【感想】関係する女 所有する男

斎藤環 / 講談社現代新書
(37件のレビュー)

総合評価:

平均 3.8
5
15
9
1
0

ブクログレビュー

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  • kaorukaeru

    kaorukaeru

    男と女の違いを関係と所有から説明してくれてます
    でも著者も完全にはわかっていないようでちょっともやもや
    それでもなるほどと思うところもありました
    同じ人間だけど違うんですよねやっぱり

    投稿日:2023.06.10

  • sin

    sin

    前半は根拠を示しながら、巷の男女トンデモ本がいかに間違ってるかを説明されていて、よかったです。

    後半から根拠がなくて、斎藤さんの熱い持論展開が続いて、面白いけど本当か?って何度も思ってしまいました。
    (それとも根拠がないように見えるだけ?精神分析的に〜と何度も書いているので、臨床経験や知識の根拠があるのか?)

    でも主張されている「所有する男、関係する女」という区分は日常的に感じるジェンダー差をうまく説明していて、納得する部分が多かったです。
    結婚が不合理なシステムなのに維持され続けてるのも所有を重視する男性優位社会だからだと。なるほど。

    他の方も書いてましたが、
    >学習とはそれが自分の理想と抵触しない事項においてのみ起こりうる特異現象なのである
    には笑ました。確かに!!

    あと妻さんとのごま団子エピソードにはほっこりしました^^
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    投稿日:2021.09.16

  • く

    自分が数年前くらいから考えていたことがほとんど書かれていて驚きすぎた。もちろん私なんかが考える疑問は、この歴史上でおおかた誰かが考えたもので、誰かによって文章が書かれているだろうことはわかっているのだけれど、あまりにど真ん中で、本当に早く読めばよかったな。それにしても、斎藤環と小此木啓吾とは、いよいよ精神分析なのか…感。続きを読む

    投稿日:2021.01.28

  • えい

    えい

    前半は結構読みにくいと感じた
    後半は著者の得意分野的なものになっていったし読みやすくわかりやすい

    男 所有者、女 関係者というふうに捉えている

    母娘関係を題材とした著者の別の本で少し取り上げられていた女性の身体が「モビルスーツのように感じる」という感覚をもっと深掘りして書いてあってよかった、わたしはよく感じている
    続きを読む

    投稿日:2020.03.09

  • さっちゃん

    さっちゃん

    初めて読んだ斎藤環さんの本。
    わからないことでいっぱいになり、この本を借りてみた。
    前半は私の必要としていた「結婚」についての見解が書かれていて、とても良かった。
    社会の結婚すれば幸せ、結婚しなければ幸せになれないような風潮が、自分の中にもこびりついている。
    そうなのかもしれない。

    ただ流されるように結婚しても、苦しいだけ。

    自分にとって、必要なもの、人と過ごしたい。
    それが幸せな「結婚」に繋がっていくことなのかな。

    興味の幅が広く、やおいもこの本で知った。

    人間を構造的に捉える。
    私が数学が好きだったのは構造を見つけたから。
    構造的に捉えるのが、好きなのかもしれない。
    構造にしないとわからないのかもしれない。

    まとめがしっかり読めなかった。

    男性脳は所有を求めるという言葉が良かった。
    男性と話している時に、自分にはない考え方の話がある。そこの根底には「所有を求める」思考を感じた。
    支配的な男性なのか、男性は支配的なのか、混乱している。
    家族は対等な関係でありたい。
    それは難しいのだろうか。

    女性は関係を求める。

    そうか。
    凹凸だから、それに合わせて、思考、行動は繋がっているのか。
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    投稿日:2019.01.08

