【感想】黴 爛

徳田秋声 / 講談社文芸文庫
(3件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • Mar

    Mar

    自然主義作家と言われる徳田秋声の作品を初めて読みましたが、なんとも評価をしづらい作品です。『黴(かび)』の主人公の笹村も、『爛(ただれ)』の主人公お増(ます)の良人(浅井)も女性の扱いが悪くて、なんだか途中途中で気の毒でならなかった。
    2作品とも、深い心情が描かれる事なく、いたって淡白な語り口で進んでいきます。そして、話しの内容に盛り上がりも少なく、いきなり話しが飛んで行間を読まされる文章などは、もう少し前後の関係を書き込んであればと思いました。

    このようなことを書くとダメなのかというと、
    不思議と読み返してみたい気持ちもあります。おそらく、難解な漢字を多様していることと、特徴的な言葉の繰り返しが、一見グダグダになりそうな雰囲気を適度に引き締めたり和らげたりで、それらが最後まで読み進める牽引力になっているからかもしれない。他の作品も読んでみようと思います。

    あと、作品に関係ないですが、出版社にはもう少しルビに気を使って欲しかったですね。
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    投稿日:2023.10.04

  • nt

    nt

    『黴』は1911(明治44)年、『爛』は1913(大正2)年に新聞連載されたもの。
     日本自然主義文学の最高峰とも言われる徳田秋声の小説を、こんにちの観点からどのように評価し、位置づけるかということは、そう容易なことではない。ただ、これが「いかにも日本的な美感を代表するものの一つ」だということは想像できた。この場合の「日本的美感」は、もちろん、長所も短所もある。
     この小説の構成原理には、近代西洋が追究してきた「論理性」が存在しない。状況Aがすべからくして状況Bを結実した、というような強固な原因-結果の結びつきが、「日本的美感」の核心部分には見られないようなのだ。秋声の小説では、「物語」は論理的発展や観念的構成のもとに結実するのではなく、風が吹き花が散るような自然のなりゆきであるかのように、巡りゆく四季であるかのように、状況Aに次いで状況Bがたまたま、しかし抗いがたく生起するというだけだ。そのため、作品の結末は常に尻切れトンボであり、急に電源が落ちたかのようなあっけなさ、唐突さを示す。それは人間の生が急な病気や事故で突然終焉を遂げるのと等しいだろう。
     さらに、それぞれの状況における人間の「気持ち」はかすかに分かる程度に打ち出されるのであり、フランスの心理小説やヘンリー・ジェイムズの作品のような、論理的追究を主眼とした「心理描写」とは、どこか根本的に異なっている、人間の心の移りゆきもまた、瞬間に風が吹くような偶然性と不可避さの様相を呈する。
     淡々とした文体は、どことなく「妙な言い方」が見られるのだけれども、それが不思議な味わいとなって余韻を残す。
     明治終わり頃から大正期にかけて、ずいぶんと評価が高かったらしい秋声の作品は、確かに「現実らしさ」を備えているような感覚をもたらし、それが「自然主義文学」のディスクールの中で至高の価値として評価されたのだろうと思う。
     このリアルさの感じは、どことなく味わいのある文章と共に発現するのであるが、後の大衆化・商業化された戦後文学、こんにちの文学風景とはまるで違っており、我々にとって徳田秋声の文学とは何か、という問いが、思いもかけない、気分に馴染まないような異質さとして、心にぶつかってくるように感じる。
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    投稿日:2023.03.11

  • y-mitsu

    y-mitsu

    自然主義文学に位置づけられる徳田秋声の小説2編。全般的に登場人物の心の動きや内面的告白が少なく、読後に陰鬱な印象が残る。

    投稿日:2018.06.04

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