた事例を同志から批判されたことが原因だとされる。今も昔も社会主義者は、少なくとも建前上は「金に綺麗」であることが求められる(実際、アナーキストの中には、企業に金をせびっては、それを活動資金に回す者も少なくなかった)。赤尾とすれば、仮に「汚れた金」であっても、社会主義革命のために使うのであれば浄化されると考えたのであろう。 その後、赤尾は国家社会主義者の 高畠素之 などとともに、赤色メーデーに対抗する「建国祭」を開催し、反共の道を進む。赤尾が提唱した「建国祭」は、紀元節の日に国民が一斉に皇居の二重橋を目指し、皇居前広場で天皇陛下万歳を三唱するといったものである。 若き日の曺はマルキストであり、朝鮮独立運動の闘士でもあった。 「靖国の桜はソメイヨシノですな。私はソメイヨシノがあまり好きではないんです。なんというか、あまりに華美で、自己主張が強すぎるような気がするんです。人工的な感じもします。その点、山桜はいい。素朴で、ひっそりと、控えめに、昔からそこにいるかのように優しく咲いています。風景の中で浮き上がることなく、自然と調和している」 古い上着を脱ぎ棄てても、右翼の細胞は体内に生きている。右翼が心情に訴えかける思想であることは先に述べた。国と民族を守る──右翼思想の根底に流れるのはナショナリズムである。日本の場合はそこに天皇への崇敬の念を重ね合わせ、時代状況に応じて、看板が塗り替えられてきた。 右翼としての新しい門出を考えたとき、エネルギーとすべきは「反共」だった。戦には敗れても、社会主義革命によって日本が日本でなくなることは避けねばならなかったのだ。社会主義(あるいはその発展形の共産主義) は、天皇を否定する。伝統よりも進歩を重視する。革命歌の「インターナショナル」に象徴されるように、国際連帯が国益以上に重視される(そうした意味において、北朝鮮など、現存する共産主義国家は本来の意味の共産主義を実行していない)。右翼にとっては、国を守るためにも、社会主義・共産主義は断じて許容できるものではなかった。〝容共〟は国家の否定にもつながるのだ。 曺寧柱にしても、あるいは町井にしても、在日コリアンである彼らがなぜに日本の右翼となるのか理解に苦しむ向きもあるだろう。もちろん当時は「反共」なる大義名分を前に、むしろ日韓の裏社会が太いパイプで結ばれていたという時代背景もある。「反韓・嫌韓」を叫ぶことだけが愛国だと思い込んでいるネトウヨ世代には理解できないだろうが、右翼界隈にあって日韓は、「対北朝鮮」の同志でもあった。 そう話すのは、全日本愛国者団体会議(全愛会議) の顧問を務める三澤浩一( 58 歳) だ。前述したように、全愛会議は時対協と並ぶ右翼団体の全国組織である。学生時代から右翼の世界で生きてきた三澤が、〝親韓〟から〝嫌韓〟に変化した右翼の経緯について説明する。 いまやネトウヨと変わらぬ、剝き出しの排外主義とヘイトスピーチで反基地運動を貶める「日思会」だが、組織の創設に関わったのが「在日」であることを知っているメンバーはどれほどいるのだろうか。「朝鮮人出て行け」と連呼する彼らは、自らの組織の歴史を否定しているに等しい。 「日本学生新聞」創刊号には、三島由紀夫が激励文を寄稿している。 〈偏向なき学生組織は久しく待望されながら、今まで実現を見なかった。青年には、強力な闘志と同時に服従への意志とがあり、その魅力を二つながら兼ねそなへた組織でなければ、真に青年の心をつかむことはできない。目的なき行動意慾は今、青年たちの鬱屈した心に漲ってゐる。新しい学生組織はそれへの天窓をあけるものであらう。日本の天日はそこに輝いてゐる。〉 三島の期待の大きさが伝わってくる。 「論争しました。そのたびに左翼の人はよく本も読んでいるし、勉強しているんだなあと感心しましたよ。もちろん、こちらも負けるわけにはいかないから必死で勉強する。左翼の存在は刺激にはなりましたね」 余談ではあるが、後に魚谷が京都市内で古書店を開業する際、古本などを提供してくれたのは、学生時代の論争相手である左翼連中だった。一貫して保守、右派の道を歩むことになる魚谷だが、元ブント、元赤軍といった左翼人脈が魚谷の開業を手助けしたのだ。 大会では評論家の福田恆存や京都大学教授の会田雄次が記念講演を行っているが、もっとも鈴木はこれらの保守系文化人を冷めた目で見ていたという。 