【感想】書楼弔堂 破曉 探書肆 贖罪

京極夏彦 / 集英社文庫
(52件のレビュー)

総合評価:

平均 4.0
14
16
12
1
0

ブクログレビュー

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  • かのん

    かのん

    【2024年40冊目】
    概念を散りばめたような小説だった。特に何も特筆すべきことは起こらず、ただ淡々と過ぎる人々の日々の中に、書楼弔堂の主人がそっと本を渡して、その人が進むべき道に導いていく、といった感じ。ミステリーでもなく、なんと形容したら良いのかわからない小説だった。派手さもなく、ずっと凪いだような感じだった。続きを読む

    投稿日:2024.02.19

  • あお

    あお

    このレビューはネタバレを含みます

    ほんタメのあかりんが年末年始に読みたいシリーズであげていた。
    すごーく分厚くて、言葉も難しくて、
    時代背景に慣れるのにも一苦労だったけど、
    その人のための人生の一冊を勧めてくれる弔堂の主人と、出てくる偉人たちのやりとり、思想や言葉にであうことができて、すごく心に響くところも多い。
    日本という国の歴史や、偉人の人生をのぞかせてもらっているような、そんな気持ちになった。
    難しいけど、よみすすめたい!ってなって
    最後までなんとか読み切ることができました。
    歴史に精通している人だと、さらに興味深く読めるのかもしれない。
    わたしは好きだけど、にわかだったから、難しかったな。
    岡田以蔵の話や、言葉や心のないけどある、ということについて話しているところがすごく好きでした。

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    投稿日:2024.02.03

  • あきちさん

    あきちさん

    このレビューはネタバレを含みます

    魍魎の匣以来の京極夏彦さん。またまたどっぷりと浸かりました。足りない知識、いろいろ調べながら読んだので思いのほか時間が掛かりましたが物語は読みやすく、思いもかけない繋がりも出てきて、ますます本を読みたくなります。
    弔堂の主曰く、ただ一冊、大切な大切な本を見付けられれば仕合わせとのこと。
    私にとっての一冊に出会えるのだろうか?
    その一冊から立ち上がる現世は果たして・・・・
    誰も知らない。

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    投稿日:2024.01.26

  • はっとまん

    はっとまん

    34歳にして読書始めた自分の一冊目。

    なに読もうかと思って考えたときに
    読書好きの彼女に好きな作家を聞いたら
    「京極夏彦」って言ってたのを思い出して購入。

    これからの読書人生記念すべき一冊目。
    ージ数は多いけどそれを感じないくらい
    読みやすかった。
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    投稿日:2023.12.06

  • 一条

    一条

    このレビューはネタバレを含みます

    百鬼夜行シリーズに関連する人物が出てくるとは思わず、思わず、おっ!と声を上げた
    それぞれの人物の悩み事が、弔堂店主の授ける本によって解決したり道しるべになったり。サラリと読めたし、これは誰々かなと推測するのも楽しかった。

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    投稿日:2023.10.24

  • 傍らに珈琲を。

    傍らに珈琲を。

    このレビューはネタバレを含みます

    夏なので、京極先生でも読むかな~ということで。
    自宅書棚の京極堂シリーズを読み直すのも、
    かなり分厚い為に気安く手を出せず、
    未読だった弔堂シリーズに手をつけた。
    いい表紙だなぁ…これが弔堂の入り口なんだね。
    異質な存在感も匂いも感じるし、その戸を開けて入りたくなる。

    舞台は明治20年代の半ば、東京の外れ。
    明治といえば文明開化。四民平等。
    今の私たちの生活に欠かせないアレコレが生まれたのもこの時代。
    郵便局、鉄道、銀行…。
    ただ、西洋の文化が流れ込み、精力的に新しい時代の波に乗るものも居れば、置いていかれるものも居る。
    例えば、武家の者。
    そんな高遠が、ナビゲーターのように読者を誘ってくれる。
    高遠は時代の流れに惑っているだけなので、誘うつもりなど毛頭無いのだが。

