【感想】「忙しい」を捨てる 時間にとらわれない生き方

アルボムッレ・スマナサーラ / 角川新書
(6件のレビュー)

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  • sayayacco

    sayayacco

    時間は人間が作った軸にすぎない。目の前にあるのは瞬間という存在だけ。時間とは瞬間の積み重ねにすぎない。
    「時間に追われている」のも妄想。
    どんな物質も、同じスピードで変化している。無常。
    「時間に追われている」のは、無知な人の証拠。
    「やりたいこと」と「やらなければいけないこと」を切り分け、まず「やらなけれべいけないこと」から取り組む。
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    投稿日:2023.12.17

  • Go Extreme

    Go Extreme

    「忙しい」を捨てる 時間にとらわれない生き方 (角川新書)

    人生についてはマンネリ的に考えないで、客観的に視察したほうがよいのです。伝統、文化、習慣、信仰などは、私たちの思考を濁らせるのです

    第一章 なぜ人は「時間」にとらわれるのか

    ヒンドゥー教の世界では、川でも山でも、あらゆるものを神にしてしまいます。それが高じて、ついには「時間」というものも彼らは神だと思ってしまうのですね。ヒンドゥー教というのは、私たち現代人の目から見れば無茶苦茶、迷信に紀れかえった世界ですから、森羅万象を神にしてしまう。その無数の神々のなかに、カーラ(時間)とか、ヤマ(期間) といった神もいるのです。

    それで、ヒンドゥー教は「梵我一如」という思想ですね。言い換えるなら、私と神様は一緒、という考え方です。そういう考え方ですから、自分の中にカーラという神がいると考える。それで、自分の中のカーラという神がしっかりと働いているから、私たちは変化をするのだと考える。

    同じ「時」といっても、瞬間といった短い単位を表現する埸合は、カーラという言葉を使います。そして、それとは反対に、朝、昼、夜などといったもう少し長い単位の時間(期間) を表現する場合は、このヤマという甘葉を使います。

    では、なぜこのヤマという神が地獄の支配者になったのでしょうか? 私たちが生きている間、一瞬も止まることなく、この身体は変化していきますね。それを、インドの人びとはカーラという神の働きであると考えたのです。そのような意味で、カーラもやはり、時の神なのです。

    そうして、私たちの身体は変化して、変化して、老いていきますね。そして、やがては死を迎えます。そこで、死んだ後の世界、地獄の世界を管理しているのが、ヤマという神なのです。

    ヒンドゥー教世界にある迷信は、ハンバーガーのハンバーグのようなもので、捨てがたいおいしいところです。迷信だらけのパテを捨てて、論理的に理解できるパンだけ食ベると、笑われるでしょう。ヒンドゥー教はこのハンバーガーみたいなものなのです。高度な哲学と、民間の荒唐無稽な迷信がごっちゃになっています。

    ですから、インド哲学を学ぶ人は、このハンバーグみたいな身体に.悪い迷信の部分は捨てて、パンの部分にあたる意味のある哲学の部分を取り出さなくてはいけないのです。仏教もまた、インドで生まれた考え方ですから、こうしたヒンドゥー教の神話的思考をベースにしている部分もあります。仏典にも、ヤマ・マハーラージャという形でこの神が登場してきます。日本語でいえば、先ほども触れましたが闘魔大王ですね。私たちが死んだ後、地獄に落ちたとき、その罪の審判者として間魔大王が登埸してきます。

    人間は「無いものねだり」をする存在です。「有るもの」にはそれほど興味がないのです。心は希望・願望でいっぱいです。希望・願望のすべては、無いものねだりの世界です

    人は誰でも死ぬのです。それは現実です。ですから、有るものです。無いものは不死です。それをねだるのです。ですから、死後、簡単に行ける永遠なる場所があるのだと言われると、とても気分がいいのです。それに憧れるのです。永遠という概念は、思考の暴走によって現れた勘違いであると理解する余裕はないのです。

    仏教には時間論などというものはありません。時間とは、物理的に存在するものではありません。あくまで、私たち人間の頭の中で、観念としてのみ存在するものです。観念ですから、舀い換えるなら、主観的な感情です。ですから、時間の正体とは、言ってしまえば主観的な感情にすぎないのです。

