【感想】アラビアのロレンス 改訂版

中野好夫 / 岩波新書
(2件のレビュー)

総合評価:

平均 4.5
1
1
0
0
0

ブクログレビュー

"powered by"

  • yonogrit

    yonogrit

    946

    中野好夫
    1903‐85年。英文学者、評論家、翻訳家。愛媛県松山市生まれ。東京帝国大学文学部卒。35年に東京帝国大学助教授、戦後に東京大学教授となるも、53年に辞職、雑誌「平和」の編集責任者となる。スタンフォード大学客員教授、中央大学文学部教授などを歴任。著訳書に『シェイクスピアの面白さ』(毎日出版文化賞)、『蘆花徳冨健次郎』(大佛次郎賞)など

    いずれのちに触れる機会があると思うが、多分に不可解なロレンスの対女性観、というよりも不自然と思われるまでの女性嫌悪、そして自己の肉体虐使なども、決してこの出生の秘密と無関係とはいえないかもしれぬ。

    しかし反面に、通常の子供らしくない興味が現われはじめたのも、やはりこのハイスクール時代であった。それは、一切の考古学的なものに対する異常な興味といったらいいだろうか。最初は近所の土地の発掘工事から出土する古陶器類への興味にはじまって、さらに芋づる式に、古教会建築、またその真鍮牌の石摺蒐集、紋章、武具、築城術と、その興味はほとんど無限にひろがっていった。総じて彼は、肉体的には父親似、しかし禁慾主義で、意志が強く、知性的な面は、すべて母親からうけていたといわれる。

    非常に面白いことは、この青少年時代ばかりでなく、生涯を通じて、彼が一切の団体競技類を極度に嫌悪したことである。これはイギリスの、ことにオックスフォード大学生活などではきわめて異常な生活態度だが、フットボール、クリケットなど、いずれも彼自身やらないのはもちろん、見ることもしなかったといわれる。

    ただ彼の猛烈きわまる読書法はすこぶる独特のもので、居室ではほとんどつねに寝床に寝転がって読んだという。つまり、眠くなればそのまま寝てしまうし、眼が覚めれば、すぐまた読みつづけることができるという、極端な時間節約法にあったらしい。多読、あるいは濫読ということについても、オックスフォード・ユニオン図書館は、一度に六冊の携出を許す規定だったが、彼はそれを毎日借りかえたとか、五万部にのぼる同図書館の蔵書を読破してしまったとか、とうてい実証的に不可能な俗間伝説まで行われたくらいである。

    歴史、ことに考古学的知識においては、ハイスクール時代すでに、後でも述べるが、ホガース博士のような一流の専門学者に認められる穎脱ぶりを示していたが、その他の科学に対しては、機械に関する興味以外ほとんどなかったらしい。それに歴史といっても、彼の興味の持ち方はずいぶんと勝手きわまるもので、中世関係以外には、恬として興味を持たなかったという。近世史では、わずかにフランス革命史、イタリアのリゾルジメント運動などに多少の興味を示しただけで、また文学の如きも、近代文学などよりは、プロヴァンスの詩歌、中世の 武勲歌、マロリーのアーサー王伝説集成などにはるかに強い愛着を感じていた。

    オックスフォードでは、彼のように正規学科に出席しない学生に対する便法として、卒業に際してなにか特別な課題を選んで、その研究結果をもって正規コースに代えるという便宜があった。ロレンスの如きは、もちろんこの便法の恩沢に十分にも十二分にも浴さなければならない羽目にあった。そこで選んだのが、「ヨーロッパ中世築城術に与えた十字軍の影響」という課題だった。もちろん彼は、すでにその頃までに、ヨーロッパの城趾はほとんど研究しつくして、しかもその結果は、従来の通説である、ヨーロッパはその築城術を十字軍を通じて東方から学んだという結論に反対して、むしろ十字軍こそ、ヨーロッパの築城術を中東シリア地方に伝えたものでなければならないという、まさに正反対の臆説に到達していたのである。だが、ただこの臆説の最後の証明には、なによりも彼自身の眼をもって中東城趾を観察する必要がある。そこで彼は、大学生活最後の夏季休暇、すなわち一九〇九年の夏を期して、一つには卒業論文の最後の仕上げのため、いま一つには、当時メソポタミアにおいて進行中であった古代ヒッタイト文化の発掘事業の見学を目的で、彼としては最初の宿命的アラビア行を決心したのである。

