【感想】仕事としての学問 仕事としての政治

マックス・ウェーバー, 野口雅弘 / 講談社学術文庫
(5件のレビュー)

総合評価:

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  • はじめてのヴェーバーに最適

    本書は1919年にミュンヘンで行われた講演内容を本にまとめたものです。もともとが講演だけあってヴェーバーにしては短く、読みやすいという特徴があります。
    日本では『職業としての学問』、『職業としての政治』として岩波文庫版が読み継がれてきましたが、この度、新訳ついでに一冊にまとまっての登場です。
    1936年初版の岩波文庫版と比べて当然ながら翻訳が現代的で読みやすくなっています。

    政治や学問を仕事にしていなくても、そういった「専門家」が何かを言っているのを目にした時、耳にした時、その内容の是非を考える時のために読んでおきたい本です。
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    投稿日:2018.10.16

ブクログレビュー

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  • 色即是空

    色即是空

    前提知識、周辺知識どちらも不足している故にほとんど理解できなかった。
    というのも、ほぼ読めていない。
    数年後また手に取るだろう。

    投稿日:2024.02.07

  • sasara

    sasara

    二つの講演1917年「職業としての学問」
    1919年「職業として政治」を邦題変更新訳版。
    支配三類は合法的支配、伝統型支配、カリスマ的支配。
    10年後再び会おうと締めくくりも1920年没
    ドイツは第一次世界大戦敗北で多額の賠償金で苦しみ1929年10月世界大恐慌後扇動的演説と暴力装置を用いた
    カリスマ型極右ナチス党総裁ヒトラーを1933年首相誕生させることを選んでしまう。どの時代もリーダー選びは難しい





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    投稿日:2021.03.19

  • まさと

    まさと

    このレビューはネタバレを含みます

    「指導者による体験の伝達を望む学生」に対して「教師による事実の伝達を通した思考こそが学生の仕事である」という説教は、同時に大学と教師の腐敗にも一石を投じており、新自由主義による大学の競争主義・暗記型の教育・人文科学軽視などの教育問題が見られる現代にも示唆的であった。

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    投稿日:2020.04.27

  • 澤田拓也

    澤田拓也

    『職業としての学問』『職業としての政治』として知られる二十世紀初頭の社会学の大家マックス・ウェーバーの主要著作。ほぼ100年前の内容でありながら、その課題や分析は現代においても実際的なものであり、その考察は内容は冷徹な視点に支えられいている。
    古典的名著であるため、その名前は知っていたのだが読んだことはなく、今回手に取って初めてそれらが講演録であることを知った。要するに中身も何も知らなかったのだ。最後に関連年表が付けられているが、『学問』の講演が1917年、『政治』の講演が1919年という年代で、その内容も『政治』の方は特に 第一次世界大戦の終結とヴェルサイユ条約締結といった時代の動きを色濃く反映している。

    『仕事としての学問』
    この講演は、「学問が仕事として成り立つのは、どのようにしてか」という問いについてのものである。この時代、私講師から教授になれるかどうかは偶然に支配されていて、まるで「サイコロ賭博」のようなものだとウェーバーは言う。今の日本におけるポスドクの置かれたポジションのことを考えると、少なくとも日本においてはいまだ似たような状況にあり、学問を仕事とするものの構造的な問題は当時の欧州の状況と共有するところがまだ多いのかもしれない。いずれにしても、研究者が自ら選択してその「仕事/使命」(Beruf)に生きたいと言ったとしても、多くの研究者が経済的にも厳しい状況に立たされる環境であったということである。

    さらに職位の昇進よりも研究者が大切にしているであろう、その他の人に成し遂げえなかったオリジナルな学問的業績に関しても、実際には偶然(インスピレーション)が支配的なのだと指摘する。それは学者を志す者や、すでにそこに人生の多くのものを捧げてしまっている者にとっては、かなり刺激的な指摘だ。
    「人がなにか意味のあることを成し遂げるためには、どこでもそうですが、なにかを――しかも正しいことを――思いつかなければなりません。しかし、こうした思いつきは無理に引き出すことはできません。思いつきは、なにかの冷静な計算とはまったく関係がないのです」

