【感想】「わからない」という方法

橋本治 / 集英社新書
(51件のレビュー)

総合評価:

平均 4.0
16
14
13
2
0

ブクログレビュー

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  • kaz.f

    kaz.f

    内容は割と共感。
    イライラしながらも何故か読み進めてしまうなぞの体験。
    居酒屋でつまらん話を延々と聞かされたような読後感。

    投稿日:2022.03.13

  • のもん

    のもん

    再読。
    読むものがない時のつなぎでパラパラ読んでいたが、
    間をどれだけ開けても、スッと入ってくる橋本さんの言葉がすごい。
    ものごとを知る、分かっていく、作っていく、その過程を
    橋本さん流のわかりやすいくどい言葉で追っていく。
    何かを生み出すことに近道はなく、ひらめいたものを確かなものにするために、あとはただ進むだけ。
    作品を作り上げるという大きな話だけでなく、
    日常の中にある「わからないもの」を分かるようにするための筋道は同じものだ。
    身体を信じている橋本さんの言葉は、しごくまっとうで、誰にでも届く。
    わかりやすく、のためにえんえんと言葉を重ねる誠実さ。
    橋本治の本は、もっと読まれないといけないよな、といつも思う。
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    投稿日:2021.03.08

  • 湖南文庫

    湖南文庫

    橋本治(1948~2019年)氏は、東大在学中に、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」という東大駒場祭のポスターで注目され、その後イラストレーターを経て、文筆業に転じ、様々なメディアでも活躍した小説家、評論家、随筆家。
    本書は、「わかる」ために、セーターの編み物の本まで書いてしまった著者が、「わからない」が全ての出発点である、ということについて、繰り返し、著者独特の(くねくねした)文体で書き綴ったものである。2001年出版。
    著者も述べているように、方法論を書いたハウツー本ではない。

    なるほど!と思った点をいくつか引用すると、以下である。
    ◆「「わからない」をスタート地点とすれば、「わかった」はゴールである。スタート地点とゴール地点を結ぶと、「道筋」が見える。「わかる」とは、実のところ、「わからない」と「わかった」の間を結ぶ道筋を、地図に描くことなのである。」
    ◆「二十世紀は理論の時代で、「自分の知らない正解がどこかにあるはず」と多くの人は思い込んだが、これは「二十世紀病」と言われてしかるべきものだろう。・・・よく考えてみればわかることだが、「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な“正解”」などというものは、そもそも幻想の中にしか存在しないものである。「二十世紀が終わると同時に、幻滅もやって来た」と思う人は多いが、これもまた二十世紀病の一種である。二十世紀が終わると同時にやって来たのは、「幻滅」ではなく、ただの「現実」なのだ。・・・二十一世紀は、人類の前に再び訪れた、「わからない」をスタート地点とする、いとも当たり前の時代なのである。」
    ◆「この本で私が繰り返し言うことは、「なんでも簡単に“そうか、わかった”と言えるような便利な“正解”はもうない」である。・・・私が言いたいのは、「便利な正解の時代」が終わってしまったら、「わからない」という前提に立って自分なりの方法を模索するしかないという、ただそれだけのことである。・・・私は「新しい方法」を提唱しているのではなく、「人の言う方法に頼るべき時代は終わった」と言っているだけなのである。」

    こうして見ると、20世紀末から、時代がモダンからポストモダンに移行しつつある中で、我々はものごとを如何に捉え、如何に解決していくべきなのかを、噛み砕いて示しているのだ。そして、これは、松岡正剛氏が『知の編集術』等で「21世紀は、20世紀に列挙した「主題」を解決する、「方法」の時代である」と表現していることと同じであろう。
    21世紀に入り既に20年が経つが、閉塞感の打破できない今、再読する価値のある一冊と思う。
    (2006年3月了)
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    投稿日:2020.05.02

  • 鳩摩羅什

    鳩摩羅什

    橋本治の本を読んだのは3冊目である。
    1冊目は『知性の転覆』、2冊目は『上司は思いつきでものを言う』で、この2冊で橋本治のファンになった。
    橋本治は面白い。
    面白さの一つは「等身大」である。
    橋本治は等身大でものを言う。背伸びをしていないから合点がいく。それは本書では「身体性」である。
    二つ目は「地を這う」である。
    ものの言い方には「帰納」と「演繹」の2種類がある。「帰納」=「地を這う」で、「演繹」=「天を行く」に対応するのだが、橋本治の書き方は極めて帰納的である。
    なるほど、ここまで書いてみてようやく分かった。
    橋本治の文章は帰納的であり身体的なのだ。

    「分かる」には、
    ①作業を通して言葉を掴む=学ぶ
    ②作業を通して感覚を掴む=慣れる
    ③作業をせずに言葉を掴む=暗記
    ④作業をせずに感覚を掴む=天才
    の4種類があり、③は不毛で④は一部の人間しかできないことであるから、普通は①と②で行くしかない。
    その行き方は、
    (a)天を行く=教え手と共に天を行く
    (b)地を這う=自分だけで地を這う
    の2つがあるが、(a)にしても事前か事後か、身体性を補完する必要がある。

    要は、経験を通して身体で掴んだものは強いのだ。頭脳だけで抽象的に掴んだものは「分かった」とは言い難い。経験を通して掴んだものは、いつか役立つかもしれない。役立たないかもしれない。役立たないかもしれないから、さっさと忘れて構わない。
    しかし、そのときが来たら思い出せるものなのだ。

    ①言語化
    学びを自分なりの言葉にせよ

    ②身体性
    たくさんの作業をしてコツを掴め
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    投稿日:2020.04.06

  • 2019の俺

    2019の俺

    これおもしろかったなー。知性する身体。思えば、簡単なノウハウにしがみついて、なんでもググってわかった気になれる現代において、1つのことをひたすらやることで、身体的に「わかった!」となることが少なくなっている気もする。
    ひたすら繰り返すこと。経験と身体と友人ね。時間をかけるということにもっと積極的な意義を与えるべきなのだろう。わからないままに。それは頭で思考するというより、身体でこうかな?こうかな?って思考することに似ている。
    身体は時間がかかる。物事のパターンを手に入れる場合にも、物事を記憶するにも。でも手に入れた自分なりの方法は一生物だろうな。それが下地なのだろう。

    同じことを何度も何度も繰り返すが必要だな。
    続きを読む

    投稿日:2019.09.30

  • quazism

    quazism

    哲学めいた内容。前半は手編みのセーターの編み方の本をだしたことを引き合いに出している。後半は少し難しくなっている。

    投稿日:2019.08.12

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