【感想】父滅の刃 消えた父親はどこへ アニメ・映画の心理分析

樺沢紫苑 / みらいパブリッシング
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    「海賊」の持つ、力強さ、たくましさ。法の外で自由に振る舞う自主性。「海の男」という言葉があるように、海賊が「男性的」「父性的」なものを象徴しているであろうことは、誰にも感覚的に理解できるでしょうが、「本当にそうなのか?」と言われると、具体的な証拠を示すことはできません。

     つまり反抗期は、「社会」への船出のための準備期間に入ったということで、「大人へと成長している」ことの証明です。ですから、これはむしろ歓迎すべきことなのです。  むしろ反抗期がないほうが心配で、「社会との距離感がうまくつかめていない」危険性があり、「ニート」や「引きこもり」に陥ったり、あるいは就職して社会に出てから大きな失敗をする、対人関係で悩む、新型うつ病になる……という問題につながる可能性もあります。

     父性とは、子育てにおいて、父親に期待される資質のこと。子供を社会化していくように作動する能力と機能です。母性が子供の欲求を受け止め、満たして子供を包み込んでいくことを指すのに対して、子供に我慢や規範を教え、責任主体とし、理想を示すものとされます。

    現代の家族においては父親不在や父親の権威喪失のため父性原理が欠如し、そのため子どもの人間形成が歪んだかたちになっているという論者がいます。

    「父性原理」とは、自分自身を自我から切り離し、他者との比較においておのれの相対性を引きうけていこうとする態度。一言でいえば、「断ち切る」こと。一方「母性原理」とは、「包み込む」ことであり、自分自身と他者を切り離すことではなく、むしろそれとつながろうとする態度の事です。

    父性とは「①家族をまとめ、②理念を掲げ、③文化を伝え、④ルールを教える」もの、母性とは「子供を産み育てる過程で働く、受容的な優しい心の働き」と定義しています。

     この定義の違いをみてもわかるように、母性の定義はシンプルでわかりやすいのに対し、父性の定義はいくぶん複雑でわかりづらいものになっています。そこに「父性」の難しさが、そのまま現れているような気がします。

    「父性喪失」「父性的な父親が少なくなっている」といっても、父性ゼロの人というのもいないはずです。父性が強いか、弱いかということ。あるいは、女性でも父性的な面を持っているし、男性でも母性的な面を持っています。父性、母性というのは、あるかないか、零か百かというものではありません。

     父性があるといっても、それが限度を超えると、子供に対してマイナスの影響を与えるでしょう。例えば、時間を守ることをきちんとしつける父親は、子供に規範を教えるということで「Good Father」のはずです。しかし、子供が一分一秒でも遅刻すると、怒鳴りつけたり、殴りつけたりする。時間に対して極端に厳密すぎる父親に育てられると、いつも戦々恐々として、常にビクビクした子供に育つでしょう。「規範を教える」といっても、それがすぎればマイナスとなり「Bad Father」となります。あるいは、「強さ」「たくましさ」などの男性的な要素も、行きすぎれば過剰な体罰、暴力につながってくるわけで、「Bad Father」となってしまいます。

     それと、このドキュメンタリーを見てもう一つ重要なことを確認しました。言葉もかけず、視線すら合わそうとしない。これは『ゲド戦記』で宮崎が吾朗にとった態度と全く同じではないのか、と。二つのドキュメンタリーを比べるとよくわかります。つまり、吾朗への態度は、「無視」ではなく「見守り」だった。「親子の確執」などというものはなく、一人のプロ監督として認めたからこそ、一切のアドバイスもなく、厳しい態度を貫き通していたわけです。「一切手助けをしない」=「見守り」。そこにあるのは、間違いなく「愛情」。これこそが、「父性愛」ではないでしょう。

    『ゲド戦記』のドキュメンタリーを見ただけで、それはわかるはずなのですが、わからない人が非常に多かった。宮崎駿という人間を誤解した人がたくさんいた。すぐに助けにきてくれる「優しいパパ」によって、「甘え」の環境で育てられた人には、「見守る」という厳しい愛情のかたちを理解できないのでしょう。

     子供と遊ぶことが、父親としてそんなに大切なの? と思うでしょうが、「遊び」は父親の最も重要な役割と言ってもいいでしょう。父親の役割は、「家庭」から子供を「社会」に引き出すことです。

      ▼『エクソシスト』はホラー映画ではない。

     父親は、リーガンの様子がおかしくなり、悪魔に取り憑かれて大変な状態になっている時でも、その姿を全く現しません。リーガンは父親を慕い、愛していますが、それを受け止める父親は不在。映画の冒頭で描かれる「父親不在」

    つまり、これは心理学的には、「リーガンが強く父性を求めていた」ことを表しています。彼女の強い父性への希求が、海賊の霊を呼び寄せてしまったのだ……

    『エクソシスト』という映画は、リーガンの父性への希求を誰が満たすのか、という物語。つまり、リーガンの「父親探し」の物語と言い換えることができます。

     話は変わりますが、神父とは英語で何というでしょう?  それは「father(ファーザー)」つまり、「神父」とは、非常に父性的な存在なのです。

    キリスト教社会において、「父」の根本的なイメージは、「神(God)」(一神教の神)です。圧倒的な力強さを持った敬意の対象であり、間違いなくそこには「規範」があります。

