【感想】無限と連続

遠山啓 / 岩波新書
(23件のレビュー)

総合評価:

平均 4.2
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5
1
2
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ブクログレビュー

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  • のぶ

    のぶ

    初版は1952年で、私の本は2022年の第67刷でした。
    無限にも大小があるという不思議なことや、数字ではなくて「働き」についての話など、正直言って半分も理解できていないと思いました。
    でも、はしがきに書かれている、音符が読めなくても、感受性さえあればすぐれた音楽の鑑賞家にはなれるはずである。まったく同じように、数式なしで数字を「鑑賞する」ことはできないだろうか。
    という感じで、数学の雰囲気は鑑賞できたと思います。

    この本の数学は現実世界とは関係ない世界で人間が創造したものかと思われましたが、量子力学や相対性理論の世界では、これらの数学があてはまる、ということなので、こういう数学も人間が創造したのではなくて、この世界にもとからあったのを人間が発見したのかな、などと哲学的なことを思いました。

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    投稿日:2024.03.04

  • yonogrit

    yonogrit

    863

    遠山啓(とおやま・ひらく)
    1909-1979年。熊本県生まれ。東京大学数学科に入学するも退学、のち東北大学数学科を卒業。海軍教授をへて東京工業大学教授。数学教育への関心から民間教育団体「数学教育協議会」を結成、長く委員長をつとめた。数学教育の理論と方法を開発・提唱し、その水道方式、量の理論などは、教育現場に大きな影響を与えた。著書に『無限と連続』『数学入門(上・下)』(以上、岩波新書)、『代数的構造』『現代数学入門』『代数入門』(以上、ちくま学芸文庫M&S)『競争原理を超えて』(太郎次郎社)などがある。教科書や雑誌の創刊にも多く関わった。


    一口にいってしまえば,集合論は「無限の数学」である.数学が無限という題目に立ち向かうことの危険を最初に警告したのは,アルキメデスやニュートン(1642–1727)と並んで,史上最大の数学者といわれるガウス(1777–1855)その人であった.19世紀においてはガウスの言葉は一つの意見ではなく,一つの掟であったに違いない.しかも,カントールはこの「無限」というタブーにあえて手を触れた最初の人だったのである.

     「無限」という言葉はしばしば使われてきたが,しかし,常識的には,それがはっきりとした意味をもつものとしてではなく,むしろ人間の数える能力を超えたものを意味していた.それは「有限でない」という単に否定的な意味しかもっていなかった.そのようなものがどうして正確さを生命とする数学の研究題目になりうるだろうか.まず,だれにもこのような疑問が湧いてくるに違いない.  「無限を数える」とはいっても,有限を飛びこえていきなり無限に立ち向かうわけにはいかない.どうしても「有限を数える」ことから始めるのが順序である.無限は有限とはかなり異なったものではあるが,それでもやはり多くの点で似かよっていることもたしかである.

     「新教育」は数学のなかから論理性を抜き去ることによって,数学を実生活に即した実用的なものにすることができると考えていたらしいが,結果において,2+3の計算はできるが2 0000 0000+3 0000 0000の答は出せないというはなはだ非実用的な子供たちができあがらなければ幸いである.

    最も初歩的な加減乗除においてさえ,一つ一つ数えるという素朴な手続き以上の論理が含まれており,この論理を最大限に利用したものが現代数学にほかならない.ちょうど天文学者が望遠鏡によって,また細菌学者が顕微鏡によって肉眼の不足を補うように,数学者は論理によって肉眼の欠陥を補うのである.

    だが,部分が全体と等しいことの発見は何もカントールに始まるのではない.このことはすでに1638年に現われた本のなかにはっきりと書き記されているのである.その本というのは近代物理学の生みの親であるガリレオ(1564–1642)の『新科学対話』(今野武雄・日田節次訳,岩波文庫) である.

    ある統計好きの人が調べたところによると,数学の研究論文をのせる雑誌は大小合せて全世界で800種以上にのぼるという.これだけの新研究を多量生産している現代数学に,おびただしい記号が必要であることはいうまでもないが,それでも注意深く用いれば,だいたい,ローマ字,ギリシャ字,ドイツ字だけで事足りている.だが,カントールは,集合論という新しい酒はとても古い革袋には盛り切れないと考えたので,わざわざヘブライ文字を持ち出してきたのかもしれない.しかし彼がわれわれの漢字を知らなかったのはいささか残念であった.数学が千年使っても使い切れないほどたくさんの象形文字のストックを持って少なからず当惑しているわれわれは,喜んで文字の輸出に協力しただろうに…….

