【感想】見上げた空は青かった

小手鞠るい / 講談社
(7件のレビュー)

総合評価:

平均 4.3
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ブクログレビュー

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  • さてさて

    さてさて

    あなたは、『戦争なんて自分には関係ない』と思っていませんか?

    先の大戦が終わって80年という年月が流れました。恐らくこのレビューをご覧になってくださっている方の中で戦時下の記憶がおありという方はいらっしゃらないのではないかと思います。先の大戦が終わり、それから流れた長い年月の中で、私たちの国は世界で唯一と言っていいほどに戦争とは無縁の歩みを進めてきました。それはとても幸せなことだと思います。しかし、その一方で世界に目を向ければ、今日、今この瞬間も続くウクライナへのロシアの侵攻を含め世界は未だ混沌とした中に置かれています。そんな戦争真っ只中の国や時代にたまたま生まれなかっただけ、私たちはそんなただの偶然の中に平和な日々を生きているとも言えます。

    しかし、明日へと続く私たちの暮らしが、この先も本当に戦争とは無関係でいることなどできるのでしょうか?戦争とは他人事、そんな感覚の中に人生を無事に終えることができる保証はどこにあるというのでしょうか?

    先の大戦では、何の罪もない子どもたちが多数犠牲になりました。それは、広島や長崎への原爆投下によるものもあったでしょう。一方で、東京大空襲の中に一夜にして命を失った方もいるでしょう。そう、犠牲になる瞬間は誰にも突然に訪れる、それが戦争なのだと思います。

    さて、ここに先の大戦において苦難の時を生きた二組の主人公をパラレルに描いた作品があります。『自分がユダヤ人だってことは、ぜったいにだれにも言わないこと』と、両親と約束して隠れ家に二人で暮らす姉妹が主人公となるこの作品。『ぼくは死にたくない。死ぬのは、こわい。こんなことを思っているぼくは弱虫で、おくびょうな、非国民なんだろうか』と悩む先に疎開先で『空腹』に苦しむ少年が主人公となるこの作品。そしてそれは、そんな二組の子どもたちの戦時下の生き様を見るその先に、『戦争をなくすために私のできること』という言葉を読者も自問することになる物語です。

    『ママ、ママ、あたし、おうちに帰りたい。パパ、むかえに来て』という『涙にぬれた妹の声が聞こえてきて』目を覚ましたのは主人公のノエミ。『大きな声は、出せない。出してはならない』、『となりに住んでいる人たちにわたしのことば ー ドイツ語ではない ー が聞こえたら、たいへんなことになる』と思うノエミは『ロザンナ、ロザンナ、どこにいるの?』と『小さな声で、ささやくように、呼びかけ』ます。ここでは、『ロザンナ』ではなくて『ロザムンデ』、自身も『「ノエミ」ではなくて「イリス」』という『十二歳と十歳の「ドイツ人の姉妹」ということになっている』という二人。窓のそばに立っていたロザンナを見つけたノエミは『ゆうべのお話のつづき、してあげようか』と『ゆうかんな少年』の物語のことを話し妹をなぐさめます。しかし、『あたし、帰りたい…』と言う妹に『わたしだって、帰りたい』と思うノエミ。しかし、『わたしたちの「おうち」はもう、どこにもない』という現実。『おそろしいゲシュタポ ー ナチス・ドイツの秘密国家警察』から匿ってくれるアマンダという女性の庇護の下に暮らす姉妹。
    場面は変わり、『おにいちゃん、おにいちゃん、会いたい』という妹の美海子(みなこ)の声を夢に聞いたのはもう一人の主人公・石崎風太(いしざき ふうた)。そんな時、『おい、風太、いつまで寝てるんだ』と起こされた風太は『水雷艦長』という、『戦争ごっこ』に参加させられます。『戦争ごっこもいやだし、戦争もいやだ』と思う風太は、一方で『「戦争がきらいだ」なんて、口が裂けても言えない』という現実を思います。そんな風太は『一ヵ月前の「あの日」のこと』を思い浮かべます。『ぼくらの疎開の始まった日』という、ある晴れた夏の日の朝、校庭に急遽集められた『国民学校初等科の、四年生から六年生まで』の百人の子供たちを前に『きみたちにはこれから、集団疎開をしてもらう』と語ったのは『軍服に身を包』んだ軍人でした。そして、『疎開は勝つため、お国のため』『ほしがりません、勝つまでは』と声を合わせる子どもたち。
    第二次世界大戦下のチェコと日本、それぞれの場所で戦時下を必死で生き抜いていく子どもたちの姿が描かれていきます。

