【感想】夢の本

ホルヘ・ルイス・ボルヘス, 堀内研二 / 河出文庫
(5件のレビュー)

総合評価:

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ブクログレビュー

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  • ASHITAKA

    ASHITAKA

    このレビューはネタバレを含みます


    我々は我々の夢と同じ布地でつくられている。逆の言い方をするならば、我々は我々自身の実質で我々の夢を織り上げている。
    夢うつつ より


    「消えちまうのさ。あんたは夢の中の人間。だから、王様が目を醒ましたら、あんたはろうそくのように消え失せてしまうのさ」
    ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(1871)
    王の夢 より


    「瞑想にふけっているのは彼の方で、彼が夢を見、この自分は彼の中の夢の中の存在なのだ。彼が目覚めたら、自分はもはや存在しなくなる」
    意識と無意識 より


    だが、先に引用したポール・ヴァレリーの、文学の歴史は作品の年代順の羅列であってはならないという見解を自らのものとするボルヘスにとってみれば、これはごく自然な編集方法と言うことができよう。
    『夢の本』について より


    「私(たち)は夢がつくられているものと同じものでできている」というシェイクスピアのことばは、まさに自分のことであると彼は言う。

    何千もの楽器を奏するような綺麗な音色が聞こえて、雲の切れ間から宝物が降ってきそうで、目が覚めると夢に戻りたくて泣いてしまう、という台詞。
    解説 秩序と混沌 より


    本国では70年代頃の刊行。収録されている一節の中には70年代の書籍からもあるので、古くあるものから最新のものまで、広い視野のもと個人で選集された模様。
    自分がボルヘスの書籍をとるきっかけになったクリストファー・ノーランもかなり影響受けている点を差し引いても、夢、という事象に対する解釈は物語のトリガー的な役割以上に現実と結びつき、作家の想像を掻き立てるのかもしれません。
    支配の行き届かない身体と展開は見ている者(夢を見ている自身)を翻弄し、ときとして答えらしいものすら提示せず霧のように消えてしまう。起きたときには綺麗さっぱり忘れていることもしばしば。

    解説の谷崎由依さんはAmazon Studioで映像化されたコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』の訳者でもある方で、いい角度からの解説でした。

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    投稿日:2021.08.29

  • 枝乃

    枝乃

    神話、聖書、小説、詩などなど。西洋から東洋まで。古今東西の「夢」をテーマに編まれた113篇のアンソロジー集。各作品の一部が抜粋されているため、ダイジェスト集のようにも見えました。以前から「ギルガメシュ叙事詩」を読んでみたいと思っており、この本で部分的に内容を確認できたのは幸いでした。好みは分かれそうですが、この本くらいでしか触れることができなそうな作品も読める個性的な一冊でした。続きを読む

    投稿日:2020.09.18

  • ユカ

    ユカ

    読書家のボルヘスおじさんが古今東西の夢にまつわる話を集めたアンソロジー。
    最初は聖書からの引用と古代ギリシャローマが続き、単調ですこし辛かったが、途中の『病める騎士の最後の訪問』あたりからぐっとバリエーション豊かになる。合間に挟まる程度の分量だと聖書の引用もくどくない。
    ゆっくりとかみ砕き文そのものを愉しみつつ、前の話・次の話とのコントラスト、「ここにそれを挟むか~」という選集だからこその楽しさも。
    枕元に置いておき、子どもが寝物語をせがむように少しずつ読みたい。
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    投稿日:2020.02.16

  • transcendental

    transcendental

    ボルヘスが編んだ古今東西の夢にまつわる断章の数々、1976年。アンソロジストでもあるボルヘスが蒐集・分類・排列した云わば「夢の図書館」とでも呼ぶべきもので、この作品自体が雑多なイメージ群からなるひとつの夢のよう。