    しかし,たとえば黄河やナイル河のような大河のほとりに多くの人が集まって農耕を営み,国家ができあがるようになって,田畑の面積を測り,収穫量を測り,租税を割りあてる必要が起こってくると,もはや1, 2, 3, 4, ……の自然数だけでは足りなくなる.どうしても割り算,掛け算の必要が起こってきて,いつでも割り算ができるようにするには分数が要求されてくる.したがって古代中国,エジプト,インド,バビロニヤのような大きな農業国家において要求された数はせいぜい分数までであった.このように生産様式が大局的には数学の発展段階を定めているのである.ガリレオに始まる近代物理学は,その手段としてニュートン,ライプニッツの微分積分学の成立を促したが,ここでは分数以上の数である無理数が不可欠となってくる.

    現代の数学でとくにいちじるしい対立をなしているのは「もの」の概念と「働き」の概念である.もちろん,一つの文章はすでに「何かの もの が何かの 働き をする」という形をとっているのと同じく,数学のなかにもこの二つが対立していることは当然であろう.ガロアの輝かしい功績は,この「働き」をきわめて明瞭な姿で数学のなかに持ち込み,それを数学全体の指導原理たらしめた点にあるといわねばならない.

    数学では簡単だからかえって難しいことがしばしば起こる.位相空間の定義などもその一例である.なぜなら,このような簡単さはただの簡単さではなく,複雑なものから極度の精錬をへて得られた簡単さだからである.

    いっきょにそのような抽象の高みに飛躍することはやめて,根気よく一歩一歩登ってゆくことにしよう.この登山が決して楽ではないことはたしかであるが,一度頂上が征服された暁にはすばらしい展望が開けてくることも約束していい.位相空間は現代数学の山脈のなかの高峯の一つだからである.そしてこの登山の道中で現代数学の方法を一とおり学びとることができるだろう.

    これからのべられる議論が外見的にはいかにも抽象的であるために,このような理論は現実と何らのつながりももっていない思考遊戯にすぎない,と考える人が多いに違いない.しかし,数学者にこのような理論の建設を強いたのは,数学者の抽象癖ではなく,より現実的な学問である物理学や力学であったことを強調しておきたい.具体的即現実的,抽象的即非現実的という連想は常識的であるが,数学のなかではこの常識は必ずしも通用しない.ある意味ではその反対なのである.

    盲目といえば,われわれは現代の世界的数学者L. S. ポントリャーギン(1908– )を思い出さずにはいられない.13歳のときポントリャーギンはある爆発事故のため両眼とも失明し,永遠の暗の世界につき落とされてしまった.盲目の少年がどうして世界的数学者になりえたか,これはまさしく一つの奇蹟といわねばならない.

    そのためには,不具者に行きとどいた保護の手をさしのべる社会的環境が前提となることはもちろんであるが,彼の場合には,その上に母親の深い愛情が秘められていた.彼の母親はたいした教養もない一裁縫師にすぎなかったが,盲目の愛児を毎日学校につれてゆき,あらゆる教科書や文献を読んで聞かせた.やがて彼は世界的なトポロジスト,アレキサンドロフ(1896– )を指導者とする学派に加わってたちまち頭角を現わし,24歳でモスクワ大学の教授に任ぜられた.

    小人の王を持ち,小人の人民からできている小人国に12倍の身長をもったガリバーが流れついて,小人たちの間に大騒ぎが起こる.『ガリバー旅行記』の作者の非凡な推理力は,12倍の身長から引き出されるであろうところのあらゆる結論を,非難の余地のない正確さで描き出している.ガリバーの身長が12倍だということさえ承認すれば,それ以外には何一つ不合理なことは発見できない.その正確さはまったく驚嘆のほかはない.この物語を読む人は,まるで直線だけでできている見事な幾何模様のような美しさを感じとるに違いない.もっとも,スウィフトは計算があまりじょうずでなかったとみえて,ガリバーの食料配給量が身体の容積に比例すべきであるといういとも科学的な議論をのべたあとで,さて計算の段になると123 =1728とすべきところを123 =1724と答を出している.この計算違いはたしかに不朽の名作とともに残る不朽の御愛嬌であろう 4).

     『ガリバー旅行記』はその内部には矛盾を含まないが,やはり小人国以外の国から見れば架空の物語であることをまぬかれない.非ユークリッド幾何学も,その内部には矛盾を含まないにしても,やはり「健全な常識」からみれば一つの寓話にすぎないと思える.しかし,はたしてそうであろうか.いや,非ユークリッド幾何学は『ガリバー旅行記』よりははるかに現実的な意味をもっていることを示したのはクラインとポアンカレであった.この二人の方法は少しく異なっているが,ここではクラインの方法をのべることにしよう.