  • キミドリ

    キミドリ

    第1章 「ジェンダー・センシティブ」とは何か
    第2章 男女格差本はなぜトンデモ化するのか
    第3章 すべての結婚はなぜ不幸なのか
    第4章 食べ過ぎる女、ひきこもる男
    第5章 「おたく」のジェンダー格差
    第6章 男と女の「愛のかたち」
    終章 「ジェンダー」の精神分析
    =======================
    まえがき
    第1章 「ジェンダー・センシティブ」とは何か
    第2章 男女格差本はなぜトンデモ化するのか

     男と女の最大の違いは「所有」と「関係」の違いである。
    著者が述べる「男女差」は脳器質的な違いではなく、あくまでも、「ジェンダー(社会文化的性差)」に基づく。つまり男女差というのは、あくまでも関係性の問題である。
    その「ジェンダー」の源は、ヘテロセクシシズム(異性愛主義)である。
    これは「繁殖」を可能にし、なによりも欲望の根源である。

    欲望に傷つけられまいとして規定を重ねていくと、人は簡単にシニシズム「冷笑主義」に陥ってしまう。これは間違った悟りのような境地を作り出してしまう。
    この種のシニシズムの問題は、「自分は━否定することで完全に幻想免れている」という別の幻想を (ナルシシズム)に依存し過ぎてしまうことだ。極端なジェンダーしての果てにはこうしたシニシズムのは仲間っている。
    しかし、ならば性こそがすべてというベタな極端化も困る。これではだれとでもセックスをしなければならないというカルトにおちいってしまう。
    シニシズムとカルトの中間を目指すほどよい葛藤を可能にすることを著者は目指す。


    第3章 すべての結婚はなぜ不幸なのか
    少なくとも「個人」の側から見た場合、「結婚」ほど理不尽な行為はそう多くない。「ロマンティック・ラブ」という、非合理的でしばしば拒否してすらある感情中心に、生活のすべてが制度的に構築される。そもそも赤の他人である異性と生活を共にするというストレスフルな経験が、「愛」の名において合意に肯定される過程自体の不条理なのだ。

    いわゆる「勝ち組」の成立には「結婚」は欠かせない。
    そして、人は、自らのナルシシズムにかかわる「理想」については決して学習しない。

    結婚生活における根源的な擦れ違い
    女性は結婚を「新しい関係の始まり」と考える。
    男性は結婚を「性愛関係の一つの帰結」と考える。
    「釣った魚に餌をやらない」は典型的な男性の発想、つまり「所有」の発想である。彼らは、時間がたてば次第に夫婦関係のメンテナンス怠るようになってしまい、それどころか懸命にメンテナンスをしようとする妻の努力を無視したり、冷笑したりして相手にしなくなる。実はここには、男性の側の甘えかかる。それは「いったん所有されてしまった女性は、所有者のことを決して裏切らないだろう」という、およそ根拠のない確信だ。

    伊藤整は、浮気をしない夫は、抑えがたい性の力と自責の念を必死にこらえているのだから、もっと感謝すべきだというのだ。

    男性が女性以上に複数の異性との関係を求める傾向は、社会文化的な違いを超えて普遍的なものといってよいだろう(ex イスラム圏の一夫多妻制)。
      
    男にとって最初の所有物だ。自分の領地に囲い込んで、思い通りになっているうちは何も言うことはない。しかし、ひとたび斎市が所有される立場に甘んじることなく自己主張を始めると、男たちの行動は決まっている。キレるか逃げるかあるいはその両方か。

    結婚した女にとって、結婚したての男は、まだ「未熟な夫」でしかない。その夫が自分との関係の中で「最高の夫」へと変化していくプロセスこそが、女の希望である。しかし、男は逆だ。男にとっては結婚したばかりの妻こそが「最高の妻」なのである。性格的にも外見的にも。また、だからこそ男は結婚による所有欲の満足にしばし酔いしれる。それゆえ妻がいつまでも新婚当時のままであることを願う。しかし妻変わっていくだろう。外見も性格も、そして「夫に対する忠誠度」までも。それを夫にとって、所有する株の価値がどんどん下落していくに等しい恐怖である。

