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ゼロ年代の想像力
ゼロ年代の想像力
宇野常寛/早川書房
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総合評価

72件)
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    小さな物語の時代は決断主義のバトルロワイヤルの時代でもある。その時代を勝ち抜く前提がメタ決断主義とでも言うべき、自分たちを成り立たせているシステムへの自覚的関与だ。 その上で、そこからの解決を、宮藤官九郎は郊外を舞台に「死」を自覚させることで表現した。また、木皿泉は大きな物語は日常に潜む小さな物語を覆い隠していたことを暴露し、物語は与えられるのではなく、見出し、作りゆくことを表した。 また、過剰流動性社会において、大人が出来る事は子どもに特定の価値観を押しつけるのではなく、彼らが生きる環境を整えること、という主張は頷ける(六番目の小夜子、よつばと!)。 ドラマ「ラスト・フレンズ」を高く評価、分析している。 2025年の政治状況はまさにバトルロワイヤルの様相。その中でチームみらい的なものが生き残る余地はあるのか?そんなことを思いながら読み終えた。

    0
    投稿日: 2025.10.20
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    どこかのブックガイドから。ハヤカワ文庫から、ってのがちょっと意外な気もしたけど、JAのラインだとこういうのもアリなんかな?2000年をまたいでの前後10-15年くらいにおける、主にエンタメ界隈からのぞいた世相論。取っつきにくい印象だけど、小難しい部分を半ば読み飛ばすくらいの感じで読むと、それなりに楽しく読み通せる。でも、文中で大きく取り上げられている作品のうち、おそらく半分以上に触れてきていないこともあり、理解は不十分。かといって、それら作品に触れた上でもう一度本書を、とまでは思わんかな。

    0
    投稿日: 2023.07.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ゼロ年代に入り、その想像力はセカイ系からバトルロワイヤル系へ。引きこもってたら生き残れない。だがもう10年代。さぁどうする。東浩紀を批判。噂によると、東と喧嘩して書いたとか。

    0
    投稿日: 2023.01.10
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    2022年に読むと当然ながら、本書の分析は過去の一時点を切り取った評論となる。 しかしながら、2000年から東日本大震災の時期を青春として過ごしてきた人(私)にとっては自分を形作ってきた時代性が分かりやすく批評されており、自分自身の思想の根っこにあるものを見つめ直すことができた。 良書であると思う。

    0
    投稿日: 2022.09.23
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    ジャンプ作品や仮面ライダー、モーレツ大人帝国の逆襲に野ブタをプロデュースなどゼロ年代の作品とか空気が結構好きなので読んでて楽しかったし、こういう作品たちの社会状況の鏡としての見方はできたことなくて勉強になった

    7
    投稿日: 2022.01.20
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    「大きな物語」が失われたゼロ年代を生きる者へ。 著者の言っていることはわかるようなわからないような。ゼロ年代が終わり、エヴァは完結し、ソシャゲの存在感が大きくなっている。今、著者は何を考えているのだろう。

    0
    投稿日: 2021.08.02
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    大きく分けて、 70年代 「大きな物語」に支えられた時代 80年代 「大きな物語」の喪失後も好景気でそれが見えなかった時代 90年代 「物はあるが物語がない」価値観の宙ずりの時代 00年代 究極的には無根拠なのだから決断主義的に「信じたいものを信じる」時代 00年代後半 決断主義が孕む暴力性の克服を模索 という流れになっている。 主に90年代の引きこもりから00年代の決断主義(引きこもっていたら殺される)への変化を当時のアニメを通じて浮かび上がらせている。 自分はおたく、もしくは引きこもりの体質のある人にとっては、それを社会に還元できるのではないかという希望を持たされるだろう。それと同時に、結局は何を信じるかは究極的には無根拠であると放り出され、「open the door」して他者とコミュニケーションをとろう!と突き落とされる。もっともそれができれば苦労はないが。 シンエヴァを見て最後には「大人になれ」と放り出される感じと似ている笑

    0
    投稿日: 2021.04.03
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    定まっている社会から定まらない社会へ その不安に対する問いから「セカイにひきこもる」というフェイズを経て、社会が定まらないなら勝手に自分で定めなければならないという決断主義へ 「世界」の全容を捕捉できない、ただ離脱不可能なほど広く続いていて、自分が他者において入れ替え可能であるという認識だけが深くのしかかる。 その社会からいかにして距離をとるか。 そのこと自体がゼロ年代の「文学」だったのではないか。 「野ブタ。」論とクドカン論はめちゃくちゃ良かった。

    0
    投稿日: 2020.08.10
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    このレビューはネタバレを含みます。

    …本来、日常という「死」へ向かう最大にして最後の物語に対峙することを求めながらも、それを恐れている人間こそが、それが手に入らないことに傷ついては「自分は非日常的なロマンティシズムがないと満たされない特別な人間だ」と(根拠もなく)思い込むことで、プライドを保とうとする。だが、彼らに必要なのは決して「非日常的なロマンティシズム」でもなければ、「超越」でもない。肥大した自己評価を捨て、素直に自分の欲望と向き合う謙虚さでしかないのだ。そしてそれは、決して不幸なことではなく、むしろ私たちに与えられた最大の可能性のひとつなのだ。

    0
    投稿日: 2020.03.08
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    ザクザクとした語り口で攻撃的なスタイルも見られるが、それも本書の魅力となっている。 野ブタや涼宮ハルヒなど現在の若者にとって実感を伴った理解がしやすい題材を用いており、批評にあまり親しみがない若者にとっても良い批評体験となるだろう。 良い意味でも悪い意味でも小説のようだった。

    0
    投稿日: 2019.12.17
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    【総当たりからの切り結び】「大きな物語」の終焉からの「セカイ系」を経て、バトル・ロワイヤル型の社会の向こうに位置する想像力を模索することを試みた批評作品。多彩なメディア作品を読み解きながら、2000年代とその次の時代はいかなるものかを検討していきます。著者は、『PLANETS』の編集長を務める宇野常寛。 本当に久しぶりに批評と呼ばれるジャンルの作品を手にしたのですが、非常に刺激的な読書体験となりました。本書に寄せられる批判をも含む形で、頭を一度ぐにゃぐにゃにして物事を捉え直すことができる一冊だと思います。 〜ゼロ年代も終わりに近づいた現在、「成熟」とはコミュニケーション、他者と手を取り合う能力であるとする想像力が生まれている。自分とは異なる物語を生き、異なる超越性を信じる他者と関係を結ぶことこそが、現代における「変身」であり、「成熟」なのだ。〜 『リトル・ピープルの時代』も読んでみようかな☆5つ

    0
    投稿日: 2019.01.14
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    おー、なんとなくぼんやり感じてたことを言語化してくれた感覚! 今さらながらに、長年第一線で活躍してるエンタメ界の人はすごいなあ〜。私の好きなバンドさんの傾向の変化も改めて必然やったんやなあ。 ま、この論が世に出てから10年経って読んでるて相当遅れてるわけだけどw とりあえず私は90年代文化にどっぷりなので(…)、今後の社会も楽しんでけるように頑張らねば!! あと「日出処の天子」はすごい高い評価でそれは嬉しいよねー

    0
    投稿日: 2018.11.16
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    12:旅行のおともに電子版を購入。多少古い内容ではあるけど、コンテンツの構造や社会性を批評する、ということを普段しないのでものすごく興味深く読めました。10年代の想像力は、果たしてどうなるんだろう?

    0
    投稿日: 2018.10.08
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    東浩紀の「動物化するポストモダン」論を更新すべく著されたゼロ年代論。大きな物語が存在しない時代に、自己や物語のキャラ化、他者回避の到来を述べた東に対し、宇野は決断主義が到来してるぞと先を歩いてみせる。経済成長の終焉から規制改革が生まれたように、碇シンジは自身の根拠を持たない宙ぶらりんに耐えられず、夜神月に取って代わられたのだと。 しばしば批判されるように取り上げる作品の恣意性を感じなくもないが、サブカルという人の性癖の問題で世相を語ろうとする以上、それは甘んじて受けるべき批判だろう。 決断主義がはらむ暴力性なども問題にしている。規制緩和が生んだ暴力の問題に通じているが、大きな物語の時代だろうが小さな物語の時代だろうが、決断主義に特化した問題ではないと思うので、別枠で暴力論をやればいいと思う。 主に東日本大震災以前の議論であるため、震災以降の社会を見るための土台の議論として相応しい。宙ぶらりんを耐えられる強度を持たないのであれば、これから我々はどんなマシなシバ神を信仰するべきのか見極めなければならないのだから。

    0
    投稿日: 2018.01.03
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    このレビューはネタバレを含みます。

    文化から社会を読む。 オタク文化への文芸的評論。 こういう評論が苦手だった理由を考える。 東に顕著に見られるが、主張を裏付けるための材料を極めて恣意的に選び出していること。 そして本質的に後出しじゃんけんにしかなりえないこと。 それはこの本も例外ではない。 しかしどこかしら、嫌悪できない。 言わんとすることを絞り込んでいるのが誠実に見えるためか。 もう少し寝かせる必要がありそう。

