そのとき、「お金」で歴史が動いた

ホン・チュヌク, 米津篤八 / 文響社
(2件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • jne5

    jne5

    中世から現代の覇権国家の変遷や金利の変動など非常に分かりやすく書かれています
    貨幣理論を理解しているともっと楽しくなると思います
    財政破綻!とか財政赤字!にこだわっているとちんぷんかんぷんになると思います続きを読む

    投稿日:2021.05.03

  • yasz

    yasz

    現在の覇権国はどこかと言われれば、米国だという答えが一般的だと思いますが、あと20年もすれば中国になるかもしれませんね。

    歴史を振り返ってみると、私が学校で習った歴史は西洋史に偏っていた(若しくは私の興味がそちらにあったのかも)せいか、スペイン・ポルトガルが覇権をとってから現在に続いているように思っていましたが、西洋が東洋に追いついたのは、1800年頃のようです(p94)

    この本は400ページ近くある分厚めの本ですが、図表や綺麗な写真が多く挿入されていて楽しみながら読むことができました。中国・日本でなぜイギリスと同じような時期に産業革命が起きなかったの解説が面白かったです。

    人口の多いフランスではなく、イギリスがなぜ覇権を取れたのか、オランダがなぜ栄えたのか、全ては一つの線で繋がっているのだなと思いました。お金の管理は大事であることを理解させてくれた本でした。

    以下は気になったポイントです。

    ・イギリスの名誉革命の成果として、人と一緒にオランダ式の思考方式と金融制度までがイギリスに持ち込まれたこと、これによりイギリス国債金利が10%程度(1690)から6%(1702)に下がり、1775ねんには2.74%を記録して、イギリスはライバル国には思いも寄らない低金利で資金調達が可能になった。これがイギリス陸海軍の戦力増強へと繋がった(p21)


    ・本格的な大航海時代を切り開いたスペイン・ポルトガルではなく、なぜオランダで世界初の株式会社(東インド会社)が設立されたか、大きな理由として、オランダが中世ヨーロッパ社会の核心である荘園制度から脱却していたことが大きい(p24)

    ・オランダは1959ねんに北海で大規模なガス田を発見し、その後天然ガスを輸出して毎年数十億ドルをかせでいた、輸出代金が国内に流入するとオランダ通貨の価値が大きく上昇し、1970年代になると天然ガス以外の輸出業者は海外競争力を失った。このように資源が開発された後で、むしろその国の経済が停滞すること現象を「オランダ病」という(p34)

    ・フランスが16世紀以降、ずっと二番手から抜け出せなかった決定的な理由は、財政戦争における敗北のため。フランス大革命の後に権力を握ったナポレオンは教会の所有資産を売却、オランダとイギリスの納税者からお金を搾り取ったが、それでもフランス国債金利は6%を下回ることがなかった、イギリスの国債に比べて常に2%以上高かった(p65)

    ・16世紀の金と銀の交換比率を見ると、欧州では1対12であったが、中国では1対6であり、銀の価値が2倍ほど高かった。この理由として、1)アメリカ大陸のサカテカスとポトシで市場最大規模の銀行が発見された、2)東アジアでは金の算出が相対的に多かったから(p79)

    ・1858年8月5日に大西洋を横断する海底通信ケーブルが敷設されたのに伴い、イギリス・アメリカ両地域の綿相場の情報が時間差なしで伝わるようになった、そのおかげで二つの市場の価格差は急激に縮まり相場も安定した(p81)

    ・財政改革に成功した万暦帝初期、西モンゴルを根城に中国地方を脅かしてきたオイラト族のアルタン・ハーンとの平和協定締結に成功した、この協定はモンゴル帝国が必要とする物品を明が供給する代わりに、モンゴル帝国のハーンが明に朝貢することを定めた、つまりモンゴル帝国は明の臣下国家であること認める代わりに、経済的実利を取った(p91)