    “戦争末期を生きる二人の少女と少年が見たものは?”と内容紹介にうたわれるこの作品。表紙にうさぎのぬいぐるみを抱いた少女が、裏表紙には国民服を着た少年がそれぞれ読者を見つめるかのように立つ姿が描かれているのがとても印象的です。そんな作品は『自分がユダヤ人だってことは、ぜったいにだれにも言わないこと』と両親に固く言われたノエミとロザンナの姉妹を描くパートと、『疎開は勝つため、お国のため』という言葉の下、家族から離れ『遠い地方の山の中にある村』へと疎開した石崎風太が描かれるパートが交互に描かれていきます。

    あなたは、第二次世界大戦中のこれら二つの場所で何が行われていたかをどこまで知っているでしょうか?では、まずそんなそれぞれの場面について見てみたいと思います。まずは、『ナチス・ドイツ』による『ユダヤ人の殲滅』への動きの中で犠牲になっていくノエミとロザンナの物語です。ノエミとロザンナの暮らすチェコ=スロヴァキアまで伸びるゲシュタポの手。『だれかの家の一室や、使われていない物置小屋や、アパートメントの屋根裏部屋や地下室』に、『ゲシュタポに見つからないように』と、隠れて暮らさざるを得ないユダヤの人たち。そして、登場するのが『アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所』です。『ユダヤ人を殲滅 ー ひとり残らず殺して、絶滅させること ー するための死刑場』というその場を『絶望の地』と表現する小手鞠さんは、そのあまりに恐ろしい光景をこんな風に表現します。

    『いったい何を燃やしたら、こんなにも激しい臭いのするけむりが出るのだろう。いったい、何が燃えたら?その答えを想像するだけで、背中がぞくぞくした』。

    直接的な言葉なしに、こんなにも恐ろしい現実を思い起こさせる表現があるでしょうか?そんな光景をノエミは

    『死が牙をむいて、目の前まで、せまってきている』。

    とその緊迫した状況を語ります。”ナチスがユダヤ人を迫害した”。『アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所』というものがあった、日本人のおおよその知識はこの程度までではないでしょうか?第二次世界大戦下のヨーロッパで何が行われていたのか、そこで犠牲になった子どもたちは、何を思い、何を考え、その陰惨極まる日々を生き抜いていたのか、ほとんど知識のなかった私には衝撃としか言いようのない現実がここには描かれていました。

    一方で、では、私たちのこの国のことはどこまで知っているのでしょうか?この作品に描かれているのは、東京から集団疎開をした主人公たちの疎開先での暮らしです。『日本が負けるはずがないわ。だって、新聞にもそう書いてあるじゃない。日本は勝っているのよ。負けるなんて、ありえない』と聞かされていた日々の中に、疎開先で厳しい食環境に喘ぐ主人公の風太。『今朝の朝ごはんは、ふかしたさつまいもと、ふきの煮物。きのうと同じ。おとといと同じ…ふき、山野草、野の花、雑草。食べられるものなら、なんでも食べている』という日々は、一方で『日本人の寝ている時間をねらって、集中的に攻撃をしかけて』くる『アメリカ軍の飛行機』に怯えながらの暮らしでもあります。そんな中に『空腹』というものをこんな風に表現する小手鞠さん。

    『腹にぽっかりと、穴があいているような気がする。その穴から空気が抜けて、ぼくの体はまるで、ぺちゃんこになった風船のようだ。息をすったり、吐いたりするたびに、体じゅうの骨がぎしぎし、神経がぴりぴりする』。

    本当の『空腹』というものがどんなものか、私たちが知っている、”お腹が空いた”という次元でない感覚がそこにあることがわかります。そんな感覚を小手鞠さんはこんな風にも表現します。

    『空腹というのは、痛いものなのだ。腹の中はからっぽであるはずなのに、なぜか、吐きそうになっている』。

    こんな感覚を味わわなければならない風太たち、疎開した子どもたちの日常。なんともやるせない思いに苛まれる描写の連続に、この国でわずか80年前にあった事実を知らずに生きてきた自身を深く恥じたい思いに包まれました。