    建築技師であったデザルグは職業上の必要から投影法に上達していた.アカデミックな数学者とはおよそ似てもつかない活動的な技師であったデザルグは,もっぱら実用的な動機からこの新しい幾何学を発展させたのである.彼はまた労働者の教育に努めた熱心な技師でもあった.彼の論文のなかには「木」とか「枝」とか「小枝」とか「 節」とかいう珍らしい術語が現われるが,これらの言葉のなかにアカデミーの選ばれた学者の前で講演をしている数学者ではなく,夜学に集まった知識欲に燃えた労働者に講義している熱心な技師の姿をしのぶことができよう.
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    投稿日:2024.01.22

  • にぼし

    にぼし

     この本は、頑張って読みましたが、達成感がありませんでした。亡くなった祖父の部屋にあったので、読みました。私は数式で計算したり考えたりするのは好きですが、この本には良い印象は持てませんでした。「理解できないものを、尊いものとありがたがる」日本人の特性に付け込んだ本のように感じます。複数の章に分かれていますが、散漫な感じがしました。

    この本は、数学の定義だけ並べて、ゴールのようなものがありません。著者だけでなく当時の(今も?)数学者は、入門とは何らかの本質を語ることではなく、「すごそうなもの」の雰囲気を定義で権威的に示すことだという感が値をお持ちなのかもしれません。私は定義だけではそれは新しい知を得たとは感じられず、むしろそれまで定義を並べ立てたのはただの目くらましのように感じてしまいます。勿論、その先に何かの知見があるのでしょうがそれには触れないので、読者として馬鹿にされている感じがしました。

    かなり昔に書かれたものです。前書きには1951年とありました。アンコール復刊ということで2007年に印刷されたものです。祖父は、昔読んで懐かしくて購入したのか、何らかの知に触れられそうかと思ったのか、理由は今となっては分かりません。

     今は情報がかなり手に入れやすくなりましたが、この時代は、数学のこれらの少し専門的な知識は、特権階級である学者、しかも数学の学者しか持てないものだったのでしょう。ここにある集合論、群論などの用語と定義に触れるだけで、当時の知識に憧れる人々には魅力的だったのでしょう。当時、教職か建築士をしていた祖父にとってもそのような魅力的な本に感じたのかもしれません。不変部分群の定義などをかなりしっかりとしているので、それらを使って何か主張があることを期待して読んでいました。私は群論は大学で学んだことななく、「5次方程式の解の公式が存在しない」ことの証明を知りません。ガロアの名前も出てきて、それとなくにおわすことはあったのですが、そこには話が至りませんでした。
     やたらと社会を集合ととらえ、集合論や群論の説明に利用しています。当時、いろいろな概念が否定されて新しくなっていく時代の空気を感じ、それを学者の文筆業に反映させているのかもしれません。ただし、この著者が社会運動の活動をされたのかは存じません。例えも含蓄があるようには感じられませんでした。

     数学者の知識が特権であるがゆえに許される本、という感じます。特に、本質的な所は専門家に限らずお互いに話し合えるものと私は考えるのですが、数学に関しては特に、用語を知らないがためにバリアを築かれる、というのが、中学高校大学でも私の経験で、特にこの本はその用語だけを売り物にしてマウントをとられるようで、大人の今となっては腹立てたりしませんが、少なくとも良書とは思えませんでした。数学が好きな人に、雰囲気を餌に引き寄せ、肝心なところを話さない、そういう本です。いつの時代も啓蒙書というのは一定の需要があり、その中の一冊という感じでした。もちろん、啓蒙書や入門書は、書くのが難しいことは承知ですし、私の感触が絶対だとは全く思いません。個人の意見ですが、私はこれを誰かに積極的には薦めません。疲れました。数学は数学者のものではない、と改めて感じました。以上。
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    投稿日:2023.05.05

  • masudahidehiko

    masudahidehiko

    集合論、群論、位相空間についての一般向け入門書。いわゆる”理系”でない人にもわかりやすくしようと、数式はあまり使わないように書かれている。ただ、昔の本は最近の類似の入門書より、内容が高度だったり、例がかなり圧縮された記述でパッとわかりにくかったり、でこの本も例に漏れない。薄さの割には内容が圧縮されていて、けっこう時間をかけて楽しめる。(この本がさらっと読めてしまう人はそもそもよむ必要があまりない人だろう)含蓄もあり古典感がある。もうちょっと具体的に、という人は同じ著者の『現代数学対話』がいいと思う。
    昔の”本を読む人”は賢かった、ということもあるだろうが、今ほど本が溢れていないからもっとゆっくり読む習慣だったのかもしれないな、、なんてことをちょっと思ったりもした。
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    投稿日:2021.02.19

  • mickeymeguj

    mickeymeguj

    集合論の創始者カントールが始めた破天荒の試みは「無限を数える」ことであった。それは現代数学が直面してきた課題である。難解とされる現代数学の根本概念を、数式を用いずにやさしく解説する「

    投稿日:2019.09.01

  • yoshio2018

    yoshio2018

    現代数学の概念、集合、群、束、トポロジー、非ユークリッド幾何学などを極力数式を使わないで平易に説明されている。平易でも抽象数学なので頭をフル回転しないといけないな。1952年に発行の岩波新書だが、現在にも価値がある一冊である。続きを読む

    投稿日:2018.10.11

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