金田章裕 / 日経プレミアシリーズ (3件のレビュー)
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道と日本史 著者:金田章裕 発行:2024年3月8日 日経プレミアムシリーズ 純粋に道の歴史について、教科書的に書かれているので驚き。文化とか、経済とか、土木技術とか、テーマがあってそれを主体にしているのかと思ってページを開いていたため。 始まりが、日本書紀に推古2年「難波より京に至るまで大道を置く」と書いてある話。ここからくるか、と思った。世界史でアウストラロピテクスや北京原人なんかから始まっていくのと同じ。僕はこれまで番組取材で、なんどもこの「大道」について取材し、調べ、取り上げて放送してきたので、この本は通読、精読するよりも、参考書として置いておく類の本棚と直感した。 大道は、難波宮(大阪市)から奈良へとつながる官道で、よく「国道1号」と比喩される古代の道。難波宮跡から南へ真っ直ぐ下る広い大道は、その跡は一部発掘されて分かっているが、今は道として残っていない。南に下り、どこから東に折れるのかというのが問題で、時代と共に変化し、段々と北上してくる。なぜなら、奈良の都が北に移って来たから。飛鳥や橿原などの南都から、北の平城京(奈良市)へ。 そんな古代の官道からスタートし、中世、江戸、近代と4パートで道について歴史をたどっている。全体としての流れは、以下のようなことらしい。 日本の道は元々徒歩の道で、柔らかい路面だった。古代は国家が管理したため直線状の官道網だったが、中世には実用的な利用を中心とした道へと変化し、一元的国家管理は行われなくなった。しかし、織豊時代になると支配者による整備の例が出現し、近世には再び国家政策的な管理体制に。ただ、道路は古代官道よりはるかに狭く、湾曲・屈曲の多い状況に。 道幅や形状の変化はあったものの、古代から近世を通じて、徒歩に適した柔らかい道路が普通だった。ただし、例外的に牛が曳く古代の牛車や中近世の荷車あり、近世においては、部分的に舗装された「車道(くるまみち)」が整備されるケースがあった。また、近世には路面や橋などが整備された一方で、箱根や大井川など政策的に設定された難所があった。近代に入ると、急激な馬車の時代到来に応じて、砂利などによる舗装が始まり、鉄道展開の時代ともなった。 流し読み程度で目を通したに過ぎないが、4パートの内で辛うじて興味が持てた江戸時代を中心にトピックスを拾うと・・・ 第1章 畿内の範囲について、大津宮の時代には、近江国の周囲に「愛発(あらち)・不破・鈴鹿」の三関が設定され、これらとは別に設置された「高安城」を加えて実質的な四至であったと推定される。 古代の官道網は、公務の人々の移動が基本。荷重の大きなものは、可能な限り水運を利用していた。その代表は米だった。 中世には、騎馬にまたがった武者を中心に、大小の軍団がしばしば街道を行き来した。鎌倉時代にしろ、行軍や合戦は騎馬が中心。古代以来の官道にしても、古代国家の管理体制はすでに崩壊していたとみられる。 第2章 平城京の朱雀大路の道幅は28丈(約84メートル)、宮城(平安宮)南側の二条大路は17丈(約51メートル)と、この2本は別格だった。 九条家の地図にもかかわらず、机上と現実のギャップが埋めきれないまま作成されている。 城下の街路、城下の出入り口における街路は、主要街道であっても意図的に屈折させられていた。しかも、道幅が広くなかった。 市街地には、一般的な町通や横丁のほか、本来家並みが附属していなかった短絡路で、塀や壁沿いの細い通路であった辻子(ずし)が存在することになる。*厨子、逗子、図子とも表記。 「ズシ」は現在でも、普通名詞として使用されているケースがある。滋賀県高島市梅津では、街道から家並みの間を琵琶湖に抜ける細い隙間を「ズシ」と呼んでいる。 第3章〔あえて難所を残した江戸幕府〕 ・熊野詣 寛治4(1090)年~12世紀、白河院9度、鳥羽院21度、後白河院34度、後鳥羽院28度。 紀路(紀伊路)、伊勢路、峰入り(大峰道)の3ルートで、紀路が最も利用され、その中でも「中辺路」がよく使われた ・尾張の市の賑わい 「東関紀行」(1242)に、作者が尾張の萱津(名古屋市街の北西部付近)で見た市が驚くほどの賑わいだったことが書かれている。萱津宿は、おそらく尾張国随一の賑わいであったのだろう。 ・伊勢参り 「本参り、抜け参り、御蔭参り」に三大別される。本参りは一生に一度、講の組織の下で参宮。抜け参りとは、家長や主人の承諾を得ずに参宮するものだが、無事に終われば咎め立てしないことになっていた。