    0
    投稿日: 2016.07.15
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    2014.9.12読了 「物語について、もう一度考えてみようと思う」から始まる、停滞する「批評」を再起動させた著者のデビュー評論とのこと。 村上龍氏が随分前に書いてた、憧れとか目標とか模範とかがない時代、誰もが、頑張れば幸せになれると信じて疑わなかった右肩上がりの時代が終焉をむかえ、閉塞感で息苦しい昨今において求められる作品とはどんなものなのか。 終始興味を持って読み進められた。 いつの世でも、物語は求められるのだ。

    0
    投稿日: 2015.09.30
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    目からうろこというか、ものを考えるってこういうことを言うのかーと思った。 エヴァ、恋空、木更津、野ブタ、龍騎、セカチュー、ハルヒ、三丁目……これらワードにピンと来たらぜひご一読を。 今は無数の「正しい」が現れては消える、正しさの戦国時代。 そう考えると、水戸黄門が終わりを告げドラゲナイがヒットする理由も自ずと見えてくる(私見)。

    2
    投稿日: 2015.06.02
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    「大きな物語」の凋落 というフレーズは耳タコなんですけど わかりやすくてよかった。 大きな物語がなくなって、冷たいけれど自由な時代がやってきた 生きる意味は自分で探さなきゃいけないよ どうする? ドアを開けろ! というとてもわかりやすくてとても前向きな結論 この素直すぎる前向きさをストレートに押し出してくるところに好感が持てた 木更津キャッツアイが観たくなる。

    1
    投稿日: 2015.03.26
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    宮台真司や小林よしのりが、なぜ援交から天皇へ、脱正義論から戦争論へと主張がかわったのかという解釈がおもしろかった。「安全な痛み」という表現も。

    1
    投稿日: 2015.01.25
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    全然わけわからんところの方が多いけど、そうかもな〜と考えるところもあり。批評系の本はこんなのばっかりなのか?

    0
    投稿日: 2014.12.19
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    未来授業でお世話になったのでこの機会に再読したんだけど、今回の衆院選の決断主義的な側面に想いを寄せたり、しばしば指摘される自分の無自覚な父権主義的なところについて鋭い指摘を見出したり、なんか忙しかった。

    0
    投稿日: 2014.12.08
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    宮台真司や大塚英志の思想を90年代末に更新した東浩紀からその先、ゼロ年代を批評する。かつてないほど「自由」でいられる時代に、物語/想像力はどんな意味があるのか。セカイ系ではなくサヴァイヴ系に、仮想現実ではなく拡張現実的に。若干表現の仕方が雑なところはあるけど、大筋としては納得できる。さて、十年代も半ばだが、この10年はどのようにとらえられるのだろうか。

    0
    投稿日: 2014.11.08
  • 良くも悪くも「サブカル」評論

    巻末の著者インタビューによると、東浩紀とその追従者を批判するために書かれた本とのことです。実際に何度も何度も入れ替わり立ち替わり、舞い戻っては東浩紀批判とが繰り返されます。また「大きな物語」「ポストモダン」などの用語が特に詳細な説明もなく、自明のものとして使われています。評論全般というよりも、東浩紀氏の著書をある程度読んでいる人を対象としているものと思われます。 が、その批判の内容はあまり公正とは言えません。東氏の主張をいわゆる「セカイ系」と関連付けて批判を展開していくのですが、東氏の著書の内容を引用し「セカイ系=きみとぼくの関係が中間要素を介することなしに直接世界の終わりに関係している」として紹介しながら、本文中では「精神主義・ひきこもり」を意味する用語として批判しています。そしてその定義のすり替えは本文ではなく、章末の注釈に小さく書いているだけです。これでは著者が批判する意味での「セカイ系」を東氏が本当に擁護しているのか明らかではありません。こうなると、所々で出て来る、出典を示さずに「東氏はこう言っている、しかしそれは間違っている」という形での批判が本当に正当なものなのか、誤読、こじつけではないか、という疑問も出て来ます。 東浩紀批判以外の本書の内容はアニメ、特撮、ゲームに留まらず、テレビドラマ、邦画などを手広く扱い、著者の言う「決断主義」(究極的には無根拠でありながらもあえて一つの立場を選択すること、だそうです)をいかに克服するかを論じています。が、この「究極的には無根拠」という点がどうにも同意できません。その人の立場や価値観によって根拠が違うという場合はもちろんありますが、それを突き詰めれば無根拠というのは違うと思います。著者の言うように、究極的には無根拠(どちらが正しいかわからない)でもあえて一つの立場を選ぶということもあることは否定しませんが、それでも常に「究極的に無根拠」と言い切ってしまうのは、思考停止であり、中二病をこじらせただけの様に思われます。 著者は同時多発テロと小泉構造改革で「引き籠もり(セカイ系)のようなことを言っていては生き残れない」(「サヴァイヴ感」だそうです)となり、決断主義主義が台頭したとしていますが、特にそれ以上の社会、国際情勢に対する説明はしていません。大きな物語、ポストモダンを口に為ながら、ソ連の失敗とか冷戦構造の崩壊とかが出てこないのは斬新といえば斬新です。社会評論には手が届かないかわりに手広く「サブカル」作品を扱った、良くも悪くも「サブカル評論」としか括りようのない本、といった所でしょうか。

    0
    投稿日: 2014.04.28
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    ぶっちゃけさっぱり分かんなかったとも言える 登場する作品が多すぎてこちら側の知識が追い付いてなかった ただそれまで存在した東浩紀の言説やセカイ系についてなどについてよく整理されていてよかった 何度も読むことによって理解を深めていきたい本

    1
    投稿日: 2014.03.15
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    ⚪︎碇シンジでは夜神月を止められない。(中略)ゼロ年代の決断主義を克服する=夜神月を止めるにはどうしたらいいのかーそれが、(中略)九・一一以降の動員ゲーム=バトルロワイヤルのゼロ年代を生きる私たちの課題なのだ。(26p) ⚪︎社会的自己実現への信頼低下は「~する/~した」こと(行為)をアイデンティティに結びつけるのではなく、「~である/~でない」(設定)をアイデンティティとする考え方を支配的にし、問題に対しては「行為によって状況を変える」ことではなく「自分を納得させる理由を考える」ことで解決が図られる。(72p)

    0
    投稿日: 2014.02.08
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    ラジオ「オールナイトニッポンゼロ」で宇野常寛を知った。 「がんばっても,豊かになれない」ゼロ年代をどう考えればいいのか,マンガ,アニメ,映画やテレビドラマ,仮面ライダーなどを題材に解説する。 紹介する作品を知らない人にも分かるように比較的丁寧に解説されているのでわかりやすい。そのせいで分厚いのかもしれない。 この本にかぎらず,注を入れる位置はどうにかならないものか。この本は各章末にあるが,全16章もある中で章が変わるたびに注のあるページを探すのはめんどう。個人的には,本文と同じ見開き内に注があったほうがいいと思うが,どうなんだろう。

    0
    投稿日: 2014.01.28
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    ・社会の分析というのは非常にわかりやすくてよかった ・その中で今の時代が対立するしかないような時代とし、対立を容認しているのにわざわざなくそうといした。しかし、そうではなくてその対立を前提としたものを作り上げればいいのではないのかなと思った。

    0
    投稿日: 2014.01.27
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    非常に興味深い評論。やや筆者の筆が走りすぎている感がありますか。決断主義/安全に痛い/サヴァイブ系といった「言葉」にはある種の共感を覚えつつも、象徴として抽出していることになるすべての各作品について、読者体験/視聴者体験を持った人間がどれくらいいるだろうか。世相の鏡としては、一定程度の正確性を持ち得るだろうが、個別の読者像/視聴者像が重ならないように思えます。作品群が、もはや拡散してしまった現代にあって、同一のラインで論じることへの違和感はどうしても生じてしまうのかもしれないという印象を持ちました。

    0
    投稿日: 2013.12.15
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    おもしろかった!いろいろなことに輪郭が浮かび、名前が付いていくような快感。なんで「オタク」系ゲームは心地よく、同時に薄ら寒く感じるのか。メタ視点はなぜ採用されるのか。 あとおもしろいおもちゃ貰っちゃったなーって感じも強い。この本であまり言及されない初音ミクやフェイスブック、最近の半沢直樹の爆発的ヒット、あとはここではある程度所与とされてる「承認」てのはつまりなんなのか。考えたいことがたくさんできたなぁ。 個人的な話になるけど、大学時代に教わったあの先生とか、会社の先輩のあの人とか、この本に影響されてそうな人が何人か思い浮かぶのが面白い。たぶん僕も相当に影響をうけるんだろうな笑。

    1
    投稿日: 2013.11.23
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    95~08 までのサブカルの潮流を世間の風潮から読み解く一本筋のとおった論理展開がなされている。 95~00 までの引きこもり~セカイ系の展開 ⇒ 00~05 の決断主義(サバイブ系) の発展までの流れを分類したのは見事。取り上げる作品も多岐にわたっている。 あとは、ポスト決断主義として、決断主義の弊害をどのように乗り越えるのかについて、啓蒙的に述べていたが、そのへんの内容はいまいち。 ここらは自分で考えていくことだろう。  引用として使っていた 東の動物化するポストモダンを読みたくなった。

    0
    投稿日: 2013.11.16
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    アニメ・ラノベ・マンガ…きみたちの世代の想像力を対象化した批評的論考!神奈川工科大生にイチオシの本です!