     果してこの旅行の収穫は多大であり、同年冬から翌年にかけて脱稿した彼の論文(もっとも彼自身は三日三晩で書き上げたと豪語する)は、優等賞をもって合格した。死後『十字軍城砦』と題して公刊されたのがそれである。

    ここでロレンスの青年時代に、いわば決定的影響を与えたと思われるホガース博士について一言しておくのも無駄であるまい。ロレンスの考古学的知識が、当時オックスフォードのアシュモリーアン博物館の館長及び副館長の職にあった二人の考古学者、ホガース博士と、後年ロレンスと共著者にもなったレナード・ウリー博士との注意を惹いたのは、すでにハイスクール時代からであった。しかしとりわけホガース博士との関係は、一九二七年、博士の死に至るまで、決して単なる師弟のそれだけにとどまらないで、むしろ全人間的な結びつきであったといってよい。

    第一は、旅行をした。できるかぎりの機会を捕えて旅行をした。シーズン外には多くのイギリス人は帰国したが、彼だけは一人残って、中東地方をただ無暗と歩きまわった。三年半に、彼の足跡はシリア、メソポタミアにかぎらない、小アジア、ギリシャ、エジプトにまで及んだし、また例によって彼独特の旅行は現地人の生活、感情の秘密をあますところなく彼に教えた。アラブ語学者ではなかったが、各部族の方言はほとんど誤りなく聞きわけることができるようになった。後年彼は、アラブ人統率の秘訣について次のように述べているが、おそらくその自信は、この時期にその確乎たる最初の基礎が置かれたものであろう。「アラブ人の間では、本人自身の実際の行動が知らず知らずに彼に権力を与える以外、伝統的な身分差別も、自然的な差別も何一つないのだ。兵卒とともに食い、彼等の服を着、彼等と同じ生活に堪え、しかも彼等の間にみずから頭角を抜きんでるのでなければ、何人といえどもとうてい彼等を率いることは不可能であろう。」

    旅行以外に、いま一つ彼の関心は、現地での生活をできるだけ楽しいものに設計することであった。彼はまもなく小さな小屋を建てさせて、これを快適な住居と書斎とに作り上げた。そしてここで、心ゆくまで読書に耽ることができると同時に、一方ではユーフラテス河にウォータシュートを設備したり、水泳、とりわけカヌー漕ぎなどを盛んにやったり、いいかえれば生活の享受ということを忘れなかった。発掘地へは知名、無名の見学訪問者が多かったが、それらの接待にはもっぱら彼が当って、なかなか人気があった。例のアラブ服を愛用するようになったのもこのころからだし、その他ときに奇行をやって問題を起こすこともあったが、得意のいたずら、冗談好きを発揮したりなどして大いに生活を楽しんだ。もっとも幸福な時期だったようで、彼自身現地を「魅惑の楽園」と呼んでみたり、「ここではみんな毎日ハスの実を食っている(苦を忘れて楽しんでいる、との意)」などとも書き送っている。

    それにいま一つは、彼の肉体が病気に対して、一種の動物的抵抗力をつけていたことである。十六のときフランスではじめてマラリアに罹ったのを手はじめに、十八のときにはマルタ熱(マルタ島の地方病) にやられるし、その後マラリアの如きは数知れない経験を持っているし、その他にも赤痢、チブスなどで生命の危険に瀕したことも珍らしくない。現にこの中東時代のある旅行でも、日記では明かに赤痢で呻吟しているにもかかわらず、同日母親に出した手紙には病気のことは一言も触れていない。ロバート・グレイヴズの言葉を借りると、「あまり度々の熱病で、熱には馴れっこになってしまっていた」のだろう。

