【感想】歎異抄

金子大栄 / 岩波文庫
(22件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • murenakama

    murenakama

    他力本願の本質を教えてくれる書物である。人間の持つ社会性について考えさせられた。仏教が高度な哲学を持つようになってしまい、民衆から離れていき、そのような中で生まれてきた新しい仏教の形なのであろうか。

    投稿日:2022.11.04

  • K62

    K62

    21世紀の言葉で言えば、浄土真宗は『インクルーシブ』だなぁ、と言うのが第一の感想。
    庶民に広く親しまれた理由がよく分かる。
    (当然だけれど)日本史の中でもトップレベルの名著、古典。一文一語の重みが凄まじい。
    歳を重ねる度に、この本の奥深さが分かっていくんだろうなあという生への"悦び"も感じられた。
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    投稿日:2022.04.07

  • 横

    親鸞の口伝の教えを弟子の唯円が門徒のためにまとめたもの
    。師の存命中に異端論争が起きることから、真宗とは難解なものなのでしょうか。また、この書が明治の世まで秘されていたことは、どういう理由なのでしょうか。なんとも、不可解なテキストです。続きを読む

    投稿日:2021.08.14

  • 澤田拓也

    澤田拓也

    親鸞を師とあおぐ唯円が、その教えに対する異説があるのを嘆いて書いたという『歎異抄』。

    「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
    いわゆる悪人正機説で有名な親鸞。

    とはいえ、善行を積まずとも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるだけで成仏して浄土に行くことができるという他力本願の思想は、当時においても違和感を持たれており、そうはいっても善行は大事だよね、というような他力本願思想の徹底さを欠く異説がたくさん出ていたという。自分がまさにその言葉を聞いたときに持った違和感は時代を越えておそらく多くの人が共有するものだろうし、そういった反応があったという状況は容易に想像できる。親鸞はその他力本願の思想のゆえに正式な弟子を取らなかったが、それは宗教的権力を保持し、宗派を維持しようとするものにとっては、そのままでは受け入れがたいことだったのかもしれない。

    そこで唯円は、親鸞の言ったことを信じ、その言葉とはずれたことを言う輩に対して、親鸞はそんなことは言っておられなかった、と嘆く。これに対して、批判して相手の主張を変えるために戦おうとするのではなく、嘆くという行為が親鸞の教えに忠実なる者の行動らしい。なぜなら、親鸞の教えは、あるがままを受け入れる、という行為を是とする考えに行きがちであると思えるからである。

    親鸞の教えは『教行信証』と呼ばれるものである。
    「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教(教)は、本願を信じ(信)、念仏をまうさば(行)、仏になる(証)、そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」(第十二章)という適切な言葉がある。これが真宗の教義である。『教行信証』の説くところもこのほかにない。したがって、この簡単なる言葉を心にうけいれ、身につけることができれば、それで真宗の信者といわれるのである」

    つまりは、念仏至上主義なのである。一心に念仏を信じること、救われるから信じるのではなく、ただ信じ行うのである。
    「親鸞においては、その真実の道理として心にうけいれるべきことを「本願を信ず」といい、その道理を事実として身につけてゆくことを「念仏をまうす」というのである」

    「有限者である衆生の知識では、無限者のあり方を規定することができない」
    というとき、神の意志を個人の意志や行動で左右することはできないとして、救済されるかどうかはすでに決まっているとしたカルヴァンによる予定説とも相通ずるところがある。

    「それは真如(人智を超越した真理)から、我らの上に現れ来るものというほかないものである。故にそれを如来という。阿弥陀とは即ちその如来の徳である。これによって、不安と苦悩とにある我らにかけられた大悲の願は如来の本願といわれ、また弥陀の本願といわれるのである」

    そこには自力では救われないという認識がある。ゆえに他力本願の徹底が説かれるのである。それはカルヴァンがそうであったのと同じく、超越者の超越性を突き詰めて考えた場合には、論理的にたどり着く境地なのかもしれない。一方でカルヴァンの予定説は救われるのは選ばれた人であり、親鸞の他力本願はすべての人が救われるというものであるところが大きな違いであるように思われ、それが宗教としての性格にも大きな違いをもたらしているとも考えられる。
    「されば老少善悪の人をえらばない弥陀の本願は、正しく「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」(第一章)である。その本願による不安と苦悩のないところを浄土という。したがって如来の本願とは、衆生を浄土にあらしめたいということである」

    それでは、最後に、なにゆえにそこまで念仏に信心を置くことができるのかという疑問が残る。それに対しては、「私は信じるから」との答えであり、それがたとえ間違っていたとしても後悔はないのだと言うのである。
    「念仏は浄土へ生れる種であるか地獄におちる業であるか知らないと答える。それは信心は知識でないことを思い知らしめるものである。さらに「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」という。そこに自信の現実があるかぎり、法然聖人に欺かれたとしても後悔はない。いのちをかけての信心である」

    キルケゴールが「信仰の跳躍」と名付けたものが、そこにあるのではないか。信心は知識ではなく、行であるというのはそのことを指すのではないか。先ほど論理的に突き詰めるとそこには予定説や他力本願のように、超越者の無限性に対する人間の有限性を強調する教義と心性が生まれると書いた。その通りである。論理によって真実に辿りつくためには真なる命題から出発する必要がある。その帰依すべき真なる命題が、親鸞の場合は弥陀の本願であり、キリスト教プロテスタントの場合には聖書であったのだ。

    「その煩悩の心も念仏になごめられ、その罪悪の身も本願の大悲にたすけられてゆく。それ故に念仏にまさる善はなく、本願をさまたぐる悪はないのである」

    宗教が成立するためには、信仰の跳躍が必要なのである。その意味では、オウム真理教も正しく宗教であったのだと思わざるをえない。イスラム過激派も同じく正しく宗教であると思わざるをえない。無論、彼らが親鸞に似ているという意味ではない。ただ、宗教として存立するために何かに帰依するという段階をどこかで踏まざるをえず、そこには跳躍が必要であるということだ。そして、いつどこへ向けて跳躍したのかというのが、その宗教の根っことなるのではないのだろうか。

    親鸞は日本における宗教改革者の一人であった。その過激さがゆえにこうやって宗教それ自体について考えさせる思想家でもある。その親鸞から興された浄土真宗が日本有数の宗派となっているのは日本の宗教観念の懐の広さというか何事もそのまま受け入れて内部化する力というのは相当なものだと思う。


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    最近、『歎異抄をよむ』という本がそれなりのベストセラーになり、アニメ化までされていると聞いて、何がそうさせているのかとても不思議になった。必ずしも現代の趣向に会う宗教観とも思えないのだけれど。
    続きを読む

    投稿日:2020.11.09

  • nuhuaueo0

    nuhuaueo0

    読書会課題本。久しぶりに手にとったが、文句なしの名著。格段ごとに入れている解説も簡潔にまとまっていて、読みやすい。しかし仏教学の素養がないと理解しづらいかもしれない。

    投稿日:2020.11.04

  • satoko

    satoko

    歎異抄。親鸞のお弟子さんとは言ってはいけないのかな。晩年を共にした唯円が著者という。歎異抄は異議者を嘆いているのであって、論破しようとしているのでは無い。なので歎異抄なのだと知る。嘆いているのだね。しかし難しい。一回読んでも分からない。だから解説本があるのかな。現代語のところだけを流し読んだからか。他力の念仏。仏教は深いね。続きを読む

    投稿日:2020.08.05

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