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    投稿日: 2013.11.06
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    気鋭の評論家、宇野常寛氏のデビュー評論です。文学、アニメ、ゲームからテレビドラマまでを縦横無尽に論じ、更には文庫化する際に4万1000字の原稿を語り下ろしたものが収録されております。膨大な情報量です。 本書は気鋭の評論家、宇野常寛氏のデビュー評論です。2008年の刊行以降より、3・11後までを4万1000字の長きにわたって語り下ろしている原稿を追加して文庫化されたものであります。 実のところを言ってしまうと、本書で取り扱われている文学、アニメ、ゲーム、テレビドラマのうち、話の内容についていくことができたのはせいぜい2割がいいところで、ぼく個人に限って言うと、ゲームやテレビドラマをほぼ一切見ないしやりませんので、ついていくのがとても大変でありました。 また、文学についても村上春樹は『ノルウェイの森』『海辺のカフカ』そして『1Q84』などのメジャー作品くらいでライトノベルはほぼ読まず、金原ひとみ、綿矢りさをはじめとして白岩玄などの作品はほぼいっさい見ていないことに改めて気づかされました。 アニメについても『新世紀エヴァンゲリオン』(俗に言う『旧劇版』)以降にインスパイアされて作られた「セカイ系」と言うジャンルの作品群があるということをここで初めて知ったので、「ゼロ年代」という時代になって、かつて自分が好きでどっぷりと浸っていた世界から以下に遠く離れてしまったのかということをこれを読みながら痛感してしまいました。 宇野氏はよく自身がメインパーソナリティーを勤める『オールナイトニッポン0』にて 「サブカルチャーやポップカルチャーを批評することは日本社会全体について語っていることと同じことなんだ」 と幾度と無く標榜しており、そういう視点でこれらのサブカルチャーに接していたことが今までほとんど無かったので、宇野氏が愛してやまない仮面ライダー、とくに「クウガ」以降の「平成ライダー」に関する記述を呼んでいると、作品世界と我々の棲んでいるこの社会が以下に地続きであるかということが本当に良く分かり、 「なるほどなぁ」 と思いながらページをめくっておりました。 宇野氏が本書の中で幾度と泣く指摘しているターニングポイントとしてみなしている年は1995年であり、僕がこの年を振り返ってみても、オウム真理教の『地下鉄サリン事件』あり、後に社会的な現象を巻き起こした『新世紀エヴァンゲリオン』がTV放送されていたりと、今思っても本当に現在にとてつもない影響を及ぼしていた1年であったなと考えてしまいました。 そういった世界の中で碇シンジ君に代表される「引きこもって」しまうタイプと夜神月のように決断主義を用いてバトルロワイヤル式に戦っていくというパラダイムの変化についての論評も身につまされるものがあり、そういった事例として沢山のアニメやゲーム作品が挙げられていくのですが、残念ながら僕はそういうものに全くといっていいほど触れておらず、 「あぁ、そういうものなんですか」 というだけの感覚しかもてなかったというところが返す返すも残念でなりません。 自分がこれを読んでいて痛感したことは、多感な時期にほぼ『リアルタイム』で流通していたサブカルチャーやポップカルチャーを完全にスルーしてきたなということで、全くの『一般人』からすれば僕だって十分に「そちら側の」人間であるはずなのに…。 宇野氏及び本書との『差異』は一体何なのだろう…。そんな疑問が最後までぬぐうことができずに本書との『距離感』というものが的確につかめなかったナとは正直感じております。 「語り下ろし」で宇野氏が 「『ゼロ年代の想像力』の最大の欠点はAKB48を扱っていないことです」 とおっしゃっており、それが現在にまで至る怒涛のAKB論と、自らのラジオのコーナーで『世界の真実』とまで言い切る「推しメン」横山由依ちゃんへの「推し」へと繋がっていっているのでしょう。 サブカルチャー。ポップカルチャーを時代の流れとリンクさせて縦横無尽に語っているので宇野氏の話について聞ける方は純度1000%の『あちら側の人間』であることは僕が保証しますが、ただ消費されるこれらの『コンテンツ』は社会を写す『鏡』であるということを改めて教えてくれたという意味で、本書との出会いは良いものであったということを結びの言葉に換えさせていただきます。

    0
    投稿日: 2013.09.29
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    文化の批評から生き方を示すということに驚いた。普段作品を読んでもその作品の内部で感想が完結してしまうが、著者は大きな文脈の中から作品の立ち位置を考え意見しており、私も大きな視野を持ちつつ作品に触れてみたいと思った。 内容に関しては社会批評の文脈に触れていないため意見することはできないので、これからこのようなジャンルも読み進めて行きたい所。 話は変わるが読み解く側の視線で作品の意義を読み取り、生き方を示しているが著者はどこまで意図して作品に内包しているのかという疑問は残った。

    0
    投稿日: 2013.08.22
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    現代史、現代思想。ぼくたちについての思潮、ここ30年間あたりの文化の仕組みや様態が語られています。この国の精神史。 驚くのは取り扱っている「作品」の多さだなあ。純文学からラノベまで。映画から『仮面ライダー』シリーズまで。空撮的。ポップカルチャーの空撮。オタク文化のサラダボール。 90年代に強く影響を受けた「ぼくら」のこれからを、そのあり方を考えていくに十分な素材が盛り付けられている。意味や価値は受け手により千差万別だから、体系化は安易なのかもしれないが、それでも、それを食べてしまう。表現力の妙か。巻末に扱われた「作品」目次(固有名索引)だけでワクワクしてしまいます。ちょっと気になるのは、ある作品がそれよりも前に発表された作品から影響を受けていることを自明としている点。ここに議論の余地を見たい。このことを前提的に仮構しない論じ方もあるのかなあといぶかしがったりもしています。また、本書も商品という枠組みの中の一つであるという観点では、現代という物語カルチャーのn次的作品なのかもしれない。それを読んで頷いたり首をかしげたりする読者がいる。 それぞれの作品に何が底流していて、なぜ人はそれを享受するのか? 歴史的思想史的な文脈における各作品の位置づけなんて、正直、知らなくても楽しめるし、知らないほうが純粋に体感できて面白いのかもしれません。それでもそこにメスを入れていく行為は、スリリングだったなあ。 ・ある物語や作品についての社会的思潮的意味が語れるということはそれを愛好する人々の愛好する心を強固で堅固にする。好きであることについての後ろ支えになりはしないか。誰もがそうかもしれないが、自分が愛情を注ぐ事物が価値のあるものであってほしいと願う。カウンターカルチャーはメインストリームではないからこそカウンターなわけであって、それを擁護する思想を希求している。擁護されればそれがいずれメインカルチャーになり、また別の何かが生まれる。 ・大きな「物語」ではなく、大きな「ゲーム」の話題について 『ダウンタウン』、『ビートたけし』のような単一の物語ではなく、『M-1』や『AKB』のようなゲームというシステム・舞台装置にこそ大衆が動かされているという見方。評価の過程をも大衆に開示する。 『ハンター×ハンター』における「念能力」(その少し上流には『ジョジョ』における「スタンド能力」がある)の設定・構造が私たちに多くの空想的示唆を提供してくれる。 ・同時代に生きる人々は相互補完的に主張する。 この今、現在性に突き動かされていることは自明なので、当然ではあるが。 それでも主義・主張があって、それを言述する。 それでいいと思うし、そうしないとならないと思っている。 ・近年の『仮面ライダー』シリーズの文脈。 社会の様態が変容しているのだから、正義の在り方、描かれ方が変わるのも当然かもな。子供には勧善懲悪だけ与えておけばいいというのは妥当なのだろうか。 この手の論説本は、啓発書の一種と受け取ることもできるな。どんな風に読もうが読者の自由なんだけどね。 ・物語が意味そのものであり、最新の宗教としての科学が扱えない世の中の「ある箇所」を説明してくれるものなのだとしたら、著者の繰り返す「人間は物語から逃れられない」という言説にも強く肯首する。

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    投稿日: 2013.06.30
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    始まり方がモロに一般意志2.0。。。と思ったらゼロ年代の想像力の方が3年前に出てるのね。 筆者の動機にもあるように、東の論調を強く意識して書かれている。東の壁を壊し、越えようとする意図が痛切なほどに読み取れる。 東や宮台、(若手ではあるが例外的に)鈴木謙介のような論客と、宇野・坂上といった若手論壇の大きな差はことばの選び方、構成にあると思う。前者は極めて難解な思想や提案も、文章の構成力で易しく読めるように紐解く技術が巧みだ。後者は明らかに自らの高尚な議論に酔っている。鼻につく文章ではあるが、本書はゼロ年代への変遷をきちんとまとめており、文化の歴史が読み取りやすくなっている。 とにもかくにも、宇野がAKBを語り始めると(濱野ほどではないが)どうしようもなくうざったいので、AKBに触れる事無く本文が終わって良かった。