    ここで彼の人物印象を一、二紹介してみよう。ロレンスが「人間カメレオン」と綽名されたのは有名な事実である。つまり、接するほどの人によって端倪すべからざる変貌を示したらしいのである。現に、死後公にされた先輩友人たちの追憶集である『T・E・ロレンス──知友たちの見た』によると、この興味深い変貌の印象がもっともよく示されているが、その典型的なものとして、生前故人と親交のあった二人の伝記者が描いた肖像を引用してみよう。

    この時期のロレンスは、その学問的業績においても二つの大きな成果を完成した。一つは、いま上に述べたシナイ探険の報告で、これはレナード・ウリーとの共著(ロレンスがなかば近くを執筆している)ということで、『ジンの荒野』と題して一九一五年上梓を見た。問題はいま一つの著述であるが、それは彼の中東、バルカン、エジプトにおける旅行記をまとめ上げたもので、一九一一年にはすでに執筆中であり、そして少なくも一九一四年夏までには一応完成していたはずの原稿である。すなわちカイロ、バグダッド、スミルナ、コンスタンティノープル(イスタンブール)、アレッポ、ダマスカス、メディナの七都市(この都市の選択については異説あり) を象徴する、一つの「精神的交響楽」という作者の意図で、その稿本を「智慧の七柱」と題したのである。

    ずっと後年(一九二九年)ロレンス伝を書いた軍事評論家リデル・ハートに彼自身答えた言葉によると、「軍事、戦争の勉強は十六歳ごろからはじめた。被圧迫民族の解放、とりわけアラブ民族のそれで頭がいっぱいだったからだ」と言っている。

    彼の多方面な材幹はここでもたちまち頭角を現わしていた。ことにトルコ領土の下層社会や、数多いアラブ人秘密結社に関する彼の豊富な知識は、トルコ軍隊の内状を知る上にきわめて貴重な貢献であったし、スパイの報告や、捕虜の陳述といった断片的な知識から、それらを総合的な判断にまとめ上げる推理力の巧妙さにいたっては、まさに独壇場であって、あたかもシャーロック・ホームズのような鋭さを示したといわれる。とりわけ土民捕虜の訊問の巧みさは、薄気味悪いとさえ言われたほどであったが、ある人がその秘密を訊いたのに対して、彼は「なんでもない。相手の方言からその故郷さえ突きとめれば、あとはその土地の僕の友人のことを訊いて度胆を抜いてやる。すると、たちまちなにもかもしゃべってしまうのだ」と答えたというのだが、事実、彼は方言によって、相手の故郷を指摘して、決して二十マイルとは誤らなかったと豪語している。(もっとも豪語はどこまでも豪語で、そのままに受け取る必要はない。この辺ロレンスの言説には警戒の必要もある。)

    ファイザルとの第二回目の会見は、 なつめ 椰子の木立の蔭で行われた。アラブ人の心から期待するものは、一日も早い新鋭武器の豊富な供給であった。現に闘将の一人であるマウルドは昂然と叫んでいる。「急務は、戦って戦って彼等を殺すことだけだ。われわれにはシュナイダー山砲と機関銃とが必要なのだ。すれば自分一人できっとやっつけて見せる。われわれは朝から晩まで口を動かすだけで、なんにも実行しないのだ」(第十三章) と。正直にいえば、アラブ人としては、武器は欲しいが、多数の白人軍隊を招じ入れたくなかったのである。その間の心理的消息は、この会見でファイザルが巧みに一本釘を刺した次の言葉がもっともよく伝えているであろう。

    まず病中の瞑想は、彼が学生時代から興味にまかせて読み漁ってきた近代戦術論を、一つ一つ鮮かに彼の脳裡によみがえらせた。ナポレオン、クラウゼウィッチ、モルトケ、ゴルツ、フォッシュ(以下彼はおびただしい名前をならべているが、これはロレンスの一面にたしかにあった一種の衒気を思わせないでもない)、──しかも彼は、近代戦術が到達した「近代戦の本質は敵主力を捕えて、これを戦闘手段によって撃滅することである」という不動の鉄則に対し一つの懐疑に到達したので