    男にとって「異性の所有」は、彼が抱える所有欲のごく一部でしかない(ex トロフィーワイフ)。
    一方なにとって「玉の輿」、すなわち「成功した男性との結婚」は、彼自身の成功と同等かそれ以上の価値を持つ。それは女性個人の評価は、「彼女が所有しているもの」よりも「彼女が関係する相手」によってなされる傾向があるためである。

    女性にとって、子供に関しては、単なる所有を超えた、まるで自分の一部のような存在になりやすい。

    第4章 食べ過ぎる女、ひきこもる男

    <ひきこもり>
     (男性が多いのは、男子に対する社会的プレッシャーが強いから)。

    ほとんどの男子は、自らの広い意味での社会的立場を、自身とアイデンティティーのよりどころにするようになるのだ。

    さて、「社会的立場」をごく広く考えるなら、家庭や学歴、職種や役職はもちろんのこと、知識の多さや趣味嗜好の良さは、人脈の広さなどまでが含まれることになるだろう。これらはいずれも、「関係」よりは「獲得・所有」されるべき達成課題だ。特筆すべきは異性関係で、これがかなり優先順位の高い獲得目標であることは異論は少ないだろう。ここにまず男性の「所有元気」がはっきり反映させられている。

    僕はよく、男性は「立場」の生き物であり、女性は「関係」の生き物である、と言い方で説明する。男性は自分の立ち位置、つまり「立場」を所有していないと、決して安心できない。これもまた所有元気の一つの帰結だ。しかし女性は、男性ほど「立場」にこだわらない。女性は「関係」によって規模の支えを釣る傾向が強いからだ。

    <摂食障害>
    「女性特有」の疾患には次の二つの共通点がある。
    ・何らかの方法で身体にダメージを与えようとすること
    ・その行為が多かれ少なかれ他者へのアピールをはらむという意味で、関係性を志向していること

    男子の場合は、自己評価を決めるのは一般的に「社会的スペック」である。すなわち知的身体的な能力やコミュニケーションスキルといった、能力的な側面である。外見的な側面よりは本質的機能的な側面にこだわりが強いともいえる。

    しかし、女子の自己評価は、容貌のみならず髪型から衣服まで含めた外見的身体的要因によって大きく影響される。

    女子の視線を意識し始めた男子は、会見以上に自分の能力にこだわり始める。
    一方女子には外見よりも能力といった発想はあまりない。どちらかといえば外見重視に傾くことが多い。

    そう、思春期の時点ですでに、男子は所有の思想に取り込まれている。地位や名誉やカネ、それらを最も多く所有しえた高性能のオスだけが、お気に入りのメスを所有する権利を手に入れる。こうした所有の思想は、思春期において徹底的に刷り込まれるのだ。

    この時期は、男女ともに平等に学校的価値観をいこまれるが、これはかなり控えめに見ても「所有の思想」、すなわち男性的発想に近い。男子はそれを素直に受け入れるが、女子はすでに世界のダブルスタンダードARCOと理解している。すなわち、女子にとっては「所有」よりも「関係」の方がはるかに重要であること。関係において勝者たるには、しぐさや容姿なども含む「身体性」が何よりも重要であること。
    このように思春期を境として、女子の身体へのこだわりは、男子よりもはるかに強いものに変わっていく。こうしたこだわりが、女性の美しさと女性の病の両方をもたらすのだ。

    ヒステリーが問うのは「自分は男なのか女なのか」「女とは何か」という問いである。

    第5章 「おたく」のジェンダー格差
    おたくとは
    虚構コンテクストに親和性が高い人
    二重見当識ならぬ多重見当識起きると
    愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴える人
    虚構それ自体に性的対象びだすことができる人

