【感想】アーサー・ミラーII るつぼ

アーサー ミラー, 倉橋 健 / ハヤカワ演劇文庫
(9件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • 本屋さんが大好き!

    本屋さんが大好き!

    2016年に、シアターコクーンで観ました。
    その時は史実に基づく話と知らず、いまひとつわからないままでした。
    戯曲を読んで少しは理解が進みましたが、魔女狩りは、いつの世にも、どこにでも存在している、という寒々とした気もちに…

    アビゲイルはevilなのです。

    プロクターは実際告白どおり悪魔に会い、交わってしまったと言える…
    だからといってこのような形で裁かれて良いわけではないのだけれど。
    罪とは何なのか。自分はほとんど宗教に絡まず生きてきたから、法律的な罪にしか普段は反応できないけれど、こうした物語を知り、そうした側面から赤狩りの罪深さをあらためて思い知ったりする。

    よい1冊でした。

    気になったフレーズはP19
    「組織というものは、二つの物体が同一空間を占めることができないのと同様、すべて排除と禁止の理念に基づいており、また基づかざるを得ない。秩序は危険を防ぐために作られたのであるが、その秩序の抑圧のほうが必要以上に強くなりすぎる時代が、あきらかにニューイングランドにやって来たのである。」
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    投稿日:2024.01.01

  • henahena1

    henahena1

     17世紀、アメリカマサチューセッツ州にあるセイラムで起きた魔女狩り、魔女裁判の実話をもとに、戯曲化したもの。著者が取材した内容が戯曲の途中で解説で盛り込まれており、登場人物のリアルな像に迫っている。
     おれの仕事があまりにも忙し過ぎて、最近全然booklogを書けていなかったし、これももう1か月以上前に読んだ本で、記憶が薄れてきているが、集団ヒステリーの様子、騒動の発端となる女の子の演技(として描かれている部分)、それにつられる女の子たち、というシーンは今でも覚えている。あと、拷問で圧死することになる人が、石を胸(だったかな)に乗せられて、「もっと重く」って言って死んだこと、とか。あとは読みながら付箋を貼ったところを整理することにする。まず「アメリカでは、反動的でない考え方をする者はすべて、赤い地獄と結託していると糾弾される。これによって、政治的対立に非常な壁が作られ、文明社会における交流という従来の正常な習慣の廃棄を正当化する。政策は即ちこれ道徳とされ、政策への反対は悪魔の悪意とみなされる。ひとたびこういう等式が成立して効果を発揮すると、社会は互いに相手をおとしいれようとする権謀術数の巣となり、政府の主要な役割は調停者のそれから神罰をあたえる役に変わる。」(p.66)というのは、恐ろしい社会だなと思う。政策が道徳とすり替わる、ってあってはならないことだし。「反動的でない考え方」って何だろう?と思った。反動的なのがいいのか。あとは魔女がいるかいないか詰問されるところとか、本当困るよなあと思う。いないと答えると「(仰天して)信じられない!」(p.125)とか言われても。即それが聖書の否定につながる、と解釈される、というのも生きづらい世の中だなあと思った。あとは「訳者あとがき」のところで、「魔女の概念は、一つにはこういう狂信的な、欲望と本能をたえず抑圧して生きてゆかなければならない、一種のピューリタンの幻覚のなかから作りあげられた、一種のヒステリー症状である。こういう状況のもとで、個人的な、また集団的な宗教的狂気が醸成される。(略)彼らは、信仰のおきてを破るものにきびしい刑罰をくわえた。そうしなければ、きびしい禁欲と規律の生活をおくる自分自身に対してやりきれないわけである。」(p.271)という、もはや何のための欲望や本能の制御なのかよく分からない、本末転倒、という状況のように思える。「一般に、自分が抑圧されて苦しんでいるとき、他人をなんらかのかたちで苦しめると、それが抑圧のはけ口となり、ある種の快感を感じる。(略)神のおきてを守り人間を罪から救う行為であるという大義名分のもとにおこなわれる他人を傷つけることの快感と、神におってつくられたおなじ人間の肉体を傷つけ、あるいはその生命をうばうという矛盾や、良心の呵責を解決するための手段として考えだされたのが、悪魔やその手先である魔女である。だから、悪魔や魔女は、狂信的な宗教的幻想からうまれた恐怖のヒステリー的迷信であると共に、意識の面では、宗教を基盤として権力をもつ者が、自分たちがおこなう残酷な刑罰を正当化するための手段だったのである。(略)このようにして、罰する人間を、犠牲者であると同時に教唆者に仕立て上げた。悪魔や魔女にとりつかれただけなら犠牲者であって、ひどい罰をくわえるわけにはいかないからである。歴史上におけるユダヤ人や異教徒に対する迫害は、すべてこのような論理と説明によって遂行された。」(p.272)というのは分かりやすい。
     ちょっと前に読んだ猿谷要先生の本でこの本を知り、おれもセイラムに行ったことがあって読んだけど、最初は時代や雰囲気に慣れる時間が必要で、入りにくかったかもしれないが、途中からはスラスラ読めた。英語で読んでみたい。でもやっぱり感想がもっと早く書けるくらいの余裕が日常生活に欲しい(本と関係ないことだけど)。(23/10)
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    投稿日:2023.11.18

  • たまプラーザ読書会

    たまプラーザ読書会

    「嘘じゃない?」と思っていることが、次第に本当かのようになっていく戯曲。
    人間の持っている弱さや脆さを感じながら、声に出して読むのがおすすめ。

    投稿日:2021.12.16

  • venezia

    venezia

    このレビューはネタバレを含みます

    1692年マサチューセッツ州セイラムで起こった魔女裁判を描く。ここでミラーは人物の整理などを行っているが、ほとんどは史実そのものを劇化する方法をとった。「わたし達はそういう迷信に頼ることはできません。悪魔は綿密です」―迷信の横行する前近代の話ではないのだ。人々は、魔女の告発を受けてしまえば、告白するかさもなければ嘘をついているとして処刑されるしかない。現実の事件では19名の処刑者と、6名の獄死者がいた。告発された村人は200名にものぼったという。そして、これらはすべて法の正義と神の名においてなされたのだ。

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    投稿日:2013.09.26

  • kamekozaru

    kamekozaru

    これを単に「無知だった過去にあった出来事」として終えることはできない。今現在も、これと似たようなことはそこかしこで行われてしまっている。自分がその時代の、その場所での少数派になってしまうことに対する恐怖をどう克服すべきか、たとえ虐げられる側に経つことになってしまっても誠実さを失わずにいられるか。一人一人がもっと真摯に考えなければならない普遍的な問題が書き出されていると思った。続きを読む

    投稿日:2013.03.24

  • rucho

    rucho

    18世紀末、だっけ?アメリカのセーラムであった魔女狩り事件をもとに戯曲化された作品。
    小娘のいたずらから、村を巻き込んだ魔女裁判に発展。
    いまでも記憶してるのはこんなセリフ(うろおぼえ・・・)。
    「だれもが恐れて真実を話したがらない!だから、神はこの村を選んで罰をくだされたのだ!」
    マッカーシーによる赤狩り批判の書として解説されることがあったみたいだけど…。
    現代の「魔女狩り」を考えるうえでも役立つかも・・・。
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    投稿日:2011.12.07

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