    一方、日本の神様は「母性」的なイメージが強いのです。もちろん男性の神様もいますが、伊勢神宮で祀られるのは「天照大御神」であり、家にある神棚の中心にもその御札を祀ります。それは「狩猟民族」と「農耕民族」の違い。「狩猟民族」では、狩猟や戦争には、力強いリーダーや規範が必要で、必然的に父系社会になりますが、「農耕民族」では「育てる」「育む」ことが重要であり、母系社会となるのです。

    つまり、これは「自殺」です。ご存知の方も多いでしょうが、キリスト教では、自殺は絶対禁止です。いかなる理由があっても自殺してはいけない、という教えなのです。その戒律を、キリストの教えを人に説くことを仕事とする神父が自ら破っているのです。一言でいえば、「破戒」。

    『エクソシスト』は、ホラー映画ブームのさきがけとなった作品として知られていますが、私は、徹底した人物描写、人間描写の映画だと思います。

     主人公、クリス・マクニールの視点で、物語を振り返ってみましょう。売れっ子女優の彼女は仕事が忙しく、家を空けることが多い状態です。夫とは別居中で、娘のリーガンを愛していますが、召使に世話を任せることが多く、なかなか一緒の時間がとれません。しかし、自分なりに精一杯、面倒を見るようにしてきたはず……。  そのリーガンに異変が起きます。「父親不在」とリーガンの異常行動は、完全にリンクして描かれています。父親がいないので、異常行動が起きるのだ、という感じです。

     つまり『エクソシスト』には、クリスとリーガンの「母子関係の修復物語」というストーリーラインが存在するのです。

     さて、『エクソシスト』の「母性」のテーマについて説明しました。今度は、「父性」。カラス神父も、メリン神父には強い「父性」を感じたに違いありません。つまり、メリン神父は、カラス神父にとっての「父親の代理」として登場しているのです。最初は師弟関係としてスタートしますが、過酷な悪魔との対決という苦しい共同作業を通して、父子関係に似た密接な人間関係へと発展していたはずです。

     クリスとリーガンとの「母性」の回復と、カラス神父の母親との関係修復。リーガンとクリスにとって、カラス神父は「代理父」であり、カラス神父にとっては、メリン神父が「代理父」。リーガン、クリス、カラス神父、メリン神父の四人の登場人物は、互いに母性と父性の問題を抱え、それを互いに支えながら、正しい家族関係へと向けて修復、回復をめざす共同体を形成しているかのようです。これが、『エクソシスト』という映画の全体像です。

     結局、カラス神父は自らに悪魔を憑依させ、窓から飛び降りて自殺することで、悪魔を追い払います。彼と母親の関係は修復されたでしょうか? おそらく、されなかったはずです。家族関係の修復は果たされないまま、安らぎのない心理状態で、神父は死んでしまうのです。  ラストシーン。悪魔は去り、リーガンはもとの普通の少女に戻りました。しかし、空気は非常に重苦しい。窒息しそうなほどに。  なぜ? 二人の神父が死んだから。それもあるでしょう。 『エクソシスト』は、悪魔を追い払い、めでたしめでたしのハッピーエンドではありません。その最大の証拠は、リーガンの父親が姿を見せていないことです。  これは、リーガンの父親探しの物語。とするならば、この一連の事件を通して、リーガンは父親を発見できたのか? 父親候補だったカラス神父も、圧倒的に父性的な存在だったメリン神父も死に、「父」の象徴である「神」も悪魔に敗北しているのです。  もしこの映画が本当に「ハッピーエンド」なら、ラストでリーガンの「父親」が姿を見せなければいけません。

    映画の冒頭と同じく「分裂した父親不在の家族」が、そこに存在するだけなのです。「家族愛」も「無償の愛」も感じられない、「キリスト教の勝利」とは180度反対の「キリスト教の敗北」。実に殺伐としたエンディングになっています。

    『エクソシスト』(創元推理文庫)解説

    「神の敗北」と「父性喪失」を衝撃的に描いた『エクソシスト』は、映画史に残るエポックメイキングな一本であることは間違いありません。

    「みんなの憧れ」「そうなりたい」というのは、父性

    これらのホラー映画に共通するのは、反キリスト的であるということ。心霊現象に対して神父や神の力はほとんど無力で、それらに代わって霊能力者が活躍するというパターン。神や教会の力にすがれば何とかなる、というキリスト教の権威が存在していた『エクソシスト』以前とは、何かが大きく変わってしまったのです。

     描かれるのは、「弱い男性」に対して「強い女性」です。 70 年代からアメリカで叫ばれた、男女同権、女性の権利拡大というフェミニズム運動。 80 年代には男女同権が確立し、「強い女性」のイメージも定着しました。メリル・ストリープやシガニー・ウィーバーのような「強い女性」が主役の映画が、圧倒的に増えてきます。

    「弱い男性」と「強い女性」。時代をリードする強い女性を裏返せば、「父性不在」です。  神や聖職者が活躍しないオカルト映画。男性は早々に殺されるスプラッター映画。いずれのホラー映画にも「父性不在」の現実が、象徴的に描かれています。

    アメリカでは「若者の教会離れ」が非常に進んでいる、といいます。一昔前なら、日曜には家族そろって教会に礼拝に行く、というのが当たり前の習慣として存在していたアメリカ。それがいまやわずか数十%の人しか教会に行かないというほど、教会離れが進行しています。

