【感想】河馬に噛まれる

大江健三郎 / 講談社文庫
(6件のレビュー)

総合評価:

平均 4.3
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  • しんめん

    しんめん


    実は同作者の中でもトップクラスに好きな作品。
    中期?と言えるこの頃のオーケンは物語の滑稽さも文の癖もピークである。
    にも関わらず、読了後に心を洗われた感覚になる。
    全くらしくない川端康成賞を受賞しているが、表題作含め粒揃いの短編集であることは間違い無い。続きを読む

    投稿日:2022.09.15

  • block

    block

    大江健三郎といえば、「左翼」のイメージを持つ人が多い
    僕もそうである
    しかし、それはやはりそう単純な話ではないのだ
    というのも80年代以降
    大江は、朝日ジャーナルの本多勝一から
    激しいバッシングを受け続けているからだ
    「反核のくせに核推進派の文藝春秋から仕事をもらっている」
    というのが、批判のとっかかりだったらしい
    大江じしんはそれを「不当としか思えない」と言い切ってるし
    僕もまあそう思う
    しかしこのバッシングが
    80年代の大江を、ある意味停滞させ
    また「晩年」への出発点ともなったのは間違いあるまい
    「河馬に噛まれる」はその発表時
    本多への回答であるとされた
    左派赤軍のイメージを、本多に当てはめることは可能だが
    単に原理主義的二元論の亡霊と
    斬って捨てることもできなかったようで
    それはやはり大江の原点が
    実は反ユマニズムだったからだろう

    「河馬に噛まれる」
    浅間にある別荘近くの食堂に入ったさい
    地元新聞を手にとってみると
    1面コラムに「河馬の勇士」なる人物が紹介されていた
    新聞社の社長がアフリカ旅行中に出会った日本人であるらしい
    ウガンダの国立公園で河馬に噛みつかれながらも
    生還した人なんだけど
    それが妙に浅間山付近のことに詳しいものだから
    意気投合したという
    しかしどうしても彼の氏素性を聞きだすことができず
    やむなくつけた渾名が「河馬の勇士」
    …それを読んだ筆者には心当たりがあった
    河馬の勇士は10年前、左派赤軍の山岳ベースにおいて
    便所掃除を担当していた少年ではないだろうか

    「河馬の勇士と愛らしいラベオ」
    河馬の勇士が獄中にあったころ
    彼の母親に頼まれて、手紙のやりとりをしたことがあった
    そのときの思い出を、短編小説にして発表したところ
    思わぬ反響があった
    山岳ベースで殺された女の妹が、筆者を訪ねてきたのである
    姉の追いかけた理想を確かめたい彼女は
    河馬の勇士の居所を知りたがった

    「河馬の昇天」
    石垣ほそみと名乗る彼女は、本当にアフリカに行って
    河馬の勇士のもとに転がり込んでしまった
    ところが、じきに喧嘩して飛び出していくことになる
    マルクス主義の理想に背を向けたかのような、河馬の勇士の生き方が
    どうしても我慢ならなかったらしい
    マルクス主義の理想とは未来のパラダイスであり
    そこから見た河馬の勇士の勤勉さは
    ほそみさんにとって、刹那的な自堕落でしかなかった
    結果的に殺されたとはいえ
    そこに理想があったからこそ、姉は赤軍に参加したはずなのだ

    「四万年前のタチアオイ」
    ミルチャ・エリアーデによると
    キリスト教徒に核兵器を恐れる理由はないのである
    滅亡とは最後の審判、すなわち救済であるから
    核兵器を恐れるのは
    現世のパラダイスを信じるマルクス主義の価値観にほかならない
    かつて筆者が、自殺を肯定するかのような小説を発表したとき
    マルクス主義者のタカチャンは憤慨して
    筆者をYS(吉永小百合?)の映画に連れて行った
    ここには希望がある、こういう希望を書けというのだった
    そのタカチャンは学生紛争のときの傷がもとで
    いまや寝たきりになっている
    YSの中国訪問団に参加した筆者は、宿舎でタカチャンの夢を見た
    初老を迎えようとする自分が、いかに生きていけばいいのか
    タカチャンに助言を求める夢だった

