【感想】ウォークス 歩くことの精神史

レベッカ・ソルニット, 東辻賢治郎 / 左右社
(16件のレビュー)

総合評価:

平均 3.8
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  • がと

    がと

    歩くこと。歩きながら考えること。それが人類をいつも前に進ませてきた。人類の精神を形作ってきた歩行の歴史を、自身の経験も交えながら縦横無尽に語りつくすノンフィクション。


    私は歩くのが好きなほうで、時間が許せば二駅分くらいの距離は歩いていく。交通費をケチってると思われたりもするが、私は一人でものを考える時間が好きだから歩くのが好きなのだなと本書を読んで気づいた。歩くことについて考えたことがなかったから、そんな単純なこともわからないままにしていた。
    本書でソルニットが俎上にあげたトピックは多岐に及ぶ。そもそもヒトを猿から隔てたのが二足歩行だから、人類史のほとんどが歩行と結びついてしまうのだ。ひとまずは「なぜ人類は二足歩行を始めたのか」を過去・現在の科学者が唱えるさまざまな仮説をならべて考えるところから始まる。結論はでないが、前時代の女性差別的な仮説をイジりにイジり倒すのが楽しい。
    その後、歩行が文学のテーマになったのはソローから、ということで時代は一気に下って18世紀へ。ロマン派、ワーズワース、安全な庭からピクチャレスクな〈自然〉へ、というベタな流れを辿るのだが、歴史的な記述からシームレスに個人的なエピソードへ繋がっていく語りがとにかく気さくで読みやすい。最初は本書の厚みにビビった私も夢中で読み進めていた。
    とはいえ、私は自然が好きな歩行者ではないので、都市の歩行者に視線を移した後半部のほうが興味深かった。ソルニットが実際に滞在したことのある世界の都市を比較しているところを読むと、同じように「東京や札幌や福岡を歩くこと」を語る本があってほしいと思う。
    ソルニットの口調が特にアツくなるのは民衆が集会の自由を行使し、歩くことの力を発揮するパレードやデモについて語る場面だ。市民が道路を私的空間とみなして寛いでいる街と語られたパリが、それだからこそ革命が起き今もデモの盛んな都市なのだと言われると、ニュースで見る火炎瓶飛ぶパリの印象も違ってくる。
    ソルニット自身もそうした行列・行進に参加してきた一方で、歴史的に女性の一人歩きは危険視されてきた。ただ一人で自由に歩きたいと思うだけで、男性の欲望や憎悪から身を守る術をつけろと強要される〈歩く女たちの歴史〉を記した「夜歩く」の章は、ソルニットの内面も吐露されフェミニズムのエッセイとして素晴らしい。夜間に歩いていただけで警察に拘束され、処女か非処女かの"検査"をされたというおぞましい話も、そう遠い昔ではないのである。
    結末部は人間の身体性が疎外されている現代社会に対する批判になっていくが、なかでもルームランナーを使ったウォーキングについての「かつて使役動物の地位にあった身体は現在愛玩動物の地位におかれている。往時の馬のような実際的な輸送手段とはなっていない代わりに、犬の散歩のような運動を課されている。つまり、実用ではなく娯楽のための存在となった身体は、労働[ワーク]ではなく運動[ワークアウト]している」というくだりはキレ味がよすぎる。
    本書を読んでいてストレスフリーだったのは、なんにつけても〈書く〉主体がほとんど男性だった時代を語るときに、では女性はどうだったのだろう、とサイドチェンジする視点が常にあることだ。歴史を書いたものには、男性が当然のように女性を排除して使う「私たち」に曖昧に乗っかって仲間に入れてもらったような気にならないと読めないものもある。本書は、「では女性は」「では同性愛者は」「では金を持たない庶民は」と、〈書く〉特権階級にあとから参入した属性のことを忘れることがない。それが読んでいて本当に安心できる。しいて言えば、義足や車椅子のユーザーのことはどう考えているのか知りたかった。
    〈歩くこと〉から放射状に語りが拡散していくようにも、〈歩くこと〉という一つのテーマが多様な語りをギュッとまとめているようにも読める巧みな構成で、ここからまた思考を歩ませることができる開かれた本だと思う。松岡正剛の『ルナティックス』や『フラジャイル』のような遊学の精神とフェミニズムが結びついて、読む者の心を軽くする一冊になっているのがすごい。名著。
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    投稿日:2024.03.20