    0
    投稿日: 2013.06.08
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    理解できたのはせいぜい5〜6割かな、という意味で☆3。 今の私にとって一番重要だったのは、この議論のもっと下位のステージにある。それは、カルチャーが、ひとにとってなくてはならないものだということ。 その時代を象徴する「文化」は、何か一貫する人間の奥底でつながった深層意識みたいなものが動かしているということや、カルチャーを分析していくことで人間の思考回路が浮き彫りになるということ。それを前提に話が進んでいた、はず。 文化とは娯楽の形をしているが、そのコアに、生きる切実さが組み込まれていると思う。というか、そうであってほしいと思っていた。だからそれを納得できる形で示してもらったことが、いまの私にとってはとても大きな収穫だった。

    0
    投稿日: 2013.06.07
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     時代の雰囲気はこれまでも時々でかわり、これからも当然変わっていく訳で、その変遷に乗れなかった人が足を引っ張り、その変遷に乗れた人がその足を引き抜こうとするのです。  時代の雰囲気を拒否するんじゃなく内面化すれば、時代の風を感じることができるのです。

    0
    投稿日: 2013.05.19
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    このレビューはネタバレを含みます。

    タイトルの通りゼロ年代の想像力を中心に90年代くらいからの想像力の変遷を、アニメや漫画、ドラマ、映画、文学などから幅広く析出している。 セカイ系、引きこもり/心理主義、行為ではなく設定でのアイデンティティ承認、サヴァイブ系、ゆるやかな共同体、終わりある日常、母性のディストピア、環境整備を担う大人。 自分に身近なテクストが分析の俎上にあげられており、読みやすく興味深く読み進められた。各章のテーマが明確であったこと、何度も主張が繰り返されることも読みやすさの要因でもあった。 想起したのは東浩紀氏、大澤真幸氏(本書にも言及あり) 次はLPの時代を読もう。

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    投稿日: 2013.05.14
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     「もはや世の中は何も私たちに与えてくれない。正しい価値も、生きる意味も、すべて私たちは自分で調達しなければならない」  2000年以降のアニメや漫画、小説、映画を引き合いにあげ、現代の「想像力」の変遷をとき、ふんわりとした淡い色合いで彩られているソーシャルな現在へと向かっていく社会の変化をたどっていく。刊行されたのは08年だから、東日本大震災のことには全くふれていないけど、変化の萌芽を感じとることはできる。  現代は歴史や政治が与えてくれる「大きな物語」が崩壊し、個人個人が選びとる「小さな物語」が跋扈している状態で、大きな物語に規定される価値観の支えを失った不安な個人が集団化している、というのが議論の根幹のテーマだ。そこから曖昧で不安な個人が、どう自らの物語を構築していくかをとき続ける。  自己啓発書ではないから、こうしろ、ということはないのだけれど、ひとつひとつの議論にうなずかされる。私たちは物語から逃れることはできない。だが。個人で物語を選ぶことができる現代は限りのない自由で溢れている、という希望を語って結論を迎える。  読みにくさの源泉は著者独特の言葉の回し方。語りたい言葉がたくさんあって、それを自分の中でジャンル分けしていく。一回一回戻りながら読んでいったが、宇野辞書が欲しいと何度も思った。

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    投稿日: 2013.04.08
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    よく知っているものも、タイトルしか聞いたことのないものも、とにかく95年付近〜ゼロ年代の主要な「流行った」漫画アニメドラマ映画等々があらすじ・主題とともに紹介されているので、世間話のネタになる浅く広い知識を手に入れられた意味でためになった。 あまりに卑近に思えて、自分のなかで系統だっていなかった作品群が筆者の描く系図に則って頭の中に並んだ。鵜呑みにするのもまずかろうが。 筆者の言いたいことは何度も繰り返されているのでよーーく伝わった(くどいくらい)が、別人の文体で書かれた(当たり前だ、別人が書いたのだから)最後のインタビューは要らないと思った。 ともかく東氏の『動物化するポストモダン』を読まないと筆者が何を必死に考察・批判しているのか分からないので同書を近日中に読みたい。

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    投稿日: 2013.04.02
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    今の世の中を的確に描写した一冊だったように思う。 批評の題材としてマンガやドラマといったポップカルチャーを扱っていたので、今まで思想や批評に感じていた「そんなの、一部の人間だけじゃん」という思いを感じなかった。 思想の内容としては、政治や経済成長といった誰もが持ち合わせる大きな指標がなくなった現在は、それぞれが思い思いの物語(生きる意味や承認欲求を満たすもの)を「敢えて」信じ、その領分を守るために戦い合っている世の中なのだ、というものだった。 こういったことを端的に示してくれただけでも凄いのだけど、それだけでなく、問題点や解決策まで示してくれていたので、もう凄いとしか形容できない。 問題点としては、以下の3つ。 ・9.11のような、異なった物語間の争いが生まれること ・「あえて」という前提に甘えて、物語の問題点や他の物語への配慮という面で思考停止に陥りがちだということ ・争いに勝って、自分の物語を確立できたとしても、結局は「沢山の中の一つ」の価値観でしかないため、結局は交換可能なもので、入れ替えられてしまった時のダメージが大きいこと それに対する解決策は、「交換可能で、終わりがくることを自覚した上で、だからこそ、かけがえのない日常の日々をポジティブに楽しむということ」そして、「交換可能だからこそ、別の場所(物語の中)でも生きていくことは可能だということ」だ。(読んでいる途中に自分が思ったことも混じってるかもしれない…) また、こういった主題以外にも様々な意見を出していた点も見逃せない。 ・ゼロ年代における「成熟」とは、異なった物語を持つ相手とも手を取り合っていけることである ・自分で物語を作るのではなく、物語が生まれ、不特定多数の物語が走る構造を作り出すことが面白い(ニコ動やTwitterのような) 本としては、後半に議論が散財して、全体のつながりが見えにくくなってしまったのは惜しかったけど、それでも最高に面白い本だった。

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    投稿日: 2013.03.09
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    批評というものを初めて読んだ。 こういうものなんだ。いつもの読書とは違う脳の部分を使った感じ。 こんな世の中も覚悟を持って考えれば、こうやって言葉で説明することができるんだ。 すごい! 僕はなんとなく感じる事しかしてこなかった。 これからも注目です。

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    投稿日: 2012.12.18
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    東浩紀批判ということでしょうか?要するに、ゼロ年代に発表されてた優れたコンテンツのうち、東浩紀が趣味としているものだけが評価されているのは可笑しいと、ドラマや特撮、コードギアスといったアニメなど時代を切り取っている作品など、もっと評価されてもいいのではないか?といった内容だったような・・・文庫版あとがきでは宇野さん本人が、AKBを取り上げなかったのが唯一の失態だったと仰っています((´∀`*))

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    投稿日: 2012.11.13
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    このレビューはネタバレを含みます。

    けっこうなショック(とてもポジティブなもの)を僕に与えてくれた本でした。 寡聞にして、ポストモダンの時代おける「希望」を有効に論じられている書物を読んだ記憶が無かった。ポスト東浩紀の登場すら期待してしまった。 あと、全共闘以降の日本社会の思想的な空気・時代精神というか年代区分を設けて其々の時代のマインドを説明してくれててかなり、理解のヘルプになった(相当程度の捨象はやむない気もする)。 大きな物語の失効が当然の前提となった現代における 全共闘→95年→東→ゼロ年代 この辺の切り分け方でそうとう見通しが良くなった。佐々木敦さんの「ニッポンの思想」とあわせて読むと、さらに分かりやすい☆ シラケ/スキゾ(逃走)→引きこもり/心理学→サバイバル/決断主義→今ココ!! 回答例としての宮藤官九郎、木皿泉、よしながふみ 進化の先の「リトルピープルの時代」も面白かった。ゼロ想は理論者とすれば、「リトピー」はケーススタディ

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    投稿日: 2012.08.29
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    文化系トークラジオLife界隈の賢い人達や、東浩紀、宮台真司の名前を知ったのはすべて本書のおかげなので、どれだけネットでdisられていようとも僕は宇野常寛さんの味方です。

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    投稿日: 2012.08.29
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    このレビューはネタバレを含みます。

