快楽としての動物保護 『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ

信岡朝子 / 講談社選書メチエ
(3件のレビュー)

総合評価:

平均 3.3
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  • Flooding Throne

    Flooding Throne

     比較文学・文化学者の手による、現代動物保護思想への批判の書。取り上げられているのは動物文学者シートン、自然写真家星野道夫、そしてアカデミー賞ドキュメンタリー部門受賞映画「ザ・コーヴ」。なんだか三題噺のようではあるが、本書はこの三者をはじめとする大衆文化内のイメージや表象を題材に、20世紀以降の主に西洋社会における急速な近代化の過程で、「動物愛護」という美しきヴェールを纏いながら確実に浸透してきたある特定の「思想」に照明を当てる試みだ。本作を通じて著者は、複数の文化の自然や動物との連関を丹念に解きほぐし、自然保護や動物愛護運動を形作ってきた表象・イメージの根源を露わにしたうえ、根底にすこぶるややこしいものが存在する可能性を指摘する。扱われる題材はかなり広範囲で、著者の論理の運び方も直線的ではないため読み進めるのに若干骨が折れるが、「動物愛護」の美名に触れると思考停止に陥りがちな我々現代人にとって、十分な知的刺激になり得る本だと思う。当然ながら、捕鯨の是非などという問題には一切触れていない。 
     
     第一章では、かつてアメリカで動物文学の第一人者とされながら非科学的であるとの批判を受け表舞台から姿を消したニュートンと、彼の作品の日本における浸透の立役者となった動物研究者平岩米吉に焦点が当てられる。20世紀初頭のアメリカの都市化・近代化の過程で、自らが引き起こした急激な社会変化に不安を感じた白人支配層の間に、人工環境ではダーウィニズム的な自然淘汰がもはや機能せず、このままでは白人社会は退化していくのではないかという強迫観念が生じた。これが「自然回帰運動」に繋がるのだが、そこでは自然の「ありのまま」の状態が最上位概念とされ、シートンのような動物にまつわる逸話を「合成」して物語を構成する作家は「ネイチャー・フェイカー」であると批判され、次第に忘れ去られていった。
     著者によれば、シートンと平岩には共通する科学観が存在し、それは科学至上主義に対するある種の不信感だという。2人とも動物に対するアプローチは科学的なものであったが(いくつかエピソードが紹介されているが2人とも驚くほど冷徹に動物、特に死体を扱っていたことに驚かされる。最近日本で「猫は別に可愛いとは思わない」と言ってのける猫専門の動物行動学者がTVで話題になったことを思い出した)、それはあくまで動物の「真実」を理解するための方便であって目的ではない、動物を伝記的、擬人的に扱うことで得られる真実、すなわち「『彼ら』としての視点」こそが重要だ、と考えていたのだという。そもそも動物を完全に客観的、非擬人的に描写することなどできず、「科学的」アプローチにも何らかの「人間中心主義」が混入することが避けられない。また、都市化による利便を十分に享受し支配者としての地位を確保しながら自然回帰を賛美するというのは明らかに身勝手だろう。著者は、このことを認めないまま科学至上主義、自然回帰を謳う態度こそに欺瞞の匂いを嗅ぎ取っているのだ。

     第二章は、自然保護運動から距離を置いたままアラスカを放浪し、ついには非業の死を遂げた写真家星野道夫を題材に、自然保護運動の起源が語られる。起点となるのはしかし星野ではなく、自然を撮影した写真をコンピューター処理することを肯定したベストセラー写真家、アート・ウルフ。彼の写真は、フロンティアが消失した20世紀アメリカにおいて、真の自然すなわち「ウィルダネス」を取り戻すべくハンティングの代替としてフォトグラフィーが普及する文脈において、自然保護意識を啓蒙するものとして支持を集めた。動物を食うために狩猟するのではなく撮影して楽しむという行為は、ここでも退行を恐れる白人層に、己を未開人種から区別する「進化」の格好の表象としてアピールした。そのような社会的文脈に戦後のビートニク思想が加わり、日本人に自然と合一した表象が被せられたが、その一人である星野にも、本人の預かり知らぬところでエコロジストとしてのイメージが付着していく。
     しかし、星野自身は自然保護活動とは距離を置いていたというのが事実だという。当時のアラスカでは開発に伴う議論、すなわち「資源活用か景観保護か」が盛んに行われていたが、著者はこれをアングロサクソン側の都合により捏造された虚偽の対立軸であり、何ら先住民の視点に立ったものではなかったという。17世紀に生じた、自然は理想的な姿に自律回復するというデカルト的な「機械としての自然」観が20世紀の開発を巡る論争の中に再導入された結果、西洋中心的な「エコ」イメージが優先され先住民の都合は完全に置き去りにされていた。星野もこのことを鋭敏に感じ取り、先住民の真の価値観や彼らと自然の関係性を追求していたというのだ。星野は、エコ思想に沿ったウルフ的な「見られる自然」を追求するフォトグラフィーよりも、そこからはみ出ていこうとする「見られることのない自然」、すなわち不在や死を内包するより根源的な自然を見たいと考えていた。エコとは関係なく生活する先住民に、星野は誰かに見られ評価されなくても価値のある実在的・超越論的なもの、都市生活者が決して理解し得ない「何か」を、自分でも分からないままに見出していたのだ。