「なにか、学生に迎合しているみたいで嫌な感じがしました。だいたい、保守を名乗ることにも抵抗を覚えていたんです。保守と保身は同じようなものだ、くらいの意識でいましたから。改革してこそ学生運動だろうと」 そもそも三島は「愛国心」を声高に叫ぶ者を信用していなかった。既存の右翼団体のことも毛嫌いしていた。三島の美学は、子どものように殴り合う学生たちの姿には重ならず、あるいは、街宣車でわめくだけの行動右翼にも向かわなかったのだ。 結成から2年後の 74 年に、その後の鈴木の人生を決定づける事件が起こる。北海道の陸上自衛隊千歳基地で隊員が基地内にストリッパーを呼び、ストリップショーを開いた事実が報じられた。一水会ではこれを問題とし、防衛庁に対する抗議街宣を行った。その際、鈴木と同志数名が制止する警察官を振り切り、正面門扉を乗り越えて庁内に侵入。全員があっけなく逮捕された。この一件により、鈴木は産経新聞社を 馘首 される。 巨大宗教組織・創価学会を支持基盤に持つ公明党は、その頃から「自公連立」を推し進めていた。公明党は確実に「権力」の側に居場所を求めてきた。数の力を背景に自民党にすり寄るかのような姿勢は、ほかの宗教団体の反発を招いただけでない。もともと天皇制護持や国家神道に距離を置いてきた創価学会は、右派から信頼されていない。そのためか、現在もなお、右派勢力にとって公明党は警戒すべき相手として認識されている。 「今回の検定を通った道徳教科書で目立つのは、古めかしい〝男女の役割分担〟や古典的な家族像です。非常に復古的な描かれ方がされている。たとえば、子どもと接するのは常に母親です。父親は職業人として描かれ、家で子育てするのは母親であることが当たり前のように描かれています。また、祖父母も、優しい祖母と伝統を守る祖父、といった役割分担がされている。祖父は戦前育ちとしかいいようのない価値観の持ち主で、時代を考えてもリアリティがありません」 そこに透けて見えるのは、やはり日本会議を始めとする復古勢力の存在だ。彼らは長きにわたり、日本古来の「家族像」を教科書に反映させるよう訴えてきた。 「本来、神社はイデオロギーとは無縁の場所にあるはず。神社本庁や神政連は結局、改憲運動などを通して権力による支配の道具に成り下がってしまったと思うのです。彼らの言う『伝統』にしても、要するに戦前回帰、大日本帝国のことですからね。伝統を口にするのであれば、神社を本来あるべき祈りの場に戻すべきです」 戦前、神社は一宗教というよりも国家機関の一部だった。神社界が改憲に躍起となるのは、国家と一体化した「戦前の神社」を神社本庁幹部らが夢見るからではないのか。だからこそ、戦後という時間は否定されなければならないのだ。 現代の右翼は「背広を着た右翼」だけが目立っているわけではない。これまで見てきたように、右翼は土台をそのままに装いのリニューアルを繰り返す。いま、日本社会で跳梁跋扈するのは、鼻歌交じりに「愛国」の旗を掲げるライト(light) なライト(right) だ。 ただし、重みはなくとも破壊力はある。社会に深刻な亀裂を持ち込む。笑いながら、軽やかにスキップしながら、人と地域を壊していく。従来の右翼観を塗り替えたという意味において、あるいは国際的な基準で言えば「極右」そのものである。 だが「宇予くん」のアカウントを管理していたのは、暇つぶしにヘイトスピーチを書き込むような単なるネトウヨではなかった。公益社団法人「日本青年会議所」(日本JC) ──地域の若手経営者などで組織される経営者団体が「宇予くん」を動かしていたのである。 「宇予くん」のプロフィール欄にも、ツイートの内容においても、JCのことはまったく触れられていない。だが、ネット上に「宇予くん」を用いた改憲戦略を示すJCの内部文書が流出したことで、両者の関係が明らかになった。 この文書によると、「宇予くん」はJCの憲法改正推進委員会によってつくられたキャラクターで、「憲法改正をはじめとする歴史や愛国心など保守的なことを面白くつぶやく」「対左翼を意識し、炎上による拡散も狙う」ことを目的としたネット戦略の一環であるという。「 19 歳」「浪人生」「右寄り」といったキャラクターイメージも設定され、ツイートする際には語尾を「~ど」「~だど」とするよう決められていた。 私が愕然としたのは、JCがかくも下劣なキャラクターを用いてまで改憲運動を推し進めようとしていたことだけではない。内部文書を読むかぎり、JCは「宇予くん」なる存在を本気で「対左翼」「改憲運動」に有効だと思っていること、さらには右翼にひもづけられる「 宇予」なる文言を用いることに、何の躊躇も見せていないことだった。 その後、「宇予くん」の〝中の人〟であったことがバレたJCは、アカウントを消した。ウェブサイト上で「不適切発言を繰り返しておりました」とのお詫びメッセージも掲載した。