    時間感覚というものは、生命によって異なるものです。言い換えるなら、それはあくまで「主観的な概念」であるということです。科学的なファクタ—ではありません。そして、私たちは個人個人の時間感覚が主観的なものであるということがわからないから、苦しんでいる。時間の単位というものは、人間が作ったものだからなのですね。時間というのは、私たちの頭の中の観念で作ったものなのです。

    そのようにして、私たちは何にでも単位を作ろうとするのです。それで、単位を作るのは勝手ですが、今度はその単位に自分たち自身が支配されてしまうのです。

    皆さんのようにヘルスメータ—に振り回される人生というのは、私から見ると、犬が主人を飼うような世界に見えるのですね。主客が転倒している。あべこべの世界なのです。私たちは自分たちの生活が便利になるようにと様々な概念を作るのですが、しばらくすると今度は反対に、その概念にコントロ—ルされるようになつてしまうのですね。

    私たちが、自分たちで作り出した概念によって支配され、そのどれいとなることによって、新たな苦が生まれます。ただでさえ、苦しみに満ちた生活を送っているのに、さらに苦しみを作り出しているのです。この苦しみは、自業自得なものなのです。

    仏教では、ただシンプルに、「一切の現象は無常である」と語るのです。それ以上は、語らないし、考えない。私の推測ですが、時間というものには、始まりの時点もないし、終わりの時点もないのです。ただ、絶え間のない変化が続いていくだけなのです。

    無常とは、変化をし続けるということなのです。無常に終わりはありません。ですから、時間の始まりの点というものを探しても無駄です。そんなものは見つかりません。同様に、時間の終わりという点を探しても徒労に終わります。見つけることはできないのです。

    本当の輪廻とは、今いったような、始まりの点も、終わりの点もない、絶え間のない流れのようなものです。ですから、英語の単語でいうとフロー、すなわち流れといったニュアンスのほうが強いのです。
    このような流れは、物質にもありますし、精神にもあります。言い換えるなら、物質の輪廻もあるし、精神の輪廻もあるということです。どこまでも、どこまでも流れていくのです。

    皆さんは人間の一生と犬の一生をごちゃまぜにしてしまうのです。
    そして、「どうして、こんなに早く亡くなってしまったの! 」と、悲嘆の涙にくれることになるのです。
    これは、無知から生じる現象です。私たちは、苦しまなくてもいいところに、わざと苦しみを作り出しているのです。

    一生の長さは、人間が計算する年単位で理解するのは難しいのです。大宇宙の一生に、仏教は「劫」という単位概念を使っているのです。劫単位で数える仏教の話はたくさんあります。

    第二章 同じ瞬間、同じ日は二度と来ない

    量子力学の登場で、ニュートン力学の限界も示されてしまいました。仏教の埸合、この量子力学のレベルから物質論を始めているのです。ニュートン力学のレベルなど、仏教の物質論ははるかに超えているのです。2500年以上前にできたものなのに、たいしたものです

    富士山は、素粒子で出来ているのです。そして、素粒子の変化やスピードは同じです。桜も、素粒子で出来ているのです。ですから、桜の素粒子も、瞬間、瞬間、同じスピードで変化しているのです。私の家も、 この身体も素粒子で出来ているのです。それらもまた、同じスピードで変化しているのです。

    心の変化速度は、アビダルマ心理学から推測すると、物質の一瞬よりは17倍速いのです。一瞬はーナノ秒だと無理に決めてしまえば、心は17分の1ナノ秒で変化するのです

    私たちは、あと5 分後に死ぬと聞いた時点で、言葉で言い表せない自由、安らぎ、解放感を覚えるのです。テーラワーダ仏教では、今皆さんにやっていただいた実験を、「死随念」という瞑想法として、実践をしています。言葉では言い表せない、ものすごい安らぎを味わうために、この膜想を実践するのです。

    現象は、瞬間、瞬間、変化生滅します。そのことがわかれば、次の瞬間に悟りに達するのです。それからは、「今の瞬間」のみに集中して生きることになります。
    ですから、悟りに達した人は、まだ肉体が残っていますから生きていますけど、「今の瞬間」だけに集中して、昨日はない、明日はないという世界を生きているのです。それこそが、覚者の生き方なのです。

