
総合評価
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powered by ブクログ先日読書会が図書館であった。ブラウジングというらしいが、そこで出会った本を紹介する取り組みであった。セレンディピティを大切にするとのこと。このところ僕はユング自伝を読んでいて(いま下巻の途中でストップしている)、その中にニーチェが出てくる。一度読んでみないと、と思いながらも直接当たってみる気にもなれず、この100分で名著のシリーズくらいで読んだ気分に浸ろうかと思った。これは実は大正解であった。僕のレベルで十分についていけた。わりと興奮しながら読んでいるので、そのメモもあちこち飛ぶかもしれないが、手を加えずにそのままさらしておく。僕が何に悩み、何に悦びを見いだしていたのかがつかめたような気がする。以下はメモ。 「ツァラトゥストラ」はルター訳の新約聖書を意識して書かれている。ニーチェはよい社会を目指すヘーゲルよりも、個々の実存的な問題に取り組んだショーペンハウアの方に傾倒する。「生は苦悩だ。音楽はつかのま、この苦悩を忘れさせる特別な経験なのだ」というのがショーペンハウアのことば。そしてショーペンハウアの支持者でもあったワーグナーに心酔していく。が後には離れていく。「ツァラトゥストラ」にはルサンチマンということばは遣われていない。「無力からする意志の歯ぎしり」ということばを遣っている。解説書にあたる「道徳の系譜学」でルサンチマンは登場する。神が死んだ後、目指すべきは超人である。なぜ神は死んだのか。神は人が創ったものだと気付いたから。この姿勢がニヒリズム。このことばもまた「ツァラトゥストラ」には登場しない。何のために生きているのかが分からなくなる状態を指す。そういう世の中では末人(憧れを持たず、安楽を第一とする人)が出てくる。そこで人類の新たな目標として超人を掲げる。ルサンチマンやニヒリズムを、抱くことなく、つねに創造し続けていくような人、そういう人こそが超人である。しかし、それは孤立して一人でやっていく必要はない。頼れるところは頼る。それを他者に伝えられることが自立である、と西研先生は言う。ところで、末人ではダメなのかとも思う。目標がなくとも、その日、その日を楽しく生きるのではダメなのかと。 「永遠回帰」を受け入れると、過去の最悪のこともまた蘇る、ならば何をやっても無駄ではないか、それでもそれを受け入れることができる人が超人である。ニーチェは「エネルギー保存則は永遠回帰を要請する」と言っているそうだが、エントロピーの法則に反してはいないか。マイナスも含めて自分の人生を肯定する、その人生を何度でも繰り返そうと思える、「ツァラトゥストラ」には出てこないがこれをニーチェは運命愛と呼ぶ。文句言いながら生きていくより、悦びを汲み取りながら生きていきたい。自分が求める悦びとは何か、その問いかけが、生きる道を教えてくれる。ルサンチマンを押さえつけたりごまかしたりするくらいなら、それを受け入れられないことを認め、叫べ、呪え、そのうち許せるかも。たった一度でも魂がふるえたことがあったのなら、その人生は生きるに値するのだろう。悲しみ、苦しみをひきつれて「よしもう一度この人生を」と言いうるだろう。自分の人生を嘆いてばかりいるのではなく、きっと良かったこともあるはずだから、そういうことが繰り返されるかもしれないと思ってみたらどう、うーん、日曜ドラマGIFTの登場人物に伝えてあげたいなあ。 (何のために生きるのか?ーー念のため、また良いことがあるかもしれないから、と昨日のドラマでは言っていた) 「ニーチェは安楽ではなく悦びを求めた。楽をするとは苦痛がないこと。苦痛がないことが楽でよいというだけでは創造性は生まれない。むしろ苦しいことを受け入れながら何かをつくり出していく生き方が、ニーチェの言う悦びである。」苦痛がないのは幸せだけれど、ちょっと物足りないという気はする。苦労してでも何かを成し遂げたときの悦びはまた一入である。どうやら幸せには受動的な幸せと能動的な幸せがあるようだ。そうか、いまやっている読書会は表現のゲームなのだ。自分一人で読んでその感想を書いているだけではどうも満足できない。ゲームになっていないからか。誰かと語り合い確かめ合う空間が必要だったのだ。小説や思想書という文字メディアを媒介にして、生き方を考え合う空間が成立する。それが文化的公共圏(ハーバーマス)。実存の問いと社会の問いについて語り合う空間。表現のゲームではそれぞれの人生に対する態度を表明し合う。なるほど、だから僕は飲み会での薄っぺらな話には満足できないのだ。社会や実存の問題について語り合いたい。そういう時間・空間を過ごしたあとは高揚感が得られる。こういうものがなくても幸せと言う人はいるだろうし、それはそれで良いのだと思うが、自分はこの高揚感が欲しい。それがないと幸せとは言えない。一昔前にやっていた教科会なども要するに表現のゲームだったのだ。そこでニヒリズムに抗して創造性が生まれていたのだ。尋ね合い、安心できる場づくり、その辺が僕はうまくできていない。そういうことがうまい人がいると、受け止められたという感触を持つことができる。逆に僕が受け止めないといけない。いい歳なのだから。僕はどうも見栄を張りがちだ。ドーダの精神が強い。俺はこんなことも知っている、お前はどうだ、と。そして、こんなことを言ってどう思われるだろうかと後のことを考えてしまう。もっと肩の力を抜いて、等身大の自分を表現すればいいのに。その点、多くの女性は(と決めつけてはいけない、人によりけりだと思うが)気軽に思ったことを話す。読書会で選ぶ本なども、人に見せることを全く意識していないのではないかと思ってしまう。そして、話はあちこちに振れる。それで、僕はイライラする。本質的な話がしたい。時間が無駄。無駄があっていいのだが。だから雑談が苦手。明日も会社の飲み会がある。どんな時間になるのだろうか。いずれにせよ、悦びと創造性の精神を持って生きていきたいものだ。 斎藤環さんとの対談から 斎藤さんにとっての超人は「完璧なひきこもり」自分に対する強烈な肯定の思想が必要。承認抜きに自分を肯定しよう。そして自分がワクワクできることをしよう。
1投稿日: 2026.04.28
powered by ブクログはじめに 人間は”創造的”に生きよ 第1章 ルサンチマンを克服せよ 第2章 「神の死」から「超人」へ 第3章 永遠回帰とは何か 第4章 現代に「超人」は可能か? 対談 西研×斎藤環 「しなやかな超人」か「完璧な引きこもり」か 読書案内 ニーチェ略年譜 あとがき
0投稿日: 2025.06.21
powered by ブクログ究極は自然に帰ること ニヒリズムに陥っても立ち直るために自分の衝動に向き合う 超人のための三段変化で最後は幼子の精神 と考えると、自分の自然な欲求にどれだけ正直になるか、ということに尽きるなと思い始めています。 大人になるにつれて無目的なものに力を入れづらくなるけど、それを一人で頑張れ、ではなくて、一人で頑張らず、互いに語り合って確かめ合うことで克服しよう、と言ってくれているのが良かったです。 個人の問題なのか、社会の問題なのか 社会の問題の前に、個人の問題があって、その個人の問題に向き合うことを一人で悩まず語り合おう。そういう語り場を作らなきゃです。 これが表現のゲーム ゲーム、遊びと表現しているのがよいですね
0投稿日: 2025.04.13
powered by ブクログ自分はまだ高校生だからこれからの生き方、人生観についてしっかり考えなければいけないという義務感から哲学の名著のこの本を読んだ ツァラトゥストラという名前もファンシーで選んだ理由の一つ 本書は作者の感想も混ぜながらニーチェの思想を簡潔に解説してた。 元々私はニーチェを人生=無価値として捉えるニヒリズム信者だと勝手に勘違いしていたが、むしろその真逆だった。 前向きに生きるためにどういう心持ちをすべきかを必死に考えた覇者でした サイコー
0投稿日: 2025.04.05
powered by ブクログ読みやすい。 ニーチェとヘーゲルが両立するという話は新鮮で興味深かった。 また、個人主義的なニーチェの思想に対して、西さんの批判がされてるのも良い。
2投稿日: 2025.03.29
powered by ブクログニーチェを知る上で絶対に欠かせない思想「超人」 「永遠回帰」「ルサンチマン」について平易な言葉でやさしく教えてくれた この本のいいところは、ニーチェの著作から読み取れる思想に対する西研さんの率直な批評を含んでいることである。たとえば、ニーチェは、個人としての強さを求めすぎている。しかし、クリエイティブや本当の強さは他の人との話し合いの中に生まれるといった主張をするのである。
4投稿日: 2025.03.21
powered by ブクログニーチェの思想を初心者にも理解できるよう平易かつコンパクトにまとめられていて気軽に読めました。原著を読む前の導入としては良いと思います。これをきっかけに、ツァラトゥストラ読もうかな。
0投稿日: 2025.03.16
powered by ブクログツァラトゥストラがよくわからんので読んでみた。あくまで著者の解釈だけどわかりやすい。 でも実際にツァラトゥストラを読み進めてもなかなかそういう解釈にたどりつかないのねえ。 巻末対談の「ニーチェは引きこもりの思想」的なのも面白かった。
0投稿日: 2025.03.04
powered by ブクログ読んでるうちに漠然とした意図が解れてしまったというか…本来、ツァラトゥストラを横に置いて読みながらこっちも流すべきだったかも。 観念ばかり上滑りしたというか。 ツァラトゥストラ自体が、ちょっと観念の先走りみたいな所あると思いますが。 ニーチェの一生などざっくりまとめてあって、入り口としては良いと思います。 実際、ツァラトゥストラを前に読んだ時は「かなり拗れたひとがなんか比喩で何かを築いてるな…」くらいの感想だったので。次はツァラトゥストラ読もうかなと思います。
0投稿日: 2025.03.02
powered by ブクログツァラトゥストラは数ある積ん読本の中の1冊。 これは素晴らしい入門書で、これを読んだ人は皆ツァラトゥストラにチャレンジしたくなるだろうと思われます(多分直ぐにその志は打ち破られるのだろうけど…)!