    「死に先だつ苦痛について」
    二十代の終わり頃に付き合いのあったタケチャンは
    筆者のことを「あにさん」と呼んで慕っていたが
    脳障害の子供が生まれてから疎遠になった
    タケチャンは男性であるが
    筆者は彼をヒロインのモデルに、「個人的な体験」を書いた
    実際に彼は、子供を殺せとそそのかしてきたのだが
    筆者の思想的転向によって回避された
    その後タケチャンは、海外旅行のコーディネーターとなる一方
    若者たちを集めて秘密結社を組織した
    死期が近いと悟った彼は、最後に「人の死なないテロ」を計画するが
    結社の不満分子を殺害のあげく
    タケチャンの病状を知って、情緒的になった女性メンバーが
    秘密を外に漏らしてしまい
    計画は頓挫する
    大江健三郎は、理想の兄として「ギー兄さん」を書く一方
    しばしば焚きつけてくる弟分を登場させた
    実は「芽むしり仔撃ち」から「晩年」まで続くひとつのテーマである

    「生の連鎖に働く河馬」
    筆者の尽力もあって、よりを戻した河馬の勇士とほそみさんの間に
    第一子が誕生したらしい
    筆者はそのことを、女流作家N(野上弥生子だろう)の葬式で
    ほそみさんの母から伝えられた
    彼女からすれば、河馬の勇士は娘のカタキでもある
    そんな事情あってか
    日本への帰国に際し、河馬の勇士は
    筆者の別荘を貸してほしいと頼んできた
    それを快諾した背景には
    彼らのことを小説のネタにしている負い目も
    まったくないとは言えない
    実際、ほそみさんはその点について筆者のスタンスに批判的だった
    別荘に赴き、河馬の勇士一家の受け入れ準備をしながら
    筆者は、毒蛇に噛まれた自らの少年時代を回想する
    少年たちの掟に背いては、自殺行為を繰り返し
    母に心配ばかりかけていた彼は
    霊的なレベルにおける、故郷喪失者だった
    河馬の勇士が帰国したのち
    彼らの子供がダウン症であると判明する
    ほそみさんはショックを受けるが
    筆者の妻に支えられて立ち直っていった
    小説は、やはり転向者だった中野重治の言葉で締めくくられる
    続きを読む

    投稿日:2022.02.11

  • 土壷波丸

    土壷波丸

    生きていく上で貫くこと、貫きながらにしても、変わっていく視座によって変化がもたらされるその見え方。自分なりに生きる、ということ自体が抱えているテーマを、過激派の事件という事象で扱った本。
    思想の転換を乗り越えて生きるのか否か、といったあたり、のちの「宙返り」にもつがるポイントとして大江的重要テーマの提示がされています。続きを読む

    投稿日:2016.07.12

  • venezia

    venezia

    奇妙なタイトルなのだが、物語は日本人青年がウガンダで河馬に噛まれ、大けがをしたという新聞記事を読んだところから始まる。彼は、実は1971年の「連合赤軍事件」に関わりがあった。小説は1983年11月から1985年10月まで、いくつかの雑誌に断続的に発表された連作短編集の形をとるが、「連合赤軍」を1つの核としながら、この2年間の大江自身の日常とフィクションとが絡み合い、混じり合ったまま語られていく。この時期の大江文学を読むと、不特定多数の読者にというより、ある程度限定された層に語りかけているとしか思えない。続きを読む

    投稿日:2013.09.24

  •  如意輪観音

    如意輪観音

    このレビューはネタバレを含みます

    似て非なる「虚構」と「想像的なもの」

    ***

    文春文庫版の、渡辺広士氏の解説を読んでいて、どうも分かるような分からないような気がしたのは、おそらく『個人的な体験』以降の大江健三郎の作品に引き続いている、私小説のような体裁(例えば大江健三郎に起こった出来事とかなり近い体験をしているらしい「作家O」が主語であることなど)に対して渡辺氏がすっきり割り切れていないらしいことが原因だと思った。

    渡辺氏は『河馬に噛まれる』について、この「河馬の勇士」や秘密結社を組織していたタケちゃんを虚構の人物としておきながら、「サンタクルスの「広島週間」」については「自ら見た夢を、作者は作品に書き留めずにはすませなかったのであろう」とその夢が本当に作者の見た夢であると平気で言い切ってしまっているのだが、この「判別」の基準は一体なんなのであろうか…?