     そしていよいよ第三章では本書が書かれる契機となったであろう「ザ・コーヴ」が扱われるのだが、そこに至るまでには長い前置が必要となる。まず前史時代よりクジラやイルカの生存環境が人間のそれから乖離していたため、相互の関わりが濃密なものではなく、長らく人間はそれらを主に想像の領域で扱ってきたことが語られる。これはそれらが「存在の大いなる連鎖」すなわち西洋に古くから存在する、神ならぬ全てのものは神に最も近い人間を頂点とし、最も低俗で不完全な創造物を底辺とする階梯状のヒエラルキーをなしているとする観念の中での位置付けが曖昧であったことを意味する。明らかな人間との近縁性を示し人間の野蛮な動物性を連想させずにはおかない類人猿たちとは異なり、「知性をも」ち不完全性へのグラデュエーション外部に存するクジラやイルカは、人間が自らをも野蛮な不完全性から自由であることを確認し得る象徴として機能したというのだ。そして同時に、動物に対する未開社会の即物的な欲求を再教育すべきだという変革への強い信念が生じ、これが「エコ・テロリスト」たちの過激な活動の根底にあると指摘している。
     このように、本書では西洋白人社会の宿痾を指すものとして「退行への恐怖」というモチーフが繰り返し用いられる。熱力学第二法則にあるように、低エントロピー状態からはエネルギーが取り出せるが、徐々に世界はカオスに落ち込み、エネルギー(経済成長)の源泉である落差(フロンティア)はいずれ無くなる。このことに怯える西洋社会が、「落差はまだある」と強弁すべく持ち出した新たなテーゼが動物愛護や自然保護だった、ということを著者は言いたいのだと思う。

     本書に通底する西洋白人社会に対する冷たい眼差しは、もちろん一義的には単一的な価値を絶対視するドグマへの批判ゆえのものであろう。しかし別の読み方もできるのでは。私見ながら日本人は、奴隷制度などの明示的な差別を受けた黒人などの他の有色人種と比べ、西洋社会が作り上げた「大いなる連鎖」の中では相対的に曖昧な位置付けにあると自認してしまっているように思う。階梯内に位置付けられてしまうこと自体の意味に無自覚なまま…。本書を読みながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
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    投稿日:2021.01.26

  • honnyomimann

    honnyomimann

    動物保護,環境保護に熱くなる人を見たときの違和感を言語化してくれている.その背景には白人至上主義的な思想が根底にあるのでは(もちろんそれだけではないが)と読み取る.

    ーーーーー

    動物の保護、愛護にまつわる文学→写真→動画のメディアの変遷。
    そしてそこには西洋の人種主義、優生思想や異文化の浄化が見え隠れする。

    スナップショットを見て自然や動物を解った気になる浅はかさ。
    アラスカという経験しないとわからない、経験してもなお分からないことがある世界。星野道夫。
    わからないを認め、受け入れる。

    反捕鯨活動、北米でドキュメンタリーが放送。→一大総合娯楽に。

    メディアホエール
    実態とは乖離した人の想像上のクジラ、イルカ

    キリスト教、神に似た生き物として人間を作り、その人間が他の生物を支配する。
    「保護しろ!」もエゴの押し付け 動物の保護を訴える俺気持ちいい〜!なだけ。→自分ではない"虐待する誰か"を見つけ攻撃したいと言う目標

    猿は人種的野蛮感を感じさせるがイルカにはそんなイメージがない、知性的、友好的、平和的

    エコテロリスト「メディアとは、事実を伝達するためではなく、自分たちの言い分を効果的に伝えるための手段にすぎない」

    シーシェパードのような環境保護団体は大衆に救済物語という娯楽を提供する。変わりもしない世界を変えるという疑似成功体験、欲望を満たす商品。→この手の話そこらじゅうにあるよな。

    動物を「なぜ」保護するのか。単純だけど未だ答えが見えない問い。その結果として見えてきた人間のエゴ、理想と現実の矛盾した活動

    多様性を認めると言うことはその多様なものの中に自分の嫌いなものがあってもそれを受け入れること

    筆者の博士論文がもとなのかこれ。。。すごい。。
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    投稿日:2020.12.23