2投稿日: 2024.10.15
powered by ブクログ自分に蔓延るこの心の在りようはニヒリズムかと考えた。ニヒリズムについて調べたところ、ニーチェが関わった概念らしい、と聞いた。詳しく知りたくなって、書籍をAmazonで調べたら100分de名著のシリーズがあるじゃんと読みはじめた。 かなり読みやすい。100分 de 名著から派生した書籍だけはある。 ニーチェの思想の1つである「永劫回帰」の解説と引用されていた「われわれの魂がたった1回だけでも絃のごとく幸せのあまりふるえて響きをたてたなら、このただ一つの生起を引き起こすためには、全永遠が必要であった。」というフレーズ(孫引きなので行儀は悪いが)には心が震えた。 第4章ではニーチェの思想を現代に持ち出そうという思索について語られている。 そこでは竹田青嗣さんのいう「表現のゲーム」や批評という行い(「なにが善く、なにが悪いのか」について他人と語る行為、さらに「表現のゲーム」では加えて他人と善悪について確認する行為)が必要なのだ、という話はもう少し深く掘り下げたくなった。 ニーチェの考えをただ伝えるだけではなく、「ニーチェの孤高を尊ぶ姿勢はどうなのかなあ」と訂正する西さんの姿勢には共感した(ニーチェの超人思想がヒトラーに利用されたという面もあるだろうけれど)。 頭では理解できるけど、腑にはまだ落ちてない感覚。西さんも言ってたけど腑に落ちるまで時間がかかるのかな?少しして読み返したい書籍。最後の読書案内で紹介されていた書籍たちも読みたいな、と思えた。
1投稿日: 2024.05.21
powered by ブクログ今出会うべくして出会ったのかもしれない。日々生きていくのが辛く、毎日死にたいと思う状態でも、少し安心することができた。専門書ではないのであっさり読めて、ニーチェの考え方と著者の解釈に元気づけられた気がする。
1投稿日: 2024.04.29
powered by ブクログツァラトゥストラに再チャレンジする前に読んだ。 わかりやすく、面白かった。 ニーチェは神という絶対的なものを否定し、その代わりに「超人」への道のりを価値観の拠り所とした。 また、彼は永劫回帰という、人生への絶対的な肯定を説いた。さらに、肯定できぬ者の、自己の生への呪いを正当なものとした(チクショー)。 彼は主体性や喜びを奪うルサンチマンを否定し、苦しみながらも、自らの意志で未来に進み続ける人間、さらにはその苦しみも含めて自己の人生を愛せるような、「超人」への道のりを至上のものとしたのだ。 しかし、これはある意味、絶対的な価値観の導入という意味において、神の復活を意味しないだろうか。 私が考えるに、(そして永井均先生の本やカミュから少なくない影響を受けた結果)、もともと人生は肯定される必要などないのだ。 「これが人生か、さらばもう一度。」などという自認はいらない。「これが人生か。そうか。」でよいのだ。そこにあるべきなのは、過去に対する部分的な諦観と部分的な満足感のみである。 人生を愛する必要などないし、そのために努力する必要もないのだ。 なぜならば、人生は一つの長い外部の現象を、内部の別の現象を通じて想起したものに過ぎないのだから。 そこに価値観を設けて、肯定・否定を論ずること自体が恣意的なものであり、十分な客観性・論理性が担保されない以上、いかなる行為もいずれ足元から瓦解してしまうのだ。 その破壊と創造のプロセスを永久に続けるものが「超人」であり(また、「転げ落ちる岩を山頂に押し上げる者」としても良い)、まるで、苦悩しながら一つ一つ積み木を積んでいく幼児のようである。 そこからいじらしい幼児性を引いて考えると、愚かでバカげた人間のように、傍目からは見えないか。 ここで、第三者を考える必要はない。ただ、自己の人生を見つめ直した時に、客観的な価値観を導入したならば、自分の姿がバカらしく見えるだろうというだけである。 この意味において私は、「超人」の価値を否定するのだ。 「超人」のバカバカしさを悟った時点で、合理的な人間であれば、そこで「超人」への歩みを止めるべきである。 神を⚪︎し、「超人」を否定し、人生への肯定を捨てて、無目的に精神の砂漠を歩き続ける人間こそ、真のニヒリストではないかと私は思うのだ。 外部と切り離された場合、そこには一切の慰みも、絶望も、安心も平穏もなく、ただ空間が広がるだけである。その空間に他意なく放たれた孤児こそ、人間の精神の始まりであり、合理的な人間が現実を直視した時に取るべき行動は、無意味な逍遥に他ならない。 ツァラトゥストラ、読みます。
1投稿日: 2024.01.31
powered by ブクログネット上で予習したツァラトゥストラの内容に親近感を覚えていたので、読みやすい文体でおおよそのあらすじと考察を記載されている本書を一読。 入門書に適しておりかなりわかりやすく読めた。 ニーチェの人生を追体験した上で、キリスト教世界における神はどういう存在でどんな価値観だったのか、そこからニーチェの考える価値観、神の死から新たな超人という指針、ニヒリズムや永遠回帰と超人への道に行き着いたストーリーが、筆者の易しい説明で解きほぐされていく。あとはニーチェの悲劇の誕生という処女作では、ディオニュソス的なもの(感情や享楽を前提とした世界)とアポロン的なもの(理性や論理で組み立てられた世界)という概念が語られており、ユングやMBTIにおけるFi(内向的直観)、Ti(内向的思考)のような概念だなと思ったのと、ニーチェは前者のディオニュソス的な思想を持っている点が強く惹かれるポイントだと感じた。全体を通してその人間の深淵たる内面性を肯定し、つらく大変な現実に対して能動的に前向きに立ち向かい続けることこそが人のあるべき道であると諭している。そのリアリスティックな視点が僕は好きだなぁと。
0投稿日: 2024.01.25
powered by ブクログニーチェのツァラトゥストラを著者の考えも交えながら現代向けに咀嚼し自己承認を得るきっかけになる本 永遠回帰について自分なりに解釈すると、「もう二度と味わいたくないような辛い出来事があったから今の自分がある。それは辛い出来事の経験きっかけの行動だけではなく、その出来事があったから歩まざるを得ない道がありそういう積み重ねが一つでも欠けたら今ある幸せは存在し得ない。」と感じた。 親ガチャの考えやインターネット普及によって他者との比較をしがちなこの世の中だからこそ読むべき本
4投稿日: 2023.10.11
powered by ブクログわかりやすさで流行った100分de名著シリーズ。ニーチェ哲学のキーワード「超人」と「永遠回帰」が著者の丁寧な補足により誤解なく理解できる。孤独に陥らず「頼ることを学ぶ」「表現ゲームをうまく働かせる」といった修整アドバイスが素晴らしい。自分の人生を自分で作っていく主人公でありたいならこの状況で何が自分を悦ばしくするかを問う以外にはない。自分の今に立ち返ることから自己肯定感を作りあげることが大事。ニーチェの気付きに拍手。自己否定する動物は人間だけ。なんとも厄介な生き物だ!