0投稿日: 2024.07.01
powered by ブクログ右翼の流れがわかりやすい。 右翼は歴史と伝統を重んじた保守であり、異なる他者に対しては排他的で、復古主義であり、理念というよりも情念に近い。 日本右翼の源流は、江戸時代末期の水戸学にあるとされる。儒学を基盤に、神話や道徳を尊重し、身分や社会の安定を説くもの。吉田松陰や西郷隆盛らの幕末の志士に大きな影響を与え、倒幕運動や尊王攘夷思想が生まれた。 大正時代には、大正デモクラシーによって人々が権利意識に芽生え、大正6年にはロシア革命が成功して日本の支配層に大きな恐怖を与えた。政治家や企業経営者は、労働争議や小作争議を弾圧しなければならないものとみなし、その先兵として右翼団体が利用された。 昭和15年、近衛文麿内閣の要請に応じて右翼団体・政党は大政翼賛会に組み込まれ、太平洋戦争が始まると、あらゆる社会運動は戦時体制に組み込まれた。戦後は、占領軍によって右翼団体の解散と右翼人の公職追放が指示されたが、 1950年に右翼関係者の追放が解除されると、右翼を糾合する動きが活発化した。 1960年代に発足した日本学生会議(JASCO)は、ヤルタ・ポツダム体制の打破を掲げて、右からの革命を主張した。 1966年、左翼に対抗するための早稲田大学学生連盟が結成され、他の大学に呼びかけて横断的・全国的な日本学生同盟が結成された。 1969年には、全国学生自治体連絡協議会が結成され、鈴木邦夫が委員長に選ばれた。1970年には、反核拡散防止条約で右翼共闘構想を打ち出し、日本学生会議、全国学生自治体連絡協議会、日本学生同盟統一派が反核防統一戦線を結成した。 1970年以降、新左翼が力を落としていくのに伴って、 右派の学生運動も先細りになっていった。 一水会は、三島由紀夫らの遺志の継承を目的に、1972年に設立され、対米自立、自主憲法制定、日米安保破棄、戦後体制打破をスローガンとした。 日本青年協議会は、生長の家学生会全国総連合のOBを集めて1970年に結成され、各地で改憲集会を繰り返した。 日本を守る会は、鎌倉円覚寺貫主を務めていた朝比奈宗源と、富岡八幡宮の宮司だった澤渡盛房が、生長の家の谷口の協力を得て1974年に設立し、右派宗教界が大同団結した。事務局は、生長の家に関係する日本青年協議会のスタッフが務めた。日本を守る会は、愛国心が希薄となった戦後を一掃することを趣旨とし、連帯と連携を意識しながら大衆運動を盛り上げていった。 日本を守る会は、1978年に元号法制化実現国民会議を結成して、生長の家や神社本庁が運動の実動部隊となり、翌年に法律を成立させた。 1981年には、日本を守る国民会議を発足させ、日本国憲法をアメリカの押し付け憲法だとして、改憲に向けた大衆運動を牽引した。 日本を守る国民会議は、1982年に、第二次世界大戦中の日本の植民地政策に関する教科書の記述をめぐって中国・韓国から強い抗議があったことに反発し、自ら教科書をづくりを進め、 1997年には新しい歴史教科書をつくる会を発足した。しかし、つくる会の教科書の採択は進まず、内部対立から日本会議系のメンバーが脱退して、 2007年に日本教育再生機構を設立した。教科書の出版社には、フジサンケイグループの扶桑社の子会社である育鵬社が当たり、現在は600校で使用されている。 1997年には、守る会と国民会議が統合する形で日本会議が発足した。この背景には、1990年代の自民党一党支配の崩壊、村山談話の発表、天皇制護持や国家神道に距離を置いていた創価学会と公明党への警戒心があった。
0投稿日: 2023.05.30
powered by ブクログ叙述が客観的で信頼出来る。 国が右傾化してるというのは、なるほどそう思う。国が沈滞化してるのはそのせいかもしれない。
0投稿日: 2023.04.11