    父性の変遷を語るうえで、どうしても無視できない作品があります、それは1972年の『ゴッドファーザー』、そして 74 年の『ゴッドファーザー PART』

    「父性喪失」という時代の転換を描いた重要な作品として位置づけています。

     

    というのは、「父親探し」の結果、自分の最大の敵が実の父親である、あるいは「父親的な存在」である、という映画が 90 年代から現在までに、数えられないほど作られているからです。

     しかし、ストーリーそのものが父親探しであり、「父性」とは何かという「父性探し」を中心テーマにドカーンとすえた映画というのはありませんでした。だからこそ「ヴェイダーはルークの父」という発想すら、できなかったわけです。  つまり、『新たなる希望』は、元祖「父親探し」映画です。そしてその後は、雨後の竹の子のように、たくさんの「父親探し」映画が作られるようになりました。『ハリー・ポッター』『ロード・オブ・ザ・リング』『ナルニア国物語」のように、長編大作と呼ばれるものは、ほとんど「父親探し」映画と言っていいくらいです。

     なぜ、ここまで「父親探し」映画が作られ続けるのか。それは、『スター・ウォーズ』という大ヒット映画の成功パターンを真似たということもあるでしょうが、ここまで似たようなパターンが、『スター・ウォーズ』誕生から 30 年* 以上たつ今も作られ続け、我々観客はそれに飽きることなく、むしろ反対にのめり込んでいくのには理由があります。  それは、現在が「父性喪失」「父性不在」の時代だから。しかもそれは、 10 年、 20 年前より進行しているわけですから、これからも「父親探し」映画が衰えることはなさそうです。

     1960年代のアメリカは、公民権運動の時代。つまり黒人を中心としたマイノリティの人権回復が強く訴えられた時代でしたが、 70 年代になると「女性の権利」、男女同権が強く言われるようになります。アメリカでは共働きが普通となり、結果として離婚の増加、子供の養育権をめぐる裁判が激増しました。『クレイマー、クレイマー』はそうした社会背景の中で作られた作品です。

    別居と離婚。シングルファーザーの子育て。養育権をめぐる離婚訴訟。父親が子供にどう接すればいいのか? 父親と子供の関係性を深めるヒントがたくさんえられます。  結論から言うと、

      ● 真剣に、そして全力で子供と関わる   ● できるだけ、たくさんの時間を一緒に過ごす   ● 一緒にご飯を食べる   ● 共同作業をする  などが、非常に重要であることがわかります。

     しかし、ベンジャミンはどうでしょう。ミセス・ロビンソンのどす黒い母性にからめとられて冷静な判断力を失い、社会へ船出できない、むしろ難破状態に陥るのです。  ミセス・ロビンソンは、「呑み込む母」「Bad Mother」として、ベンジャミンの社会的船出の足かせとなります。それを断ち切り、決断したベンジャミンは、一見自分の判断で行動する「自立」した大人になったようですが、エレーンとは長く交際したわけでもなく、そんな関係性の中で、結婚式から連れ出すという暴挙に至るのは、「責任ある判断」というよりは「現状からの逃避」と言わざるを得ません。

    2009年に黒人初の大統領、バラク・オバマの登場。この時は、オバマはアメリカを立て直す救世主のように、国民の期待を一身に集め、強烈な指導力を持つリーダー、父性的な存在として期待されたものの、国民が満足するような目覚ましい結果にはつながっておらず、日本と同様に、アメリカでもリーダー不在、父性不在が進行しているように思えます。

     それぞれの時代を映画から分析する場合、誰も知らない映画を例に挙げても、あまり意味がありません。ヒットした映画は、多くの観客が関心を持った映画と言い換えられます。人々が興味や共感を抱いた話題作やヒット作に、その時代の空気感が反映されているはずです。

     2012年、日本の夏休み映画では、二本の作品が話題になりました。『アメイジング・スパイダーマン』と『ダークナイトライジング』です。偶然でしょうが、この二つの作品には非常に多くの、それも重要な共通点があります。それが2012年の時代性、つまり「父性喪失」を色濃く反映しているということです。

     実は殺人者と化していたデントが「正義」のシンボルとなり、真に「正義」を実行したつもりのバットマンは、殺人容疑をかけられ「悪」のシンボルにされてしまう。新たなる強敵ベインが現れる中、バットマンことブルース・ウェインは、「正義とは何か?」「善悪とは何か?」に悩み、マスコミからのバッシングに心を痛め、再びバットマンとして活躍することに踏み出せないでいます。

    「正義」と思ってやったことが「悪」とされてしまう。正義や善悪の基準がなくなっている。つまりそこに描かれるのは「規範の喪失」です。「規範を示す」ことが「父性」です。

    このベインもそうですし、『ダークナイト』のジョーカーもしかり。ジョーカーは「秩序」のアンチテーゼとして登場しています。何をしでかすかわからない、その常軌を逸した行動が全く予測不能で、バットマンも完全に翻弄されます。彼の行動を説明するなら「狂気」という言葉以外に見つかりません。ちなみに、英語で"joker"は、トランプのババですが、"joker in the pack"で「予測不能」という意味になります。

    悪魔と神がコントラストをなすように、悪と善はコントラストをなします。  強烈な「悪」が描かれれば、それを排除することは正義であり、誰にもわかりやすい「規範」が成り立つわけです。「理解不能」で「止められない暴走する悪」に対しては、「規範」の示しようがない。規範不在の時代だからこそ、「悪」の描写も、複雑で理解不能なものへと変貌している、ということです。

