【感想】文学のプログラム

山城むつみ / 講談社文芸文庫
(6件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • 勤労読書人

    勤労読書人

    批評とは「読み」そして「書く」ことである。「読む」ことと「書く」ことの連続と非連続、これが本書のテーマであり、批評家山城むつみの拘りである。「読む」とは己を空しくして対象に没入しようとする行為であるが、「書く」とは対象を分析し、論理を介して対象を所有しようとする。「知への倒錯的な愛」に突き動かされた、人間の原罪とも言うべき強迫観念だ。批評家は「書く」ために「読む」が、対象から距離を置き「知」を志向する「書く」は、対象と一体化しようとする「読む」との間に常に既にズレを孕んでしまう。

    小林秀雄は批評家としての初発からこのズレに自覚的であった。自覚的どころではない。「自意識とその外部」を主題とした彼の批評はまさにこのズレを巡るものだった。だが小林は最終的にこの問題を放擲した。「倒錯」を封印して「書く」ことを断念する。そして「読む」ことに徹することを自らの批評と見定めた。見えないものを見ようとせず、見えるものだけを見とどけようとした。その集大成が『本居宣長』である。小林の断念に限りない共感を寄せつつも、山城はなおこの「倒錯」を生きることに批評のかすかな可能性を見ようとする。

    だがそれは徒労に終わるだろう。山城の問いは切口は斬新に見えるが、認識と行為の断絶という昔ながらのありふれた問題だ。問題が困難なのではない。問い方が間違っているのだ。小林に「アシルと亀の子」という文章がある。アシル(=アキレス)とは認識であり知である。亀の子とは行為であり現実である。アシルは亀の子を追い越せない。これはパラドクスではない。原理的に不可能なのだ。それに挑むのは「倒錯」である。倒錯に執着するのは勝手だが、「病気」を押し売りするのは見苦しい。こういう批評スタイルを確立したのは柄谷行人だが、その悪しき性癖を日本の文芸批評は未だ克服できずにいる。評者の勘だが山城は実は大して病んでもいない。その昔『批評空間』界隈を支配した柄谷的な「意匠」に媚びてるだけのような気がする。

    戦争への態度を巡る保田と小林の比較もピント外れだ。策謀によって宮廷を壟断した藤原仲麻呂を東條英機に比する頓珍漢はご愛嬌としても、汚名を覚悟で文学者として戦争にコミットした保田は潔く、文学の純粋性を留保して戦争を美化する小林は裏口から体制に迎合したというのは、保田理解としても小林理解としても浅薄だ。政治と芸術を峻別する、しないは各々の選択である。芸術は結果として政治的機能を持つが、それは芸術が政治の婢女であることを意味しない。保田は政治を芸術化した。但しイロニーとして。小林は一国民として政治を受け入れ、芸術に徹した。各々のやり方で芸術の自律性を守っただけだ。ファシズムへの抵抗を文学の課題とするのは自由だが、その前に戦争=ファシズムという己の空疎な等式を反省した方がいい。

    「訓読のプログラム」なるものもお為ごかしで新しさは全くない。イデオロギー批判の文脈で持ち出すのは無意味だ。そんな事を言い出せば、全て「文体」はイデオロギーだと言わねばなるまい。真っ当な文学的感性を持っているのだから、つまらぬ意匠をいじくり回すのはやめた方がいい。
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    投稿日:2023.12.30

  • shihohkan

    shihohkan

    このレビューはネタバレを含みます

    日本語の構造  -2010.04.27記

    「本当に語る人間のためには、<音読み>は<訓読み>を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているベンチは、それらが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕合わせなのです。
    どこの国にしても、それが方言でもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも-もっと強調すべき点ですが-、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉=パロールへの距離を蝕知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。」-J.ラカン「エクリ」

    <音読み>が<訓読み>を注釈するのに十分であるというのはどういうことか。
    「よむ」という言葉が話されるとき、読や詠、あるいは数.節.誦.訓という漢字を適宜、注釈しているということである。この注釈のため「読む」と「詠む」は、読という字と詠という字が異なるのと同じくらい異なる二つの言葉として了解される。
    日本語においては、<文字-音読み>が<話し言葉-訓読み>の直下で機能し、これを注釈しているのである。もちろん、話し手はそれを意識していない。その意味で、この注釈の機能は無意識のうちに成されていると言ってよい。
    次に、「どこの国にしても、‥」以下の一文から読取らねばならないのは、すなわち、日本語が中国語という未知の国語から文字を借用し、日本語固有の音声と外来の文字とを圧着したということは、<音読みによる訓読みの注釈>を可能にしているのみならず、「無意識から言葉-パロールへの距離を蝕知可能に」もしているということである。外国から文字を借用したからこそ、日本語は音声言語の直下において文字言語を注釈的に機能させうるのだが、この機能により日本語においては無意識から話し言葉への距離が蝕知可能となるのである。
    ここでラカンは、あえていえば、<日本語の構造そのものが、すでに精神分析的なのだ>と言っているにひとしいのだ。

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    投稿日:2022.10.11

  • kivune

    kivune

    最終章の文学のプログラムについて。漢文を訓読することで日本文が誕生したが、訓読と日本文誕生の目的が政治的である以上、日本文は広い意味でイデオロギーをまとう宿命にある。
    とすれば日本文だけでなく世界中に現存する多くの「書き言葉」もイデオロギー的なのでしょうか。続きを読む

    投稿日:2016.12.21

  • 次郎

    次郎

    小林秀雄、坂口安吾、保田與重郎。本書は日本の批評家3名についてそれぞれの論評に加えて表題作を収録。いずれの内容も安易なレトリックや曖昧な概念に振り回されることなく、愚直なまでに「読む」ことへの考察を深めようとしている。それは本書で痛烈な批判の対象としながらも、ドストエフスキーに対して「作者が書いたことしか決して読んではいけない」と愚直な読みを貫き通した小林秀雄への最大の敬意として受けとれるだろう。日本語のプログラム=漢文を訓読可能たらしめ、日本語の「読み」「書き」を生み出す源泉への考察は驚く程に刺激的だ。続きを読む

    投稿日:2014.02.16

  • hiroto-town

    hiroto-town

    2010年に上梓した『ドストエフスキー』(講談社)が話題になった批評家の初期論文集。読むことや書くことがそのまま形而上的思考に繋がっていて、そうした営為が欠かせないという読者には、オススメ。

    投稿日:2013.01.28

  • 東雲

    東雲

     戦争の緊迫の直下には、人間のせせこましい心理、小賢しい知恵は凍りつく。偉大な破壊への愛情、偉大な運命への従順、驚くべき充満と重量を持つ無心、素直な運命の子供となった人間、娘達の爽やかな笑顔。そこでは、そうしたもののみが存在を許される。だからこそ、あまりにも純粋な心は、戦争を、それが修羅場であるがゆえに美しい理想郷とみなさずにはいられない。
    (P.72)
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    投稿日:2010.06.02

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