【感想】科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで

三田一郎 / ブルーバックス
(47件のレビュー)

総合評価:

平均 4.1
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ブクログレビュー

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  • hekcho

    hekcho

    大学入試対策(物理でなく英語や国語等)や、物理SFを読む足がかりとしてすごく良い本。ただ、科学者として出てくるのが西洋の、キリスト教信者の、男性なのでそのどれにも当てはまらない属性としては距離感がある…逆に白人の、キリスト教信者の、男性なら自分に近い物語としてニュートンやコペルニクスの話を味わえるのが多いなる特権。続きを読む

    投稿日:2023.10.08

  • pomeranianz

    pomeranianz

    コペルニクス、ガリレオ、アインシュタイン、ボーア、ニュートンなどの理論からなぜ神を信じるのかを説明されていた。人間が解明できない仕組みや考えに基づいて地球の物事の仕組みが成り立っていて、それを解明しようとする過程で自分の想像を超えたことが成り立っていることに気づくから、神の存在を信じるんだということかなと思った。ただそれは人間の奢りでもあるし、人間がいなくても宇宙世界は存在したわけで、まだまだ私たちが信じている常識が覆されることはあるだろうし、これからも神の存在は信じ続けられるのだろうなと思う。有名な科学者より先に新たな発見をしていても発表していなかったり、処刑されしまったりして名もなき科学者になっている人がいたことと、時間が有り余ったことによってたくさんの発見ができた科学者いたことが面白い発見だった。物体と物体は粒だから正面衝突してもお互いが全く無傷の可能性も理論上はあることと、火星の動きが楕円っていうのが新たな知識だった。続きを読む

    投稿日:2023.09.24

  • yonogrit

    yonogrit

    1100

    三田 一郎
    (さんだ いちろう、Anthony Ichiro Sanda、1944年3月4日 - )
    日本の物理学者(素粒子物理学)、カトリック教会の助祭。CP対称性の破れとB中間子の崩壊についての研究で、イカロス・ビギ(英語版)とともに2004年のJ・J・サクライ賞を受賞した。東京都出身。中学2年のときに父の転勤で渡米し、以後、1992年に帰国するまでアメリカに在住していた。横浜市の私立サレジオ学院中高出身。1965年6月にイリノイ大学工学部物理学科卒業。1969年6月にプリンストン大学大学院博士課程を修了し、Ph.D.を取得した。コロンビア大学研究員(1971年から1974年まで)、フェルミ国立加速器研究所研究員、ロックフェラー大学準教授(1974年から1992年まで)を経て、1992年より名古屋大学理学部教授、2006年4月より名古屋大学名誉教授、神奈川大学工学部教授。 2007年より東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構プログラムオフィサーを兼務する。主な業績として、破れたゲージ対称性理論におけるくりこみ可能なゲージ固定化法を提唱するとともに、B中間子系でのCP対称性の破れの測定によって小林・益川模型の検証理論を展開することによって、日本の高エネルギー加速器研究機構(KEK)におけるBelle実験や米国のスタンフォード線形加速器研究センターのBaBar実験の構想推進を強く動機づけると共に、両研究所の実験に必要な加速器の性質を提唱した。


     キリスト教には、いくつかの大きな特徴があります。  まず、世界で最も信者数が多い宗教であることです。現在ではその数は、およそ 25 億人ともいわれています。世界の人口が約 75 億人ですから、実に 30%にものぼります。なお、日本のキリスト教信者は人口の1%ほどだそうです。キリスト教に次いで信者数が多いのはイスラム教の約 18 億人、続いてヒンドゥー教の 10 億人である。

     また、キリスト教は、イエス・キリストだけを神とする「一神教」です。これに対して、たとえばヒンドゥー教は、森羅万象のさまざまなものを信仰の対象としています。なかでも最も崇拝されているのがヴィシュヌ神とシヴァ神で、さらにヴィシュヌ神には 10 の化身がいて、その一人が仏教の開祖である釈迦とされているなど、ずっと複雑だ。