     しかし、同じ条件で日本映画を考えると、当てはまる映画が非常に少なく、多くの場合アニメ作品だったりします。実写の日本映画で国民的映画というものがあるかと言われると、黒澤明監督の作品などは、多くの映画ファンが強く同意するでしょうが、ここ数十年、アニメ作品以外でそうした作品はほとんど思い浮かびません。

     そこで、「父性の年代記 日本編」とは言いながらも、実写映画ではなく、アニメ映画、テレビアニメを中心に論を進めていきたいと思います。

    「ガンコオヤジ」「カミナリオヤジ」の象徴ともいえる存在が、『巨人の星』の星一徹です。

    星一徹の父親像は「昭和中期における理想の父親像」から、「時代とズレた父親像」へと変化していきます。「強い父親像」拒否感が生まれ始めるこの時期から、父性喪失はスタートしているのかもしれません。

     作品のテーマや社会状況の反映(アイデンティティの探求、アダルトチルドレン、不登校、引きこもりなど)から、いわゆる文化人からも注目され、ふだんアニメを見ない一般人にも受け入れられ、社会的ブームを起こしたのです。

     この複雑で壮大な物語『エヴァンゲリオン』を敢えて一言で説明すると、父性または母性の問題を抱えた人物たちが、それを補完しあう物語ということになります。

     彼女の陽気な性格は、心理学的には「躁的防衛」と考えられます。辛いことがあったのに、やたらと明るく振る舞う人が、あなたの友達にもいませんか? 外面は明るく振る舞うことで、内面の苦しさを覆い隠そうとする心性です。明るく振る舞えなくなった瞬間、その心の防衛は全て崩れてしまいます。最初、心の強い女性に見えますが、それは心が強いのではなく、心が弱いから、重大なトラウマを抱えているからこそ、強固な心の壁を構築するかのように、強気に振る舞う必要があったのです。

    これはエディプス・コンプレックスの女性版です。女児が父親に対して独占的な愛情を抱き、母親に対して強いライバル心を燃やす心理を指します。良好な母娘関係なら、こうはならないはず。科学者としての母は尊敬する一方で、女としての母を憎んでいたことが疑われます。

     これでわかるように、主要な登場人物は、父性不在、母性不在の問題を抱え、父性愛、母性愛が著しく欠除した環境で育ち、さらに母親、または父親を自殺か事故死で失っているのです。

     しかし、私はこの最終2話を見て「なんてわかりやすいんだ。こんなにわかりやすく説明してしまっていいのか」と思いました。心理学的に見て、これほどわかりやすく、直接的な説明はないからです。

     シンジは、なぜいつも父親の前で萎縮していたのか? 自分自身に価値を見いだせず、いつもネガティブにしか考えられなかったのはなぜか? 戦うことが大嫌いなのに、なぜエヴァに乗り続けていたのか? そして、何を望んでいたのか? こうした「シンジの心理的な謎」に対して、完璧なまでに答えを出しているのです。  この最終2話は、心理学で言うところの「生きられなかったもう一つの人生」を映像化したものです。「もし○○だったら、自分の人生はもっと素晴らしいものになっていたのに」という感覚は誰にでもあると思いますが、そうした心の引っかかり。ユングはこれを影(シャドー)と呼び、自分の人生に様々な影響を与えている、と言っています。

     シンジにとって『エヴァンゲリオン』は、父性と母性の補完計画だった、ということです。

    『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『となりのトトロ』は、「自然」をテーマにしています。「再生」「育む」というモチーフは、「母なる大地」という言葉があるように、「母性」的なものです。

    いわゆる父性的でたくましい無骨なキャラクターというのは、『紅の豚』のポルコ・ロッソくらいでしょうか。『紅の豚』のキャッチコピーに、〝カッコイイとは、こういうことだ〟というのがありますが、「カッコイイ」と思わせるのが父性であるとは、既に述べたとおりです。

     しかし、2008年『崖の上のポニョ』を見た時に思いました。「ついに来たか」。ついに、宮崎駿が父性をテーマにした映画を作ってきたかと。  ちょうど、時代は父性映画が盛り上がりを見せる時期です。「母性映画」から「父性映画」への舵取りという意味で、時流にマッチしたテーマといえるでしょう。2011年公開の宮崎駿脚本、宮崎吾朗監督の『コクリコ坂から』は、まさに「父性」をテーマにした映画になっており、2006年の『ゲド戦記』とあわせて、ジブリ作品が「母性映画」から「父性映画」へと舵取りを変えたことは明らかです。

     ポニョの母親「グランマンマーレ」。その正体がよくわからなかったという人も、多いかもしれません。しかし、その名前が既に全てを説明しています。  これは、心理学者ユングの言う「Great Mother」(グレートマザー、太母)をイタリア語にしたものです。 「グレートマザー」とは、絶対的な優しさと安全感を与えてくれる、「母なるもの」のイメージです。すべてを受容し包容する、大地の母としての生命的原理を表します。実際の母親に投影される場合もありますが、むしろそれを超えて、「大地の女神」「母なる大地」として表現されることが多いでしょう。『ポニョ』では、「大地」ではなく「海の母」として表現されます。