    そもそも東浩紀さんの本を読んだことがなく、「エヴァンゲリオン」を全く見たことがない、という体たらくであったので、この本の前提条件になっているものの理解が薄い状態で読んでしまった。そのためかなりきつかった。 九十年代の終わり頃から2000年代の10年ぐらいのサブカルチャーについて批評を加えたものである(たぶん)。小説のことがもっと書かれているかなと期待してしまったが、どちらかというとアニメ、テレビドラマ、映画、マンガなどが中心で、たまに触れられるくらいだった。(それにしても「サブカルチャー」というのが未だにどこらへんを指すのかがもう一つわかっていない… ライトノベルもサブカルチャーなんか?) それにしても不思議に思ったのは、テレビドラマやマンガは全く見ていないわけではないのに、無意識のうちに自身避けてきたような作品ばかりがここで取り上げられていることだった。クドカンも「野ブタ」も「うる星やつら」にしても(これは古くないか?)仮面ライダー(今のってものすごい種類があるんだな)にしても、なぜか避けてきたものである。自己分析するとなんとなくどれも「批評を誘う」感じがあったからかもしれない。何か言いたくなる、というか。 そういう状態なので、たぶん何を言っても不毛なので、とりあえずの印象を残すことにする。 ・この本を読む前に東浩紀さんの『動物化するポストモダン』を読まねばならない。 ・エヴァンゲリオンはひきこもりの話(?)なのか。周囲に好きな人がいるので機会があれば聞いてみよう。 ・この本、ゼロ年代の文化カタログ的な楽しみ方のできる本であると思う。「幻冬舎小説」として挙げられる現象はそんな雰囲気あったな、となつかしかった。 ・東浩紀さんはそもそもどれくらい影響力があるのか。舞城さんとか佐藤友哉さんの作品とどれくらいリンクしているのだろう。 ・「繰り返して言うが」のような言い回しは柄谷行人さんがよく使っている印象があるけれど、東さんを経由して宇野さんまで引き継がれているのだろうか? ・そして「繰り返して言うが」のような言い回しが引き継がれてしまう、というのは、こういう言い回しの中に宇野さんのような作品を産み出す萌芽がある、ということなのだろうか? ・たぶん宇野さんは「ゼロ年代のものにだってけっこうええもんありまっせ!」と言いたいのだと思うのだがその解釈でいいのか。 ・宇野さんはAKBが大好きっぽい。 ・山岸涼子さんとよしながふみさんを読んでみたい。

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    投稿日: 2012.07.22
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    「かつて村上春樹がそうしたように、私もまずノートの中央に一本の線を引こうと思う。右側には古いものを正しく葬送するために配列し、左側には今を生きるものを、それと併走しやがて追い抜くために刻み付ける。」  宇野常寛さんによる現代批評。90年代の総括から始まり、ゼロ年代で起きたことを分析する。思えば、僕自身は2000年に中学校に入学し、2010年に大学を卒業するという、ゼロ年代がまるっと青春になっている。だからゼロ年代の思想は、僕が「当たり前」のものとして受け取っていたものに他ならないし、大げさに言えば僕とその同級生たちがゼロ年代を体現していると考えることもできよう。そういった立場で本書を読むと、そこには間違いなく僕が楽しく過ごした10年間が凝縮されていた。中学に入ってからハマッたアニメやゲームが、そしてそれを享受した僕たちこそがゼロ年代であったことを改めて目の当たりにすることができた。  中学から高校、そして大学へと、ハマる作品の傾向も変わってきた。それは成長によるものだと思っていた。「大人」になったからこそ、こういった作品の良さもわかるようになったのだ、と。しかしそうではなく、それは社会の変化に応じて摂取したいものが変わったことによるものだったのである。  僕は自己分析を行い、自分の力で自己啓発に取り組み、性格改善に努めてきた。全ては自分の努力によるものであり、主体的な所作であったと思い込んでいた。もちろん、自分のためにもそうした側面を完全に否定することはできないが、しかし、それも多くは社会からの要請に応じた結果に過ぎなかったのだ。  本書は90年代からゼロ年代にかけてという時代を、納得のいく形で、正確に分析してくれたと思う。一部、取り上げる事象のなかには必ずしも流行していないものも含まれているように感じ、そういった意味ではやや恣意的な側面を感じないでもないが、それも本書への納得を取り消すほどの力は持たない。  ところで、本書によれば『新世紀エヴァンゲリオン』は「古い想像力」であり、また天童荒太さんの『永遠の仔』はその一つの完成形であるらしい。たしかに、今現在において『新世紀エヴァンゲリオン』が新登場したとしたら、その「古」さゆえに、それが流行することはないだろうと思われる。たとえば、ゼロ年代に『エヴァ』を作るのであれば、「碇シンジ」には「NERV」を壊滅、あるいは乗っ取るくらいのことをしてもらわなければ困る(笑)。そのために、10年代において、現行の『新劇場版』がどのような新時代を築くのか楽しみでもある。  また、天童さんによるゼロ年代の作品『包帯クラブ』は間違いなく「決断主義」を体現している。かつての「古い想像力」を完成させた人物が、ゼロ年代の想像力に則っているという面白みを感じるとともに、そこに宇野さんの分析のスゴさを感じざるを得ない。 【目次】 第一章 問題設定  ――九〇年代からゼロ年代へ/「失われた十年」の向こう側 第二章 データベースの生む排除型社会  ――「動物化」の時代とコミュニケーションの回復可能性 第三章 「引きこもり/心理主義」の九〇年代  ――喪失と絶望の想像力 第四章 「九五年の思想」をめぐって  ――否定神学的モラルのあとさき 第五章 戦わなければ、生き残れない  ――サヴァイブ系の系譜 第六章 私たちは今、どこにいるのか  ――「決断主義のゼロ年代」の現実認知 第七章 宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか  ――(郊外型)中間共同体の再構成 第八章 ふたつの『野ブタ。』のあいだで  ――木皿泉と動員ゲームからの離脱可能性 第九章 解体者としてのよしながふみ  ――二十四年組から遠く離れて 第十章 肥大する母性のディストピア  ――空転するマチズモと高橋留美子の「重力」 第十一章 「成熟」をめぐって  ――新教養主義の可能性と限界 第十二章 仮面ライダーにとって「変身」とは何か  ――「正義」と「成熟」の問題系 第十三章 昭和ノスタルジアとレイプ・ファンタジー  ――物語への態度をめぐって 第十四章 「青春」はどこに存在するか  ――「ブルーハーツ」から「パーランマウム」へ 第十五章 脱「キャラクター」論  ――ケータイ小説と「物語」の逆襲 第十六章 時代を祝福/葬送するために  ――「決断主義のゼロ年代」を超えて 特別ロング・インタビュー ゼロ年代の想像力、その後 固有名索引

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    投稿日: 2012.06.20
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    サブカルから読み解く社会論。筆者と同世代を生きているから、馴染みのあるメディアに話題が及ぶとゼロ年代の時代認識が深まるように思える。『エヴァンゲリオン』の引きこもり/心理主義、『DEATH NOTE』のサヴァイブ感、『バトルロワイヤル』な時代と決断主義、大きな物語の喪失とSNS的共同体など、作品や背景を知ってると批評が冴えわたるように感じるのが面白い。ただ世代が違う人やメディアを知らない人にはどう読まれるんだろうか?『リトルピープルの時代』も読んでみたい。

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    投稿日: 2012.05.02
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    このレビューはネタバレを含みます。

    サブ・カルチャーに投影された想像力を検証し、その新たな可能性を展望する一冊。 1990年代後半のインパクトは何だろうか。様々考えられるが、「がんばれば、意味が見つかる」世の中から、「がんばっても、意味がみつからない」世の中に移行したことだけは否定しがたい。起点となる1995年を振り返ってみても、年頭から阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、そしてバブル経済崩壊による平成不況の長期が始まる年である。 著者は、アニメ、マンガ、映画、テレビドラマ、ケータイ小説など、膨大な数のサブカル作品が俎上にのせ、作品に投影された物語の想像力を丹念に検証し、90年代後半と00年代(21世紀)の差違と可能性を展望するサブカル評論集だ。 90年代を代表するのはアニメ『新世紀 エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジであろう。闘う意味を見いだせないシンジは、「引きこもり」の代表である。がんばる「意味」がわからないから、引きこもる。著者によれば、これが「古い想像力」だ。「~しない」という倫理がその特徴であろう。 ではゼロ年代の特徴とは何か。 小泉-竹中構造改革のもたらした格差社会の拡大は、要するに何もしないで引きこもっていることを許さない。特撮テレビ番組『仮面ライダー龍騎』、マンガの『ドラゴン桜』『DEATH NOTE』に表象される「サヴァイブ感」が支持される。成熟した人間とは、他者との関係世界から待避するのではなく、手を取り合う能力だという感覚が「新しい想像力」という特徴だ。 本書は1978年生まれの若い批評家の手による一冊で、作品とその需要・受容をたいへん分かりやすく批評した一冊で、新鮮な感動をもって楽しく読み進むことができた。 ただ出版から4年を経た現在から懐古するにあまりに類型化しすぎたきらいも否めない。退行から接続へという筋書きは否定できないものの、今なお「リア充爆発しろ」だとか「便所メシ」的怨嗟は否定できないからだ。 出版以来、論争の一冊となったと聞くが、ともあれ、新たな可能性を論じた野心作品であること、そしてサブ・カルを安易に退けることのできない現状であることは、認めなければならないだろう。

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    投稿日: 2012.04.29
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    面白かった。動物化するポストモダンが他人(友人)の物語だと感じたのに対し、これは自分の物語だと感じた。 決断主義とバトル・ロワイヤルにまつわる指摘は圧巻だった。 それらがとてもよかったので、日常に目を向けて云々といった一連の解決策(打開策)がつまらなく感じた。というか、むちゃくちゃ仕事して稼いでいる(であろう)筆者が言ったところで、ちょっとリアリティに欠けるな…(強者の理論という批判に対する反論はあとがきにあったけれども) 大きい夢を追いかけさせることと、凡庸な日常に目を向けさせることと、どちらが暴力的なのだろう?