    私たちは、今の瞬間にやるべきことを、やらなければならないのです。今日すべき仕事は、決して明日することはできません。過ぎ去った瞬間は、永久に再来しません。ということは、今日という日を無駄に過ごしたのなら、それを取り返すことは、もはや不可能であるということです。

    私たちの人生には、本番しかないということなのです。
    人生には、リハーサルはありません。どの瞬間も、本番です。何か失敗をすれば、次の瞬間には後悔をすることになります。現象は瞬間、瞬間過ぎ去ってゆくので、後悔などをしようものなら、また、その瞬間にやるべきことができなくなります。
    ですから、私たちの人生にあるのは、本番のみなのです。必ず、今の瞬間にやるべきことをやっておいてください。今の瞬間にやるべきことだけなら、誰にだってできるはずです。

    皆さんは甘く見ているかもしれませんが、無知には、ものすごい麻薬的な力があるのです。無知ゆえに、やるべきことをしない。そこで、やるべきことが溜まってくる。同時に、後悔の念も押し寄せてくる。後悔しても時間は過ぎ去っていくばかりなので、ますますダメな人間になっていく。
    気づいていないかもしれませんが、私たちはそのような生き方をしているのです。無知に酔っている。そして、無知に酔えば、そこから欲、怒り、嫉妬など無数の感情が現れます。堕落への道が開けるのです。

    では、私たちはこのような苦の悪循環から、どのようにして脱出をしたらよいのでしょうか?
    お釈迦様は、弟子たちに、「命は瞬間、隣間に消えてゆく。生まれた者は必ず死ぬ。しっかりと修行に励みなさい」と説かれたのです。

    第三章 「時間」に追われないための心構え

    なぜ、時間に追われるような気になってしまうのかというと、「自分が今、何をするべきか」ということがはっきりしていないからなのです。

    私たちの人生において、ハードルが存在するということは、避けられないことなのです。もし、チャレンジするテーマが何も与えられていないというのなら、自分で作らなければなりません。そうしなければ、進化の流れのなかで淘汰され、消えていくのは必定です。

    進化生物学者のリチャード・ドーキンスさんの書いた本に『利己的な遺伝子』というものがありますね。その本のなかで書かれていることを大まかに要約すると、私たちが「自分」と思っているものも結局は遺伝子でしょう、 ということにつきるのです。ドーキンスさんも見落としているところがあって、本当は遺伝子は生き続けていないのです。なぜなら、遺伝子も変化をし続けなければ、生きていられないのです。

    「肉体は滅んでも、遺伝子は続いていく」といっても、その遺伝子はどんどん変化していって、前の遺伝子とは変わっていますからね。結局、自我は成り立ちようがないのです。

    仏教は無常論ですから、あらゆるものは変化し続けると説きます。このとき、変化には2種類のものがあるのです。
    一番目の変化は、私たちが悪い環境に遭遇したときに、その環境を乗り越え、生き残るために起こる変化のことです。これは、「適応」「進化」などと呼ばれる変化のことですね。
    それに対して、二番目の変化は、安楽な状態がずうっと続いた場合に起こる変化のことです。
    この変化は、一般的には「退化」と呼ばれます。ですから、わかりやすくいうならば変化というのは、進化か退化の2 種類なのです。そして、こうした変化を止めるすべはありません。変化を拒んで現状維持をするということは、あり得ないのです。

    肉体の変化はわかりにくいかもしれませんが、心は恐ろしいほどの速さで変化していくのです。それにもかかわらず、現状維持を望むのは、不可能なことなのです。

    私にとっては、この人間の「料理をする」という行為が不思議でならないのです。
    思うに、人間は暇なのですね。することがないから、「よりおいしく食べたい」などと余計なことを考えて、せっせと料理に励む。そうやって複雑な作業をしているから、脳はどんどん発達する。その分、身体を使う機会が少なくなって、身体能力が退化する。