    「樺沢さんの一番好きな映画は何ですか?」という質問をよくされますが、非常に困ります。好きな映画は山ほどありますから。でもだいたい「ここ 20 年の洋画なら、『ファイト・クラブ』です」と答えます。  そうすると次に「『ファイト・クラブ』のどこが好きなのですか?」と聞かれるのですが、自分にとっては圧倒的におもしろく、圧倒的に引き込まれる映画であることは間違いないにもかかわらず、その魅力が今までうまく語れませんでした。 「暴力衝動というものを、非常に深いレベルで描いているから」と答えてはみるものの、この映画へ入れ込む私の強い「想い」は、そこには全く表現されていないのです。  しかしながら、本書を書いた今、自分がなぜこの映画に圧倒的に魅了されていたか、その理由が非常によくわかってきました。それは、「父性」について本質的な部分を精緻に描き出していたから。究極の父性映画として完成されているから。映画の「父性」を探し続けてきた私がやっとたどり着き、探し当てた「父性映画」が、『ファイト・クラブ』だったのです。

     この二人の後姿から何が連想されるでしょう? 人によっていろいろなイメージがあるでしょうが、私には「父性と母性のバランス」が視覚化されているように思えてなりません。父性だけではダメだ! 父性と母性のバランスがとれてこそ、人の心は安定するのだという事です。

     映画を見る時、父親が家族の中で「父性」的な存在として機能しているかどうか、一瞬で判断する方法があります。それは、食事のシーンを見ればいいのです。

     家族で食卓を囲む。まず、そこに父親がいるのか。そして、どういう役割を果たしているのか。それを観察するだけで、家族関係や、家庭での「父性」の問題が全て見えてきます。

     兄は弟をからかい、母は夫の件でナーバスになっている。エリオットも、父親がいなくなったことを非常に寂しく思っていて、精神的に不安定な状態といえるでしょう。そうした不安定な「寂しい」心理状態で、エリオットは宇宙人E.T.と出会い、交流を深めていくのです。

     実は、監督のスピルバーグも高校生の時に両親が離婚し、その後母親に育てられています。両親の離婚の危機に直面した落ち込み、それを乗り越えていく過程。この映画には、監督本人の実体験が反映されている、と言っていいでしょう。

     ここでも、「両親の離婚」が主人公の一生に影響を与える大事件として描かれています。スピルバーグにとって、両親の離婚は非常にショックな出来事だったと推測されますが、だからこそ、その体験が『E.T.』でのエリオットの繊細な心理描写に役立っているのかもしれません。

     この沼田家の食事シーンが、非常に奇妙です。2メートルほどの横長のテーブルに、父、母、二人の息子、そして真ん中に吉本が座り、真横にならんでご飯を食べるのです。横に並ぶというのは、言い換えると「向かい合えない」ということ。家族の心理的なすれ違いが、視覚的にも見事に表現されています。

      ▼家族関係を見抜く! ~食事シーンの見方とは?  映画を見ていると、一本の映画に一箇所は食事シーンが出てくるものです。「家族」が描かれる作品では、特にそうです。前述のように、そこを見れば、父親の位置づけ、父性のある家族なのか、ない家族なのかがわかります。

     見分け方のポイントは、まず、食卓に父親がいるかどうか。仕事で遅くなり、たまたまいない場合でも、それは「いつもいない」ことが多いことを意味しています。

    「いただきます」という言葉が普通に出るということは、「礼儀」が保たれている、規範が行き届いているということです。

    食卓を囲むことで、家族関係が強化されます。

     家族で食卓を囲み、家族全員で同じものを食べることで、人間関係は「密」なものへと変化していきます。逆に、食卓を囲めない場合は、人間関係は「疎」なものへと変化してしまいます。家族関係が崩壊する最初の一歩は、家族で食卓を囲めなくなる、ということです。

    娘 の 父親探し 『オペラ 座 の怪人」

    「父親探し」や「父性」を描いた作品を紹介してきましたが、その多くは「息子」による父親探し。父子といっても、息子との関係性が描かれた作品がほとんどでした。  ここまで読んできて、「じゃあ、父と娘の関係というのはどうなのか?」「娘による父親探しはどうなのか?」と疑問に思った人も多いでしょう。親子と言っても、息子が同性である父に抱く感情、期待する役割と、娘が異性である父に抱く感情、期待する役割はかなり異なってきます。

     息子の場合、父は人生で最初の「ライバル」であり、自分の前に立ちはだかる壁となりますが、娘の場合は「人生で最初に意識する異性」です。恋愛に似た感情を抱くこともありますし、その後の人生における「男性のイメージ」「恋人や結婚相手として期待する男性像」に大きな影響を与えるのです。

     娘と父親の心理を考える上で、格好の題材は『オペラ座の怪人』でしょう。



     ファントムのコンプレックス克服という視点で見れば、このラストは、ハッピーエンドと見ることもできるのです。  もし『オペラ座の怪人』を見る機会があれば、その歌詞に注目してください。「father」という言葉が何度も何度も繰り返し使われているのがわかります。父親離れができていないクリスティーヌが、そのイメージに引っ張られながら、恋人選びをしていく。娘にとって「父親」との関係、「父親」のイメージが、恋人や夫選びに大きな影響を与えていることがよくわかると思います。

    ★  第   4   節   シングルマザーと 父性 の

    子育てには「父性」が大切です、という話をすると、母親一人で子育てをしているシングルマザーの方からは、「シングルマザーの父性はどうしたらいいのですか?」と質問を受けます。家の中に父親がいない。子供は、どこに「父性」を求めたらいいのか、ということです。