  • nekotuna

    nekotuna

    多面的にあるくことを見つめていく哲学書。

    サブタイトルの「歩くことの精神史」にじわじととくるものがある。「人」ではなく「こと」であることに。

    6年と10日。2201日掛けてようやく。ここまで自分も歩いてきたのだなと感慨。続きを読む

    投稿日:2024.01.02

  • Kaya

    Kaya

    第1部 思索の足取り The Pace of the Thoughts
    /第1章 岬をたどりながら
    /第2章 時速3マイルの精神
    /第3章 楽園を歩き出て――二足歩行の論者たち
    /第4章 恩寵への上り坂――巡礼について
    /第5章 迷宮とキャデラック――象徴への旅

    第2部 庭園から原野へ From the Garden to the Wild
    /第6章 庭園を歩み出て
    /第7章 ウィリアム・ワーズワースの脚
    /第8章 普段着の1000マイル――歩行の文学について
    /第9章 未踏の山とめぐりゆく峰
    /第10章 ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争

    第3部 街角の人生 Lives of the Streets
    /第11章 都市――孤独な散歩者たち
    /第12章 パリ――舗道の植物採集家たち
    /第13章 市民たちの街角――さわぎ、行進、革命
    /第14章 夜歩く――女、性、公共空間
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    投稿日:2022.09.14

  • PDfE

    PDfE

    歩行の歴史を語るなかに作者が散歩をするモノローグが挿入され、まさに思考がふらふらと歩き回るような過程をたどる。
    歩く対象としての自然が庭から山まで様々なかたちに変奏・解釈され、果てに歩くことのできない郊外にたどり着くのが特に興味深かった。続きを読む

    投稿日:2022.02.13

  • ぱとり

    ぱとり

    『まったく何もしないのは案外難しい。人は何かをしている振りをすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ』―『第一章 岬をたどりながら』

    例えば「Skyscraper」という英単語が「超高層の建物」を指す言葉だと知った時に生じる小さな衝撃は、空という手の届かない絶対的な背景がペインティングナイフでさっと削ぎ取れてしまう程の距離にあるカンバスの上に空色の絵具として一瞬にして凝縮されてしまう変容に由来しているように思う。あるいはそれを「地」と「図」の逆転と言ってもよいかも知れない。陰陽の太極図が示す相対するものの置換と言ったら少々大袈裟かも知れないが、レベッカ・ソルニットが大部の著作の中で語る「歩くこと」も、どうやらそんなエッシャーの「昼と夜」の中の雁の飛行にも似たところがあるように思う。それはまるで禅宗の教えるところの「半眼」の状態。いきなり提示される二元論的世界観。

    『ここに挙げた書物は、歩くということがいかに捉え難く、注意を向けつづけることが難しい主題かを示している。歩くこととは、いつだって歩くこと以外のことだ。(中略)それでも、歩くことについての随想や旅行文学のすべては、地上を歩く理由について、曲折はあれどもひと続きの二百年間の歴史を語っている』―『第八章 普段着の一〇〇〇マイル』

    およそ全ての動物は生涯移動し続ける。その移動はもちろん必要に迫られて行うことの筈。「歩くこと」はそもそも人類にとって生命を維持するために必要であった行動に起源を求めることが出来るに違いない。しかし動かないことで生命維持に必要なエネルギーを最小限に抑える戦略を選択したナマケモノのような動物は極端な例としても、食物確保を狩猟採集から農耕へと転換し定住生活を送るようになった人類に必要な移動は限られるようになる。以来、生活圏を離れる程の移動は徐々に必要に迫られてするものではなくなってゆく。それでも人類は、例えば1991年に標高三千メートル超のアルプスの渓谷で発見された五千年以上前の旅人アイスマンのように、大いなる移動をし続けた。その特異性を、時に客観的な観察対象として、時に主観的な意識の変遷として捉え、膨大な書物の森の中に渉猟する試みが本書「ウォークス 歩くことの精神史」である。