    虚構の人物か、あるいは虚構の出来事かどうかというのの真偽自体はどうでもいい、とは私も思っている。だから「エーッ、この話作り話だったわけ?」と怒りの気持ちを抱くことはないのだけれど、大江健三郎の作品は、完全なる作り話であるとわざわざ割り切って読むのにはやっぱり適さないと思う。

    いくつか作品を読んだところ、彼自身で以前の作品を引用することもしばしばであるし、それぞれの話の相関関係も濃密である。ではそこにあるのは、あくまで「大江健三郎の小説世界」という切り離されたミクロコスモスなのか? あるいはそうかもしれない、しかし大江健三郎が私に訴えかけて来ていたのは、ミクロコスモスがあるとして、それは切り離されたものではなく、マクロコスモスに繋がっているという「確かさ」だった。そして彼はそのミクロコスモスを、自分の周りの人をも登場させる方法で、人並みはずれた入念なリアリティをもって作り出し、さらにその「話」によって、彼らしい人物Oさえも、より一層綿密に巻き込まれて行く。

    しかしそのミクロコスモスが、完全な虚構、あるいは重要なポインとが虚構だったとしたら、『個人的な体験』以降の作品は、それ以前のいかにもフィクションらしい小説に比べて、かえって「閉じた世界」となってしまわないだろうか?
    エッセイ的な事実の列挙であるとは決して思わないけれど、もしもこのような体裁で書きながら、肝心な部分でフィクションを用いるのだとすれば、それは書き手として壮大な甘えではないだろうか?(読み手にとってというか、書き手にとって…)
    それがフィクションであろうとノンフィクションであろうと、「事実的」なことを書くことによって家族さえ巻き込んで、決していい目を見ているとはいえないらしいところを考えると(これもフィクション説というのはあるけれど)、書くことを通してしか大江健三郎はうまく生きて行くことができないのではないだろうか、とも感じられる。そういう意味で、私とって彼は「切実で逼迫した作家」である。

    この『河馬に噛まれる』に先立って、私は『新しい人よめざめよ」をとても面白く読んだのだけれど、同時に、同著でウイリアムブレイクが頻繁に引用されているのが奇妙に感じられた。というのも、ここまで力量のある書き手の彼が、すでに「書かれてある」ことに何故こんなにも縋るのかということが納得できなかったからだ。
    そのモヤモヤを解消できないままこの『河馬…』のほうに移ったのだけれど、渡辺氏の解説のところから、やっぱりこの大江健三郎におけるフィクションというものが気にかかって、再度『新しい人よめざめよ』に手を伸ばしたら、一度目に読んだときよりも収穫があった。

    勿論このエピソードでさえフィクションである可能性は否定出来ないのだけれど、深さ15mのプールに息子が沈んで行くのを見て、機敏な動きで助けに移ろうとしてくれている他人に対し、実の父である書き手の頭に咄嗟に浮んだのが、ウイリアムブレイクの「落ちる落ちる…」という詩句だったという体たらくである。
    この部分、愉快であると同時に、イーヨーのまずい泳ぎっぷりを見ながら、むしろ泳ぐとはこういうことなのではと思わされるほど自然である、と感じたのに似て、書き手が、起こっていることを覆そうとするよりかは、事件をそのまま受け止めてしまうタチであることが読み取れ、また同時に、危機に際してもその助けの手だてを咄嗟に詩句に求めてしまうほど「書かれているもの」としての詩句に依存していることが発見出来る箇所だと思う。