    父性は男性が担うもの、母性は女性が担うものではありません。男性の中にも母性的な部分があるし、女性の中にも父性的な部分があります。ですから、母親が母性と父性の両方を担うのは、十分に可能です。ただ、現実的には「厳しさ」と「優しさ」の二つの顔をうまく使い分けるのは、非常に難しいことだと思います。

    シングルマザーの子育ての難しさを描いた作品で思い出すのは、『サマーウォーズ』の細田守監督作品『おおかみこどもの雨と雪』(2012)

    この時、花は自分の「厳しさ」の不足、つまり父性の不足を実感したのではないでしょうか。もしここに「父」がいれば、あるいは父親の厳しさがあれば、けんかを止められたのではないでしょうか。

    父性とは、子供を社会へと引っぱり出すもの。父性不在で育った子供が、不登校やひきこもりなど、社会に出ていくのを躊躇するのは、よくあることです。

     

     シングルマザーの父性をどこに求めるのか? 父親がいなくても、子供のそばに「父親的な人」がいればいいのです。父親の役割を少しでも代替してくれる「代理父」を探す、というと仰々しいのですが、子供から信頼されて、子供の遊び相手になってくれて、父親と年齢が近い男性であれば、「代理父」の条件としては、十分です。  実の父親ではないけれど、子供が父親のような愛着を感じてしまう。『幸せのレシピ』(2007)のワンシーンを思い出します。

     自分の父親と同年齢くらいのニック。ゾーイにとって信頼できる人であり、よき遊び相手です。素晴らしい「代理父」だったはずですが、何か父親らしいことをしているかというと、特にそうでもありません。話し相手であり、遊び相手。でも、それだけでも、彼女の心を安定させて、十分に「父親」の役割を果たしていました。  子供にとって、自分の父親と同じくらいの年頃の男性と交流する、というだけで、父性はかなり満たされるのです。ですから、シングルマザーの場合「父親の代わりもしなくてはいけない」と自分を追い込むよりも、子供の遊び相手になるような男性が、時々家に来るような環境を作ればいいのです。

    「父性を取り戻そう」「父性を復権しよう」という主張には、「権威的な父親に苦しめられてきた人はたくさんいる。父性の復権など、とんでもない」という反論が必ず出てきます。「父性」=「権威的な父親」というイメージを持っていると、そう考えても仕方がありません。  確かに、権威的な父親、子供に対して厳しすぎる父親は、子供の生育にとってプラスにはならないのは明らかです。「父性」が弱いのもよくないことですが、強すぎる父性というのも、また子供にとってはマイナスになるのです。父性を取り戻そうと言った場合、それは「Good Father (良き父親)」を目指そうという意味なはずです。当然、権威的で威圧的、厳格すぎる父親や、暴力をふるう父親を目指そうということではありません。

    私は 20 年以上、精神科医として患者さんを診察する中で、患者さん本人との面談は当然として、患者さんの父親、母親とも会い、何百人もの家族と面接してきました。  患者さんが精神疾患に陥る。その場合、本人だけではなく、家族にも問題がある場合がほとんどです。大きなストレスを抱えたとしても、家族がそれを共有し、うまく支えることができれば、精神疾患にまで至らずに、何とかなる場合が多いからです。  何百人もの患者さんの家族と面談してわかるのは、父親と母親のどちらか、あるいはその両方に問題があるケースが非常に多いということです。母親の問題については、また機会があれば別な本で論じたいと思いますが、問題のある父親「Bad Father」には、いろいろな方がいるわけですが、シンプルに分類すれば、わずか3パターンに分けられることがわかりました。 「Very Strong Father」(強すぎる父親) 「Weak Father」(弱い父親) 「Ordinary Father」(普通の父親)  の3型です。

    「Very Strong Father」(強すぎる父親)は、父性が強すぎる父親像です。先に挙げた、権威的な父親、子供に対して厳しすぎる父親がそうです。映画で言えば、『エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウ、『シャイン』の厳しすぎるほどにピアノを指導する父親、『ある愛の詩』の言うことを聞かない息子の仕送りを止める父親、『ツリー・オブ・ライフ』のブラッド・ピット演じる父親、『チャーリーとチョコレート工場』の甘いものを厳しく禁止する歯科医の父親、

    「Weak Father」である父親の不甲斐なさが、ジムを苛立たせていたのです。一般に「Weak Father」の息子は、衝動のコントロールが難しくなります。父親とぶつかりながら、自分の力の限界を知り、衝動をコントロールできるように成長するわけですが、ぶつかるべき父親が弱すぎると、衝動のやり場がなくなってしまう。結果として、喧嘩したり、人をいじめたり、暴力をふるったりと、おかしな方向へ衝動を向けるということが起こってくるのです。  精神科医の福島章は『非行心理学入門』で、現代の若者が非行に走る原因について考察しています。そこで父性と母性について書かれた一節が興味深いので、引用させていただきます。  ……これを「言葉」「論理」を意味するギリシャ語の「ロゴス」を使って、「ロゴス」的機能の低下と言ってもよかろう。ロゴス機能はまた父性原理ともいわれる。これは一言でいえば「切る」機能である。母性原理の機能であるエロス機能がすべてを「包む」機能であり、子供を守り、育て、かかわり、良い子も悪い子も分けへだてなく愛し慈しむ機能であるとすれば、ロゴス機能は善と悪に分け、裁き、子供に自立と分離をうながす機能である。よく言われるように、現代においては母親の機能が肥大化し、過保護・過拘束・母子共生などが目につく。もっとも、母性的なものが氾濫する半面、父親らしい父親が少なくなったことは否定しがたい事実であろう。第二の母親のような、優しい物分りのよい父親が多くなった。  そこで少年たちは、かつての時代のように、父親と同一化することによって社会の規範や道徳を内面化することが難しくなり、父親のように強くたくましい人間になるために必要なモデルを見出しえなくなったのである。 福島章著『非行心理学入門』(中公新書)