    その考察から生まれる帰結は、「学問的な作業に携わる者は、このサイコロ賭博を甘んじて引き受けなければなりません」ということなのである。自分が学生であったころを振り返ると、もしかしたらこのことにすでに意識的であったかもしれないと思う。今でも時々思うことだが、自分の性格や能力を考えると、もしかしたら研究の世界の方が向いていたかもしれないと思う。一方で、そのころの自分はおそらくその世界が「サイコロ賭博」に支配されることを直観し、それを甘んじて受け入れることに耐えられなかったのだと思う。時代はバブルでもあった。

    さらに講義は、学問の意味、それが人生に与える意味について次のように問いを設定する ――「人間の全生活のなかで学問という仕事がなんであり、どのような価値をもつのか」

    これに対して、ウェーバーは、自然科学が持つ意義を次のように伝える。それは神の死、宗教の死を宣言することだ。

    「世界の「意味」のようなものがあることへの信仰を根から枯らして死なせることが、自然科学にはふさわしい」

    もう少し踏み込んで、医学の意義について少し触れた後、次のように語る。
    「ぼくたちが生命を技術的に支配しようと欲するならば、ぼくたちはなにをすべきか、という問いに対する答えは、すべての自然科学が与えてくれます。しかし、ぼくたちは生命を技術的に支配すべきなのか。また、それを欲するのか。そして、そもそも生命に意味などあるのか。こうした問題を、自然科学はまったく未決定のままにしておくか、そうでなければ、それ自身の目的として前提にします」

    前提にしているだけで、実際にそうだと証明するわけではない。それを自明のもとすることもできず、いまや証明することも能わない。ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』の中で「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意した」と言ったことと正に同じことである。100年前より、いわゆる知識人はそのことを強く意識をして認識していたのである。

    そして、最後にウェーバーは学者である者に対して、「大学教員に求めることができるのは、ただ知的誠実だけです」として、絶対的な倫理として「知的誠実」を求める。例えば、教室において政治思想を押し付けてはならない、などだ。

    「とてもたくさんのドイツの若い世代の人たちが預言者を探し求めていますが、まさにそんな預言者などいない。これは決定的な事態です。この事態についての知が、この事態の十全な重みをもっては、若い世代の人たちに生々しく受けとられない。これが、みなさんがしてしまうことです」

    ヒトラーのナチス党はまだ生まれていない。この後に迎えるドイツやヨーロッパの運命を知らず、それを目にすることなくウェーバーは当時流行していたスペイン風邪に罹患し、1920年に没する。その後ドイツがヨーロッパんが過酷な運命を辿る中で、ウェーバーが求めた知的誠実は守られたのだろうか。一部では守られたであろうが、やはり一部ではそうならなかった。知的誠実は、自明ではなかったからこそ、ウェーバーは声を上げなくてはならなかったのだ。古典に相応しく、今にもつながる深い内容。

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    『仕事としての政治』
    いわゆる「職業政治家」が出てきた背景や、それにまつわる課題についてまとめたこちらもウェーバー晩年の講演。政治団体や職業政治家が西洋において歴史的に現れてきた過程を掘り起こしているが、その背景には第一次大戦後の枠組みを決めるパリ講和条約締結に向けた会議が始まったばかりの時期において、ドイツに対する戦争責任や賠償責任について議論されるとともに国際連盟や平和維持への仕組みについても議論されているといった時代背景を無視してこの講演を読むことはできない。

    ウェーバーは近代の政治のひとつの単位となる「国家」の定義を次のように「暴力行使の権利」によって行う。
    「近代国家を社会学的に定義しようとすれば、それができるのは、あらゆる政治的団体に固有で、それに特有の手段、つまり物理的な暴力行使からだけです。「すべての国家は暴力を基礎にしている」と言ったのはプレスト=リトフスクのトロツキーでした。実際のところこれは正しい」