    高遠のセリフに「天狗の赤と村井の白」「岩谷天狗は薩摩、サンライスの村井は本拠が京都…僕の雇い主は駿河の出だ。うちの将軍と云うのは、あれは権現様のこと」とあるが、
    「天狗の赤と村井の白」は実在する。
    岩谷松平(別名を岩谷天狗)は鹿児島の実業家で、当時、紙巻煙草が流行りだした時に、彼も煙草製造を始めた。
    赤い天狗をトレードマークにした口付きの「天狗煙草」だ。
    そして、サンライスの村井とは京都に本拠を持った村井吉兵衛。
    シンボルカラーは白。
    国産初の両切り巻き煙草の「サンライス」を製造販売して、たばこ王と呼ばれたらしい。
    二人は対照的で、何かにつけて比較されたらしい。
    一方、高遠が勤めていた先は「将軍煙草商会」とある。
    駿河の権現様と言えば徳川家康。
    煙草が日本に伝来した当初、お上は禁煙令をしいていた。
    すぐに禁煙令は解かれるのだけれど、「将軍煙草商会」なんて社名からして、しのぎを削る商家の岩谷と村井には到底敵いそうにない。

    もしかして…と思い、続く為三が言う「医学の南江堂」と「漢書の松山堂」を検索してみたら、こちらも実在していた。
    同じように、「川崎紫山」も実在し、『西南戦史』は代表作らしい。
    「滑稽堂の秋山武右衛門」も実在した浮世絵の版元だ。
    京極先生の変わらぬ博学多才ぶり。
    私自身、知らぬことが多いが故に、調べながら読み進めることになる。
    思わずにんまりしてしまう。
    こういうのがまた楽しいのだ。
    この後も、知られた名の者が続々と登場する。
    それも現実の歴史上の背景を背負って登場するものだから、真実味が増し、あっという間に現実と虚構が入り交じる世界観に入り込んでしまうこととなる。

    さて、いよいよ高遠が弔堂へ足を向ける。
    やっと弔堂に足を踏み入れると、窓が無く、一定の間隔で幾つもの蝋燭が燈されている。
    煤の色も透けているし、燈火もしっかりしており、高遠は、上等の和蝋燭だろうと思う。
    そうなんですよね、和蝋燭って炎の柱が大きいのだ。
    良い和蝋燭って煤も出にくくて、
    芯の根元に溶けた蝋が綺麗に溜まって、
    その熱い蒸気と周りの酸素を取り込んで、大きく凛とした炎がすっくと立ち上がる。

    弔堂のその明かりが万燈会染みていると本文にはあったが、私の頭の中には、万燈会というより落語の死神のラストシーンのような映像が浮かんだ。
    高遠も僅かな間だが、この燈火が遠くまでずっと続いているかのような錯覚にとらわれる。

    すでに京極ワールドに落ちていたが、燈火の中を歩む高遠と共に、私もじわりじわりと、その世界の奥へと歩みを進める。
    積み上がる本に平衡感覚を失って、見上げたままグラリと体が揺らぎそうだ。
    こういうところ、本当に京極先生は上手い。

    と、焦らしに焦らしてここでやっと、やっと、店主が登場する。

    店主に「撓」(しおる)と呼ばれた小童の名前の響きが綺麗だと思ったのと、全く読めない漢字だったため調べたら、「みだす/みだれる/たわめる/たわむ」という意味を持つ漢字だった。
    そこでやっと「不撓不屈」の「撓」であることに気付く。

    この後直ぐに弔堂には物語の1人目の客人、浮世絵師の月岡芳年が訪れるのだが、
    その前の店主と高遠のやり取りの、店主の言葉に、早くも私はやられてしまった。
    「本は内容に価値があるのではございません。読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる。ーそちらの方に価値があるのでございます」
    「立ち上がる現世(うつしよ)は、真実の現世ではございません。その人だけの現世でございますよ。だから人は、自分だけのもう一つの世界をば、懐に入れたくなる」
    「読んで、何かを感得したとしても、もっと上があるやもしれぬ、次はもっと素晴らしいかもしれぬと思ってしまう。これぞその一冊と決め兼ねて、また次を探す。ですから本は、集まるものではなく集まってしまうものなのでございましょうな」
    本自体の価値もあると思うけれど、極論なのだろうけれど、胸を掴まれてしまった。

