翻訳語成立事情

柳父章 / 岩波新書
(28件のレビュー)

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  • henahena1

    henahena1

     「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」という幕末から明治期に生まれた翻訳語が、なぜそう訳されることになったのか、実際の意味がどのように歪み、分かりにくさや矛盾を孕んだまま急速に受け入れられ広まっていくこととなったのか、という点について述べている。
     訳語そのものの成立の歴史もさることながら、結局今の我々がどういう意識でその言葉を使っているのか、ということに目を向けさせる点が、ドキッとしてします。例えば、「今日、私たちがsocietyを『社会』と訳すときは、その意味についてあまり考えないでも、いわばことばの意味をこの翻訳語に委ね、訳者は、意味についての責任を免除されたように使ってしまうことができる。」(p.8)ということで、実は「社会」と訳したところでそれが何なのかはよくわかっていないでしょ、という指摘。「そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分らなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分らないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈略が欠けていても、抽象的な脈略のままで使用されるのである。」(p.22)ということになってしまっている。individualの訳語についても、「独一個人」という翻訳語を作り、「むずかしそうな漢字には、よくは分らないが、何か重要な意味があるのだ、と読者の側でもまた受け取ってくれる」(p.36)という漢字の効果=「カセット効果」についての指摘が多い。「それはあたかも思考の困難を解決するかのごとく現れている。この未知のことばに、それから先は預ける。(略)ことばは正しい、誤っているのは現実の方だ、というところで、一見、問題は解決したかのごとき形をとる。それは、以後今日に至るまで、私たちの国の知識人たちの思考方法を支配してきた翻訳的演繹論理の思考であった。」(p.40)ということらしい。でも今の世の中なんて翻訳すらしないで、シームレスとかトレーサビリティとか言って、それこそカタカナ語のカセット効果、の方が著しい気がする。というかもはや考えることすらも放棄した結果、ということになるのだろうか?あるいは原語は原語のままで理解すべき、ということなのだろうか?いずれにせよ、漢字もカタカナ語も、つまり外国のものには多かれ少なかれカセット効果があるのか、と思う。「ことばが先にあって、その日常的意味をもとにして、『哲学者及審美学者』は、これをつごうによって抽象し、限定して使うのである。しかし、この限定された意味、翻訳語として受け止め、従って、完成された意味として受け取ることの多い日本では、この順序はとかく逆転して理解されがちである。」(p.78)というのが日本人の傾向、ということなのだそうだ。「一般に、どんな翻訳語が選ばれ、残っていくのか、という問に答えることはやさしくない。しかし、およそ、文字の意味から考えて、もっとも適切なことばが残るわけではない、ということは言えるであろう。」(p.186)なので、英文を訳していて意味が分からない時はその定訳自体が変なんじゃないか、ということは大いにありそうだ。最後にビックリすることは、heと「彼」の話で、「第一に、heは三人称代名詞だが、『彼』はもともと指示代名詞である。日本語には、三人称代名詞はなかったし、今日でも、実はないと言った方がよい、と私は考える。このことは私たち日本人にとって、とくに外国語教育を十分受けた人ほど、以外に分りにくいようである。」(p.197)という部分。英語のheは、すでに言及された人物のことを言う、日本語の「彼」は3人称ではなく「遠称」、つまり「発言者と聞き手から外の、遠くのものを指す」(p.197)、つまり「初めてみたものを指して『アレ』とか『彼』とは言えるが、heとは言えないのが原則である。」(p.198)という、こんな簡単な事実も、(英語の先生がやることで、スライドで人物を見せたら、まずはThis is...とやらないといけないところを、いきなりHe is...とやってしまう、というのはよく聞く話なので、そこから考えれば良かったことなのだけれど)考えたことなかったなあと思い、でもこの違いを意識することが外国語を知る面白さだよなあとも思った。
     ただ全体としては英語が云々というよりは、日本の知識人がどう考えたか、という話なので、言葉自体よりは当時の思想的な背景を勉強する本。(22/10)
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    投稿日:2022.12.16

  • 板橋区民

    板橋区民

    昔の新書はこうだったよね、ということを思い出させてくれる良書。近年の内容ペラッペラの新書とは質が違う。
    明治期に創作された新造語の作成秘話的な内容かと思っていたが、本旨はもっと深い所にある。日本とは全く異なる価値観を持つ外来の思想を、古来の日本語にある言葉で置き換える事の難しさに焦点を当てている。言われればそうだなと思うが、ヤマトコトバの語彙は非常に限られていたから、日本人は奈良時代から脈々と外国の言葉=思想を自分のものにするために奮闘してきた民族である。その中には『自由』や『権利』などのように、原語とは異なる意味で広まったものもあったが、人口への膾炙に従い本来の意味を取り戻すというプロセスを繰り返してきたのだろう。今でも似たようなことが続いていると思われる。例えば日本語の『セレブ』は金持ちの含意で使われるが、英語のcelebrity は単に著名人であって保有する資産の大きさは関係ない。これも次第に本来の意味が理解されて行くのかも知れない。その前に死後になっていく可能性の方が高いが。続きを読む