    「宝玉の果てしない夢」「悪夢」「病める騎士の最後の訪問」「白鹿」「アロンソ・キハーノ、夢を見る」「荘子の夢」「王の夢」「意識と無意識」「隠された鹿」等々。自分が夢を見ているのか、自分が誰かの夢なのか。主/客の階層構造がくるりと反転して、始まりも終わりも無い、原因も結果も無い、meta-level も object-level も無い「円環」構造に転じてしまう奇想譚の数々。

    改めて、夢と現実との位相構造ということを考えた。夢とは、現実との関係に於いて、主/従だとか実/虚だとか表/裏だとかいうように、必ずしも非対称的な(二者間に価値の偏差がある)二項対立関係のうちに位置付けられるものではないということ、そうした二項の区別自体が無意味なものとして解消されてしまう地点が在り得るということ。

    それは或いは、双方の関係が互いに対等かつ対称的であるがゆえにどちらが実像でどちらが虚像であるのかが決定不可能となる「鏡像」の構造であったり。或いは、裏がいつの間にか表と地続きになりどちらが裏でどちらが表であるのかが決定不可能となる「メビウスの帯」の構造であったり。或いは、自分は誰かの夢の中の存在でありその自分が見る夢の中の誰かが見る夢の中に・・・と始まりも終わりも無限遠に消失してしまっている「無限遡行」の構造であったり。そしてその無限遡行の彼方で、尻尾が頭に咥えられた蛇を見出さないとも限らない・・・。

    夢は、"基底としての主体、世界を構成する眼差しの始点としての近代的主体"という観念を無化するかのようだ。

    「第一原因を独断的に措定する形而上学を回避するなら無限背進か無限循環に陥るしかない」とするミュンヒハウゼンのトリレンマが思い出された。



    夢にまつわる先行研究と云えば何よりもまず『夢判断』をはじめとするフロイトの精神分析が挙げられるところだが、本書の中にフロイトの文章は収録されていない(ユングのものは「意識と無意識」がひとつだけ含まれている)。「ボルヘスは徹底したフロイトぎらい、精神分析ぎらいで通っている」と澁澤龍彦は「ボルヘス追悼」の中で書いているが、確かにフロイトとボルヘスとでは夢に対するアプローチは全く異なる。

    フロイトは、夢を性的なものと結びつけて解釈しようとする、云わば人間の内部に沈潜していく方向で捉えようとする。そこでは、人間存在の前意識的な実相がその内側から暴かれる。

    それに対してボルヘスは、夢を人間の外部(にあるヨリ大きな何か、「コールリッジの夢」で語られている《永遠客体》?)へと通じる秘密の抜け穴のようなものとして捉えようとしているのではないかと思う。ボルヘスの文章を読んでいて感じる、人間のスケールを超えて時間的にも空間的に遠くに高まっていくあの「高度の感覚」、そこから見ると人間は微小な一点となりついに消失してしまうような上空に連れていかれる感覚、に通じるところがあるのではないかと思う。

    ボルヘスの世界観は、「あらゆる文化現象がセクシュアリティとの葛藤の色を帯び」(田中純『建築のエロティシズム』)ている世紀転換期ウィーンの雰囲気とは、やはり全く異質である。

    人間は、世界を構成する主体などではないということ、世界によって夢見られた影でしかないのかもしれないということ。

    ボルヘスの「白鹿」という詩は、それをとても美しく表現しているように感じられる。



    巻末の解説で、フーコーが『言葉と物』の序文で言及した「中国の百科事典」の話が『幻獣辞典』所収とされているが、正しくは『続審問』に収められた「ジョン・ウィルキンズの分析言語」からの引用である。
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    投稿日:2019.07.14

  • toca

    toca

    ボルヘスが編纂した『夢』のアンソロジー。
    現在の『アンソロジー』ではなく、断章として夢をテーマにした文章だけが収録されているので、個々のテクストが有機的な繋がりを持って、ひとつの大きな夢を構成しているような読後感があった。
    しかし、権利関係が厳しい現代では、こういう形でのアンソロジーを編むことは不可能に近いんだろうなぁ。
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    投稿日:2019.02.11

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