     さらに、キリスト教では「教祖」であるイエス・キリストは「神そのもの」と考えられていることも特徴的です。たとえばイスラム教の教祖であるムハンマドは神そのものではなく、神の言葉を伝える「預言者」とされています。〝教祖イコール神〟である宗教はそう多くないのである。

      30 歳のときに神の教えに目覚めたイエスは、人々に宣教するため旅に出ます。そして、海の上を歩く、水を 葡萄酒に変える、病人を一瞬で癒す、死んだ人を生き返らせる、五つのパンと2匹の魚で5000人の飢えを救う、などの奇跡を次々に起こしてみせたとされます。まさに神業です。宣教をしたのはおもに現在のイスラエルの北部にあるガリラヤという地域で、その期間は3年半ほどでしかありませんでしたが、尋常ではない力をもつイエスに従う人の数はふくれあがっていきました。ところが、そのためにユダヤの律法学者、さらには為政者に危険視されるところとなり、ついには叛逆の罪を着せられて死刑を宣告され、十字架に 磔 にされて息絶えました。

    ユダヤ教はユダヤ人しか信者になれない民族宗教である。

     なぜこのようにキリスト教の信者の数はふえたのでしょうか。その理由として、ペストの流行が関係しているとも考えられています。衛生環境がきわめて劣悪だった当時は、ガレンのペスト(165年)、ローマのペスト(251年)などが定期的に発生し、多くの死者が出ました。ローマのペストでは多いときは一日に5000人が命を落としました。感染者は町から追い出され、死者はゴミのように放置された状態でしたが、キリスト教の信者たちは感染の危険もかえりみずに看病し、死者を手厚く埋葬しました。その姿に感動し、新たに信者になる人が多かったといわれている。

    地動説を提唱したのは 16 世紀のコペルニクスとされています。それをうけて 17 世紀前半に地動説をコペルニクス以上に強く主張したガリレオ・ガリレイが、キリスト教の考えに反するとして裁判で有罪になったことも、大変よく知られています。とりわけ強い印象を残しているのは、罪人の汚名を着せられたガリレオが「それでも地球は動いている」と言い放ったというエピソードです。  科学と神というテーマについて考えるとき、この「天動説と地動説」は必ずと言っていいほど引き合いに出されます。本書でも、まずはここから語りはじめることにした。

     数学者でもあったピタゴラスは、音楽を数学で表現しようと考え、7本の弦を張ったハープに似た楽器を使って、実際にそれに成功しました。現在の音楽の基礎は彼が築いたといっても過言ではなく、弦を弾いて出す音階は「ピタゴラス音階」と呼ばれています。  ピタゴラスには音楽のほかにもうひとつ、その美しさを数学で表現したいものがありました。広大な夜空に無数の星たちが輝く、宇宙です。彼は宇宙からは美しいメロディーが聴こえてくると弟子たちに説き、音楽が数学で表せるなら、宇宙も同じように数学で表現できるはずだと考えました。

     ギリシャ文化を後世に伝えたのは、キリスト教の修道士が作成した写本や、東ローマ帝国の倉庫に遺された資料など、ごく一部だけでした。ただしアラブのイスラム教徒は、ギリシャの医学・天文学・数学・星占術を「神業」が見える重要な学問であると考えて、アラビア語に翻訳して研究しました。とくに数学にはおおいに関心を向け、のちに代数を発見します。代数学が英語で「アルジェブラ」(algebra)と呼ばれるのはアラビア語を語源としているためである。

     ニコラウス・コペルニクス(1473~1543:図2‐9)は、トルンという町(現在のポーランド)の裕福な商人の息子として生まれました。一説では 10 歳までに両親とも亡くなり、ワーミヤ教区の司教をつとめる聖職者であった叔父に引き取られます。学業は優秀で、ポーランドの学問の中心地であるクラクフ大学に入学しましたが、自分と同じ聖職者の道を歩ませたい叔父は途中で退学させて、必修の教会法を教えるイタリアのボローニャ大学に編入学させました。コペルニクスはここで、神学のみならず、法学、数学、医学など幅広い学問を修めて、尋常ではない才能を発揮します。なかでも彼をとりこにしたのが、天文学でした。その師となったドメニコ・マリア・ノヴァーラ・ダ・フェラーラは、天動説に疑問を抱いていたといわれている。