    ソルニットは歩行の「必要性」を伴う原初の目的が、移動することそのもの、あるいは移動による心身の変化への希求へと変容していく様を読み解いていく。それは在る意味で歩行を「目だけとなる行為」あるいは「感覚受容のための行為」へと向かわせる。結果、脳に抱えきれないほどに吸収した感覚的情報は発散を求めることになるのは自然の流れだろう。それが時として文学となり、主張となり、主義となり、宗教となる。そして政治的な意図を伴う行為となって発露する。数多くのそんな例を挙げながら、現代の歩行者たるソルニットもまた、本書の随所で政治的な主張を展開することになる。

    『ウルフはその道のりをたどりつつ――あるいは想像しつつ――都会を歩くという主題について珠玉のエッセイを綴った。「晴れた夕方の四時から六時くらいに家から足を踏み出すとき、わたしたちは友人が知っている自分を脱ぎ捨てて、茫洋とした匿名のさまよい人の群れに加わる。自分の部屋で独り過ごしたあとでは、その世界がとても心地いい。」』―『第十一章 都市』

    本書の後半は、近代化に伴ってもたらされる歩行の趣の変容が人々の精神にどのような影響を及ぼしていったのかについての考察。都市は匿名性を個人に付与する。それは自分自身をどこまでも地へと塗り込める作用であり、ある種の自由、快感すらもたらすことがあるとの分析は説得力がある。しかしその匿名性の効用は本来図として存在する筈の自身の身体を透明化してしまうことにも繋がってしまう。逆説的だが、だからこそ身体性を感じられる歩行に禅の修行のような意味合いを付与しようとするムーブメントも起こるのだろう。それは身体性の再確認に他ならず、不自由さへの回帰でもある。

    『ここまでたどってきた日常生活の脱身体化は、自動車の普及と郊外化のなかでマジョリティが経験したことだった。しかし少なくとも十八世紀の後期以降、歩くことはときとしてメインストリームへのレジスタンスだった。その存在が際立つのは時代と歩調が齟齬を来たしてゆくときだった』―『第十六章 歩行の造形』

    不自由さとどこまで折り合っていくかということは、翻って見れば自分自身の身体とどう折り合っていくかということに他ならない。それを端的に感じられるのはやはり「歩くこと」なのだなと得心する。
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    投稿日:2021.04.06

  • 酒井高太郎sakaikotaro

    酒井高太郎sakaikotaro

    (01)
    誰もができることとは言えないまでも,多くの人間たちが行うことができることとして「歩くこと」が本書では取り上げられる.全17章は,プロローグやエピローグにあたる部分を除けば,ほぼ時代を追う構成となっている.
    古代ギリシアの哲人たちや近代のルソーやキェルケゴールといった哲学者たち,無文字の時代に直立で歩かれた痕跡,神話や巡礼に現れる歩行,フランス庭園からイギリス風景式庭園で歩かれた記録,庭園を離れ歩き出したワーズワース(*02)らの一群の逍遥,アメリカ大陸東部のソローらの歩行活動(*03),登山や記録に挑戦する徒歩旅行,産業革命を経た都市から歩き出す労働者たち,ディケンズのロンドンやベンヤミンのパリ,革命や運動としての歩行から女性が歩行することの危険,現代芸術が示そうとする復古的な歩行やラスベガスのディストピアのような歩行空間まで,著者の実体験ともいえる歩行の記憶から,文学や随筆といった記録までを扱い,歩くことの単純さと複雑さを一編のアンソロジーとして編み上げている.

    (02)
    ワーズワースともなると歩きながら詩作を練っていたというにとどまらず,歩きながら詩を実際に書き留めていたというエピソードは面白い.現代芸術に触れた章において,歩くことの軌跡が文字のように働き,歩くことがそのまま大地に何かを書く/描くことであることを示している.

    (03)
    歩くことは抵抗の表現でもあり,囲いこまれようとする風景へとアクセスする権利闘争として,特にイギリスでは意識されている.その一方で,著者は現代の歩行はジムに囲われた運動として「トレッドミル」として譬えられるような皮肉な労働としての歩行をも見ている.そこには,現代において歩くことの難しさも指摘されており,女性が夜に歩くことへの安全保障を社会に呼び込むことにもひとつの光明をみている.
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    投稿日:2020.10.17

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