    果たして語り手にとってこの「書かれているもの」とは何か?
    語り手は『新しい人よ…』の中で、イーヨーが夢を見るかどうかということをしきりに気にしてる。というのも、夢は時に現実からの抜け穴の提示をしてくれる考えているからで、イーヨーが夢を見ないとしたら、イーヨーに想像力があるのか?ということも疑われてくるからだ。
    ここで言う想像力とは「知覚によって提供されたイメージを歪曲する能力」であると述べられている。
    語り手にとってブレイクの詩句は、私が一読目に感じたように、語り手がそこに書かれているものを超え出るほど豊かなイメージを持ちうる、その機会を与える「想像的なもの」として夢と同じく、知覚される現実を歪曲する、あるいは読み替える鍵として機能していると考えられるだろう。
    ひしひしと伝わる語り手のイーヨーに対する愛情は、もちろん自分の息子であるということもあるだろうけれど、それとはまた別に、イーヨーはその障害によって語り手にとって常に強度の「現実」を強いるものであると同時に、想像力を喚起する非常な「想像的なもの」である。
    そしてこの語り手は、この「想像的なもの」を単なる遊びとしてではなく、生きて行く上で必要なのではないかと考えている。
    さらに、完璧な虚構である「夢」の中を、息子との交わりが可能となる場かもしれないと夢想する語り手は、超現実的な場を信じていると同時に、その「夢」あるいは「想像的なもの」を決して現実から分離させない人なのではないだろうか。

    例えば、これも『新しい人よ…』のエピソードであるけれど、一人メキシコに来ている語り手が、日本で息子と行っていた「なーんにもいらないよ、イーヨーがいるから!」と歌うと、絶妙なタイミングでイーヨーが現れて、ハイタッチして「ありがとうございました!」という掛け合いについて思い出し、ふとその歌を口ずさみそうになって、その歌の効力を思ってあわてて口を押さえてしまう、「歌ってしまうと、地球の四分の一周の距離をものともせずイーヨーがこちらにむかい、ありとある交通機関を利用して、数ヶ月の苦闘の末、ついに目の前にあらわれ、旅疲れいちじるしい格好に呆然たる僕の掌をパチンとたたいて、—ありがとうございました!と叫びそうに思えたのだ。」というところのように…。実際に現実的でなくても現実的(あるいは真実的)と感じられるものの存在の強さ(実存しているとでも言おうか)を実生活の中で強く感じているというか。

    そういう意味でも(話は戻るのだけれど)「河馬の勇士」や「タケちゃん」がもしも完全なる虚構だとしたら、それは猛烈に儚く空しいものになってしまうのではないだろうか。そして周りにいるイーヨーたちさえも巻き込んで…。モデルというレベルの存在の仕方だったとしても、「タケちゃん」がいるのでなかったら、「タケちゃん」が、イーヨーたち家族をも連れて、現実から、糸の切れた凧のように、中空に浮遊して行ってしまうというか…。

    だから、渡辺氏が推測するように、エリオットと生物学の本から「河馬の勇士」が生まれたと考えるならば、私にとって「河馬の勇士」は実存性が希薄な人物になってしまう。むしろ「河馬の勇士」的人物があってこそ、書き手の中でエリオットと生物学の本の中のエピソードが結び合わされ、「想像的なもの」となって溌剌と動き出てくるのではないだろうか…。例えば、書き手にとってイーヨーがあってこそブレイクが読み解かれるのであって、ブレイクの後にイーヨーがいる、というのではないように…。
    あるいは(渡辺氏は夢に関してはそのフィクション性を問うていないけれど)、もしもこの書き手の語る「夢」が、語り手が目覚めているときに作り出されたものだったとしたら、この「夢」は語り手にとっておそらく何の意味も持たないものになったに違いないと私は感じる。

    『洪水はわが魂におよび』のような、明らかにフィクション的なものについてはそのモデル度、というか実存度がどうなるのかというのは私自身にとってもまだうまく説明がつかないのだけれど、この『河馬に噛まれる』ではあまりにリアルに書きすぎているが故に、それが虚構だった場合、現実さえも放り出してしまう気がするというか…。

    大江健三郎にとって「想像的なもの」と「現実」は深く絡み合って存在していて、だからこそ、この「想像的なもの」は一般に思われるように架空の領域にある「虚構」ではなく、むしろ異常なほど現実の方に強く引き込まれているものである。そして想像的なものと関わることは、彼にとって生きることそのものではないか…?

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    投稿日:2013.04.22

  • ビタースイート

    ビタースイート

    ウガンダで河馬に噛まれたことから、「河馬の勇士」と呼ばれる元革命党派の若者。彼と作家である「僕」との交流をたどることで、暴力にみちた時代を描く。

    投稿日:2007.09.21

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