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白石一郎 / 文春文庫 (2件のレビュー)
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たくぼん
このレビューはネタバレを含みます
アダムスは日本人の船大工と協力して,日本で西洋風のガリオン船を建造し,そのことが評価され,家康から三浦半島の逸見というところに250石の領地を賜り,領主となった。このような地位は,これまで外国人に対しこの国では与えられたことがないような処遇である。それだけ家康がアダムスを評価したものだ。また,姓を領地の三浦とし,名を按針と職の名前からとり,家康から与えられた。佩刀も許され,刀まで家康からもらったため,武士となることを強要されたとも言える。イギリス人の侍の誕生だ。 このころ,ヨーロッパの勢力図にも次第に変化が出てきて,それがアジアにも及んできていた。1600年にイギリスに東インド会社が設立され,その2年後にはオランダに連合東インド会社が誕生していた。スペインやポルトガルと熾烈な貿易競争を続けながら,イギリス,オランダは徐々に東洋貿易への進出を果たしつつあった。 家康は交易の利益に執着していたので,今のところ宣教師達の布教活動を大目に見ているが,日本国内のキリシタンの信徒の数は70万人以上に及んでいることに無関心なわけではなかった。スペインやポルトガルは交易の条件としてキリシタンの布教の自由を求めてくる。この2つを切り離すことは不可能だった。交易の莫大な利益を必要とする限り,布教には目をつむるほかないのだ。もし,オランダやイギリスが布教抜きで交易だけを求めてやってくるなら,もはやスペインやポルトガル必要ではない。そのときこそ,キリシタン対策に思いきった手が打てるだろうと考えていた。家康がアダムスを家臣の一人にとりたて,破格の待遇を与えたのも,そういう期待があったからであろう。 アダムスは家康の命ずるままに西洋帆船を建造した。ポルトガルやスペインは未開地の東洋人には優れたヨーロッパの技術を教えないことを誓い合っていたのだ。 オランダの連合東インド会社はイギリスよりも一歩も二歩も先んじていた。連合東インド会社は半官半民という事もあり,国家権力を行使する権利も与えられていた。世界のあらゆる海域で他国と条約を結んだり戦闘したり,商館を設け,必要なときに貨幣を鋳造発行する権利さえ持っていた。連合東インド会社は海上では国家そのものだったと言ってよい。そのため,船員を含めた会社員は自信に満ちて誇り高く,先に東洋貿易を独占していたポルトガル・スペインと堂々と渡り合い,実力で相手を圧倒した。結局,オランダはマレー半島など主要なアジア地域からポルトガル人とスペイン人を放逐してしまった。イギリスもオランダに負けじと組織を徐々に改善し,東洋に進出し始めている。 家康はアダムスを厚遇していたが,家臣達は,キリスト教徒の増加について非常に危機感をもっており,家康没後は秀忠を中心に,キリスト教を締め上げるとともに,異国人の日本滞在は長崎と平戸に限られ,イギリス商館とオランダの商館の商品は平戸に限ってしか売買できなくなってしまった。交易についても厳しく制限しなければ,宣教師の活動を防ぐ事は難しいと老中達は合議し決めたという。 アダムスは,三浦の領地を息子の三浦ジョセフに譲り,自分は航海者・貿易者として出発したが,航海中にマラリアにかかり,それが原因で1620年5月16日に没した。56歳だった。アダムスは,ついに故国の土を踏むことなく,東洋の最果てで亡くなったのだった。
投稿日:2012.07.18
征夷大将軍
関が原の合戦に大きく貢献したアダムスは 徳川家に召し抱えられた。 相模国三浦郡に250石の領地と妻を与えられ、 三浦按針を名乗ることになる。家臣として家康を支える 日々を送るなか、故郷イングランドへの…想いはつのるのだが・・・・・。 三浦按針の数奇な運命を見事に描いて、 白石文学の集大成として読み継がれる一作。 2008 10 11 読了!続きを読む
投稿日:2008.08.03
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