    ・社会発展指数(SPI)は、都市の規模、文書作成量、エネルギー消費量などの間接的な指標を用いて、東洋と西洋の発展レベルを測定した、それによれば、ローマ帝国滅亡後は東洋が優勢であったが、1800年を境に状況が逆転している(p94)

    ・明は少なくとも外国人との防御戦で敗れる兆しはなかった、明が滅びた理由は、李自成らが引き起こした農民反乱にある。これが起きた理由として、万暦帝の晩年において、朝廷に顔を出して大臣と会うことはなく、主に宮中で宦官と政務を行っていたから(p97)

    ・清は1676年に科挙制度を復活させ(隋から清の時代まで1300年間じっし)農民の支配層である紳士階級を支配構造の中に取り込み税制も少しずつ改革していった(p103)

    ・1929年の大恐慌は株価暴落に触発された起こったが、本格的に失業率が上昇しはじめたのは、銀行預金残高の急減など、経済全体の貨幣供給量が減少し始めた30年代初頭である(p107)

    ・産業革命が中国では起こらず西ヨーロッパの端にあるイギリスで起きたのはなぜか、産業革命とは一人当たりの所得が持続的に増加する、いわゆる近代的成長が続く現象である。人口が減らなければ一人当たりの所得が減らないという現象「マルサスの罠」に中国は陥っていた。(p113)日本でも江戸時代に起きなかったのは人口が過剰であったから、人口圧が高いと最低生活レベルの賃金で労働力を確保できるから(p119)労働力が高価で資本が安価なところでは、機械を使う方が利益になる(p120)日本で起きたのは、産業革命(労働力を削減して機械への依存度を高めた)のではなく、勤勉革命(安価な労働力を最大限に利用して、経済を成長させる)であった(p124)

    ・最新技術を駆使したアークライトの紡績工場の建設された1780年代のイギリスでは、投資収益率が40%であったが、フランスでは9%、インドでは1%にも満たなかった(p128)欧州が東アジアと比較して人口圧が低かったのは、欧州で主に栽培されていた小麦の生産性が東洋の米と比較して低かったことにある、人口過剰が起きにくかった(p129)

    ・アメリカでは奴隷の数が圧倒的に多かった南部の生産性は北部よりも35%も高かった、特に奴隷を一人も使役しない「自由民の農場」の生産性は北部と大差ないが、16−50人ほどの奴隷を使っていた「中規模の奴隷農場」は北部と比べて58%も高かった。生産性が高かった理由として、南部の農場が奴隷を非常に効率的に配分していたこと、奴隷個々人の生産性がかなり高かった(p142)

    ・第一次世界大戦において、連合軍は金融市場のあるロンドン、ニューヨークなどで債券を発行できたが、同盟国側(ドイツ、オーストリア)は、中央銀行から借金して戦費を調達するしかなかった。当時は金本位制であったので、中央銀行が保有する貴金属の量以上の銀行券は発行できなかった(p157)

    ・ドイツ経済は1923年のハイパーインフレとその後の大恐慌で完全に崩壊したにも関わらず、強力な軍隊を育成できた。その答えは、金本位制の放棄であった、そのお陰で、33年には公定歩合が7%から4%に下げられて国内の信用条件は迅速に改善された。賠償金の軽減合意も助けとなった(p193)

    ・機械や人工知能との競争に弱い仕事として、技術の進歩で存続が危ぶまれるのは、毎日同じことを繰り返す「定形的」な仕事で、認知業務か身体業務かはそれほど重要ではない(p356)機械での代替が難しい上、機械のコストと比べて人件費が安いので、福祉・看護分野で労働力不足が起きる(p360)

    ・アメリカの潜在GDPと実際のGDP、GDPギャップの変化を見ると、2008年の金融危機によるショックが6年後の2015年になってようやく落ち着いた(p370)IMFは今回のコロナショックに対してGDPギャップがプラスになるまでに3−4年はかかるとしているが、これでも世界金融危機の教訓を活かして迅速な景気刺激策を発動するとの仮定に立っている(p371)

    2021年3月13日作成
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    投稿日:2021.03.07

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