     やがて叔父の期待どおり司祭となったコペルニクスは、叔父の補佐をして信徒を指導しながら医師としても働くことになりました。しかし、それほど仕事は忙しくなかったようで、余暇には自分が本来好きな天文学の研究に時間を費やすことができました。当時の彼にとって天文学は、趣味の領域といえるものでした。

    「オッカムの 剃刀」という言葉をご存じでしょうか。「ある事柄を説明するために、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする考え方で、「思考節約の原理」とも呼ばれています。同じ現象を説明する二つの理論があったときは、より単純な理論のほうが正しい可能性が高いという意味でもあり、そのことは私の研究生活でも、しばしば経験したものです。自然とは、明確で単純なのです。説明があまりにも複雑になったら、原点に戻って考えなおしてみると「なあんだ、こんなに簡単なことだったのか」と気づくこともあります。そしてそれが、科学が発展する瞬間でもあるのだ。

     コペルニクスがオッカムのことを知っていたかどうかはわかりません。しかし、天動説では順行・逆行を説明するのに 80 個を超える周転円という、あまりにも多くの仮定を必要としたのに対し、コペルニクスの地動説では、「地球の公転」という発想の逆転以外には、追加する仮定は一つもありませんでした。「オッカムの剃刀」には、仮定が少ない理論ほど美しいという意味も含まれています。敬虔な司祭であったコペルニクスにも、神が創った自然は天動説のように複雑なものであるはずがない、もっと美しいものに違いないという思いがあったのではないでしょうか。私の学生時代の恩師だったハンガリー出身の物理学者ユージン・ウィグナー(1902~1995)も「理論を込み入ったものにすればゾウの尻尾の振り方まで説明できるようになる」と語っていたものでした。

     ところが、思わぬところからコペルニクスは激しい非難にさらされることになります。

     しかし宗教戦争が始まると、コペルニクスはこれだけ批判されたにもかかわらず、ルター派の若者たちが逃亡してくるとかくまい、厚く保護しました。そのためルター派には実はコペルニクス支持者が多く、なかでもヴィッテンベルク大学教授のゲオルク・レティクス(1514~1574)は、直接コペルニクスを訪ねて地動説の話を聞いて感銘を受け、コペルニクスの「唯一の弟子」となりました。そして、そのレティクスの熱心な勧めにより、それまで何度も出版の誘いを断りつづけていたコペルニクスは、ついにその気になったのです。すでに彼は 60 代の終わりにさしかかっていました。

     ギリシャ哲学を数学の言葉で語ることによって、ここにガリレオは「物理学の生みの親」となりました。宇宙と数学は、あたかも音楽のメロディのように美しく調和している──整数しか知らなかったピタゴラスが主張し、証明しきれなかったことを、2000年後、ついにガリレオが示してみせたのです。 〈宇宙は第二の聖書である。この書の言葉は数学である〉  これはガリレオの言葉としてよく知られていますが、実は簡略にされたもので、実際には彼は次のように語っている。

     1642年、ガリレオは異端の汚名を着たまま、この世を去りました。亡くなったとき、彼は失明していました。望遠鏡をのぞき過ぎたことが原因といわれている。

     時はうつろい、 20 世紀も後半の1979年のこと、アインシュタイン誕生100年を祝うローマ・カトリック教会の式典で、教皇ヨハネ・パウロ2世(図3‐12)は次のように述べました。 〈アインシュタインとガリレオは一つの時代を画した偉大な科学者であったが、アインシュタインは讃えられているのに対して、ガリレオは大いなる苦しみを味わった。その原因をつくったのは、ほかならぬ教会内部の人間と教会機構であり、そのことが、信仰と科学とが対立するものだという思考を人々に与えたのだ。そこで教会は自己批判し、神学者、科学者、歴史家が「ガリレオ事件の真実」を共同で調査し、いずれの側の誤りであれ、その誤りを率直に認めることを求め、さらに、科学と信仰、教会と世界の調和を求める。