    トマスがロレンスで一旗あげたことは前述の通りだが、その後も彼はこの講演と映画をもって、実に四年間にわたってほとんど世界各国を巡業して歩いた。しかもこれで味を占めたものか、その後もたびたび秘境冒険旅行を試み、NBCや二十世紀フォックスを通じて配給していた。いまもときどき世界の秘境ものなどでテレビに現われることは前述した通り。また、今次戦後にシネラマがはじめて登場したとき、世界の驚異といったような映画を撮影、提供したのも彼であったはずだ。

    もちろん、こういったからとて、軍隊での彼の成績は決して悪いものではなかった。それどころか、自動車操縦の成績の如きはほとんど満点に近い成績をとっている。そういえば個人的趣味、道楽として、競走用オートバイを愛用しはじめたのもこのころである。しかもこの場合にかぎり、彼の趣味は贅沢をきわめていた。たった四年間に実に五台の高級車を買いかえ、全走行距離は百万マイルに達したといわれる。ついには製作所の方で新しい宣伝車型を作ると、きわめて安い値段で彼に提供するようになったということである。彼のオートバイ熱は、もはや単なる趣味を通り越して、不思議なスピード感への陶酔であったらしい。(おそらく空軍に対する早くからの憧憬も、一つには空軍というものが、極度に個性的才幹を発揮させるものだから、という理由を彼自身述べているが、やはりこのスピードへの陶酔などもたしかにその一つであったろう。

    さらに最後にいま一つ、もっとも評伝者を悩ませるものに、彼の性的関係の問題がある。もっとも女性関係は簡単である。あるところで彼は、「僕はかつて性的欲望を感じたことがない」とまで明瞭に言いきっているし、それが必ずしも偽善的告白ばかりでないことは、もちろん終生独身、おそらくついに女性との肉体関係は一度もなかったろうといわれることでもわかる。さすがに詮索好きのオールディントンですら、こればかりは疑問を挟んでいない。それだけに、およそロレンス伝くらい女性的色彩の皆無なものはないのであり、わずかに彼と心の交渉があった女性といえば、たとえば老作家G・B・ショー夫人、同じくトマス・ハーディ夫人など、せいぜい二、三ということになるが(ことにショー夫人シャーロットには母のように親しみ、晩年相当に告白めいた手紙なども出しているらしい──ただし、既述もしたように、すべてそれらは未発表である)、これらはすべて年齢からいっても母親の歳であり、オールディントンなども、明かに一家分散して会えなかった母への慕情の身がわりであったとしている。

    これまた各人各説があるが、もっとも有力な説の一つは、W・Hとはソネットの中にも歌われているある美貌の青年貴公子のことであり、作者詩人との間はその庇護者でもあると同時に、明かに同性愛に近い思慕で結ばれている。ところが、その貴公子の心が他の競争相手の詩人に移ったばかりか、作者の情人をさえ奪ってしまったという、その失恋の苦悩、憂悶を歌ったのがこのソネット集であるというのである。筆者は思うに、当然そんなことくらいはロレンスも知っていたにちがいない。そんなところから、あるいはそれにヒントをえて、彼もまた例のいたずらっけ、かつぎ癖をこんなところで出してみたのではあるまいか。晩年はたしてS・Aが問題になったのは思う壺であり、ひそかにニヤニヤしていたのは、結局ロレンス自身だったのではないかとも思える。そんなことくらいはしかねない彼だからである。

    なお同性愛的傾向に関連しては、前に「沙漠の叙事詩」でも書いたデラアでの一夜もしばしば言及される。これは後でもう一度触れると思うから詳しくは述べないが、『智慧の七柱』第八十章、あの性的倒錯のシーンがあまりにも迫真的なリアリティーをもって語られているからである。(なおこの一章を挙げて、ロレンスのマソヒスト的傾向をいうものもある。このシーンが必ずしも仮構でないことは、彼が空軍入りの身体検査を受けたとき、歴然たる鞭打ちの傷跡があったと、当時の軍医が証言をのこしているが、程度は別として、ロレンスにマソヒズム的傾向のあったことは、彼の肉体虐使ぶりなどから見ても、必ずしも否定はできないように思う。)