    今の日本の状況を鑑みるとその定義には違和感があるのかもしれないが、警察権力も含めてその定義は今もあてはまる。
    「もちろん、暴力行使は、国家の標準的な手段ではないし、また唯一の手段でもない。それは言うまでもありません。しかし、それでも暴力行使は国家に特有です」

    その暴力装置としての国家が、近代においては単一の権力に集中しがちであることについて分析的に記述する。
    「近代国家では、実際上、政治を行う手段すべてを思いのままに動かす権力は単一の頂点に集積していく。自分が使うカネ、あるいは思うままになる建物、貯蔵、道具、戦争の装備を個人として所有する役人は、もはや誰一人としていない。行政スタッフ(行政官僚や公務労働者)は、実質的な行政手段から「切り離される」。この「切り離し」が完遂されるのが近代国家で、これこそが近代国家に特徴的なことなのです」

    この後、アメリカの行政が大統領の任命によって切り替わることを素人行政と呼び、アメリカのような成長力のある国家でしか成立しないことだとする(なにせそれは、今にも続くものなのかもしれない)。一方で、ドイツの政情をアメリカに対比して、議会の無力、学歴をもつ官僚層の圧倒的な存在感、信条に基づく政党、にその特徴を持つと語る。ヒトラーがミュンヘンのホフブロイハウスでナチ党の綱領を発表したのは、この講演の約1年の後の話であり、ウェーバーの死の4カ月前のこととなる。その後の史実を仮に知ったときに次のように語ったウェーバーはどのように自分の考えを遡って評価するのだろうか。

    「絶対的正義を地上において暴力を使って打ち立てようとする者は、そのためにフォロワー、つまり人間の「装置」を必要とします」

    「リーダーがその活動の条件のもとでなにができるかは、そのリーダーの手には握られていないのです。フォロワーの動機は圧倒的にゲスですが、なにができるかは、こうした動機によって規定されてしまっています」

    この講演は次のように終わる。
    「導く人でも英雄でもない人も、あらゆる希望がダメになってももちこたえるハートの強さで、いますぐ武装しなければなりません。さもなければ、今日可能なことすら実現できない。自分の立っているところから見て、自分が世界のために差し出そうとするものに対して、この世界があまりに愚かでゲスだとしても、それで心が折れてしまうことなく、こうしたことすべてに対してすらも「それでも」と言うことのできる自信のある人だけが、政治への「使命(Beruf)」をもっているのです」

    この後に起きたことを知っているものからはある意味で胸に迫る言葉である。

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    今回、その日本語タイトルを『仕事としての学問』『仕事としての政治』と変えたのは訳者としてのこだわりだ。訳者の野口さんは、日本語の『職業』と『仕事』のニュアンスの違いがその内容の理解に大きく影響を与えるだろうという。『仕事』はウェーバーの主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でも中心概念のひとつとなっていた”Beruf”の含意するものをを正確に訳出したいという意志である。そのこだわりは心から尊重したい。また、訳自体も重厚長大な訳語を避けて著者が感じ、また現代において受け容れられるために必要な「軽さ」を意識して訳出したという。適切な訳注と合わせてとても読みやすいものに仕上がっていると感じる。
    野口さんに新たに新訳を勧めたのは講談社の互盛央さん。哲学者の國分功一郎さんと哲学本に関する対談本『いつもそばには本があった。』を出した方である。おそらく名物編集者ということになるのだろう。岩波文庫版もあり、またそれほど売れるものではないだろうと思うのだが、英断というか大変ありがたい。感謝。

    また、野口さんは2020年5月、ウェーバー没後100年の年に非常にうまくエッセンスが凝縮された新書の入門書(というには本格的)を出版している。こちらも併せて読むのがお勧め。

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    『いつもそばには本があった。』(國分功一郎、互盛央)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4065150124
    『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4003420934
    『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家 』(野口雅弘)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4121025946
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    投稿日:2019.12.16

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