powered by ブクログ第二次世界大戦後、日本はアメリカの統治下に置かれた。そこで、アメリカからの統治を拒絶し、旧来からの日本の伝統を取り戻し、日本国民で国を守るというスタンスで「右翼」が形成されたのは知っていました。しかし、今の右翼団体を見ると、アメリカを迎合している状態。もっといえば、アメリカの手下になって、中韓を威圧するスタンスに鞍替えしており、とても矛盾を感じたため、なぜそのような経緯を辿ったのか、興味深いと思い購入してみました。 読んでみると、初めはアメリカに対する敵対心を軸として活動していましたが、アメリカと日本右派勢力も共に「反共」を掲げていたため、考え方が一致したという経緯らしいです。 -「古い上着を脱ぎ棄てても、右翼の細胞は体内に生きている。右翼が心情に訴えかける思想であることは先に述べた。国と国民を守るー右翼思想の根底に流れるのはナショナリズムである。日本の場合はそこに天皇への崇敬の念を重ね合わせ、時代状況に応じて、看板が塗り替えられてきた。」(本文引用) この本を読むまで、左派と違い、右派は「堅物」「頑固」のような、古来からの伝統を守り通すというイメージがあったのですが、そんなことはなかったようです。 右派・左派共に、主張の違う勢力を押さえつけるための手段として用いられていたのが「暴力」だったのはいつの時代も変わらないことがわかります。(右派・左派に分類される全てのグループがそうだとは言えませんが...) 右派勢力だけに限ってみると、近年では、SNSの普及で、ネット上で思想宣伝を行う「ネトウヨ」の台頭により、若者まで「ネトウヨ」の右派思想が広まっている現状に恐怖を感じます。それは、「ネトウヨ」の喧伝している情報を信用した者がマイノリティに対し直接危害を加えることが起きていること、その情報自体が真偽不明なものが多く信憑性が欠けること、などがいえるのにもかかわらず、信用してしまう若者が多数いることが恐ろしいです。 そのような「ネトウヨ」の活動に対し、「世間に対するイメージが下がってしまう。右翼は元々民族主義をベースに形成されたため、中国、韓国の人たちも尊重すべき。」と考える右翼団体も多数あり、右派系の中でも色々な主張があるのは驚きました。 本書の締めにもありますが、右翼は社会の矛盾と向き合うことで勢力を拡大していったにもかかわらず、左派勢力の逆張りをしていった結果、現在はマイノリティをただ差別するだけの集団になっています。 今の政治と一緒で、右派・左派共に相手の主張の「逆張り」(と不祥事の「揚げ足取り」)をするだけで、両者のそれぞれにいい主張があっても霞んでいる印象があります。そこをどうにかしないと...
2投稿日: 2022.01.17
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
読んでよかった、の一言。 右翼というと、自分のなかでヘイトスピーチをしてる差別主義者なのか?という印象が特に、在特会の影響であった。 だけど、日本らしさ、日本の伝統を愛する民族主義が右翼の源流であり軸なのだとすると、賛同はできないが考え方の一つとして理解できる。 その中で、右翼のなかでも民族主義的な人は、民族差別を認めるわけではなく、日本として独立して強くあることを考えているのだとすると、それも一理あると思う。 でも、結局日本らしさってなんだろうって考えたときにそれって言語化できるものなのだろうか?教科書を変えて加害の歴史をないものにしようとしてる人もいるけど、「愛国」なのだとすると、愛はいいところも悪いところも認めることじゃないのか?加害の歴史を隠したり、誰かを貶めたり、自由を奪うことは理想的なのだろうか?それは、愛することができる国なのだろうか? 現代の愛国者が望む、理想の世の中が気になってしまう。 リベラルは理想的、右翼は保守的というけれど日本においては戦前の日本を望む時点でそっちの方がかなり理想主義的なのではないか? 多様性を認めることってなんだろうか。グローバル化してアメリカなどに留学して海外の考えを自分の中にいれることだろうか、私は、自分らしさありきで多様性を認めることができると思う。 そこには、個人主義と集団主義の問題もまた出てくるけど、集団としてまだ国を捉えてもいいとするならば、日本らしさを認めて、かつ他国を認めるのもまたいいのではないだろうか? 文化の本質主義構造主義も学んだばかりなので意味不明なこと言っているかもしれないが、政治にも絡むこれらの思想についての知識はこれからも得続けたい