     科学と聖書の対立というテーマで、必ずといっていいほど取り上げられるのが進化論です。たとえばアメリカでは、各州の教育委員会が教育の方針を定めているので、聖書の言葉は書かれている一字一句がそのまま神の言葉であるから「進化論は間違っている」として、いまだに教えていない地域もあります。

     これは1969年7月 20 日、アポロ 11 号が人類初の月面着陸に成功したとき、バズ・オルドリン宇宙飛行士が月面に残した足跡です。このとき、月は人類にとって自分の足で立つことができる場所になりました。だとすれば、明らかに月は「地」でしょう。

     したがって私は、宇宙全体を「地」と考えます。3000年前には、人間にはとうてい理解しがたい「天」と考えられていた領域が「地」になったのです。  すると、「天」はどこへ行ったのでしょうか。あるいは、それは科学では不可解な霊魂などにかかわるところなのかもしれません。キリスト教では「天国」といわれるところです。もしもそうだとすると、「創世記」の天地創造の記述は、〈初めに、神は天国と宇宙を創造された〉という読み方をすべきである、ということになります。

     ケプラーはガリレオより7年遅れて、プロテスタントの一家に生まれました。子どものころに両親に導かれて彗星や月食を見たことがきっかけで、宇宙に関心をもつようになりました。父が家出をしたため(戦死ともいわれています)家計は苦しく、また、プロテスタントであるためにカトリックからの圧迫も受け、苦難が多い少年時代でした。  得意な学問は数学でしたが、信仰心も厚かったケプラーは牧師になることをめざして大学の神学部に進みました。しかし、そこでコペルニクスの『天球の回転』に出会ったことが、彼の人生を大きく変えました。地動説に共鳴したケプラーは、牧師になるのをやめてオーストリアのグラーツで数学と天文学の教員として学校に勤務しながら、精力的に研究に取り組みはじめます。  研究生活に入って3年後の1597年、ケプラーは初めての著作『宇宙の神秘』を発表します。その内容は地動説を全面的に支持するもので、当時の天文学者としてはきわめて異例のものでした。これを読んでガリレオは感銘を受け、あなたに賛同すると伝える手紙を送っています。  1598年、グラーツでは、プロテスタントの聖職者と教師に対して追放令が出されました。ケプラーも学校を追われ、失業してしまうのですが、そこで、プラハにいた天文学者ティコ・ブラーエ(1546~1601:図4‐2)に助手として招かれたことが、彼の幸運でした。

    そして、カトリック教会が支持するアリストテレス以来の自然学よりも、夜空に潜む真実こそが神の声であると信じて、それを聴きだすべく記録を精査していきた。

    天動説では複雑な周転円を仮定しなくては説明できなかったことが、地動説でははるかに単純に説明できることが、コペルニクスを地動説へと向かわせたのでした。

     このようにケプラーの地動説への貢献は、ガリレオに勝るとも劣らないほどでした。プロテスタントであったため、ガリレオのようにカトリック教会による異端審問にかけられることはありませんでしたが、宗教改革の動乱のなかで戦火に追われ、つねに翻弄されつづけた生涯でした。ふとしたきっかけから母親が魔女裁判にかけられ、救い出すため奔走したこともありました。はたして「宗教」は彼を幸せにするものであったのか、疑問がのこります。

     通っていた学校が遠く、薬剤師の家に下宿していたことから薬の調合をおぼえたニュートンは、やがて自然科学や数学に興味をもつようになります。親族にも勧められ、農家を継がずに学問の道を進むことを決めたニュートンは、1661年、ケンブリッジ大学のトリニティカレッジに入学しました。雑用をするかわりに授業料を免除される「免費生」という身分でした。