    おたくとはセクシュアリティーの問題でもある。彼らは自らの性欲をも、虚構によって満たそうと試みる。これは一種の特殊技能とみるべきだろう。

    しかし彼らの大半は、実生活においてはごくごくまっとうである。
    彼らの欲望の対象は、基本的にフェティシズムと同じである。戦闘美少女が典型だ。¢美少女という欲望の対象は、ほぼ完ぺきな虚構内存在にほかならない。現実には存在しないということが重要なのだ。
     精神分析によれば、これぞまさしく理想的な欲望の対象ということになる。強烈に引き付ける外見と、実態がないがゆえに、その対象によって最終的な満足は決してられないということ。そこには、理想的なフェティッシュの条件が完ぺきに備わっている。
    フェティッシュへの愛は所有によってしか表現されない。だからお宅は、しばしばコレクターとしての顔を持つ。フィギュアやDVDの収集は最も分かりやすい所有欲の表現だ。彼らはマニアほどコレクションに執着しない。むしろ彼らが執着するのは「視る」という行為そのものだ。そして言うまでもなく、「視る」ことは所有の第一歩なのである。

    腐女子との比較でいえば、男性おたくの前にとっては、関係性のプライオリティーはそれほど高くない。単体の美少女イラストによっても十分に燃えは喚起されるもっと端的にえば男性おたく向けのポルノに「触手モノ」というジャンルがある。いうまでもなくそこにはいかなる「関係」もない。


    腐女子とは「位相萌え」すなわち「関係性」に萌える。

    男性おたくの欲望が「所有」へと向かい、腐女子の欲望は「関係」へと向かう。

    男性は大正欲望する際、自らのポジションを定めることがどうしても必要となる。
    ホモフォビアとミソジニーにに基づく男性同士と連帯。男性にとってこうした欲望の閉鎖系が、いかに心安らぐ場所であることか!そこではだれもが異性愛者としての欲望の額を名乗り、愛の対象の「所有」を試みることができる。


    一方女性にとって、「立場を失う」というおそれは、さほど切実なものではない。
    女性が何かを欲望する際には、自らの主体のポジションなどどうでもよくなってしまうからだ。ひたすら対象に没頭し、自らを空虚にしてのめり込む。「立ち位置」などといった観念的な要素がない方がはるかにその快楽を増すだろう。

    やおい作品の作りて読み手のいずれも、ホモセクシュアルの性行為において、攻める側、受ける側の以西にも容易に同一化できるのだという。

    フロイトによれば、関係性の最も基本的なありようはSM(性的だけに限らない)である。

    「恋愛関係は”同性間”においてしか成立しない」
    腐女子はカップリングに異様なこだわりを見せる。

    第6章 男と女の「愛のかたち」
     女性の恋愛は上書き保存。 反復の要素が含まれる(似たタイプばかり好きになる)が基本的に「一人」。
     男性はフォルダ保存。同時並行が可能。
     男性の浮気に世間は寛容、女性はそうでもない。
     お父さんは若き日の「泣かせた数(=所有の量)」を誇り、お母さんは「大恋愛(=関係の質)」を誇る。

    男女の関係の究極を「性行為」ととらえるのは、本当は所有原理(=男性原理)である。女性に性欲がないわけではなく、ただ彼女たちの欲望は必ずしも性交=所有を目指すものではなく、スキンシップを含む非定型なものだ。こちらは基本的に関係原理である。所有欲は単純でわかりやすいが、関係欲は多様で複雑なのである。

     日本や韓国では、結婚後にジェンダー間の欲望格差があっさり露呈してしまいやすい。その結果、夫は家庭の外(仕事、不倫、その他)に所有原理を追求し、妻はわが子との密着関係において関係原理の再現を夢想することになる。日本と韓国ではセックスレスの問題が突出して多い。

     「男性向けポルノコミックで、物語の頂点がセックスシーン、それも男性の写生シーンにあったことに比べ、レディコミでの、延々と続く性的快楽に女性が身をゆだねる様子が描かれているエンディングは、非常に特徴的である」
    by 堀あきこ