  • mysterymanbo

    mysterymanbo

    本書を読みながら、大学講義用のテキストを読んでいるような印象を受けたのも当然、筆者の博士論文を加筆したものだということを、あとがきで知りました。結論から言えば、研究者らしいスキのない分析と論証はさすがですが、内容はといえば、結論めいたものはなく思考トレーニング用教材としての用途として寄与するくらいというのは酷でしょうか?筆者も白状していますが、結局「門外漢の仮説」の域を出ないのは、文系研究者の悪い癖です。
    とはいえ、シートン動物記やアラスカ写真家の星野道夫、イルカ漁を告発する「ザ・コーブ」を題材に、人間と動物の関係性に着目した点はユニークです。
    中でも、アカデミー賞まで取った「ザ・コーブ」に潜む動物種の選別嗜好(なぜ、くじらやイルカだけが過剰に保護されるのか)がどのように形成されていったのかという背景には、ポイントとなる人物が存在していました。「わんぱくフリッパー」の製作にもかかわったリリイの情緒的な共感論(イルカは思いやり、友好や創造性、スピリチャルな英知や直感的な知性に富んだ生物)やラッセンの絵にみられるイルカと海や宇宙のモチーフ(宇宙船地球号の象徴)など、好きが高じて科学的とは言えないニューエイジ思想やカルト的な言説大系の勢いを得て神話化したことが覗えます。さらに、シーシェパードなどのエコテロリスト団体は、絶滅危惧種の個体数が回復するよりも、彼らの経済的かつ思想支持者への一見効果があるような「成果」の心理的充足感の方を重視しているという指摘は鋭い。その傍証として、クジラの胃の中から大量のプラスティックが見つかったのに、プラスティック製造工場が襲撃されることもなく、ましてや海辺でプラスティック容器を投げ捨てる海水浴客などへの抗議デモもが起こったためしがない。
    また、娯楽を目的としたスポーツハンティングの方が、食べることを目的とする生活狩猟よりも高級であるという北米での狩猟ヒエラルキーの影響が強くみられる点も重要です。
    動物保護、愛護という社会的に正しい理念は、動物虐待や殺傷という過ちを犯す野蛮な者への攻撃は正当化され執拗に継続されていく。これも、過激なエコテロリストが悪者成敗として社会的に容認されやすい理由の1つです。
    では、なぜ家畜は好き放題殺され、一部の動物は殺されてはいけないのでしょうか?知能や親近感だけで、動物の死を選別すること自体が人間のおごりであり、こうした運動の背景には、何らかの形で利益を得るものと、深く考えていない多くの情緒的同情者の存在をまず認識しておくことが必要です。

    以下は、本書のPR文です。

    ペットと家族同然に暮らしている人はもちろん、テレビやネットで目にする動物の映像を見てかわいらしく感じたり、絶滅が危惧される動物や虐待される動物がいることを知って胸を痛めたりする私たちは、動物を保護するのはよいことだと信じて疑いません。しかし、それはそんなに単純なことでしょうか――本書は、このシンプルな疑問から出発します。
    子供の頃、挿絵が入った『シートン動物記』をワクワクしながらめくった記憶をもっている人でも、作者のアーネスト・T・シートン(1860-1946年)がどんな人なのかを知らない場合が多いでしょう。イギリスで生まれ、アメリカに移住してベストセラー作家となったシートンは、アメリカではやがて時代遅れとされ、「非科学的」という烙印を捺されることになります。そうして忘れられたシートンの著作は、しかし昭和10年代の日本で広く読まれるようになり、今日に至るまで多くの子供が手にする「良書」の地位を確立しました。その背景には、シートンを積極的に紹介した平岩米吉(1897-1986年)という存在があります。
    こうして育まれた日本人の動物観は、20世紀も末を迎えた1996年、テレビの人気番組の取材で訪れていたロシアのカムチャツカ半島南部にあるクリル湖畔でヒグマに襲われて死去した星野道夫(1952-96年)を通して鮮明に浮かび上がります。この異端の写真家は、アラスカの狩猟先住民に魅了され、現地で暮らす中で、西洋的でも非西洋的でもない自然観や動物観を身につけました。それは日本人にも内在している「都市」の感性が動物観にも影を落としていることを明らかにします。
    本書は、これらの考察を踏まえ、2009年に公開され、世界中で賛否両論を引き起こした映画『ザ・コーヴ』について考えます。和歌山県太地町で行われてきた伝統的なイルカ漁を告発するこのドキュメンタリーは、イルカを高度な知性をもつ生き物として特権視する運動と深く関わるものです。その源に立つ科学者ジョン・カニンガム・リリィ(1915-2001年)の変遷をたどるとき、この映画には異文化衝突だけでなく、近代の「動物保護」には進歩主義的な世界観や、さらには西洋的な人種階層のイデオロギーが反映されていることが明らかになります。
    本書は、動物を大切にするというふるまいが、実は多くの事情や意図が絡まり合った歴史を背負っていることを具体的な例を通して示します。一度立ち止まって考えてみるとき、本当の意味で動物を大切にするとはどういうことかが見えてくるでしょう。

    [本書の内容]
    はじめに
    序 論――東西二元論を越えて
    第I章 忘れられた作家シートン
    第II章 ある写真家の死――写真家・星野道夫の軌跡
    第III章 快楽としての動物保護――イルカをめぐる現代的神話
    おわりに
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    投稿日:2020.11.16

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