    「父性」というのは、言うなれば「灯台」のようなものです。「灯台」の光を見ながら、自分の位置を確認し、船は航海します。灯台の光が弱すぎたり、見えなかったりすると、どこを航行しているかわからなくなり、目標を失って難破や座礁してしまうことになります。 「父性」とは、「父親的な力強さを持った存在」であり、「自分の目標や敬意の対象となる存在」、「そうなりたいという存在」

    つまり、今の時代は貧困層と富裕層の対立で富裕層が搾取しているとか、そんな単純な社会ではないし、社会的弱者がヒーローになれることもないし、「父親探し」をしても父親が見つかることはないのです。

    2010年代、日本で最もヒットした作品。それは『アナと雪の女王』(2013、以下『アナ雪』)

      ▼悪役不在=父性

    しかしながら、私は『アナ雪』は全く好きになれません。それは、男性キャラの描き方がひどすぎるからです。

    『アラジン』を見れば、ディズニーは戦略的に「父性(男性)不要論」を描いていることがよくわかります。『アラジン』は『アナ雪』のパワーアップ版であり、「父性不在」「父性消滅」からの「父性(男性)不要論」を、『アナ雪』を超える壮大なスケールで描いているのです。

    「ひきこもり」はなぜ起きるのか。いくつかの原因はありますが、「父性」「母性」から分析すると、「父性」が弱くて、「母性」が強いと、子供は社会に出て行くことができずに、「ひきこもり」が発生するのです。「父性」とは子供を社会に引き出す力。「母性」は子供を「家庭」に留める力。その心理的な綱引きによって「母性」側が勝ってしまうと、子供は社会に出て行こうとしない、つまり「ひきこもり」の原因となります。

    過剰な優しさ」「面倒見の良さ」「なんでもやってあげる」という過剰な母性は、子供の依存心を引き出します。

     私は、「社会に進出する女性像」を批判しているわけではありません。  アラジンを腑抜けな役たたず、「父性ゼロ」の男として描くのは、どうみてもやりすぎであり、映画を見た人たちに、「父性喪失」を肯定するようなメッセージを、無意識レベルに植え付けている可能性がある、ということを指摘したいだけです。

    「女性の自立」を描くのに、「男性軽視」「男性蔑視」と対でしか描けないとしたら、それは今まで「女性蔑視」によって女性の社会進出を阻んできた「男尊女卑」という古くさい思想にとりつかれた男性たちと何ら変わらない。実に低俗な思想ではないかと思います。

     しかし、その対決手段として、「男性に対するリスペクトのない態度をとる」「男性を軽蔑する」「男性をおとしめる」「男性を敵視する」というのは、おかしくはないですか? それでは、「女性差別を続けてきた(続けている)」古い男性と全く同じ思考パターンであり、単なる復讐でしかないのです。

    男性に対するリスペクトのかけらもない映画を見た女の子が、 20 年後に「互いにリスペクトし合える夫婦関係」を築くことは、極めて難しいでしょう。

      ▼男女がリスペクトし合うことは可能である

     女性の社会進出を描くことと、クリストフやアラジンを「ヘタレ」として描くことは全く別な話です。

     そんなわけで、男性をおとしめることでしか「女性の社会進出」を描けないディズニー映画と比べて、性別、人種、出自、経歴などを超越して「自分の進むべき道を進め!」という強烈なテーマを抱えた作品が、この日本から生まれたことは実に誇らしいことです。

     そして、「家族」や「父性不在」をテーマにした作品を作り続けてきた是枝監督が、「父性不在」の極みを描いた『万引き家族』が、日本以上に世界から大きな評価と共感を受けた、という事実が重要です。

      ▼父性は母親の中にも存在

    『万引き家族』の後半の展開で、ハッとするシーンがあります。  それは、死体遺棄の罪を、信代(安藤サクラ)が全て引き受けて、刑務所に服役する部分です。治は前科があるため、今回の罪を背負うと、長期の服役になってしまう。治をかばって、信代は全ての罪を引き受けたのです。信代の潔さ、そして愛情の深さにポロポロと涙がこぼれました。  これは、「母性愛」なのか「父性愛」なのか? そこが結構重要ですが、私は「自分が全ての責任を引き受けるという潔さ」に強烈な父性に通じる愛情を感じたのです。

     言い換えると、父性というのは男性だけが担当するものではありません。女性や母親の中にも父性的な部分があり、男性や父親の中にも母性的なものはあります。
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    投稿日:2023.06.09