    本当は、私たちが生きる喜びを感じる瞬間というのは、あの目標に立ち向かうときの生き生きとした瞬間だけなのです。その瞬間は、もう無我夢中ですから「超楽しい! 」とか喜びを感じているという実感はないかもしれません。けれども、そうして目標に向かって戦っている瞬間こそが、私たち人間が最大限に充実感を覚える瞬間なのです。

    それなのに、世の中に幸せを感じることができない人が多いということは、問題はやはりこの「現状維持」を望むという「保守主義」にあるのですね。この「保守主義」とは、脳のからくりであって、仏教的にいうのなら、「無知」ということになります。私たちはこの「無知」に衝き動かされて、現状を維持することに懸命になるのです

    文化を守ることによって、手足が縛られて進化できなくなることが心配なのです。我々が勘違いしているところは、文化も変化するものであることです。文化という言葉を聞いたとたん、古いものをそのまま保存する作業であると思ってしまうのです。それも必要かもしれませんが、先に進まなくてはいけないのです。

    もともと会社という組織は、自然法則とは関係なく、人間の価値観で作った組織です。人工的な組織は、生命の法則に合わせなくてはいけないのです。「会社が大事」ではないのです。「何としてでも、会社を守らなくてはいけない」のではないのです。大事なのは人間です。人間の幸福のために、会社という人工的な組織をつくったのです。その組織が人間に幸福を与えないならば、存在する価値がない組織になります。

    私たちは、変化に対してもストレスを感じます。これは、適度ならいいストレスなのですね。変化には、刺激や、ワクワクするような要素があります。これは、ポジティブな意味での不安なのです。このように、ワンパタ—ンな日常から一定期間抜け出すために、私たちは「休日」という制度を作り出したのです。

    テーラワーダ仏教の国には、日本と違ってウポーサタという休みの日があります。ウポーサタというのは、仏教徒がお寺へ行く日です。お寺の中へ一歩でも入ったら、そこは俗世間とは違います。そこにはお金を儲ける、子どもの面倒を見る、家族の機嫌を取るなどといった世俗の活動は一切ありません。それら一切の、俗世間の活動から離れた世界です。それは、私たちの心にとっては、劇的な変化なのです。

    まず最初に「やりたいこと」と「やらなければならないこと」を切り分けてほしいのです。そしてまず、「やらなければならないこと」から取り組むようにしてみてください。すると、私たちは、自分が「やらなければならないこと」すら、すべてこなすのは難しいということが、よくわかるのです。

    私たちの悩みには2 種類あるということです。 一 つめの悩みは、「あれもやらなくてはいけない、これもやらなくてはいけない」という無限の項目を持っているという悩み。そして、二つめの悩みは、そうした自分にはオーバーワークな願望で悩んでいるうちに、貴重な時間を浪費してしまうという悩み。この2種類の悩みが、問題なのです

    繰り返しになりますが、私たちは常に進化していかなければなりません。変化に対応していかなければならない、保守主義であってはならないのです。
    なぜかと言うと、私たちの肉体としての命には、 タイムリミットと言いますか、 死という一つの区切りがあるのですね。でも、 限りある命だからこそ、私たちはその死の瞬間まで進化し続けていかなければならないのです。

    まず前提として、私たちは自分の生きるための闘いは、死によって終わるのだとよく理解する必要があります。そして、そのことをポジティブに受け止めることが大切です。自分は有限な存在であり、いずれ死ぬのだと理解することによって、ものごとに対する執着をなくすのです。
    次に、死について理解することによって、今、この瞬間というものは永久にまた戻ることはない、という一期一会の生き方が身につきます。人生のすべての瞬間が、勝負の瞬間です。そして、過ぎ去った瞬間は、もう永遠に戻らないのだと理解したとき、自由な精神が生まれます。
    今という瞬間は、一生帰らない。だからこそ、私たちは人生を自由におおらかに歩むことができるのです。過去に、足を引っ張られることは、もう無用。何が起きても、「はい、これで終わり」という感じで、前へ前へと人生を歩んでいけるのです。