1投稿日: 2023.07.11
powered by ブクログ【読もうと思った理由】 ツァラトゥストラ(光文社古典新訳文庫)の上下巻あるうち、下巻の2/3ほど読み進めて、ふと我にかえった。このまま最後まで普通に読み進められるけど、「なんかイマイチ心に響かない」。このまま読了しても良いのだろうか?いや、ダメだろうと。このまま読了すると、ニーチェに対して苦手意識を持ってしまうかもしれないし、下手をすると、「やっぱり哲学って、こ難しいから、今後哲学を読むのは控えようかな」と認識してしまう可能性が高い。それは避けるべきだと思い、以前ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟のときに行った「100分de名著」に解説してもらおうと思った。 一昔前の自分なら一冊の本を読了する前に解説本を読むのは卑怯だと思い、読了するまでは、何がなんでも他の関連書籍は読まないと、頑なになっていたと思う。ただ以前、村上春樹氏に対して20年以上も苦手意識を持ち続けてしまった経緯があった。その時の反省を活かし、20年も心にトラウマを持ち続けるよりは、一人の哲学者を理解するために、複数の関連書籍を同時並行で読み進めていくのは、まったく問題ないどころか、むしろそれで理解が深まるなら、絶対そうするべきだろうと。 よく考えたら、僕が好きなCOTENの深井龍之介氏も一つのテーマに対してコンテンツを作る際、大体5万円ほどの書籍を購入し、関連書籍を読みまくるらしい。また、今は亡き司馬遼太郎氏も「竜馬がゆく」を執筆した際は、神保町の古本屋からその関連書籍がほぼ無くなるほど、書籍を爆買いしたらしい。その数、軽トラック一台分で当時の価格で1,000万円なんだとか。 僕が今後読もうと思っている書籍は、哲学書や古典思想書などで、世間一般にも難しいと思われている本だ。なので今までの本の読み方とやり方を根本から変えるべきだなと思った。一人の著者(作品など)を読もうと決めたら、その著者を知るために複数の書籍を同時並行で読むことをある種デフォルトにするべく、考え方をシフトチェンジしようと決めたため。 【ニーチェの生涯】 やはり解説書を読んで良かった。 ニーチェ個人に対して、まだまだ知らないことが多すぎた。村上春樹氏のときもそうだが、その作品を深く知るのに最も手っ取り早いのは、作者自身のことに興味を持ち、出来るなら作者本人を好きになってしまうのが、最短の道だと改めて思った。 ニーチェの経歴について、今回新たに知ったことを詳細に書くと、以下になります。 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、1844年に生まれて1900年に亡くなる。その人生を一言でいうと「若くして成功に恵まれたが、後半は挫折と苦悩を抱えつつ執筆し、最後は精神を病んでしまった」と言える。 ニーチェはドイツの東部ザクセン州ライプツィヒ近郊の村レッケンに、両親とも牧師の家系の息子として生を受ける。父親が5歳のときに亡くなると、一家は中都市ナウムブルクへと移り、ニーチェはそこで母と祖母、叔母である父の姉二人と自身の妹、それから小間使いという、女性ばかりに囲まれて育つ。 成績は子供の頃から優秀で、音楽もナウムブルク一の先生のもとに通い、ピアノの腕は相当のものだったんだとか。ただ小さい時から集団生活が苦手で、本当に気持ちの通じる仲間が一人か二人と付き合うスタイルで、そのスタイルは生涯にわたり変わらなかったんだとか。1858年、14歳のときにプフォルタ学院という有名学校に入学。ここで20歳になるまでの6年間を過ごす。その間詩を書き、作曲をし、哲学論文を記し、ゲルマン英雄伝説の形成についての文献学的研究まで行っており、若い頃から極めて突出した存在だった。ワーグナーを初めて聴いたのもこの頃で当初は音楽家になりたかったんだそう。のちにインド哲学の研究で有名になるパウル・ドイセンとは親友であった。 プフォルタ学院を卒業したニーチェは、一度ボン大学へと入学するが、翌1865年にライプツィヒ大学へと移り、高名な学者であったリッチュル教授のもとで古典文献学を学ぶ。 ちなみに古典文献学とは端的にいうと「ギリシャ・ローマの古典を研究する学問」だが、当時のドイツでは大きな意味を持っていた。それは一種の憧れといってよいもので、ゲーテ・ヘーゲルその他のドイツの知識人たちは「ギリシャ・ローマをモデルとしてこれからの人間社会を考える」という姿勢を一貫してとってきた。その背景としてプロテスタントの国ドイツには厳しい掟があり、人間は禁欲的につつましく生きなければいけないとされていたという。若者はそうした生き方に抵抗がある。そこでギリシャの古典を読むと、たとえばソクラテスは色々な若者たちと自由に語り合い、心から納得できる考えを取り出そうとする。哲学とは本来そういうもので、自由闊達な議論が大前提だ。 ドイツの学生や知識人はこうしたギリシャの自由な生き方に大きな憧れを抱き、それを人格形成の礎にもし、また今後の社会の模範にもしたいと考えた。しかしニーチェの生きた19世紀後半になると、古典文献学では厳密で実証的な文献研究が進み、自分で自由に大切と思える部分を取り出して解釈する読み方は、受け入れられないようになる。 ニーチェは大学の懸賞論文で、三世紀前半の哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」の典拠をめぐる研究をするが、彼は同時期に、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を読んで衝撃を受けているので、自分の思いを大胆に書き出したい気持ちがあったのではないかと思われる。はやる気持ちを抑えて、厳格に学問的に古典を正確に読むという訓練を行なっていく。その甲斐あって、この論文は学内で賞を獲得し、リッチュル教授推薦のもと、ニーチェは24歳の若さにして、スイスのバーゼル大学の古典文献学員外教授に就き、出世を遂げる。 この頃ショーペンハウアーに夢中になっており、特に「生は苦悩で、音楽だけが忘れさせる」という言葉に真実があると考えていた。しかしそのことは恩師リッチュル教授には伝えず、ひたすら真面目に文献学の修行をする。1869年、24歳の若さで古典文献学の員外教授に就いたニーチェは、翌年あっという間に正教授に就任。これは当時でも異例の抜擢とのこと。 この頃ニーチェが特に交流を求めたのがワーグナーだ。この頃のワーグナーは、50代半ばで、すでに名声を確立しスケールの大きなカリスマ的人物としてたくさんの人々から称賛を浴びていた。ニーチェはワーグナーとその妻コジマの別荘に訪れては、入り浸っている。ニーチェはワーグナーをさして「アイキュロス(古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人)が現代に生きている」といったそう。古代ギリシャの精神をドイツとヨーロッパにもたらしてくれる「文化改革者」として捉えていたことになる。ワーグナーもニーチェのことを、自分の音楽のことを理解し支えてくれる若く知性ある若者と捉えていたようだ。そして二人はともに、熱烈なショーペンハウアーの支持者でもあった。 1872年、28歳のときに処女作「悲劇の誕生」を出版。しかしこれが問題の書で、その後のニーチェの人生を決定づけることになる。なぜなら、この書物は厳密な古典文献学の研究というよりも、ニーチェ自身の芸術論をギリシャ悲劇に託して書いた面があったからだ。そのため学会からは、総スカンを喰うことになる。 ニーチェは、古典文献学は実証的な精密さだけではだめで、古代ギリシャ人の精神の核心に迫るものではなくてならず、そうすることで初めて自分たちの生をよくすることに役立つと考えていた。ニーチェはさらに、悲劇を滅ぼしたのは、知や理論によってすべてを理解できるとするオプティミズム(楽天主義)であるという。