    そして、この疎開について記された中に登場したある一文に私は震撼しました。子どもたちに向けて疎開について説明する軍人はこんな風に語ります。

    『きみたち少国民は、今は少国民にすぎないが、いずれ成長した暁には、わが国の将来をになう、重要な兵士となる…そのような将来の兵力を、空襲で失うようなことがあってはならない。よって、きみたちには集団疎開をしてもらう』

    これを聞いて、『そうだったのか。疎開というのは、安全な場所に避難するためだけではなくて、ぼくたちが将来、戦争へ行くためにするものだったのか』と衝撃を受ける風太。このシーンを読んだ時に、私はある作品の一風景が頭の中にさっと蘇りました。小手鞠るいさんの傑作「ある晴れた夏の朝」です。米国の高校生を主人公に、原爆投下の是非をディベートという形で問うていくその物語の中にこんな一文が登場します。

    “戦争末期の日本では、将来の戦力を温存するために、子どもたちを安全な田舎に避難させていたという歴史的な事実もあります。言ってしまえば、子どもたちも、兵士だったわけです。ならば、戦争でアメリカ軍に殺されても、当然ではありませんか?”

    これら二冊にまたがる見事な事実の符号。この作品では、巻末に夥しい数の参考文献の記載がなされています。疎開の目的も小手鞠さんの創作ではないはずです。疎開という状況下に『空腹』を極める主人公たち、その一方で戦争の相手国からは、そんな子どもたちが、将来の自分たちの脅威として映るという現実。なんともやるせない思いに包まれるのを感じました。

    そんな作品は六つの章から構成されています。章題と、それぞれの主人公たちの置かれた状況を簡単にご紹介したいと思います。

    ・〈第一話 ゆうかんな少年と外国の女の子〉
    → 囚人のような暮らしの中に怯える姉妹 / 疎開先で『戦争なんていやだ』と思う風太

    ・〈第二話 忘れられない夏の空〉
    → ゲシュタポの手から逃げる姉妹 / 疎開先へとやってくるまでの風太

    ・〈第三話 石のようなパンと生のさつまいも〉
    → 強制収容所での日々を送る姉妹 / 『疎開生活が始まって、三ヵ月ほどが過ぎた』風太

    ・〈第四話 天国の空は何色ですか〉
    → 強制収容所で起こった出来事 / 友だちに起こった出来事

    ・〈第五話 恐怖の穴と遠い道〉
    → 強制収容所でのその後の転機 / 疎開先にもB29戦闘爆撃機

    ・〈第六話 見上げた空は青かった〉
    → 戦後のそれぞれ

    二組の主人公の物語は完全パラレルに描かれます。そこには史実としてのドイツ、日本の敗戦の先に続く未来があるわけですが、この物語は巻末の記述にもある通り『歴史上の事実をもとにして創作された』ものでもあります。そんな作品には巻末に小手鞠さんのこの作品にかける深い想いが〈あとがき〉として記されています。

    『子どもだったころ、私は「戦争なんて自分には関係ない」と思っていました。でも、今は違います』。

    そんな風におっしゃる小手鞠さん。私たちが生きている現代社会、特に日本という国に暮らしていると、戦争などというものは過去の歴史の中にあるものであり、私たちがそれに関わることなど決してないような錯覚に陥りがちです。先の大戦以来、戦争をしたことがないという稀有な国、日本。しかし、一方でロシアのウクライナ侵攻や中東のきな臭い動き、そして東アジアにも中国、北朝鮮の危機を煽るような動静など、私たちの平和な暮らしとは、一瞬にして吹き飛ばされる危険性と紙一重なものであることがわかります。

    『なぜ、大人たちは戦争をするの?
    なぜ、テロや戦争をなくせないの?』

    「私たちが子どもだったころ、世界は戦争だった」という本を読まれて、そんな、子どもたちの声が聞こえてきたとおっしゃる小手鞠さんは、自らの決意をこんな風に語られます。

    『戦争をなくすために私のできることは「戦争について書く」ことだと思った…平和を願い、平和を祈っているだけでは戦争はなくならない』

    そう、戦争は、無関心でいるのは素より、願うだけでも祈るだけでも決してなくなりはしません。この世に生きる私たちそれぞれが、『私のできること』を積み重ねていく、それはとても大切なことなのだと思います。この作品を読んで、小手鞠さんが自らに課されるその力強い決意に深い感銘を受けました。そして、それは、私自身への問いかけともなってくるものです。