    だが、もとよりその一面に見逃すことのできない秘密は、アラブ人心理に対する周到な洞察、研究にあった。彼とアラビアで行動をともにしたスターリング少佐は、「余はこの問題に対する解答として、彼が行動をともにする人間の間にあって、彼等の感情を不気味なまでに感じとる能力、あるいはまた彼等の魂の奥底にわけ入って、彼等の行動力の源泉をあばき出す不思議な能力を挙げなければならない」と記しており、同じくブロディ大尉は、「ロレンスという男は、彼自身、および彼の部下に対する静かな信頼、そしてまた決して命令するのではなくて、ただかくかくしてほしいと依頼するだけで、見事に目的を達しうる人間であった」と回想している。

    酒を嗜まず、煙草を吸わず、菜食主義者であり、しかも一生異性を知らなかったといわれるこの現代の禁慾主義者ロレンスが、伝記者のアンケートに答えたものがあるが、ちょっと興味があるから引用しておくことにする。

    好きな色       深紅 〃  食物     パンと水 〃  音楽家    モーツアルト 〃  作家     ウイリアム・モリス 〃  史上人物   なし 〃  場所     ロンドン 最大の喜び     睡眠 〃  苦痛     騒音 〃  恐怖     動物的精神 〃  願望     友人たちから忘れられること

    トーマス・エドワード・ロレンス

    (Thomas Edward Lawrence、1888年8月16日 - 1935年5月19日)は、イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。

    生い立ち
    編集
    トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズのトレマドックで生まれた。父はトーマス・ロバート・タイ・チャップマン(英語版)(後に第7代チャップマン準男爵(英語版)となる)、母はセアラ・ロレンス。夫妻は正式な結婚ができなかったため、ロレンス姓で生活し、彼らの子供たちもこれに倣った。

    1907年、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1,600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしている。1910年の卒業時には、これらの調査結果を踏まえた論文[1]を著し、最優秀の評価を得た。

    卒業後は、アラビア語の習得のためベイルートを経由してビブロスに滞在した。1911年には、恩師のデイヴィッド・ホガース(英語版)博士による大英博物館の調査隊に参加し、カルケミシュで考古学の仕事に従事した。同じ頃、ガートルード・ベルと知己を得ている。

    ロレンスは短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続けた。同地での研究のかたわらで、ウーリーとロレンスはイギリス陸軍の依頼を受け、水源確保の点から戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。


    トーマス・エドワード・ロレンス
    アラビアのロレンス
    編集

    1917年、アカバにて
    1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、イギリスも連合国の一員として参戦することになった。ロレンスは同年10月に召集を受け、イギリス陸軍省作戦部地図課に勤務することになる。臨時陸軍中尉に任官された後、同年12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する一方で、語学力を活かし連絡係を務めるようになった。

    1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局(英語版)(局長はホガース)に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行し、オスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者候補たちに会った[2]。

    情報将校としての任務を通じて、ロレンスはハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触する。ロレンスはファイサル1世とその配下のゲリラ部隊に目をつけ、共闘を申し出た。そして、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、各地でゲリラ戦を行いヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果としてイギリス軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。


    ヒジャーズ鉄道
    1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は紅海北部の海岸の町アル・ワジュの攻略に成功した。これによりロレンスの思惑通り、オスマン帝国軍はヒジャーズの中心であるメッカへの侵攻をあきらめ、メディナと鉄道沿線の拠点を死守することを選んだ。続いてロレンスは、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかったアカバに奇襲し、陥落させた。この功により、ロレンスは少佐に昇進している。

    1918年、ロレンスはダマスカス占領に重要な役割を果たしたとして中佐に昇進する。大戦が終わりに近づく中、従軍記者のローウェル・トーマスと彼のカメラマンは、ロレンスの写真と映像を記録している。

    戦後
    編集
    戦争終結後、ロレンスはファイサル1世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席する。1921年1月からは、植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のウィンストン・チャーチルの下で働いた。1921年3月21日にカイロ会議に参加した。