    私たちには執着がありますから、変化し続ける世界に対応できなくなるのです。
    ですから、反対に見方を変える必要があるのです。瞬間、瞬間の命だと。終わったものは、終わったもので、もう二度と帰らないのだと。人生にリピ—卜はありません。そして、リセットすることもできない。すべてが一期一会です。そう考えると、心がすごくスムーズになって、何にも引っかかることなく、先へ先へと人生は進んでいくのです。

    私なんてもう70歳の年寄りですが、それでも僚日新しいことを勉碰して、濃疹しているのです。それなのに、私のところに法話を册きに来る方々の一部は、全然進歩をしていないような気がします。

    とにかく、日本の社会で皆さんが気づいていない病気、「保守主義」がすべての問題のもとなのですね。まあ、日本人の文化そのものが保守主義ですからね。もともと、「文化」という言葉は、「変化」を意味するものですよ。そんなことすら、忘れ去っているのです。

    勘違いしてほしくないのは、占いものを保存することが「文化」なのではないということです。文化とは、 あくまでも新しいものを創造することを指していうのです。

    ただ保存をするというのではなく、現代的に紹介をする、そしてそのことによって、現代人の生き方が変わるものにするというのなら、それは問題ないのです。失われた太古の踊りと、現代の音楽を融合させて、それが流行したりするなどの現象は、十分にあり得ることです。

    結局のところ、日本人の心には保守主義が蔓延しているから、なかなか大胆な人物は現れないのです。それは決して、能力が無いからではないのです。その根底には、既存の価値観が壊れるのが怖いという心理があります。変化をすることが怖い。若者が台頭すれば、既存の制度、枠組み、既得権益といったものが壊されてしまう。若者に任せると、何をされるかわからないという不信感がある。

    けれども、そこで心配をしてもしょうがないことです。そうした若者たちの試みから、新しい文化が創造されるわけですし、そのなかでくだらないもの、劣悪なものは時間とともに淘汰されるでしょう。
    ですから、心配無用なのです。役に立つものは長く生き残る。役に立たないものは、早々に消え失せる。これこそが、世の中の真理なのです。

    愚か者は、時間の流れに逆らおうとし、結局は人生の失妝者となる。そのように、時間の流れに逆らおうとするものを、私は「保守主義者」と呼ぶのです。真理の視点から見るなら、私たちは時間とともに流れていかなくてはいけないのです。

    最終章 長老への人生の問いかけ

    結局のところ、私たちの身体とは"くその工場〃なのです。お釈迦様自身が、 そういっているのですね。ですから、"くその工場〃である自分自身が、潔癖症になるということ自体が、矛盾で、成り立たないのです。
    では、どうすればいいのかというと、私たちの身体をきれいにするのは限界がありますが、心をきれいにすることに限界はないのです。怒らず、欲を持たず、思いやり、慈しみのある心を育てる。肉体ではなく、心をきれいにする。「体を洗うのではなく、心を洗え」というのが、お釈迦様の言葉なのです。

    変化を感じられるものには美を感じ、そのスピ—ドが遅いものには感じません。人間は、無常にこそ感動をするのです。逆に、変化しないもの、永遠なるものには感動しません。
    このように、論理的に考えてみればまったくありがたくもない「永遠の世界」を渇望するのが世間の大半の宗教です。
    仏教では、それとは反対に瞬間の世界、無常の教えを説きます。この違いは大切ですから、よく覚えておくようにしてください。
    無知な人間は、死にたくないと思っているのです。しかし、死ぬのです。その現実を受け入れたくはないのです。
    そこで、神話物語を妄想するのです。「私は死んでも、私の魂は不死で永遠なり」と妄想するのです。宗教は人間の妄想を商品化しているだけです。
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    投稿日:2023.08.27

  • hitomi22

    hitomi22

    しゅうへいさん推薦



    第1章なぜ人は「時間」にとらわれるのか

    時間は人間が作り出した概念
    その作り出した概念に人は追われている
    時間感覚は人やそれぞれによって異なる


    第2章同じ瞬間、同じ日は二度と来ない


    第3章「時間」に追われないための心構え

    日本人は保守的

    「時間に追われる」のは、間違った生き方

    「やりたい」と思うことと「できる」の間に大きな隔たりがある
    「やらなければならないこと」から取り組む

    2種類の悩み
    ①あれもやらなくていけない、これもやらなくてはいけないと言う無限の項目を持っていると言う悩み

    ②そうした自分にはオーバーワークな願望で悩んでいるうちに
    貴重な時間を浪費してしまうと言う悩み


    → 1つの時間に
    ただ1つの仕事しかすることができない。

    その時に応じた生き方をする


    (例
    炊飯器でご飯を炊こうと思った時に、
    5分でご飯は炊けない。無理がある。
    だから、その時に応じて適切な行動すれば良い)