3投稿日: 2021.05.11
powered by ブクログ本書を読んで初めて知ったが、敗戦直後には松江事件など、やはり負け戦を受け入れられない連中による騒動が続発していた。確かにマヌケだったりただただ陰惨だったりはするのだが、それでも時代に流されるまま親米右翼にかじを切り組合や左翼叩きに熱を上げてきた連中よりは人間として評価すべきところは多いだろう。しかし本書を読むとそうした人々は右翼の中でもマイノリティでしかなく、宗教右翼から現代のネトウヨに至るまで、金の力、権力の力になびく太く黒い流れこそ日本の右翼の本質であると痛感する。
1投稿日: 2020.12.19
powered by ブクログ右翼、そして左翼。 よく聞くけれど、その実はよく知らないという方は多いのでは? 4月29日昭和の日、右翼団体と思われる人たちが一日中何かを騒ぎ立てていた。 5月1日、仕事の為外出すると官公庁の前で「恥を知れ!」と黒塗りの街宣車に乗ってきた人たちが怒鳴り立てていた。 単純に疑問に感じたので、本棚の肥やしになっていた本書を手に取った。 この本の内容が全てではないのは当然のことだが、それにしても衝撃を覚えたのは一ヶ所や二ヶ所のことではない。 有権者として、一票を持ち得る者として、しっかり考える義務があると強く感じた。
0投稿日: 2020.05.05
powered by ブクログなんとも感想の書きにくい本だが、勉強になった。大衆こそが政治を動かすというのは、ガセットの大衆の反逆において既に指摘されているが、これは怖い。
0投稿日: 2020.02.23
powered by ブクログ【右翼とはいっても,すべてが同じ色に染まっているわけではなかった】(文中より印象) 街宣車や拡声器,そして時にはネトウヨという言葉に代表されるようなイメージで語られてしまう戦後の「右翼」。敗戦後の混乱から現在に到るまで,多様な潮流を生み出したその思想的な歩みを眺め,今日的意義を考える作品です。著者は,『ネットと愛国』等の著作でも知られる安田浩一。 表題が示すように大枠としての「右翼」の歴史を知る上で大変勉強になる一冊でした。右翼という言葉とその響きからは想像もできない思想的なグループがあったりするなど,意外性に満ち溢れた作品でもあるかと。 評判の高さも宜なるかな☆5つ
0投稿日: 2019.09.18
powered by ブクログネトウヨという言葉が一般化している現在,右翼とはなんでしょうかという問いに歴史的な経緯から答えようという試み. 黒い街宣車以外だと赤尾敏か野村秋介くらいしか知らんかったが,左翼組織が分裂を繰り返したように右翼の歴史もまた複雑なようだ.終戦間際の混乱期,反共のために動員されるヤクザ風の方々の話,諸政治結社や生長の家から日本会議に至る組織の話など知識が増えた. 石原莞爾も登場するよ.
0投稿日: 2019.05.01
powered by ブクログ雑誌記者が右翼団体について纏めた本。右翼に分類される小団体の動向を、取材をもとに紹介している。学術的ではなく右翼そのものの研究が浅い。親族の話や一部の噂の部類を根拠にしている点があり、右翼についての説明に信憑性がない。歴史や国際関係に関する知識も欠如しており、右翼との関係に疑問点が多い。期待外れの残念な本であった。 「(野村秋介)尻込みしない。素早く駆け付ける。人々の命を守るために自らが盾となる。必要とあらば、そのための暴力でさえ肯定した。人々の素朴な心情に寄り添うのが右翼だと説いた」p3 「(日本の右翼)欧米列強に立ち向かい、財閥の腐敗に憤り、農村の疲弊に涙した。まさに民族の触角として危機を感受し続けてきた。自由、平等の理想を掲げる左翼とは違い、国家への忠誠が優先される。日本の場合、そこに絶対不可侵の天皇という存在が加わる。急激な変化を望まず、国家と民族の威厳を保ち、歴史の風雪に耐えた伝統と習慣を守り、国内の安寧維持に尽力する。右翼は極めて濃度の高い「日本」であろうとした」p4 「右翼には、左翼のような教典がない。左翼には社会主義、共産主義という目的とすべき政治体制があり、マルクスの「資本論」をはじめとする教科書にも事欠かない」p26 「右翼思想がこだわるのは国と民族だ。風雪に耐え抜いてきた国と民族、それを支えてきた風土を守り抜くことこそが、概念としての右翼である」p26