  • むらし

    むらし

    【父性を取り戻せ!】

    面白かった。
    自分は父親の愛情不足の下に育ったと思うし、それによって「もっとこうあるべき」と常に強さを追い求めてきた。今もその流れの中にいると思う。

    父は昔ながらの昭和の男って感じで、家のことは母がやること、男は仕事、というような信条があったように思う。しつけも厳しかったし、特段コミニュケーションを密に取るってこともなかった。顔色を伺うようになったり、人に自分の本音を打ち明けるのが怖いとか、いろんな防衛反応が生理的に起こってしまうのもそうした環境があったからかも。

    最近は「師」の存在が欲しい、と強く思うのは、自分の中で父性を取り戻す、強化していくことが人間的な成長に繋がると本能で感じられているからだと思う。そこを再認識できたことはすごく大きな自信。間違ってなかった。

    父性を取り戻すには、特に、
    ・自分が「自己成長」し、自分のビジョンを持てる大人になること
    ・父親以外の尊敬できる誰か「メンター」に父性を求めること
    の2つが大事。やっぱり、ボスが必要だった…。

    幸い、和解はできているように思う。実家に帰る頻度、父親と過ごす時間はグッと増えた。やっぱり家族のもとに帰る、という時間はかけがえのないものだと思う。

    「自分で決断し、行動して、自分の力で切り開くしかない」

    父性を磨き、母性とのバランスの取れた、カッコいい大人、父を目指していきたい。
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    投稿日:2023.01.07

  • haru2012

    haru2012

    アメリカ・日本の映画やアニメに描かれる父性は、強い父・頑固親父→父性の敗北→父性の不在・消滅。鬼滅の刃の大ブームは、父性消滅に抗する刃、強さと優しさ(父性と母性)の両方を備えた主人公炭次郎。

    知っている映画がたくさん出てきて、そういえばそんなストーリーだったなと読んでいて楽しいです。ヒットするということは、その時代の社会に受け入れられるということなので、社会がどう変わってきたかの流れがわかります。続きを読む

    投稿日:2021.08.28

  • akihiro

    akihiro

    父性の変遷について、日本や世界の映画史を題材に紹介
    観たことない映画も分かりやすく説明してくださるので、読みやすいし、
    映画が題材で、読んでて楽しいです

    投稿日:2021.08.07

  • maruiwan

    maruiwan

    父親探し…目標探し(尊敬だったり悪役だったり)
    父親殺し…目標達成

    良き父↓
    1メンター、リーダー。
    2尊敬。
    3灯台。なりたい。
    4たくましさ。
    5普遍。
    6規範。
    7共有できるビジョン。

    悪しき父↓
    1敵。
    2恐怖。
    3反面教師。なりたくない
    4他者への暴力性。
    5エスカレーション。
    6権威主義。
    7独善的、利己的。

    模範的なサラリーマンは、
    尊敬できる良き父でなく
    目標を示せない普通の父かもしれない。

    父性は、断ち切る。貫く。規範。
    母性は、包む。受容する。愛。(呑み込むウロボロス)

    ゴールデンカムイみたく男女互いをリスペクトしたいね。

    続きを読む

    投稿日:2021.06.24

  • fujiyamaegg

    fujiyamaegg

    ■父性とは?
    父親の影が薄い家庭で育った子供が、メンタル疾患や不登校になっている例が多い、とのこと。
    しかし、なぜ?
    それが、父性と関連がある、ということなのである。
    では、父性とは何か?

    規範、ルール、ビジョンを示し、社会での生き方を示すもの (p58)

    理想的な父親「Good Farther」というのは、適度な「強い父性」と「個性」を持つ、とのことである。(p274)

    「Good Father」の条件をまとめると、以下の通りとなる。
    (1)規範を示している
    (2)尊敬、信頼されている
    (3)「凄い」「そうなりたい」と思われている
    (4)ビジョン、理念を示している
    (p314)

    これをみると、良いリーダの条件と「Good Father」の条件は一致しているのである。
    しかし、誰もがこんな「Good Father」になれるとは限らない。しかし、目標、理想として持つことは、誰でも可能である。

    ■映画作品を通して
    本書では、様々な映画を通して父性を語っている。特に印象深いものをあげる。
    ・「天気の子」を始め、新海監督の作品は、「父親不在」
    ・「そして父になる」が教えるのは、「父親は子供の養育を通して、初めて「父親になる」 」(p383)ということである。

    ■自分自身を振り返る
    本書を通して、自分自身の現在の状況も「父性」という観点から見直しを迫られる。
    ・自分の子供は、「父親不在」の影響を受けているのであろうか?
    ・自分自身の「父親殺し」は終わっているのであろうか?
    ・自分は「Weak Father」?もし、そうなら、それを乗り越えていくべきなのか。

    ■「カラマーゾフの兄弟」と「父親殺し」
    ・本書を通して、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に関して、新たな見識が得られた。「カラマーゾフの兄弟」は、文字通り犯罪としての「父親殺し」の物語である。しかし、そこに隠されているのは、心理学的な「父親殺し」の物語だったのである。三兄弟が、それぞれのやり方で、「父親殺し」を敢行していたのである。あの、三男の心清らかなアリョーシャですら、そうなのである。

    ■今後
    今後は、以下のことにも広げて考えていきたい。
    ・ユング、フロイトは、父性をどうとらえているのか?
    ・アドラー心理学に基づく子育てとの親和性。
    ・応用行動分析学による子育ての奥田健次さんの考えとの親和性。
    続きを読む

    投稿日:2021.06.06

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