悲劇詩人エウリピデスはディオニソス的なものを滅ぼしたと批判しつつ、最終的にはソクラテスを批判することへと向かう。ソクラテスは「よく生きるためには何がよいことかを知らねばならない」と説くが、ニーチェにいわせれば、知ができることは限られており、人間が生きる上でぶち当たる深遠な苦悩には届かない。苦悩を無視してこしらえた理屈など何ほどのものでもない、という。これはもちろん、時代状況の批判にもつながる。つまり、理論と技術を万能とする進歩主義、平板に知的に人生を理解する見方への批判でもあった。 このような「悲劇の誕生」はワーグナーやそのサークルの人々には激賞されるも、厳密な文献学研究とはまったく認められず、ニーチェは学会は言うまでもなく、自分を推薦してくれたリッチュル教授にすら見捨てられてしまう。義務はあるので大学には勤めなくてはならない。でも、授業を開講しても学生がまったく来ない。学生にまで見放されたニーチェの大学人としての生命は、28歳にしてほぼ終わってしまう。 それでもニーチェには、まだワーグナーへの期待があった。ところがその関係もしだいに崩れ始めていく。理由は、ニーチェのワーグナーに対する「違和感」だった。ワーグナーこそは、自分たちの今いる世界と文化を本気で作り変えていく人間だと思っていたのに、もしかしたら彼はたんに自分の名声が欲しいだけの俗人なのではないか、それに彼はキリスト教に戻ろうとしている。その不信感は、1876年、ワーグナーがバイロイト祝祭劇場を建設したときには確信へと変わっていた。 でもワーグナーからすれば、ニーチェの心変わりは奇妙に思えたことだろう。これまで自分を礼賛していて、自分も目をかけて親切にしていた若い学者が、突然手のひらを返したかのように、著書「人間的な、あまりに人間的な」で悪口を言い始めたからだ。ニーチェはこうしてワーグナーを批判し自ら離反していったのだが、ニーチェにとってワーグナーは生涯通して「すごい人」であり続けた。ワーグナーと彼の妻コジマと過ごしたときの幸福はいつまでも覚えていた。 ニーチェのここからの後半生はひどいものだ。もともと目は悪かったが、さらに悪くなり、頭痛や吐き気、胃痛が続くなどほとんど病人で、何度か自殺を考えたこともあったようだ。学会はダメ、ワーグナーもダメ、体調もダメ。友人もますます少なくなる。それでもニーチェは、思想家として書き続けようとする。 まだ体調がましだった頃に刊行した「反時代的考察」はそこそこ評判になったが、体調が悪化してからの「曙光」(1881年)、「悦ばしき知」(1882年)と80年代に入ると、誰も見向きもしなくなる。79年には体調悪化で大学も辞めてしまう。ニーチェとしては文筆業で身を立てたいという希望があったのだろう。でも書くものはまったく売れない。大学からの年金があったので生活は成り立ったが、以降はイタリアやスイスのあちこちを巡りながら、売れない原稿を書き綴っていくことになる。 そんな中、1881年8月にニーチェは突然「永遠回帰」の思想が、インスピレーションとして到来する。また1882年にルー・ザロメとの失恋を経験する。この2つの体験が「ツァラトゥストラ」執筆にあたっての大きな動機づけになったことは、間違いないとのこと。翌1883年、ニーチェは2月3日〜2月13日までのわずか10日間で「第一部」を書き上げる。そして続く1884年には「第二部」「第三部」、1885年には、ほとんど私家版ともいうべき「第四部」を完成させる。 その後の著者は、「ツァラトゥストラ」に込められた思想を別のやり方で補足・解説していくという感が強く、1886年の「善悪の彼岸」と1887年の「道徳の系譜学」はまさにそうしたもの。 そして1888年「ワーグナーの場合」「偶像の黄昏」「アンチクリスト」「ニーチェ対ワーグナー」と、まるで蝋燭が消える前の明るさのごとく、急ピッチで本を書き上げるが、翌1889年の初めには精神に異常をきたしたと診断され、その後は母親と妹に看病されながら10年ほどを過ごす。 ところが運命とは皮肉なもので、それとほぼ時期を同じくして、ニーチェの名声が少しづつ高まっていく。かつての教え子で音楽家のペーター・ガストが全集刊行のために奔走するところへ、南米から妹のエリザベートが戻り、兄の著書の出版に対して積極的に関与していく。彼女は「ニーチェ文庫」と呼ばれる施設をつくって、次々とニーチェの本を出していくが、ニーチェ本人はもはや認識しておらず、印税もすべてこの妹の独り占めだった。そして1900年8月25日、ニーチェはワイマールで息を引き取る。満55歳。孤独な男の寂しい生涯だった。 【本書を読んで得た気づき】 ここまで詳しくニーチェ本人のことを知れば、知る前と比べて当然「ツァラトゥストラ」を読んだときの思い入れも違ってくるし、読後に受ける思考の深さも大きく変わってくる。村上春樹氏のときは、エッセイから入り、村上氏のことに対して好意を持ったが、世界的に著名な哲学者や思想家であれば、入門書や解説書も多数出版されている。今後僕が読もうと思っている哲学書・思想書は、その著者の考え方の奥の奥まで入り込まないと本当に理解したとは言えないだろう。そう考えると、その著者本人のことを深く知ることは、哲学書・思想書を知る上では必須事項だと思った。今後哲学書・思想書を読む際は、まずはその本人の生涯を詳しく書いた入門書か解説書から読んでいこうと思う。 【雑感】 この後は「ツァラトゥストラ」本編を読了し、感想をアップします。今回本書巻末で、より適切なニーチェ入門書を紹介してくれていた。今後も海外の古典文学は光文社古典新訳文庫をベースに読んでいきたい気持ちは変わらない。ただ哲学書・古典思想書に関しては、他の出版社からの選択肢も増やしていこうと思う。
135投稿日: 2023.05.28
powered by ブクログニーチェの入門書として読んだ 生い立ちから、超人とか永遠回帰とかよく聞くニーチェの思想のキーワードとなるような言葉の意味を学べた 4章の「表現のゲーム」は西さんの個人的な考え(哲学)で、この本になくてもいい気がした 大学生のリアクションペーパーからの引用は面白かった
0投稿日: 2023.03.23
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
さて、「永遠回帰」の意味するものについて見てきました。でも、「何度も繰り返しの人生を生きることを欲する」なんてことは、本当にできるのでしょうか? 大学でニーチェを講義するとき、ぼくはよこくの質問を学生に投げかけてみました。よくある答えは、「いまの人生を全否定するわけではないが、楽しいことがあっても厄介なことはもあったわけで、まったく同じ人生をもう一度というのは実際には辛いかな。一度ならいいけど」というものでした。そして「何度も繰り返していい、というところまで自分の生を肯定する必要なんてあるんだろうか?」と疑問を呈する人もいました。でもなぜ、ニーチェは「永遠に繰り返せるほどの生の肯定」を求めたのでしょうか? それはルサンチマンの克服という問題と深くかかわっていると思います。 ニーチェは、「こうあった」--たとえば「両親が離婚してしまった」「身体の障害をもって生きていかなくてはいけなくなった」「好きな人から別れを告げられてしまった」というような、ネガティブな過去のできごとーーに対する意思の歯ぎしり、ということをいっていました(第二部「救済」)。たしかにこのようなことを耐えつつ生きていくのは辛いものです。だからこそ、どうすることもできない「無気力」を感じ、そこから何かに心理的に復讐したいという気持ちが生まれます。失恋のばあいなら、自分をふった人に対して「どうせあんな女なんか」と急に欠点を探し出したりするかもしれません(ほんとうは素敵なのに)。人間の心にはそんな動きがあって、無力な復讐心で紛らわそうとするわけです。これがルサンチマンです。 このような状態から、ふつう人はどうやって抜け出ていくのでしょうか。