    空軍に再入隊
    編集
    1922年8月には「ジョン・ヒューム・ロス」という偽名を用いて空軍に二等兵として入隊するが、すぐに正体が露呈し1923年1月に除隊させられる。同年2月、今度は本名を「T・E・ショー」に改めて、陸軍戦車隊に入隊する。しかしロレンスはこの隊を好まず、空軍に復帰させてくれるよう何度も申請し、1925年にこれが受理された。その後は1935年の除隊までイギリス領インド帝国やイギリス国内で勤務した。

    事故死
    編集

    オートバイ(「ジョージ(George)」)に乗るロレンス
    除隊から2ヶ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイ[3]を運転中、自転車に乗っていた2人の少年を避けようとして事故を起こして意識不明の重体になり、6日後の5月19日に死去した。46歳だった。ロレンスの墓所はドーセット州モートンの教会に現存する。

    中東のその後
    編集
    オスマン帝国はトルコ民族国家のトルコ共和国となり、エジプト、シリア、イラク、アラビア半島、マグリブを放棄せざるを得なくなった。これらのトルコ共和国に含まれなかった地域は、西欧諸国の植民地となった後、西欧諸国によって人工的な国境線を決められ独立を果たしたが、4世紀の間続いた「オスマン帝国の平和」は崩れ、現在に至るまで十字軍、モンゴル帝国、ティムールの襲来以来の政治的混乱が続いている。

    人物・エピソード
    編集
    詳細
    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年5月)
    ロレンスは生涯独身を貫いた。やもめ暮らしで食事の後片づけを省略するために、ピクニック用の紙製の食器を用いた。
    西欧諸国でロレンスは映画『アラビアのロレンス』で描かれているような「アラブ諸国の独立に尽力した人物(アラブ人にとっての英雄)」として認識されているが、アラブ側からは「中東における行動は一貫してイギリスの国益のためのものだった(アラブ側を利用していた)」とする指摘もある。
    ロレンスは自伝にて、戦時中に変装し潜り込んだ地で敵に拘束され苦しい拷問の末、快感を覚えるようになったと告白している[4]。しかし、戦争が終わった後に拷問の機会は訪れることは無いため、わざわざ人を雇って自分を鞭で打たせている[5]。
    ベトナム戦争当時、圧倒的なアメリカ軍の物量の前に、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線では一部、ロレンスのアラブでのゲリラ戦が参考にされ、その著書「知恵の七柱」も読まれていたとされている。
    無名の一将校から英雄的な存在として広く人々に認識されるようになったものの、本人はその煩わしさに辟易していた面もあったようで度々偽名を用いるなどしていた。また「当代一流の人物」と賞賛される一方で「目立ちたがり」「露出狂」などの非難も多く、毀誉褒貶の激しい人物としても知られている。
    探検家のパーシー・フォーセット(英語版)がアマゾンのジャングルに眠る失われた都市Zを求めていた頃、ロレンスは次のZ探索隊に自分を加えて欲しいと彼に頼み込んでいたが、砂漠での経験があるとしてもジャングル探検では実績がないことなどを理由に断られている[6]。
    続きを読む

    投稿日:2024.01.04

  • キじばと。。

    キじばと。。

    イギリス人でありながらアラブ人の独立のためにトルコと戦った「アラビアのロレンス」ことトマス・エドワード・ロレンスの評伝です。

    現代史のなかにロレンスを位置づけることよりも、ロレンスという人物そのものに焦点をあてた伝記であるように感じました。英文学者でありエッセイストとしても知られた著者による達意の文章によってロレンスの人間像がえがき出されています。それでいて、著者の視線はけっしてロレンスに密着しすぎることなく、論じている対象を冷静に観察しており、評伝とはまさにこうあるべきだと感じさせられます。続きを読む

    投稿日:2019.05.14

クーポンコード登録

登録

Reader Storeをご利用のお客様へ

ご利用ありがとうございます!

エラー(エラーコード: )

本棚に以下の作品が追加されました

追加された作品は本棚から読むことが出来ます

本棚を開くには、画面右上にある「本棚」ボタンをクリック

スマートフォンの場合

パソコンの場合

このレビューを不適切なレビューとして報告します。よろしいですか?

ご協力ありがとうございました
参考にさせていただきます。

レビューを削除してもよろしいですか?
削除すると元に戻すことはできません。