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    投稿日: 2012.04.01
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    このレビューはネタバレを含みます。

    物語は喪失したのか? 衝撃を受けた。 振り返れば 私の人生は 物語への希求だったとわかった。 そして、今世紀に入る頃に 大きな物語が消えた。 大きな物語とは何か? ここからこの本をしばらく 読み解いていこうと思う。 「はじめに」を読む。 過不足ない。というのが印象。この本全体を通底する思い。

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    投稿日: 2012.02.17
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    とりあえずは、東浩紀以降、評論界は停滞している(評論の対象となっているコンテンツや、それらが反映しているであろう現実の有り様に追いついていない)ことを指摘し、どうも、その指摘はあたっているっぽいという感じ。 新書で出てたセカイ系の本の類が、文章の出来も悪いが、本の出来はもっと悪かった(つまり、編集の仕事が悪い)のに対して、本の出来もしっかりしている。文庫を読んでいる方がフラストレーションは溜まらないよねという、ある意味あたりまえな事を再認識したりとか。

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    投稿日: 2012.02.03
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    発売当時には某はてな村界隈で何かと物議をかもしてた本作だけど、僕にとってはとてもいい本だった。 セカイ系あたりで見事に思考停止していた自分にとってこの本はかなり役に立った。なんというか、自分の人生に希望が見えた。 ハードカバーが嫌いだからって発売当時にスルーしてた自分がちょっとうらめしい。けど、今になったとは言え読めてよかった。

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    投稿日: 2012.01.21
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    # メモ - 「データベースから生成される小さな物語の共同性は、排他的な性格を帯びるのだ」 - キャラクターは物語とその共同性から無縁ではいられない。 - 95年の思想。アスカに振られるシンジ。価値の宙吊りに耐えて生きる。 - 「何かをすることで人を傷つけるくらいなら何もしない」引きこもり/心理主義。セカイ系。「95年の思想」の堕落形態。 - 「闘わなければ生き残れない」サヴァイヴ系=バトルロワイアル系(DEATH NOTE)。ゼロ年代的決断主義。決断主義の必然性とその克服。→ゲームに参加しつつこれを止める方法の模索(LIAR GAME)。 - 宮藤官九郎と「終わりある日常」の豊かさ。 - 『野ブタ。』とバトルロワイアルの離脱可能性。 - 母性の重力。 - 成熟。子供の試行錯誤に必要な環境を用意する新教養主義。 - ゼロ年代の想像力の変遷を象徴する週刊少年ジャンプと平成仮面ライダーシリーズ。正義と成熟の問題系。 - ポストモダン状況が進行するなかで問われる〈決断主義〉への態度。 - 仮面ライダーの「変身」は疎外感の暗喩。 - 『アギト』の食事シーン。「生きるっていうのは、おいしいってことなんだ」。社会や歴史から切断された日常の中から物語を引き出し、楽しんで生きるという態度。 - 昭和ノスタルジーとセカイ系レイプ・ファンタジー - 「決断主義の生む「誤配のない再帰的共同性」の閉塞(と暴力)を乗り越えることを志向する作品が、(…)宮藤官九郎や木皿泉、あるいはよしながふみの挑戦であった」 - ケータイ小説。脱キャラクター。物語回帰/物語純化。 - 「〜である」型のアイデンティティ(キャラクター)を他人に押し付けるのは「空気の読めない」キャラクター的実存。 - コミュニケーションの中で共同体の中の位置を獲得する「〜する」型の書き換え可能なアイデンティティ。モバイル的実存。 - 「決断主義という不可避の条件を受け入れ、動員ゲームから可能な限り暴力を排除する運用」→アーキテクチャ(環境)の社会設計。ある種の設計主義。 - 「現代における成熟とは他者回避を拒否して、自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと--自分の所属する島宇宙から、他の島宇宙へ手を伸ばすことに他ならない」 - 「どう誤配と柔軟性を確保し、開かれたものにしていくか」 - 「現代では、超越性を公共性が保証することはありえない。「生きる意味」も「承認欲求」もすべてはひとりひとりが、コミュニケーションを重ね試行錯誤を繰り返し、共同体を獲得する(あるいは移動する)ことで備給していくしかない」 - 「家族(与えられるもの)から擬似家族(自分で選択するもの)へ、ひとつの物語=共同性への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ、終わりなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へ--現代を生きる私たちにとって超越性とは世界や時代から与えられるべきものではない。個人が日常の中から、自分の力で掴み取るべきものなのだ。そしておそらく、この端的な事実は時代が移っても変わることはないだろう」 - アイロニカルな没入から、アーキテクチュアルな没入へ。 # 考察 - 宇野は「日常の中に意味を見出すことが倫理的だ」という立場で、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』と似ている。 - 宇野は「人が生きる上で物語は必要だ」という立場を取り、「物語からデータベースへの移行」を論じる東浩紀を批判する。

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    投稿日: 2012.01.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    2012/01/02 読了 やもすれば負の側面ばかりにスポットが当てられがちな現代について、サブカルを含めた批評視野で現代性に希望を見出していることに好感を持った。 特に、自己像は「ほんとうの自分」ではなくただの願望に過ぎず、他者とのコミュニケーションで書き換え可能なもの、という主張は、もともとあるはずのない「自分探し」を強要する社会的雰囲気の圧力から解放してくれる。 「空気系」の人気が示すように、何気ない日常の豊かさを如何に引き出すかが、大きな物語を持たない僕らにとってとても大切なことだとはわかる。ただ、それは内だけを見て「小さく収まる」とはイコールじゃないってことは忘れてはいけないと思う。と、言っておかないと社会が回っていかない気がする。 これまで、批評は殆ど読んだことなかったけれど、こういうの書くのを職業にしてる人って、アニメやドラマ見る時に何と小難しいことを考えているのか、というのがまず第一の感想だった。

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    投稿日: 2012.01.02
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    自分のこれまで生きてきた時代を評論で読んでみたいと思って購入。 社会の変容とサブカルチャーをリンクさせ(そもそもリンクしている)、 想像力に時代と人の思想、深層心理を見ることができ、 想像力はそれに準拠するものであるという前提に論が進む。 当初の自分の世代・時代を振り返るものとしての目的は十分果たされ、 評論・言説に対する興味を喚起する点で十二分に効果があった。

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    投稿日: 2011.12.15
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    動ポモ批判にはじまり、内容はゼロ年代カルチャー講義。 個別にはスッキリ正鵠をえた批評もあれば、情熱過多で消化不良な点もあるが、その饒舌に酔いながらエキサイティングに読み進めることができる。 それは同時に、 二十世紀との訣別を誓いながら過渡期のなかで溺れていたような、 何か変えなければならない•何も変えられなかった「ゼロ年代の閉塞感」そのものともいえる。 威勢よく改変を試みながら結局焼き直しに陥る、批評はその時代の記録にしかならないのか。新しい価値を創造するには至らなかったが、時事カルチャー批評はウォッチしていきたい。

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    投稿日: 2011.12.09
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    この手のサブカルチャー評論の中心的存在だった東浩紀を「古い想像力」と断じ、「AIR」辺りに代表されるセカイ系的なギャルゲーの想像力を「レイプ・ファンタジー」「既存の社会構造の生む広義の性暴力」とまで言い放つ、この著者の「芸風」に賛否あるのはまぁわかる話である。しかし、その是非を別にして、東の議論がカバーしきれなかった部分(例えば奈須きのことか近年のアージュに見られる「物語消費」への回帰的な傾向や、「ハルヒ」以降「らき☆すた」的な「空気系」へのシフトといったことが該当すると思う)への補完として読めば非常に有用なのでは、と思うのだがどうだろう。特に、最近の「空気系」の隆盛を予見したかのように、「セカイ系」から「日常のロマン」への橋渡しとして「ハルヒ」を捉えた視点は、ある意味「ハルヒ」論として一番しっくりくる感じがした。この辺については巻末のインタビューでさらに補足されているので、今現在読むならこの文庫版が断然お薦め。 「萌え」的なものに限らず、特撮もの、テレビドラマ、映画等幅広い分野からの考察というところも特徴で、そこから「この時代をどう生きるか」という問題意識が見える。スタンスとしてはかつての宮台真司に近いのかな? 久々に読みごたえのある本を読んだ気がする。

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    投稿日: 2011.11.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

    リトルピープルの時代とのつながりも、巻末のロングインタビューで触れられていた。 高橋源一郎の講演会に行ってみたり、東浩紀や宇野常寛を読んでみたり、「批評」を仕事にしている人たちが羨ましくなった。 そんな気持ちにさせられるぐらい、魅力的な本だった。 言葉を武器にするんだったら、人の精神揺さぶるぐらいできないと、ね(自戒も込めて)。