多くのばあいは、しばらくは呻いたり呪ったりしながら、時間が経つにつれて「しかたがない」と思いはじめて、だんだんと受け入れていくのでしょう。ところが、ニーチェは「しかたなく」受け入れるのではまだだめで、「それを欲した(意欲した)」にしなくてはいけない、すなわち「失恋してよかった」としなければいけないというのです。「すべての『こうあった』を『私がそう欲した』につくりかえることーーこれこそわたしが救済と呼びたいものだ」(第二部「救済」)と。 「しかたなしの受容」というのは、みんなわかると思うのですが、「これ“が”いい。私はこれを欲する」ということになると、多くの方が「それは無理ではないか」と感じるのではないでしょうか。たとえば身体の障害であれば、「障害をもったことは、“しかたがない”ではなく、障害をもったことを“欲する”」、つまり「何度生まれ変わっても障害者であることを欲する」までいかなくてはいけないわけですから、これはとてつもなく厳しい要求です。ぼくも最初にこれを読んだときは「何もそこまでいわなくても」と思いました。 けれどもあるとき、ふと友人のKさんの言葉を思い出したのです。Kさんは、一九八〇年代の初頭、ぼくがまだ二十代のときに出会った人で、「骨形成不全症」という病気を抱えた女性でした。発育不全で身体は小さく、骨が弱くて脆いために骨折を起こしやすいので、彼女はいつも車イスにのって移動していました。以前は看護体制の整った施設で暮らしていたのですが、そこではさまざまな人たちとつき合う「関係の悦び」が得られにくい。当時は「障害者よ、街へ出よう」という「自立障害者」運動が盛んな時期でしたから、Kさんも公的扶助などを受けながら、ボランティアの人にお願いしてアパート暮らしをするようになったのです。 しかしトイレ介護を受けないと一人ではできないので、夜眠るときでも必ず誰かが付き添っていなければなりません。彼女は二百人ほどの名前をリストにしたノートをもち、今日はこの人、明日はあの人というように、自分のおなかの上に電話器を置いて電話しながら、介護のスケジュールを埋めていたのを思い出します。 Kさんはこの「自立障害者」運動のなかで、たくさんの障害者や健常者と出会って友だちになりました。彼女は大学生ではありませんでしたが、車いすを押してもらって大学のゼミにも顔を出し、そこでぼくもゼミ生の一人として彼女と知り合いになったのです。その彼女が、あるときこんなことを話してくれたことがあります。 「障害者の仲間の間では、こんな話があるんですよ。『もし天使が降りてきて“あなたの障害をすっかり治してきれいにしてあげる”といわれたら、そのときはどうする?』って。私は『このままでいい。障害をもって生まれたこの身体をもう一度選ぶ』と。それを聞いた二十代のぼくは、「ほんとかなあ? それはちょっと無理があるんじゃないかな」と思って、彼女にもそういった記憶があります。 でもだいぶ後になって、あらためてこの「永遠回帰」の思想――マイナスな生の条件に対しても“われ欲す”といえるとすれば、どんなときだろう」と考えてみたとき、彼女の「このままでいい」といった理由がわかる気がしたのです。 彼女にとっていちばん大切だったのは「関係の悦び」だったのだと思います。障害をもって生まれてきて、施設にいれば安全だけど悦びは少ない。それに対して「外に出る」ことは大変なリスクを伴うとしても、さまざまな人たちと出会える。新しい出会いを通じて生活を作れるのは、彼女にとってとても大きな悦びだったと思うのです。「障害だけを見ればたしかにマイナスだ。でも、この障害とともに自分の人生はあった。苦しみもあったけれど悦びもあった。障害のおかげで、他の障害者や健常者の友だちに出会えた。素敵な出会いがたくさんあった。この人生全体を私は愛す」と彼女は心から思っていたのかもしれません。 あらためて「マイナスをどうやって欲するか」について考えてみましょう。「しかたがない」という言い方は、たしかに受け入れてはいますが「外から押しつけられた」感を伴っています。ですから、「もしこれがなかったら」と考えてしまう可能性が残っている。でも「このこと(障害)が私の生を作っている」と思えたならば、それは自分の人生の内側を形作っているものとして受け入れていることになります。それはもう自分から切り離せる「外からの」ものではない。苦しみも悦びもつくり出すきっかけにもなっている。そう考えるならば、マイナスを含めて自分の人生を肯定できる。そしてその人生を何度でも繰り返そうと思えるのかもしれません。 ふたたびルサンチマンについて考えてみましょう。そもそも、なぜルサンチマンは「よくない」のでしょうか? ルサンチマンとは「無力感から生まれる復讐心」のことですが、ぼくなりの言い方をすれば、前向きな力を損なうところが問題なのです。 まず第一に、それは「自分が人生の主人公であるという感覚」を失わせる。自分の人生を自分でコントロールしていけると思える「能動的」な感覚、これをだめにする。さらにもう一つ、「みずから悦びを求めて汲み取ろうとする力」を失わせる。たとえば、同じ時間で仕事をするときに、嫌々ながらやることもできるし、悦びを得ようとすることもできますよね。ルサンチマンとは「ブーたれ」ですから、自分から動く能動性を失わせてしまい、「文句をいう」という微弱な快感とひきかえに、積極的に悦びを汲み取ろうとする力を損ねてしまうのです。 さて、いよいよ本題へと入りますが、ニーチェの思想のうち、私たちが現代を生きるうえで大事だなと思うポイントをいくつか拾ってみましょう。 最初に強調したいのは、ニーチェの思想は、まさに「いま」という時代を生きるさいの「柱」になるものだ、ということです。高度経済成長期のように、「いまは自分たちは貧乏だけど、いずれ豊かになれる」とか「あそこには素晴らしいものがある」という目標が与えられない時代です。 そんななかで、「では何ができるのか」と考えたときに、もしあなたが「自分の人生を自分でつくっていく主役でありたい」と願うならば、この状況で「何が自分を悦ばしくするか」を問う以外にありません。--これは一見、とても厳しい思想のように思えます。「こうやって生きるべきというものはない。どのように生きてもいい。そして、どの絵を描くのかもすべて君に委ねられているのだ」というので、恐ろしく感じる人もいるかもしれません。しかしそれは、人を本当の意味で自由にしてくれる思想だとぼくは思います。 なぜ「この作品はすごい」のか、なぜ「この作品はいまひとつダメなのか」。こうやって互いに語り合われることを通じて、人生に対する態度や、他社に関わる態度、社会に対する姿勢など、自分がいままで無自覚につくってきた「よい・わるい」の感覚が、他者の感覚と照らし合わされ、検証されていく。そのプロセスを経て、「やっぱりこれはいい。これはよくない」という価値観の軸ができあがっていく。こういうことが文化の本質でしょう。一言でいえば、自他の価値観を照らし合わせながら、ほんとうに納得のいく価値観をともにつくりあげていこうとすることです。 こうした語り合いのないところに、「創造性」や「高まること」はない、とぼくは考えるのです。
1投稿日: 2022.12.28
powered by ブクログ解説者の解釈がたぶんに含まれているというレビューも多いが、だからこそ非常に読み下しやすかったのではないか。 自分のように特に前提知識も持たない一般人にとっては、かなり平易に噛み砕いてもらったおかげで大変読みやすかった。 自分も「超人」として生きたいが...。
0投稿日: 2022.11.12