     1665年、ニュートンが 22 歳のとき、ロンドンをペストが襲います。過去にも何度も流行したこのおそるべき感染症によって、このときも約7万人が死亡しました。

     この衝撃的な発見が科学者たちに与えた影響は、はかりしれないものでした。それは物理学における革命であったのみならず、神についてどう考えるかを、あまねく一人一人に問いただすものでもあったからである。

     では、結果として「悪魔」まで生みだすことになったニュートン自身は、神の存在を否定して憚ることのない無神論者だったのでしょうか。  実はそうではなく、それどころか、彼はきわめて熱心なキリスト教の信者であったことはよく知られています。生涯に書いた論文の数は、物理学のものよりも神学関係のもののほうがはるかに多いほどです(もちろん質では圧倒的に物理学の論文が上です。)

    一見まったく関係ないように思われる電気、磁気、光を一つに統合する自然法則を生みだすことができたのも、そうした信念があったからなのかもしれません。

     1900年に大学を卒業したアインシュタインは、数学・物理の教員資格を得ていたものの、例によって反抗的で物理学部長に嫌われていたため、大学に助手として残ることができませんでした。研究者として生きることを決めていた彼は、やむをえず保険の外交員や家庭教師などのアルバイトをしながら論文を書いていましたが、恋人との間に子どもが生まれるなど、苦しい生活をしいられていました。しかし1902年、彼が友人の父親の紹介でスイス特許庁に職を得たことは、彼にとってのみならず、すべての人類にとっての幸運であったかもしれません。当時の特許申請書類の審査官という仕事はそれほど忙しくはなく、研究に注げる膨大な時間が彼にもたらされました。  そして1905年、アインシュタインは 26 歳にして、世界中を驚かせる論文を3編も発表します。すなわち「特殊相対性理論」「ブラウン運動」「光電効果の理論(光量子仮説)」です。いずれも物理学に革命を起こすもので、この1905年は「奇跡の年」として永遠に歴史に刻まれることになりました。

     さまざまな宇宙モデルがあったなかでルメートルが膨張宇宙論を選んだのはもちろん計算の結果だったわけですが、アインシュタインは「彼がカトリックの司祭だったからだろう」と述懐しています。たしかに「光あれ」という言葉がルメートルになんらかのインスピレーションをもたらしたことは考えられます。アインシュタインにとっては、幼い頃から反発していた聖書からの手痛いしっぺ返しだったのかもしれません(もっとも私には、3000年前の羊飼いら聖書の記者たちが、夜空を見上げるだけでなぜビッグバン理論に近い考えを思いついたのかが不思議な気がするのです。

     アインシュタインの「宗教」は、既存の宗教とは違うものでした。しかし、それは間違いなく、宗教といえるものでした。狭量な神学者たちが口を合わせてアインシュタインの「宗教」を非難し、そのためアインシュタインは無神論者だという誤解を人々に与えているのは、間違っていると私は思います。

     ボーアが電子の「粒」と「波」という二重性にいちはやく注目し、原子モデルを築きあげた背景には、彼が東洋哲学に大きな関心を寄せていたことがあるのではないかともいわれています。ものごとが一つには決まらないという二重性を彼は「相補性」と呼びました。それは量子力学を象徴する考え方といえるものです。ボーアはそこに、インド仏教や中国の陰陽思想と共通するものを見いだしていたようです。しかし、そのような思想は、アインシュタインの決定論的な世界観とは真っ向から対立するものでした。量子力学の立役者となったボーアはやがて、アインシュタインの最大の宿敵として立ちはだかることになるのです。

     ハイゼンベルクはボーアから強い影響を受けていました。ミュンヘン大学で学んだあと、デンマークのコペンハーゲンでボーアに師事し、ともに量子力学の完成に努めたのです。東洋哲学についてもボーアに触発されて関心をもっていたようです。師弟がともに量子力学の「相補性」(二重性)にかかわる大きな発見をしたのは、偶然ではなかったのかもしれません。