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    投稿日: 2011.11.11
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    西尾維新や舞城や佐藤はゼロ年代の代表的な作家だし那須きのこだってメフィスト・ファウスト群である。ゲーム的リアリズムにおいて世界はキャラクターを追求しレイプ的男性主権の仮想空間の跋扈が市場に拡大する。ポストモダンはもはやポストポストモダンに吸収され排出される。まるで文化を切り捨てるように空回りする政治と戦争はもっともゲームに似ており、その境遇を意識する庶民は官僚を憎む。今ではゲーム盤のコマよりRPGのザコ敵にすらなれない消費者はもがき戦うのだが結局は勇者に斬られ殺される。それが幸せかという次元は側溝に投げ入れるとして、・・・生き残った兵士は想像力を働かせることで次なる闘争にサヴァイブしようとする。地球のようにただ流動する世間は隣人の顔すら知らないアパートの住人的に匿名で攻撃を行う。アノニマスを武器にしなければ生き残れないからだ。単純な残虐性に犯されているだけ、というフロイト的解釈を可能ではある。誰かが死んでも放置する世界には想像力と暴虐性が付きまとい死神によってDEATH NOTEを所有する世代の担い手が失意と絶望に対して鉄槌を振り落とす。まるでただの殺人事件の如く。

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    投稿日: 2011.10.30
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    ラディカルで視野の広いサブカル批評。 いわゆる「サブカル」を等しく「カルチャー」のステージに上げて そのうえで容赦なく分析する手腕には舌を巻きました。 とにかく話題が新しいので新刊を片っ端から追いかけたい批評家。 意図的であると思われる「言い回しの癖」が気になりますが、 中身としては非常に充実していると思われます。 通学時間で食い入るように読みましたが、とても疲れました。 しかし、思想系に手を出す人間としては火が付きました。

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    投稿日: 2011.10.24
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    文自体は読みやすかった。大枠はかなり共感できたけど、所々独りよがりになっている印象。 そして一回読んだだけじゃ僕には理解しきれない。もう一回読まないと。

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    投稿日: 2011.10.18
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    2000年前後の若者達のマインド変遷を、当時彼等から支持を得たコンテンツを通じて読み解こうとする批評本。 自分とは異文化のエリアも、俯瞰で観察して、自分の意見を持って理解する事の大切さにも気付く。

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    投稿日: 2011.10.15
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    アニメ・漫画をはじめとして、ドラマ・ゲームまで広範囲。 東さんなり大塚さんなり誰かしらのこの手の批評をかじった経験のあるひとはわりと素直に読めるかと。 (ただし、読める行為が素直になるだけで、展開してる論そのものに頷けるかは別の話。) 後半のインタビュー部分において作者のスタンスをざっくり説明してるので先にこっち読んだほうが実は分かりやすいかもと思いました。

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    投稿日: 2011.10.12
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    批評本と言うものを読むのは非常に苦痛な作業です。 この本ならそんな事は無いかと思って読んだのですが、非常に苦痛でした。 批評は、あくまで批評家の考えた解釈と持論であり、どんなに論理的に書かれていても正しい事の証明は出来ないものなので中々読むのは大変でした。 ただ、この本の中での批評は、非常に的確でなるほどと唸らせられるロジックに溢れていると思いました。 時間と体力があるなら読んでみてよいのではないかと思います。

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    投稿日: 2011.10.11
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    とにかく分析対象が広範にわたっている。アニメ作品だけではなく、TVドラマや特撮ヒーローまで、そう言われればまさにその通りだ、と思わされる部分が多い。あとは、批評ってこういうものだろ、というこだわりがたくさん見られたのもおもしろかった。 ゼロ年代の批評(とか言われるもの)における、大枠を完成させたのは東浩紀氏、枠を修正しつつ細部を詰めたのが宇野常寛氏、そういったイメージを受けた。決定的に異なるのは、「コミュニケーションしよう度数」かと。

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    投稿日: 2011.10.11
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    ゼロ年代のオタク系サブカルチャーを振り返る上では読んでも損はない一冊。 「大きな物語」が失墜し「小さな物語」のデータベースに生きる私たちにコミュニケーションの重要さを謳っている本書は、何事もネガティブに反応する厭世的なセカイ系少年少女に、「世の中すてたもんじゃねえよ」と言っているようだ。 ゼロ年代が終わって読みかえしてみると、まあそれもそうだったかもな、とも思う。

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    投稿日: 2011.10.05
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    このレビューはネタバレを含みます。

    周りの評価はいまいちだったので、あまり期待しないで読んだ。 けども、思っていたよりよかった。 ①説得力 まず、文章が論理的でわかりやすい! 最後まで飽きず、とどまることなく、一気に読める。 わかりやすさはおもしろさ。すばらしい。 ①東浩紀批判としての効力 ここでの著者さんの東浩紀さん批判は、 1.作品のとりこぼし 2.「動物化」イクナイ&古い に大別できる感じ。 ですが、わたしはどっちも、なるほどと思いつつでも…という印象でした。 まず1に関しては、ひとつのことを論じようとするには、取りこぼれてしまう作品があるのはぜんぜん仕方なくないかしらというあれです。 たとえばこの『ゼロ想』にだってわたしの大好きな角田光代がぬけてるんですよ! ディズニーランドもぬけてるし、セックス&ザシティも、プラダを着た悪魔も抜けていて、 そしてこれらはゼロ年代に(もしくはそれ以前から)大ヒットしているわけです。 「母性」を論じるにあたって、高橋留美子のところはとてもとても面白かったのですが、ここだけ取り上げる作品古くない?『めぞん一刻』って・・・。 すごく面白いところでもあるので、その肥大した母性がどこにどうでたのか、著者さんはスイーツ文化をめんどくさがらず勉強するべきでした。 そして著者さんがどうしてこんなに同時代的作品を網羅できるかのような幻想を抱いてしまっているのかというと、 社会と作品をあまりにも単純に結び付けているからかもしれませんね。 ということで、2になるわけですが。 わたしは『動物化するポストモダン』は、あくまでも「オタク」界隈の文化圏に向けた本だと思うんです。 そういう風に見れば、とりあげる作品の幅の狭さはむしろ必然的だし、「オタク」界隈というのは虚構が人間性を説明するのに必ず必要になってくる、特別な世界だと思うんです。 だからあんなに人間の生き方と虚構を短絡的に結び付けてもよかった。 しかし『ゼロ想』はそうじゃない。 島宇宙を飛び越えるとき、著者さんに抜けてしまったのは、 「虚構」というものが各島宇宙間でもつ強度の違いの感覚ではないでしょうか。 そしてたとえば「リア充」が「オタク」を嫌悪するのはその文化の細部というよりは「虚構」の偏重なそれ自体で、たぶん「リア充」から見れば宇野さんも充分「オタク」にすぎないのです。 これでは失恋をしてしまいそうです。

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    投稿日: 2011.09.28
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    90年代後半の碇シンジ的想像力(「社会が何もしてくれないからひきこもる(何を信用していいかわからない、人を傷つけるかもしれない)」)がセカイ系に落ちていく過程、その後0年代の「無根拠であることを前提として」あえて、それを選んで行動していく決断主義とそれが孕む問題を『エヴァ』や『反逆のルルーシュ』や『野ぶた。をプロデュース』などをテキストにしてわかりやすい理論を展開している。 90年代後半から現在に至るまでの変遷を学べればいいと思って手にした作品だったけど、それ以上に自分が何にどれほど影響を受けて、どういう価値観で人と関わってきたのかがわかってしまった。 私は今のままだと淘汰される側の人間だなぁ。 佐藤友哉と舞城王太郎読んだときに感じる、どことない後ろめたさの原因がはっきりとわかりました。