    そして訪れた絵師月岡芳年も、きっと手渡された書物に「これぞ己が為の一冊」と確信し、納得し、癒され、救われ、最後の時を過ごすに違いない。
    月岡芳年でもなく、一個人、吉岡米次郎として接し、余計な事はあえて触れずに話を聞く。
    そして芳年の帰った後、月岡芳年の背景について店主が高遠に語るシーン。
    そこは京極先生のこと、史実に基づいた本当の話だ。
    月岡芳年の無惨絵は有名。
    けれど、そう呼ばれる作風ばかりを描いていたわけではなく、新しい技術にも果敢に挑んだ人気の絵師だった。
    神経を病んでいたことも、仕事をする上で弟子に厳しかったことも、しかしながら面倒見もよくて弟子を大切にしていたことも、残されている。
    勿論、死因も。
    因みにウイリアムジェームズ氏の超常現象への定義や、著書The Varieties of Religious Experienceもだ。

    そして芳年に手渡した書籍について語るとき、店主は、本を求めた芳年の真実を語る。
    「だからあの方は、見えずとも読める。読めずとも理解できる。あの方だけの現世(うつしよ)が立ち上がるなら、それは読者です」
    これには痺れてしまった。
    何かに思い悩んでいる時なら、店主の言葉にウルウルしてしまいそうだな。。。
    って、毎度の事ながら、私は入り込み過ぎだろうか 笑

    『探書 弐 発心』で訪れるのは尾崎紅葉の弟子。
    この弟子は、観音力に相対する陰の鬼神力にどうにも惹かれてならない己の内心に悩んで弔堂を訪れる。
    師の著作の言葉や文章に観音力を求めて、師を尊敬し続けながらも、陰・怪に美しさを感じ惹かれ求めてしまう己が、師を貶めることにならないだろうかと思い詰めているのだ。
    尾崎紅葉の弟子とは即ち、若き泉鏡花だ。
    少し検索すると、
    泉鏡花はこの世には超自然の力が働いていて、荒ぶる力の「鬼神力」と癒しの力の「観音力」として人間の前に現れる、という信仰を持っていた
    との記事があった。
    加えて、潔癖症であったことも、畠芋之助名義の話も。

    弔堂店主は、例えばの話で、目の前に二筋の道を提示する。
    右は平坦で短く真っ直ぐな道。
    左は遠回りの凸凹した険しい道。
    「目的地に着くことだけを目指すのならば、右が正解でございましょう。しかし道を行くことそのものが目的であるのなら、左こそが正解となりましょう」と弔堂は言う。
    この言葉にも、救われる読者が居るように思える。

    どんな形であれ、人は悩みや苦悩を抱える生き物で、それって他人からどう解かれようと、結局は己の内側から解決しなければ救われないのでは?と私は思う。
    それに、悩みや苦悩の大小も、他人がとやかく言って決めつけるものではない。
    弔堂のような本屋が、本当にあれば良いのに。

    近頃「生きづらい」という言葉がよく聞かれるようになった。
    きっと以前から存在していたのに、急にメディアが取り上げて使い出したんだろうね。
    けれど多くのメディアが取り上げるそれは若者が多く、現実は若者に限らず、子供も、働き盛りの年代も、高齢者も、性別を問わず皆が抱える思いであるはず。
    気軽に「生きづらい」というワードを出しすぎでは?と思うときも確かにある。
    けれど、"何か"に追い詰められて、その"何か"に関しては打ち明けられる人もおらず、孤独だった場合、弔堂のような場所に救われる人は多いんじゃないかな。
    そんなことをあーだこーだと思うのは、私が小煩いオバサン世代になったからだろうか。

    『探書 参 方便』では、つい最近フォロワーさんとの間でお話を交わさせていただいた狐狗狸さんが登場人物達の話題としてあがったので、
    一層前のめりになってしまった。
    始めの客人は勝海舟だ。
    安芳(やすよし)と改名したのを「"アホウ"と書いて"やすよし"だ」との本文に、うまいこと言うなぁと思ったが、
    勝本人が実際、そのように自虐的に言っていたようだ。
    「信心ってなあ信じる心じゃあねえ、心を信じることだ」
    「ただ無闇に信じ込むだけなら、それはただの妄信だ、迷信だと云う。真の信心をするためには理を知れ」
    「理を知り迷妄を棄却するためには哲学が要る」
    これらは心に響いた。
    それと、
    「正すも学ぶも主体あってこそだな。その主体がねえから、何が正しく何が正しくないのか判らねえ。悪いとこまで倣っちまう。」
    って言葉。
    文章を読むと"そりゃぁそうでしょうよ"と思いそうだが、
    人は時に自分という主体を失くして、○○が良いのだと全てにおいて何者かに傾倒してしまうものだ。