0投稿日: 2019.04.17
powered by ブクログ戦前右翼(血盟団など) → 2.26事件で衰退 →政府に協力(体制翼賛) →戦争終わる →戦後、一部は敗戦認めず過激な行動に走る。他は米軍の制裁を受け衰退 →レッドパージと共に、戦後右翼がたくさん出てくる(右翼の多様性のある時代)(この時代から今に至る までの右翼の特徴は、反共・反左翼としての「親米」) →暴力団・自民党とのつながりを深め、「権力補完」的な存在に。 →学生運動の時代に、「新右翼」誕生。(「反米」掲げる)(既存勢力の打破目指す) →学生運動の衰退=左翼の衰退とともに、カウンターとしての右派も衰退 →二大右派が連帯した「日本会議」が誕生。(「制服を着た右翼」から「背広を着た右翼」へ。)(地道な草の根運動で改憲・教育の見直しを世の中に浸透させながらここまできた) →ネット右翼の跋扈(ふつうーーーーーーーーの人が実はネトウヨ。)(在特会が衰退しても、状況は 何も変わらない) →ネトウヨと従来右翼の境があいまいに。 「本物の右翼は民族差別などしない」 この古参右翼の言葉を全ネトウヨに贈りたい!!!!!
0投稿日: 2019.03.19
powered by ブクログ地道に活動する日本会議が最も怖い右翼団体であることがよく分かった。ただ、戦前のテロを起こすような右翼団体よりはましか。 本来の右翼はそれなりに理論があり、首尾一貫した主張もあったが、今の右翼にはそれはなく、単なるマイノリティ排斥しかなく、多くの既存団体もそこに近づいているようで情けない。 声も大きい、強面の人にはみんな弱いから、なんとなく右翼の人達に引きずられていくことを恐れる。
0投稿日: 2019.02.14
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
戦後、右翼がどのように生き抜いてきたのか、筆者の丹念な取材によって明かされている。 右翼という存在は画一的なものではない。国体護持を信念とする者、反共のためにはアメリカとも手を取り合う者、ヤクザのような街宣右翼、所謂ネット右翼と呼ばれる者など。 僕は筆者の著書を初めて読んだ。僕がハッとさせられたのは、日本会議に関する内容についてだ。 最近、日本会議という言葉は聞いたことがあったが、詳しくは知らなかった。今回、本書を読んで驚いた。 日本会議のやり方がとてもサラリーマン的だからだ。筆者は「背広を着た右翼」と本文中では表している。 街宣右翼のように、街中で演説はしない。コツコツと、ゆっくり、着実に自分たちの信念を社会に浸透させていっている。 筆者は右翼とは、権力と社会の不平等に対峙すべき存在であるべきだと述べている。 権力に寄り添い、権力の拡声器だけの存在となってはいけない。 確かにな、と僕は思う。
0投稿日: 2019.02.09
powered by ブクログジャーナリストが足で書いた歴史。取材して書かれた箇所は抜群に面白い。 印象に残ったのは、時対協の定例会議(p85〜)と沖縄基地に反対する花瑛塾(p273〜)の場面。ネトウヨ・行動右翼とは異なる反骨精神のある右翼には、不思議な魅力がある。 恥ずかしながら、安田氏の著書を読んだのは初めて。もっと読んでみたい。まずは『ネットと愛国』かな。
0投稿日: 2018.10.07
powered by ブクログ十数年前に可愛らしい幼女が電話機に向かって「右翼さんは大嫌いです。でも、左翼さんはもーっと嫌いです」と嘯くCMがあり、私のメンタリティーも同一である。 さて、本書はそんな戦後の「右翼さん」が生まれた歴史的経緯や様々なイデオローグたち、戦後自民党政権における右翼・暴力団との蜜月、60年代の新左翼のカウンターとして台頭した新右翼の登場、現在の日本会議に繋がる宗教右派、そしてネトウヨまで、戦後右翼の歴史が緻密な一次取材に基づいてまとめられている。 本書を読むと、近年の民族差別的なヘイトスピーチに代表されるようなネトウヨと伝統的右翼の間には、「民族差別を許すか許さないか」という大きな分水嶺があることに気づかされる。その点では、民族差別を許さないという左翼の発奮だけではなく、伝統的右翼も声を上げるべきではないのか、とも思う。
0投稿日: 2018.09.23