    時間に追われているのは無知な人の証拠



    命にはタイムリミットがある

    新しいものを創造することこそ文化

    一番大切なのは変化し続けること

    変化というのは進化か退化の2種類。
    現状維持はありえない


    最終章長老への人生の問いかけ

    ①道徳的によくないなと思う人の付き合い方

    →不道徳な人からできるだけ離れる

    「私にはあの人は道徳を守っていないように見える」と考えるところから始める
    ×「あの人は道徳を守っていない」


    ②潔白症の人との付き合い方

    →「あなたは、不潔な人ですねと言い放つ。
    私の体はきれいにするの限界がある。
    しかし、
    心をきれいにするには、限界は無い。
    体洗うのでなく、心を洗え


    ③余命5分と言われると、自暴自棄にならないか?

    →余命5分と言われ、いろいろ心配してもしょうがない、まぁいいかと考える人と、
    大騒ぎして混乱し、自暴自棄になる人がいる。

    時間の長短が問題では無い。
    他人の評価は放っておくこと。
    褒められても気にせず、非難されても気にしない。
    明るく生きて


    ④他の宗教でいう永遠の世界と仏教で説いてる瞬間の世界の違いとは?

    →人間は、変化するものにこそ、感動する。

    物事は、変化する。

    例えば、赤ちゃん。
    育つスピードが早いため、日々変化しているから可愛く思える。

    桜が散るのには感動するが、
    その木の根元にある石には感動しない。

    変化を感じられるものには、
    感動し、

    そのスピードが遅いものには感動しない。

    人間を無常にこそ感動する。


    逆に
    変化しないものには、感動しない。

    だから、
    永遠の世界を渇望するのが世界の大半の宗教。

    仏教では逆に、
    瞬間の世界、無常の教えを説く。
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    投稿日:2022.07.11

  • ゆう

    ゆう

    時間の考え方、感覚が刷新された。流れゆく物事に対して執着せず穏やかに対応できるようになりたいと思わせてくれた。
    長生きがしたいと永遠に執着する人が幸せになれず余命が3ヶ月だと言われても現実を受け止めて出来ることを全うしようとする人が幸せになれるという考え方は納得できた。今この瞬間を生きることの大切さを痛感した。
    読み終わった後心が軽やかになれる一冊。
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    投稿日:2022.01.08

  • y_doka

    y_doka

    なんじゃこりゃ。著者は偉い人らしいが、内容は単なる無知なおっさんがだべってるだけじゃねーか。

    仏教はかなりロジカルな教義体系であるはずなのだが、なぜにこんな人が出てくる?

    投稿日:2018.02.10

  • reader93

    reader93

    著者はスリランカ上座仏教の長老。
    「寿命=一生」つまり人間にせよ植物にせよ、家にせよ、生を終えた時が寿命を全うしたということ、だから悲しむ必要はないという考えはなるほどねと思いましたが、愛する人を突然、または突然でなくても早く亡くしてしまったりしたらこんな風に考えるのは正直難しいでしょう。

    また日本人の考え方をけちょんけちょんに批判してくるのには反感を覚えてしまう。日本人は保守的で変化を嫌がるというようなことが書かれていましたが、我々日本人は保守的な部分は確かにあっても、変化も割と受け入れていると思います。あとヒンドゥー教のことも少し下に見ている感じで書かれていて第三者として読んでも気分が良くない。

    良い宗教家というのは、自分が信じるものと違うものを信じる人々をもおおらかに受け入れ理解するべきなのではないでしょうか。
    ともあれ、今この瞬間が大切というのには賛同します。
    続きを読む

    投稿日:2018.01.31

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