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    投稿日: 2011.09.23
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    第1章「問題設定」  碇シンジでは夜神月を止められない。2001年の「9.11と小泉改革」以降、世界はバトルロワイヤルの時代に突入した。90年代の「引きこもり」思想への反省から生まれたゼロ年代の「決断主義」を克服するためにはどうすればいいのか。 第2章「データベースの生む排除型社会」  歴史や国家という大きな物語が消滅し、情報の海であるデータベースから各人が好きな情報を読み込んで「小さな物語」を生成する時代。小さな物語は究極的には無根拠である。それゆえに自分たちの正当性と棲み分けを守るために他の物語を排撃する。  「『あの人は~だ』と人物像を抱くとき、それ(キャラクター)は特定のコミュニティ(小さな物語を規定する共同性)の文脈によって決定された位置のことに他ならない。(中略)キャラクターとは、小さな物語(人間関係)の中で与えられた位置=役割のようなものにすぎない」  「あなたの自己像=キャラクターが成立するためには、それを承認してくれる物語=共同体が必要なのだ。」 第3章「『引きこもり/心理主義』の90年代」  バブル経済の崩壊と冷戦終結によって「モノはあっても物語のない」世界に対する絶望が生まれた。世界がつまらないとき、世界ではなく自分の心を変えることでやりすごすという「引きこもり/心理主義」的傾向が90年代後半に拡大していった。 第4章「『95年の思想』をめぐって」  人は「物語」(意味)から逃れられない。物語のない時代に物語を与えようとしたのがオウムだった。オウムを克服するために様々な思想が提出された。しかしそれらは早急な物語を求める人々には受け入れられず、時代の流れに敗北した。  「『セカイ系』とは『結末でアスカに振られないエヴァ』である。凡庸な主人公に無条件でイノセントな愛情を捧げる少女(世界の運命を背負っている)がいて、彼女は世界の存在と引き換えに主人公への愛を貫く。主人公は少女=世界によって承認され、その自己愛が全肯定される」 第5章「戦わなければ、生き残れない」  小さな物語が乱立する世界では自分たちが信じる物語も他の共同体から見れば発泡スチロールのシヴァ神に過ぎない。自分たちのシヴァ神の真正さを証明するために他の物語たちとのバトルロワイヤルに強制的に参加させられるのがゼロ年代という社会。 第6章「私たちは今、どこにいるのか」  95年から00年までが大きな物語の失効という社会の変化に怯えていた引きこもりの時代であり、01年以降はその後に乱立した小さな社会同士が衝突しあう時代となった。このバトルロワイヤルを克服する方法を模索しなければならない。 第7章「宮藤官九郎はなぜ『地名』にこだわるのか」  「郊外に生きる僕らには物語がない(誰も与えてくれない)」という絶望に対し、『木更津キャッツアイ』は「日常の中の豊かさをめいっぱい満喫する」ことで、郊外的な中間共同体での物語を可能性に溢れた世界へと変貌させた。 第8章「ふたつの『野ブタ。』のあいだで」  決断主義を体現する原作版『野ブタ。』にドラマ版『野ブタ。』は日常の中の小さな物語という回路で対峙した。ドラマ版の修二は彰や信子との関係から、ゲームに勝利するだけでは獲得できない「入れ替え不可能なもの」があることを知る。  「木皿泉がこのドラマ化にあたって課せられた使命は、原作小説では終わりのないバトルロワイヤルの中でやがて擦り切れて、惨めに敗北しながらもゲームを離脱することのできない器用貧乏な少年を救うことだ」  木皿泉がもうひとりの修二に与えた可能性は、ゲームに勝利するのではなく、無数に乱立するゲームをその下部で支えるものに目を向けること。ドラマ版では、ゲームの勝利では購えない(有限であり、入れ替え不可能な)関係性の共同体を獲得するという可能性が提示されている。 第9章「解体者としてのよしながふみ」  生きる意味が見出だせない時代だからこそ人々は誰かを所有し、同一化することで超越したものを手に入れようとする。そのような呪縛によしながふみは『西洋骨董洋菓子店』において友人でも仕事仲間でもないゆるやかなつながりによる日常を提示する。 第10章「肥大する母性のディストピア」  「高橋留美子作品の根底に流れるのは、凶暴なまでに肥大した母性である。まるで『私の胎内から出て行かないで』とでも言うように、ヒロインがその母性を拡大させて欲望の対象となる男性を、ふたりの物語を盛り上げる共同体ごと飲み込んでしまう」  「当初浪人生として登場した五代青年は大学に進学し、就職して響子に相応しい男になるべく努力する。ここで注目すべきは、本作における五代青年の成長とはあくまで『響子を幸せにする』ことに自己実現の回路を限定していく過程として描かれることだ」  「当初はモラトリアムの象徴として登場したはずのアパート(一刻館)に『成熟』を経ても半永久的に住み続けるという結末は、男性の自己実現の回路が女性のテリトリー(胎内)から一歩もはみ出ない範囲で完結することを意味する」 第11章「『成熟』をめぐって」  従来の社会像が崩壊し、生きる意味や価値観を社会や歴史が提供できない世界では「成熟」は原理的に存在できない。「新教養主義」は特定の価値観を示すのではなく、子供たちが様々なコンテンツに触れて試行錯誤できる環境を整備することを目指す。 第12章「仮面ライダーにとって『変身』とは何か」  疎外感の暗喩でありエゴの強化であった「変身」は平成仮面ライダーシリーズにおいて入れ換え可能なものとして描かれ、『電王』ではコミュニケーションの手段となった。もはや精神的外傷はその人物のアイデンティティとはなり得ない。 第13章「昭和ノスタルジアとレイプ・ファンタジー」  昭和ノスタルジー作品の「当時の負の面も分かっている、それでもあの頃は良かった」という態度は「安全に痛い自己反省」に過ぎない。それはセカイ系作品が少女への暴力を反省しつつもその行為自体を否定しないことと同じ構造を持つ。 第14章「『青春』はどこに存在するか」  「矢口史靖作品はなぜ、青春映画の新しいスタンダードになり得たのか。(略)矢口的『青春』像には特別な『意味』が求められない。ただ、つながり、楽しむだけでいい―そんな端的な祝福が世界を彩るのだ」  「ハルヒが求めているのは実のところ、日常に内在するロマンである」「物語の中でハルヒは少しずつ気づきはじめている。草野球や夏合宿や文化祭のステージが、未来人や宇宙人や超能力者との出会いと同じぐらい、いや、それ以上に自分にとって素晴らしいものであるということを」 第15章「脱『キャラクター』論」  ケータイ小説はプロット(物語のあらすじ)が肥大した小説。物語は説明と会話によって進行する。余計なものを後景化することで物語自体が純化されている。登場人物は劇中の「~する/~した」という行為によって、その位置=アイデンティティを獲得する。  「文体、つまり文章『表現』の生む空間によって強度を生んでいる一部の純文学や、劇中に登場するキャラクターを消費者に所有させることで強度を獲得する小説=ライトノベルとは違い、ケータイ小説は物語そのものが、余計なものを後景化することで純化されている」  「比喩的に述べれば現実のコミュニケーションはライトノベルではなくケータイ小説的に決定される。たとえ個人が自身にどのような自己像を抱いていようが、周囲からはあくまで彼/彼女が取ったコミュニケーションによって人物像が評価・決定される」  「あなたがそのコミュニティで低位に置かれるのは、あなたが『そんな人間』だから、ではない。あなたがそのコミュニティの人間関係において、相対的に不利な位置=キャラクターを政治的に与えられているからだ」  「あなたが自身の思い浮かべる『こんな私』という自己像を誰かに承認してもらおうとしている限り、そしてそんな人間関係こそあるべき姿と考えている限り、おそらくあなたはどこへ行っても変わらない」  「しかし共同体における位置=キャラクターが、特定の共同性=小さな物語の中で与えられた位置のようなものにすぎないと正確に把握し、その書き換え可能性に挑めばそのかぎりではない」 第16章「時代を祝福/葬送するために」  現代における成熟とは自分とは異なる誰かに手を伸ばすこと。ひとつの物語=共同性への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ。超越性は世界や時代から与えられるのではなく、日常の中から自分の力で掴み取るもの。  『ラスト・フレンズ』の宗佑は社会的・精神的弱者である美知留の「父になること」を願う。しかし宗佑の共依存関係へのロマンティシズム(セカイ系=決断主義)は彼の無自覚な暴力性によって破綻を迎える。傷付いた美知留を受け入れるのはシェアハウスでのゆるやかな共同体だった。  「純愛という名の共依存的ロマンティシズムによって幕を開けた(略)ゼロ年代という時代は『恋愛』から『友情』へ、『あなただけ』から『みんな』へ、少しずつ、しかし確実に共依存的ロマンティシズムが孕む決断主義的な暴力を解除していった」 特別ロング・インタビュー「ゼロ年代の想像力、その後」  文庫化にあたり追加収録されたもの。4万字超の語りおろし。2008年の単行本版発売以降から3.11後までのサブカルチャーを中心とした社会情勢の変遷について総括している。  空気系作品は「壁と卵」は完全に断絶しているという前提から生まれてきたもの。そこでは「壁」つまり世界の構造の問題は問われない。あくまで「卵」同士の関係しかない世界が描かれる。恋愛や成長が排除されるのは「壁」のことを描かざるを得ないから。  mixiは棲み分けの快楽を追求するシステムであり、twitterは不特定多数の人々との乱数的なコミュニケーションが追求されている。twitterの流行はコミュニケーションの過剰が生じていることの裏付けではないか。  AKBは「誰々はこんなキャラだ」「こんなことを言っていた」とファンたちがネット上に書くことで巨大なデータベースが蓄積されている。そこから集合知的にメンバーのキャラクターが確立され、秋元康はそのキャラクターを二次創作してPVやドラマを作る。  公演プログラム、選抜制度、総選挙といったAKB48というゲームをプレイすることによって、プレイヤーであるアイドルたちの魅力が引き出されていく。秋元康の創り上げたゲームをプレイしていないと「不動のセンター」前田敦子は輝かない。  原発は自分たちで産み出したにもかかわらず制御できずに暴走してしまうシステム。核兵器のトラウマからゴジラが作られたような物語化はできない。しかし目に見えない大きな力、構造はイメージ化しないと社会で共有できない。これが震災後の文学の課題になる。

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    投稿日: 2011.09.19
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    ここ最近の社会の流れがクリアになる著書。自分自身の立ち位置を自覚できたりもしたり。文庫版がでた今こそ読むべき。

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    投稿日: 2011.09.15
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    2011 9/13読了。WonderGooで購入。 一時なにかと話題になっていた宇野常寛の批評本。SFマガジンに連載されていたものが、文庫化されていたのを見かけて購入。 っていうかなんで文フリに出入りしてしかも主に批評本買ったり読んだりしてたのに自分はこれを読まずにいたのかっていうね。 当時から話題になってたけど扱う作品のジャンルが広い+口が悪いけど言いたいことがはっきりしていてざくざく書いてるのが面白かった(たまに表現重複してくどく感じたけど)。 とりあえず『池袋ウェストゲートパーク』を読もうと思ったり。

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    投稿日: 2011.09.13