    私、さてさて ができること。

    それは、戦争を扱った作品を読み、それを真摯にレビューすることで、次にその本を手にする方の起点を作っていくこと、これが今の私にできること、そんな風に考えました。私が今までに読んできた戦争を扱った作品はこの作品を含めて四冊です。どれもが秀逸な作品ばかりであり、このレビューの最後に皆様にも改めておすすめさせていただければと思います。

    ・汐見夏衛さん「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」: “生まれてはじめて私が愛した人は、特攻隊員だった”という運命の出会いをファンタジーの中に描く傑作です。

    ・藤岡陽子さん「晴れたらいいね」: “ 私たちは求められてここにいるのですよ。お国のために命を懸けて働くのです”という従軍看護婦としての時間をファンタジーの中に描く傑作です。

    ・小手鞠るいさん「ある晴れた夏の朝」: “原爆で亡くなった広島と長崎の人々は、はたして、ほんとうに、罪もない人々だったのでしょうか?”という問いかけをディベートの中に積み重ねていく傑作です。

    『私たちの生きているこの世界は、決して平和ではないのだ…戦争や紛争やテロ事件は今この瞬間も、世界のあちこちで起こっています』。

    そんな風におっしゃる小手鞠さんの熱い思いが痛いほどに伝わってくるこの作品。そんな作品では、『ゲシュタポに見つかったら、おしまいだ』と隠れ家に息を潜めて暮らすノエミとロザンナ姉妹の心の叫びと、『みんなとちがったことを思っても、考えても、いけない』と疎開先に『空腹』の日々を過ごす風太の物語が描かれていました。知っているようで何も知らなかった、先の戦争の裏にあった人びとの暮らしに心が動揺するこの作品。二つの物語をある工夫によって見事に結びつけていく物語構成の上手さも光るこの作品。

    『戦争をなくすために私のできること』、そんな決意に真摯に向き合われる小手鞠るいさんの熱い想いに胸打たれた素晴らしい作品でした。
    続きを読む

    投稿日:2023.03.04

  • ほくほくあーちゃん

    ほくほくあーちゃん

    ユダヤ人の少女、ノエミ。
    学頭疎開中の少年、風太。
    同じ戦争中に生きる少年少女たちが、
    どのように考え、生きてきたのか。
    学生さんに読んで欲しい話でした。

    特にアウシュヴィッツの話は児童書のわりに
    生々しく感じた。
    戦争を経験してない人が増える中、
    でも、世界のどこかで戦争が起きている。
    それを考えさせられた。
    自分の子どもが大きくなったら、
    読んで欲しいなー。
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    投稿日:2023.01.11

  • rien1915

    rien1915

    子どものために買った本。ただ小学生の子どもが読むには非常にきつい内容もあったが、これが戦争なんだ、こんなことは絶対にダメなことだと心から思える本だと思う。子ども向けの本かもしれないが、大人でも十分に読み応えのある本だった。
    (最近、子どもが成長してきたので同じ本を同じタイミングで読めて楽しい。)
    続きを読む

    投稿日:2022.09.29

  • リーベル

    リーベル

    ユダヤ人少女と日本人少年が見た大戦
    幼い目に映った戦争の絵を多くの人に読んでもらいたい。
    比較的短いので、皆さんの読書の合間に是非!

    投稿日:2022.06.06

  • ひな

    ひな

    このレビューはネタバレを含みます

    少女ノエミが、ママとパパがいなくて心細くなっている妹のロザンナに、空想のお話をしてあげるシーンが好きです

    レビューの続きを読む

    投稿日:2022.05.14

  • ina-lib

    ina-lib

    ユダヤ人への迫害が厳しくなるドイツで、親と離れドイツ人の戦争孤児と偽り、妹と二人で隠れ家にくらすユダヤ人の少女、ノエミ。空襲が激しくなった東京から、家族と離れ、田舎に疎開している日本人の少年、風太。ドイツと日本という離れた2人の物語をつなぐのは、“ミミちゃん”というウサギのぬいぐるみです。戦争末期の2国で“ミミちゃん”を支えに生きる子どもたち2人の物語が、交互に語られます。親と離れ、元の生活とはかけ離れた生活で、2人はどのように過ごしていったのでしょうか…。続きを読む

    投稿日:2018.07.20

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