     さらに男性向けのポルノコミックでは、しばしば性行為の場面において男性の身体の透明化したり、顔や表情が描かれなかったりする傾向についてである。
     読者が同一化するために女性の身体が描かれる女性向けのポルノコミックとは、この点が異なっている。男性は、性行為の現場ではかけた空白の位置を占めることになる。女性が身体イメージに対して同一化を行うのに対して、男性は女性身体と対峙する空白の「位置そのもの」に同一化する。

     もし男女間に「完全な平等」が実現したら、それはセクシュアリティーの、いやそれどころか、欲望の消滅意味するだろう。

    男は顔、女は声
    「男は目で恋をし、女は耳で恋に落ちる」(ウッドローワイアット)
    BL CD
    視覚は常に全体のイメージ→ 所有欲につながりやすい
    声=聴覚イメージに身を任せるとき、しばしば主体は声によって支配される。つまり、自分の体を明け渡す。

    おとこソファ
    仕事で疲れ切った帰宅した独身女性を優しく包み込み、いやしてくれる素敵な家具。ただしイケメン。

    性の主体としての男性の位置は、欠如ないし空白である方がはるかに同一が起こりやすい(村上春樹)
    ハーレム物の中心は「凡庸な男性」である。

    一方女性はヒロインは恋愛に対して積極的にえがかれようと受け身的にえがかれようと、自由に同一化できる。
    仕事やストレスに疲れた女性は、ときどき関係性の一方の局、すなわち受動態の極みに身を置いて癒されたいと考えている。能動的でしかありえない所有欲とは異なり、関係欲は受動性にもつながりやすい。
    「おとこソファー」にいだかれる女性は、多くの美しい男性からサーブされる、すなわち欲望される主体として、自らは主体の位置をおりることができる。自分自身を空っぽにして、美しい男性たちの腕に空洞の体をゆだねること。
    「おとこソファー」として描き出されるのは、ひたすら欲望のまなざしを集めるだけの、空っぽな女性身体である。これこそが究極の受動態なのだ。

    終章 「ジェンダー」の精神分析

    失ったペニス
    男:それを「所有」する(持ちたいと思うペニスの象徴=ファルス)
    女:それと「関係」する

    哲学とは、言葉だけで閉じた世界を構築しようという試みだ。これはきわめて男性的な言葉の使い方である。なぜなら男が使う言葉は、それによって世界を構築する =所有するための道具にほかならないからだ。
     これは女の言葉の対極にある。なぜなら、女は事の世界と関係するためだけに使用するからだ。男の言葉はしばしば独り言に近いけれど、女の児供は常に相手を必要とする。男は言葉からできるだけ情緒的なものをとりのぞこうとするか、女は言葉を情緒の伝達のために使う。この違いはきわめて多きい。

    ファルスの享楽、他社の競落
    享楽というのは、快感原則をも超えた強烈な体験のことだ。
    苦痛と快楽が一体となったような、ずっと強度の高い体験。

    ファルス的享楽というのは、無意識に蓄えられた緊張を、部分的に鎮静化するために放出されるエネルギーにあたる。このときファルスは、エネルギー放出の水門という役割を担う。まさに射精のイメージだ。

    女性的な快楽は他者の享楽に近い。主体性を完全に放棄して、対象をまるごと深く受け入れる(=関係する)ことから生ずる享楽だ。
    セックスにおける女性のオーガズムは男性よりはるかに深くて長いといわれる。これは限られたファルス的享楽と究極の他社の享楽との違いであり、そのまま所有原理と関係原理の違いに重ねられる。
    どうしても立場を捨てられない男性は、ファルス的享楽にとどまらざるを得ない。これは所有原理の宿命でもある。
    立場を捨てようとしない男性の主体は、自分自身が変えられてしまうことはひどく嫌う。そういう主体には、本当の意味で対象と関係することができない。できるのは自分を変えずに対象を所有しようと試みることだけだ。しかしどれほど頑張ってもすべてを所有することはできない。しかし男の欲望は常にすべてを求めてしまうがゆえに、部分的にしかかなえられない。その意味で所有原理はファルス的享楽を超えられないのだ。
    これに対して、女性は容易に立場 (=主体)をなげうって、他社の享楽に身をゆだねることができる。女はすべてを求めない。自分が変えられてしまうことを恐れない。だからこそ、自らの主体を「無」にすることができる。