御蔭参りは御札降下の噂が立ち、生業を放棄して群参、「ええじゃないか」など。 ・四国遍路の道 四国遍路は空海の四国修行に始まるが、88箇所霊場が確定したのは近世のこと。どこから初めてもいい、順番に回らなくてもいいのが特徴。 ・京都の橋 近世になり各所で架橋が盛んになったが、五十三次の起点である三条橋は破損・大破を繰り返していた史料がある。四条橋は2本架かっていた記録があり、平行しているもの、途中の中州まで架けられ、中州を歩き、そこに架けられたもう一つの橋を渡るという簡易な2本状態と思われる橋。いずれも修繕中の仮橋か? ・参勤交代の宿場 大名の参勤交代や幕府の公用で旅行する旗本は、朱印状や老中・所司代などの証文によって(宿場で)一定の人馬を使うことができた。参勤の旅はとりわけ大部隊になった。参勤交代の大名数は、東海道154家、中山道34家。これに加え、遠国(おんごく)奉仕、駿府・大坂・京都などの城代・所司代、各町奉行などの任地への往復、将軍家などへ献上する茶壺道中までが公用だった。沿道の住民は公用旅行に対して負担と制約が課され、畏怖を感じた。「茶壺に追われて戸ピンシャン、抜けたらドンドコショ」という童謡はこの状況を表現 ・飛脚も優遇 飛脚は宿の重要な機能の一つであり、幕府公用の継飛脚には、江戸・京都間を28-30刻(とき)=56-60時間で書状を送る急行便もあった。他に、大名飛脚や町飛脚も。一般庶民は、問屋場ではなく、馬方や駕籠かきと直接交渉することになっていた。 ・大井川越えはなぜ大変か? 近世に公儀橋が存在していたことからも、技術的に架橋が不可能であったというわけでもない。幕府による交通や軍事上の政策結果でもあった(周辺旅籠の反対もあったが)。『徳川実記』は、「それ箱根、大井の両険は、関東鎮護第一の要地なり」としている。江戸防衛のために、意識的に難所として整備したことになる。 第4章 ・「大道(国道)、県道、村路」 この分類は基本的に明治9年以後のこと。 駐日英国公使パークスが明治10(1877)年に行った報告では、 大道:東海道や中山道など。商品運輸のためでなく、行政上・軍務上の便利を図る為に設けられ、山脈に平行するものが多く、容量の多い物品や多量の物品を運輸するには不便 県道:封建時代の諸大名 ・道路事情 近世以前の日本では、馬が車を引くことはほとんどなかった。馬は、乗馬用か貨物用の駄馬だった。蹄鉄は打たず、馬も草鞋を履いていて、馬沓(うまぐつ)とも言っていた。藁、和紙、皮革、馬毛、人毛など。各地にある「沓掛」の地名はこの馬沓に由来したものだろう。荷物を引くのは牛だった。だから泥土の道でよく、舗装されていなかった。 ・明治政府の定め(明治6年8月2日) 「一等道路(東海・中山・陸羽道のごとき全国の大経脈を通ずるもの)」 「二等道路(各部の経路を大経脈に接触する脇往還・枝道の類)」 「三等道路(村市の経路等)」 ・新たな定め(明治9年) 上記の等級を廃止して、国道、県道、里道と分け、さらにそれぞれに1等~3等をつけて分けた(9種類) ・大正時代(8年) 国道、府県道、市道、町村道に区分け ・蒸気機関車の鉄道は中山道鉄道で決定していた(明治16年) しかし、鉄道局長井上勝は将来性に疑問を持ち、伊藤博文総理を説得して、明治19年に東海道経由へと変更させた
投稿日:2024.08.09
格
今ひとつ面白くない。熊野古道、四国遍路は記されているが合わせて3ページ程度。むろん「おくのほそ道」はない。 都市の道の記述が多いからか。歩きたくなる道の話はない。 日本の道は徒歩のための道だったという…。なるほど。でもそれは何故か、何故馬車などが発達しなかったのか不明だ。道がそうだったからではないだろう。逆のはずだが。続きを読む
投稿日:2024.06.21
Go Extreme
自然の道・改修された自然の道・建設された道 日本:草鞋による歩行中心 古代ハイウエー→細く。曲がりくねる中世の道→あえて難所を残した江戸幕府→外国人が見た日本の道 7世紀・大道 古代の直線官道 五畿七…道 日本書紀ー駅伝・伝馬←公務に活用 古代の官道網:水路と陸路の使い分け 相模→京・25日 伊勢神宮=本参り・抜け参り・お陰参り 馬借と車借 牛馬道・歩道 人馬道・車道 箱根・大井の両険→江戸防御の難所 50年で整備された近代道路網 国道・県道・里道 鉄道駅→都市の玄関続きを読む
投稿日:2024.05.12
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