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個人的にはツァラトゥストラの内容の解説よりも西研さんの意見、考えの記述が多いように思いました。 しかしながら、ニーチェの人生や彼を取り巻いていた人間関係や環境などはとても分かりやすく解説されていました。ツァラトゥストラを読む前準備にはとてもいい本だと思います。 神様とか天国というのはゴリゴリに辛い現実に耐えられない人間が何とかして前向きに生きていこうとして作ったもの。キリスト教なんかもそう、“汝、真実を語れ”というのなら、その言葉を本当に突き詰めるのなら“本当は神様は存在しない”ということと真正面から向き合わなければいけないのでは?という指摘は、ほとんど信仰心のない私も少し動揺しました。絶対的な善も悪もないとなるとどこに心のよりどころを求めればいいのか、ニーチェからするとそんなものはないのでしょう。しかし、彼自身が発見し世に説いたその“確かなものが何一つない”不安からニーチェ自身も病んでしまったのは気の毒だなと思いました。 また、現実として孤高の超人を目指すのではなくいろんな人と関わり合いを持ちながらいった方がいいという考え方は私もそうだなあと思いました。でも、難しいですよね。他者と渡り合っていくとなるとどうしても自分と相手を比較してしまったり、自分が持っていないものを相手が持っていると羨ましく思ったりと何かと己のルサンチマンが顔を覗かせてしまいます。永劫回帰については、いいことは何回でも繰り返し起こってくれて大いに結構なのですが、辛くて暗いいやなことだけは都合よく記憶から抹消してしまいたい、どうかその部分だけは繰り返さないでほしいと私は思ってしまいます。 その点については、受け入れられないなら呪え!という開き直ってるところがにニーチェの優しい矛盾であり、それと同時にそれが上手にできればニーチェも発狂しなかったのではないかなと思いました。 劇薬的著書ツァラトゥストの解説書でもかなりの副作用?があったので、考えがまとまらないままレビューを書いておりますが、本作を読んだらどうなってしまうのか今からドキドキです…。
2投稿日: 2022.05.03
powered by ブクログ原文で読んでも意味がわかりにくいところを解説してもらえると助かる 現代社会においても当てはまる考え方 100年以上前に書いた本とは思えない 自分の人生を力強く生きていく…アドラー心理学にも通じるものがある気がした 持
0投稿日: 2022.01.24
powered by ブクログニーチェ!実存主義。生きてる間は不遇だった人。 人間が生を肯定するにはどうすればいいか?この自分を取り巻く条件の中で、どうやって自分の喜びを汲み取るかを考えるしかない。「悦び」も自分が決めるしかない。私が求めているのは何だろうかと自分に問いかける。 永遠回帰の思想とは、宇宙の万物は永遠にその経過を繰り返していると言うもの。喜びも苦しみも含んだあなたの人生が何度も繰り返されることをあなたは欲することができるか?それが真に自分の人生を肯定すると言うことだ。そのためにはあなたは苦しかったことに対してもyesと言えるのではなくてはならない。 受け入れがたいことが起こってしまったとき人はそれを恨む。「なぜ私だけがこんな目に」「こんなことさえなかったら」このルサンチマン(恨み)の気持ちはごく自然なもので、まずそれを発散することが必要。「祝福することのできないものは呪うことを学ぶべきだ。」←明るい教え。 しかし恨みルサンチマンの中にずっと埋没していると2つの大切な感覚を失ってしまう。 ①主体性の感覚の喪失…自分は何をどのようにやっていこうかと前向きに問いかける気持ちを忘れてしまう。自分は自分の人生の主人公だと思えなくなってしまう。 ②喜びの感覚の喪失…今まで生きてきた中で自分のささやかなまた深い喜びを受け取って生きてきたことを忘れてしまう。そして今の状況の中からでも喜びを受け取って生きようと言う姿勢も持てなくなる。 「苦しみをどのようにして受け止めていけるか」の問いと「一旦起こってしまった事は戻せない。大切なのは今、これから'自分が'どうするかだ」と言う思想。 自分の力が自発的に発揮されるときに感じる自己肯定「今日の俺って天才か」「私ってかっこいい」 永遠回帰…人生の中で1度でもほんとに素晴らしいことがあって、心から生きていて良かったと思えるならば、諸々の苦悩を引き連れてこの人生を何度も繰り返すことを欲し得るだろう。 恨みや無力ルサンチマンの状態からどう抜け出すのか。しばらくは呪ったり呻いたりしながら、時間が経つにつれて「仕方がない」と思い始めて状況を受け入れていく。しかし「仕方なく」受け入れるのではまだダメで、「それを欲した(意欲した)」にしなくてはいけない。すなわち「失恋してよかった」としなければいけないということ。 悦びは嘆きよりも、悲しみよりも深い。すべての悦びは永遠を欲してやまない。 人生の中にあった悦びを思い出すこと。これからの人生で素敵なことを汲み取ろうとしないといけない。人を好きになったこと、何かを作り出したときの達成感、人が喜んでくれたことなどなど 語り合う関係の中で自他の意見を確かめ合う事によって初めて、物事の「よし・あし」を確信できるから。語り合い確かめ合う空間が縮小すると、一人一人はますます個別化され不安になる。そしてマニュアルに頼ったり集団の多数意見に合わせたりして生きていくしかなくなる。表現のゲーム。 都市空間が生まれたことによって「人生を選ぶ」と言う意識が生まれた。「私はどうやって生きていけば良いのか」「何が生きる上で大切なことなのか」といった生き方の問いを持つ人間が生まれたと言うことを意味する。それを深めたのが本。 安心できる場を作るには尋ね合いが大切。 人が本当にクリエイティブになる時とは、人との関わりの中でお互いが感情出し合ってそれをきちんと受け取った理解したりする時ではないかと思います。お互いの間で響き合ったり、刺激し合ったりしていく中で高まっていくところに超人がある。 自分の欲望こそ、自分自身に他ならない。自分探しとは自分の欲望を探すこと。自分の欲望あきらめない事は人生の正しい生き方。世間から評価される前に「自分がどれだけワクワクできるか」とプラスの思考から始めなければならない。
1投稿日: 2021.11.01
powered by ブクログ『ツァラトゥストラ』の解説のはずだが、著者の考えを入れているうちにどんどん斜めに進んでいって、正反対のところに着地した。 最終章は「現代に『超人』は可能か?」という刺激的な題だが、提案されるのは語り合いによる「表現のゲーム」。 P122 「だれかが何かの意見をいったときには、まずそれをきちんと聴き取ろうとする姿勢が大切です。その姿勢があれば、相手の意見に対してすぐさま「それは違う」と自分の尺度で即断したり否定したりすることがなくなります。そしてさらに、その人のいいたいことのニュアンスを確かめる作業が必要になってきます。「ねえ、君のいいたいのは、たとえばこんなことかな?」というふうに、こちらで例にして尋ねてみる。そうやって相手の意見を確かめて、場のメンバーがその人のいいたいことを享有する、という手続が大切です。」 現実の話し合いで「ねえ、君のいいたいのは、たとえばこんなことかな?」という発言があった場合、ニュアンスを確かめているのではなく、微妙なニュアンスをねじまげているのがしばしばである。ジャズのような「表現のゲーム」が、大学の教室で発生したと報告しているが、私的な場ならいざ知らず、教室でそんなことが起こるとはにわかに信じられない。 かえって、最後の対談で精神科医の斎藤環氏の「超人とは、まったく対人関係を結ばない『完璧なひきこもり』」、「ひきこもっている自分を、いかなる価値基準にも照らさないで無根拠に肯定できるかどうか」という言葉のほうに考えさせられた。
1投稿日: 2021.10.20
powered by ブクログ前半はツァラトゥストラをベースに主に超人と永遠回帰に焦点を当て、後半はニーチェの思想を現代にどう活かすかを論じている。噛み砕かれた文体に加え、かなり論点を絞っているため挫折せずすぐに通読でき、ニーチェの中心思想を理解するとっかかりとしてちょうどよい。よく対比させて述べられるヘーゲルに関しても触れられている。ただし、後半になるにつれ、ニーチェのように孤独になるよりも、「語り合い報告し合う営み」を通した方が人生はより創造的になっていく、という筆者の意見が前面に出てくるため好き嫌いは分かれるかもしれない。