    ただこれはあくまでも1人目の客人、勝海舟の語り部分。
    主である弔堂の出番は、この後の真の客人である井上圓了が訪れてからだ。
    (因みに井上圓了は狐狗狸さんの仕組みを科学的に説いた人)
    私はこの『探書 参 方便』が一番好きだった。
    哲学的でありながら読みやすく、自分の深いところに残る文章が沢山あった。

    『探書 肆 贖罪』にある、中濱老人の「人は喰うてなんぼです。どんな境遇でも喰えるものがあって、それを喰うておれば、生きる」も、いい言葉だった。
    時代も背景も別物だが、私の好きなカルテットというドラマに、「泣きながらご飯を食べたことのある人は生きていけます」(だったかな?)という松たか子のセリフがある。
    脚本は坂元裕二さんなので、お好きな方は、どの作品でもみられる絶妙なセリフの掛け合いをよくご存知だと思う。

    さて。
    「あんなに大勢が死ななければ、世の中と云うのは変わらんものですか」
    「死んで通す筋も、殺して通す筋も、ないですよ。いやいや、あっちゃいかん。…………人は生きてこそです。生きて、苦労して通して、それで通るなら、それは正しい筋だ。」
    これも前者と同じく中濱老人の言葉だが、胸を打つ。
    さて、この中濱が救いたいと、連れ歩いている男は誰なのか?
    悲しい話で、泣けた。

    二番目に好きだったのは『探書 伍 闕如』。
    「道は、外れさえしなければいいのです。間違うことはございません。道は凡て繋がっているものなのです。」
    「歩むことこそが人生でございます。ならば今いる場所は、常に出発点と心得ます。」
    など、響く言葉が満載だ。
    誰が言ったのか忘れてしまったが、
    "Today is the first day of the rest of your life.
    "
    という好きな言葉がある。
    今日という日は残りの人生の最初の日。
    人は、いつだって何度だって再スタートできるのだ。

    ラストの『探書 陸 未完』でも、考えさせられる言葉が並んでいた。
    そして…きゃー!中禅寺!
    京極堂こと中禅寺秋彦のお祖父様が登場!
    京極先生の「後巷説百物語」などの百物語シリーズと、「姑獲鳥の夏」などの京極堂シリーズとの間を繋ぐのが弔堂シリーズなのかな?
    私は百物語の方を読んでいないので分からないのだが。
    そして、高遠もこの破暁をもって物語から去って行く。
    色々な意味で、衝撃というか、ハッとさせられる一冊だったな。。。
    破暁とは、夜明けの事。
    次は炎昼なので、真夏の昼間。
    その月は待宵なので、十五夜の前夜。夜というより夕暮れなのかな…。


    弔堂の主の決め台詞は「どのようなご本をご所望ですか」なのだが、
    前述してきた通り、客人は本を求める前にたっぷりと弔堂から精神のケアがなされるものだから、
    その台詞を受け取る時分には、自らが求めるべき本をすっかり感じ取っている。
    客人の、「…な本を。」という求めに応え、弔堂が数ある蔵書の中から書を差し出すという流れだ。
    客人は弔堂と言葉を交わしながら、己が何を成し、何に迷い、何を求め、どちらを向いて歩もうとしているのかを、己の内側からの気付きによって本を求めるのだ。
    弔堂が始めから客人に見合う本を勧めるのでは意味がない。
    己で気付くことが大切なのだから。
    本書は物語としても面白く、京極夏彦ファンとしても傑作間違いなしなうえ、
    作中の数々の言葉に救われる読者も多いのではないかと思われる。


    ネット記事で読んだ。
    京極先生は、1文がページを跨がないようにしているのだとか。
    「たとえば文がページをまたいだほうがいいというテクニックもあるんです。ただ今のところ、そういうハイテクニックが僕には使いこなせていないというだけです。」
    と謙遜されての発言だったけれど。
    こういう情報を得てから小説を読むと、また違った趣も感じられる。

    夏だからって、ホラーは怖すぎて私には無理。
    けれどちょっぴり不思議を味わいたい。
    そんな思いから手に取った小説だったが、
    文明開化や四民平等、義や倫理などが散りばめられた物語から、日本の歴史、戦争や人の生き様をも考えるに至り、この8月に読めて良かった。

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    投稿日:2023.08.14

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