    このような決定的がすれ違いがあるために、ラカンは性関係は存在しないと言い表した。
    愛し合う男女が求めあって結ばれたとしても、その結合は「本当の結合」ではない。それぞれが互いに抱きしめているのは、現実の相手そのものではなく、相手に投影された欲望がもたらした幻想に過ぎない。つまり、男と女は、本当の意味で「関係」を持つことができないのだ。

    女性の方が自らの身体コンディションにずっと敏感だ。
    彼女たちが過敏ではなく、男性の方がずっと鈍感

    身体を容れものと感じること、それを操縦しているかのような自覚。「擬体」感覚にも通じる。

    隣のヤオイちゃん
    「かわいい女の子」の身体が実は擬体で、興奮するとそのチャックが開いて、なかから性別不明の賀茂ナスに手足が生えたような生物が飛び出してくる。この漫画は婦女子の日常描くかに見せてついうっかり、女性性の一つの本質に触れてしまっている。

    ・女性の身体は「擬体」であること
    ・擬体に包まれた女性の「本体」は性別を超えた非定形の存在である


    女性の身体は「擬体」であることには、複数の意味がある。
    身体がみられるために存在すること、それが常に違和感をもたらし、時に「脱ぎ捨てたい」とすら感ずるようなものであること、にもかかわらず身体こそが女性性の本質であること、などだ。

    何より一番重要なのは最初の見られるための身体である。
    女性のナルシシズムは複雑な要素である。それには「他人の目から見た自分の身体」というイメージを媒介としなければならない。そう、彼女たちの自己愛には、新体制と関係性という二つの要素が、あらかじめ織り込み済みなのである。
    それは母親と娘の関係が深くかかわっている。
    身体を通した母親による娘の支配である。
    娘を支配する理由の一つは「母性神話」である。
    母親は妊娠の経験を通して「子供をコントロールすべきだという強い信念にとらわれ、過剰の責任感をもたらす。その子供はたまたま女性であれば、身体的な同一が加わることでさらにコントロールの欲望をする。しばしば「プラトニックな近親相姦」は父親の疎外が必要である。
    アイデンティティーの混同を招きやすい関係でもあり、これが進むと、思考や感情のすべてをお互いに打ち明け、洋服を貸し借りし合うような親密さが生まれてくる。母と娘の体は共通であるがゆえに、二人の間のあらゆる境界と差異は、あっさりと消えてしまう。こうした関係は母と娘にのみ成立する。

    そもそも「女性性」にはいかなる本質もない。それは徹底して表層的なものであり、それゆえに女性性は身体性に等しいものとなる。精神分析的には、身体とは想像的なものである。

    女らしさは、外見=身体において他社の欲望より引き付ける存在であれ、という命令。内面においては自分の欲望を放棄せよという命令。この分裂を受け入れたのは、「貞淑な美女」である。とのイメージは矛盾をはらんでおり、統一化による支配によってしか伝えようがない。
    こうしたしつけの過程で娘の新体制を作り上げるのは、母親の言葉である。
    すべての娘たちの身体には、母親の言葉がインストールされ埋め込まれている。だからどんなに母親を否定し、反発しようとも、娘たちは与えられた母親の言葉を生きるほかはない。これが母殺しが不可能な理由である。
     
    続きを読む

    投稿日:2018.12.22

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