1投稿日: 2021.10.03
powered by ブクログ自分の人生、自分が主人公。 苦しい時もあるけど、自分を信じて行動した先に悦びがあるような気がする。 ニーチェの言葉をまた読書から感じ取りたいと思った。
0投稿日: 2021.08.14
powered by ブクログ今の時代、「私たちはどうやって生きていけばいいのか?」という問いは誰しもが思うことだろう。 ニーチェの哲学はそういった悩みや不安を抱く人々に対して力強いメッセージをくれる。 ルサンチマン、超人、永劫回帰、運命愛… キーワードはたくさんあるが、本書の冒頭で述べられているように、ニーチェの答えをあえて一言で言うならこうだ 「固定的な心理や価値はいらない。君自身が価値を想像しなくちゃならない。」 このニヒリズムの時代に創造する生き方を提案したニーチェ。そして、その思想を分かりやすく解説してくれているこの本はこれから何度も読み返していきたい。
1投稿日: 2021.08.09
powered by ブクログ主張が抽象的なため、解釈の仕方が様々あるが(過去にはナチスの優生思想にも利用された)ルサンチマン(否定することによる自己肯定)に負けずに意思を持って創造的に生きるための思想だと理解できた。
0投稿日: 2021.06.03
powered by ブクログ以前読んだ飲茶さんの本で、ニーチェの思想はざっくりは知ってたけど、ニーチェの生い立ちなどもしれで理解が深まった。 『ルソー エミール』でもそうだったが、この方の本はでは取り上げている人物の思想に共感しながらも、足りない視点などを補ってくれるところが凄く実用的で良い。 ニーチェの思想にどっぷり嵌りそうな人のタイプにも触れていて、ドキッとした。 ルサンチマンに囚われては前に進めないが、創造性を求めて孤独になりすぎないように気をつけよう。
1投稿日: 2021.04.07
powered by ブクログニーチェの中心的な概念、神は死んだ、生の快楽の肯定、ルサンチマン、ニヒリズム、超人と末人、永遠回帰をわかりやすく解説。古典を直接読んで理解するにはまだまだ力が足りない段階なので、これくらいの解説がちょうどよく、理解が進んだ。今、自分の人生を自分のものとしてどう考えるか、考えてみたい。
0投稿日: 2021.01.17
powered by ブクログささっと表面をさらう程度に。巻末の対談に出てきた「超人」の解釈はその定義を曲解しないための参考になった。
0投稿日: 2020.11.24
powered by ブクログニーチェの思想が分かりやすくまとめられており、良書だと思った。 ただ、筆者の考えが必要以上に多く述べられていると、個人的に感じた。 筆者の考えに賛同できることは多々あるものの、わざわざニーチェの考えを否定しつつ自分の考えを主張するというのが一部出てくる。 もちろん筆者の自由に本は書いていいわけだが、「他人の考えを否定しないことが大切である」という主張を自分の考えとして述べている。 そこには自分も深く賛同できるのだが、それを筆者自身が破ってしまっているのは気にならざるを得ない。 ただここから学べることは、つい人は自分の考えが「正しい」と思い、知らず知らずのうちに他人の考えを否定してしまうきらいがあるということだ。 当然このレビューを書いている自分も同様に。 ニーチェの言うように、唯一絶対の正解などないはず。 自分も、自分の考えと他人の考えをそれぞれ尊重するということは常に意識しておきたい。
1投稿日: 2020.07.30
powered by ブクログ「ツァラトゥストラ」は非常に難解。 しかし、本書は、それをこれでもかと言うほど噛み砕いて分かりやすく書いてくれていると思う。 ニーチェの入門には最良の書では?
0投稿日: 2020.03.22
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ニーチェの思想が知りたくて読んだ本。ニーチェや「超人」、「永遠回帰」、「ルサンチマン」の思想を知ることできて良かった。この本を読んで、ニーチェの妹のエリーザベトが酷い人だということを初めて知った。自分の生き方は自分で決める、人と高め合って生きる、何が自分にとっての悦びなのか、唯一絶対の真理は無いというところが特に印象に残った。
1投稿日: 2020.02.05
powered by ブクログ『ツァラトゥストラ』と並行して、感動しつつ読んだ。『ツァラトゥストラ』だけでは無理。 著者なりの解釈で、永遠回帰、運命愛、超人の関係がよく分かった。 超人になるのは大変だ、というのがよく分かった。 これでいい、ではなく、これがいい、と自分(の人生)を肯定しきることができるか?できそうな気持ちになったけど、肯定できない人生もある。
1投稿日: 2020.01.31
powered by ブクログ「ツァラトゥストラ」を読むのに、なかなか書かれていることが理解できなかったため併読。ツァラトゥストラで書かれている内容を、ニーチェが書いた他の本も合わせて解説してくれるため、やっとなんとなくですが読みとることができたので、解説として非常にお勧めです。
1投稿日: 2019.03.27
powered by ブクログ苦しんで創作して何かを成し遂げることが人生の醍醐味だと改めて悟った。ただ楽して生きるのは、楽かもしれないが、どこかで自分の人生にこれでいいのだろうかという疑問が耐えないであろう。ニヒリズムの時代だからこそ、本当にほしいものは何か自分自身に問いかけ、それに目掛けて努力するのみである。
1投稿日: 2018.09.12
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ニーチェの解説本を超えて、日本人がどうやって生きていくことを考えるか、まで語っている本。 311の発災直後の影響が著者の自論に反映されていて、言論としても読みごたえのある良書かと。 以下読書メモ 私たちはどうやって行きていけば良いのか ゾロアスター教の開祖の名を借りて描いた聖書のパロディー これまでの西欧価値の批判 科学、計画経済、経済成長に変わる価値 価値がわからなくなってニヒリズムの無 固定的価値や真理でなく自ら価値創造を 主要なテーマは超人と永遠回帰 ヘーゲルの社会派に対する実存派 自分がどう生きるかの問題 バッカス 闇や陶酔 欲望や享楽 アポロン 輪郭や秩序 理性や論理 悲劇を滅ぼしたアポロン的楽天主義を批判 ルサンチマン ループ センチメンタル 繰り返す感情としてのひがみや復讐感情 良いの本質 貴族的価値評価 自己肯定 自己感情 僧侶的価値評価 自己犠牲 神への忠誠 ニヒリズムと日本人 目標に向かって頑張るから生活を楽しむへ 憧れを持たず安楽を第一とする人への警鐘 三段の変化 守破離に似ている 1 忍耐強い精神 2 欲する 伝統や権威の否定 3 創造の遊戯 語り合い 超人が孤独にならないために 頼ることを学ぶ 尋ね合う関係を作る 聞き取る姿勢 強くなるのは体力じゃなくビジョン 語り合いで自他の意見を確かめる これがないとますます個別化されて不安に 永遠回帰 繰り返しても後悔せず納得できることを 本当に素晴らしいことがあれば後は辛くてもいい 失恋を私がそう欲したに作り変えること 受け入れられないならはっきり叫んで呪う 恨みに埋没すると主体性と悦びを失う 都市と市場経済 自分の人生を選べるようになった 生きがいを問う人間が生まれた 日本は一人で生きられる自由を求め個別化 その個別化はもう限界にきている
1投稿日: 2018.03.08