    投稿日:2022.06.16

  • Blackbear

    Blackbear

    社会・個人・近代・美・恋愛・存在・自然・権利・自由・彼といった学問・思想の基本用語は、実は幕末から明治にかけて翻訳のためにつくられた新造語である。これら10個の翻訳語が、どのような背景で作られ、どのように受け入れられていったのか、当時の文献内での用例を引きながら検証している。
    知識人の一部によって翻訳語が考案されるのであるが、元の言語での意味が正確に分からなくても、その翻訳語は広まっていったようである。とりあえず難しそうな漢字が当てられていれば、何か深遠な意味が含まれているんだろうという雰囲気とともに乱用された。
    よく分からない漢字に深遠が意味が含まれていそうに感じることを、著者は「カセット効果」と呼び、本書を通じて翻訳語の普及に大きな影響を及ぼしたと考えている。
    そのカセット効果とともに、ミーム的に乱用されることによって翻訳語が一般にまで広まっていったのだろう。現代におけるカタカナ語にも共通するものがあると思う。

    また、最後の方で触れられているが、漢語的な翻訳語を採用したことによる学問語と日常語の分断という点には今まで意識したことがなかったが大きな意味があるように思う。哲学などとっつきにくそうな学問の術語がすべてやまとことばなどの日常語で作られていたらどうなっていただろう。

    ところで、この翻訳語はいつごろから使われ始めた、この時代に使用例が増え始める、のような類の主張をする際にその裏にはその何十倍か何百倍かの原文にあたる必要があるので、どれだけ調査が大変だったのだろうかと思う。
    ただ、ほとんどが明治時代の文章の引用なので、非常によみにくい。

    「である」が翻訳用の表現としてつくられたというのは驚いた。
    また、日本語はよく主語の省略可能と言ったりするが、それは主語があることを前提としてそこから省略するという考え方だが、そもそも日本語は「必要な場合以外は主語を表さない」という見方は目から鱗が落ちる思いだった。確かにその味方のほうが筋が通ると思う。
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    投稿日:2021.12.04

  • shokuzaisetto

    shokuzaisetto

    日本の学問・思想の基本用語が幕末・維新期にどのような試行錯誤の末に定着したのかを10の事例から紹介したもの。前半の6つが、社会、個人といった翻訳のために造られた新造語。後半の4つが自然、自由などそれまでの日本語にも日常語としてあった言葉に、さらに翻訳語としての意味が加わったもの。個人的には後半の方が面白かった。旧来の日常的な意味に新たな意味が加わったことによる混乱や、それが今にも引き継がれていることが分かる。続きを読む

    投稿日:2021.09.30

  • クラウゼヴィッツ主義

    クラウゼヴィッツ主義

    哲学者、長谷川三千子氏が紹介されていて興味を持ち手にとった。
    一言、幕末明治期の人たちは凄かった。
    日本人が使用している言葉が外国由来の翻訳語であるという事。
    それを認識すらしていない事。また、著者のいう「カセット効果」でその言葉の意味をまったく吟味せず「無条件に良いもの」として濫用されていった事。
    「自由」が典型であるが悪用すらされてきた事。
    著者はあらゆる事例を挙げている。
    私は「辞は達するのみ」の考えが強いのだが、この本を読んでもう少し言葉の意味について慎重になろうと思った本であった。名著。
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    投稿日:2021.06.24

  • かおり

    かおり

    開化から約150年経って、今、日本には「社会」「自由」「権利」「美」は「存在」するようになったのだろうか?「彼」の国からやってきた、未だ手の届かない理想のタブローにはなっていないだろうか?(あるいは、ないものねだりに飽きて居直っている?)

    鷲田清一先生『〈ひと〉の現象学』からの芋づる読書。哲学用語をしつこく原語で表記するのは何故なんだろうという疑問が氷塊した。要は、そもそもの最初からズレて使ってしまっているからなんだな、と。フランスやドイツ、イギリスから輸入した哲学用語を日本語に翻訳する必要に迫られた時、それまで日本で使われていた言葉には置き換えられない言葉がたくさんあった。言葉がない、ということは、それに相当する現実もない、ということだったから、手持ちの中から近いものを使うか、新しく作らなければならない。けれど、元ある意味を洗い落とすこともできないから受け取り方にも使い方にもどうしたって混乱が生じるし、新しく作った言葉の意味なんか誰もちゃんと腑には落ちてないから、意味を置き去りにした乱用が生じる。どちらにしろ、日本語を使った西洋哲学の理解には限界がある、という話。じゃあ、やらなくていいかというとそういうわけにもいかないので、ズレているんだ、それはたぶんこういうズレなんだ、という前提に立って、よりよく理解できるように膝詰めで対話する、っていうのが建設的かと。少なくとも、知ったかぶりしたり、孤高を気取ったり、冷笑的になったり、卑屈になったりするよりかは大人な態度なんじゃないだろうか。
    そして、日本語を使って学問をしていく以上、本書に書いてある問題に無関心ではいられないだろうと思うので、少なくとも、哲学、文学、史学あたりをやりたい人は読んでおいた方がいいだろう。
    三島文学の批評(「美」のトリック)、田山花袋の批評(「彼」という余計な翻訳語)としても面白い。

    にしても、学問や文芸における福沢諭吉、森鴎外の功績の大きさに驚く。彼らの苦闘あっての、日本語で学べる日本なのだな、と。
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    投稿日:2021.02.21

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