powered by ブクログニーチェの思想を解説する本はたくさん出版されており、そのうちの何冊かを読んできているが、この本はその中でもよくできていると思う。ニーチェの思想の核になる部分を、やさしい言葉で簡潔に解説している。そしてまた、後半では著者の考えを展開することで、ニーチェの思想に足りなかったもの、あるいはその思想史的な位置を浮かびあがらせている。装丁や頁の体裁も見やすく、今、初学者に勧めるならこの本ではないかと思う。「100分de名著ブックス」は玉石混淆。これは大当たりだと思う。
0投稿日: 2016.11.19
powered by ブクログNHKの番組「100分de名著」の第1弾「ツァラトゥストラ」のテキストが単行本化されたもの。 一番の特徴は、解説しているのがヘーゲル研究者であることだと思う。 これによってニーチェから適度な距離感がとられていて、ニーチェの「超人」のイメージに対しても批判的な見方がされる。 それは「孤高の超人」では駄目で、「周囲との協力」という考え方がニーチェには欠けていたのではないか、というものだ。 一方、対談で登場する斎藤環氏はあくまで孤高の「超人」を支持している。 『ツァラトゥストラ』はそれだけ様々な「読み」が可能な作品ということでもあり、先に解説本を読むのではなく、原典から読むことがオススメの本のうちの1冊だと思う。
0投稿日: 2016.06.01
powered by ブクログヘーゲル 社会派 ←→ ニーチェ 実存派 ○超人 ○永遠回帰 ○ルサンチマン 自分の苦しみをどうすることもできない無力感。絶対認めたくないけれども、どうすることもできないという怒り。怒りを何かにぶつけることで紛らわそうとする心の動き。ルサンチマンこそがキリスト教(神)を生んだ。神を用いることで観念の中で強者になろうとした。 ○価値変換 ○貴族的価値評価法(ニーチェ) 「高貴」で力強い者たちの「自分たちは力をもっている」という自己肯定が「よい」で、そのような力を持たないことが「わるい」 ○僧侶的価値評価法 キリスト教にとっての「善」 他人のため、人々のためを思い行動すること、つまり、その行為を受けた人にとって「よい」であり、自分の「快」や「喜び」を求めるのは「悪」である。 自分が気持ちよくなって自己肯定するのではなく、強い他者を否定することで、自己肯定する。 ○ニヒリズム 至高の諸価値がその価値を剥奪されること。目標が欠けている。「何のために」の答えが欠けている。ニヒリズム、ペシミズムの蔓延。末人の登場。 「神との神秘的な合一」安楽譲多いを求める欲望の背後にあるものは<無への意思>である →能動的な感覚を失わせる。「この条件のもとで、自分はどうやって悦びをくみとっていく道があるか、と自分で考えるしかない。」 ○末人 憧れをもたず、安楽を第一とする人。
1投稿日: 2016.05.29
powered by ブクログニーチェのことを知りたくて買ってみましたが、著者の主観も多く例えが普通の日常だったりしてがっかりしました。ニーチェについても「私は違うと思う」とか。 説明もいろいろ織り交ぜすぎてわかりにくい。 言葉やポイントになる部分はよかったので、拾い読みして終わりました。 本日2/8、家人から違う意見の人を聞くのも大事だと促されて再読しました。 いやニーチェ崇拝から少し離れて考えてみるとまた色々考えさせられます。とてもいい本でした。 やはり哲学においては互いの意見を聞き合うということが常に重要なのだと再認識しました。 ありがとうございます
1投稿日: 2015.02.03
powered by ブクログ「ツァラトゥストラはかく語りき」にはどんなことが書かれているのだろう。いきなり読むのは難しそうだしと思っていたところ辿り着きました。 ツァラトゥストラ~をわかりやすく解説している部分と、それを現代社会(今の日本)に則して解釈している部分とあって、とてもわかりやすく読みやすかったです。 解説部分は、たんに翻訳と言うことではなく、ニーチェの伝記っぽい感じで、こんな境遇のときにこれを書いたのだ、というのがわかってますますニーチェが好きになりました。 最後に、ニーチェの本のお勧めリストがあって、次に読む本を提案してくれています。
1投稿日: 2014.11.09
powered by ブクログニーチェの本には手が出ないけど、思わず「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んでみたくなる。自分の人生を肯定できるか…。自由という不安の真っ只中に放り出された現代人には宗教的なものに回帰する必要があるのではないかと素人考えに思っていたが、すでに120年前にニーチェが示唆していたのですね。そう、神は死んだのだから、依拠できるものは自分で探さねばならないのだ。 ちなみに「私が大切にしてきたものは何だったかな、どんなことが自分にとって喜びだったかな」と問いかけて悦びを見出し、その悦びを得るためであれば永遠回帰を受け入れる…この部分は「ほぼ日」の就職論っぽく、「ルサンチマンなんか関係なく常にクリエイティブに生きようとする力強い存在」である超人は、ビジネスモデルとして参考書に取り上げられそうなスタンフォード的存在として読み取れる。ツァラトゥストラって、学問のすすめとならんでビジネススクールの教科書になるのでは?
2投稿日: 2014.09.16
powered by ブクログもっとも、ヘーゲルとニーチェでは、語り方にニュアンスの違いがあります。ニーチェはまず「高揚」や「悦び」を強調するのに対して、ヘーゲルは「普遍性」(自他ともに認める普遍的な価値)を強調するからです。ニーチェならば、「まずは元気になること、悦ばしいことをやれ」というでしょう。他者に承認されるかどうか、価値があるのかどうかなどは放っておいて、まず自分が元気の出てくることをやれ、というセンスです~。 ヘーゲル:社会派 ニーチェ:実存派 ルサンチマン うらみ、ねたみ、無力からする意思の歯ぎしり ニヒリズム 神は死んだ 固定的な真理や価値はいらない。自ら価値創造する意識。 現状を前向きに受け止め、主体的に創造的に生きて行く
2投稿日: 2013.02.23
powered by ブクログ西研せんせー好きとしては一読せねば、ということで。 どのテーマもそうだが、テキストブックよりこちらの方が読み応えがある。
1投稿日: 2012.08.23
powered by ブクログ今、改めてニーチェが見直されていますが 他人からの承認ではなく、自分自身が日々をどのように受け入れて生きているか…。 不遇な生涯ながらも今なお指示されているニーチェ。 ルサンチマンとどう向き合い、受け入れ生きていくか。 自分はまだまだ未熟ですね。
0投稿日: 2012.04.30
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
おすすめ度:85点 ニーチェ著『ツァラトゥストラ』解説本。西氏が自己の体験談を交えつつ、現代社会に合わせて解釈している点がとても良い。また決して盲目的にはならず、時には足りない点もあると指摘していることもGOOD。 「ルサンチマン(=うらみ・ねたみ・そねみ)」は自分を腐らせてしまう。主体的に生きる力を失わさせてしまう。 神は弱者のルサンチマンから生まれた。「神は死んだ。」 いかにしてニヒリズムを克服するか。 「超人(=高揚感と創造性の化身)」になっていくプロセス。ラクダ(=重い荷物を背負う)→獅子(=「われ欲す」)→幼子(=創造の遊戯)。 「永遠回帰(=徹底したニヒリズム)」→人によっては絶望する?→魂がたった一度でも、幸福のあまりふるえたなら。障害者の方の例。 西研氏の主張「ニーチェのいう創造性は「表現のゲーム」という仕方で引き継がれる。」「語り合い、確かめ合う。」「悦びと創造性の精神をもって生きる。」 斎藤環氏の主張「自分の欲望こそ自分自身にほかならない。」「自分を肯定する。」「自分の欲望を諦めない。」
2投稿日: 2012.04.21