     パウリは精神世界や神秘主義にも強い関心をもっていました。精神科医のカール・グスタフ・ユングと親しく交流していたようです。そして、西洋科学が推進してきた物質的な世界観だけではなく、東洋にみられる精神的な神秘主義との両立が必要であると考え、そのことを、やはり「相補的」という言葉を用いて主張している。

     われわれが「真空」と呼んでいる、何もないと考えている状態は、実は何もないのではない。真空とは負のエネルギー状態の軌道がすべて埋められていて、正のエネルギー状態の軌道には粒子が存在しない状態である、と結論したのだ。

    「プランクは、宗教と科学はものごとを違った側面から見ているので、矛盾していないと考えているのではないか。科学は客観的に物質の世界を語る。現実を正確に観測してさまざまな関係を理解しようとする。他方で宗教は主観的にこの世界を語る。何が正しいか、何をすべきかを語り、それが何であるかは語らない。つまり科学は技術の基礎で、宗教は倫理の基礎なのだ、と」  さらに、私は続けた。 「中世から起こっている、互いに激怒しあった科学と宗教の間の紛争は、誤解にもとづいている。宗教の中に存在するイメージやたとえ話を、科学的な表現と間違えた結果だ。あたりまえのことだが、この紛争には一切の意味はない。信仰とは一人ひとりがもつ考え方であり、どのように生きるか、どのように行動するかを決めるのに役立つ。たしかに私たちはこのような決断をするとき、家族、国、文化など、周りの人々に影響される。決断は教育のレベルや環境によって大きく左右される。だが最終的には、それぞれが出した結論は主観的なものであり、他人が正しいとか間違っていると断言することはできない。プランクは(もし私の理解が正しければ)この自由度があることで、キリスト教的な考えが非常に重要だと考えているのだ。だから客観的な科学と、主観的な宗教を切り離して考えることができるのだ。」

    過去2世紀の科学の発展はキリスト教の領域以外でも人間の思考を変えてしまった。世界が厳密な物理法則によって時間と空間のコースを走っているという発想が、科学と宗教的な考え方との間に明確な衝突を生みだした。それだけに、物理学者が考えることは非常に重要なのだ。たとえば、ボーアが量子論にとって非常に重要であると考える相補性は、哲学者には決して知られていなかった。しかし、この概念が厳密な科学から出てきたことで、ものの考え方が根本的に変わった。いまや、観測方法と無関係に物質が存在するという古い考え方は、自然とは何も関係ない完全な間違いだということがわかったのだ。

    私は全能の神の存在を定義することが何に役立つのか、本当にわからない。神を持ち出すことによって、なぜ神が防げる多くの悲惨さと不公平、裕福な者による貧困の搾取などを許すのだろうか。宗教がまだ教えられているのならば、それは私たちが依然として納得しているからではなく、単に一部の人々が、下層階級を静かにさせたいからだ。静かな者は、不満に満ちている者よりもはるかに管理しやすい。宗教とは、国が国民に対して犯している不公平を忘れさせ、希望の夢で落ち着かせるような、麻薬の一種なのだ。だから、この二つの大きな政治勢力、すなわち国家と教会の緊密な同盟があるのだ。理不尽に扱われたにもかかわらず、立ち上がらず、静かに義務を果たしたすべての人々は、この世ではなく天国で慈しみ深い神が救ってくださると幻想させるのだ。だからこそ、神は人間の想像力から出たものにすぎないという正直な主張は、すべての人間の罪の中で最も大きな罪であると、政府と教会によって主張されるのだ。

     アインシュタインがなぜこれほどまでに量子力学に 敵愾心 を抱いたのかは、ひとつの謎ともされています。想像をたくましくすれば、幼い頃に既存の宗教と決別した彼は、みずから「世界的宗教」を標榜するほどに、彼にとっての神を築きあげていた。それを真っ向から壊しにきたものが量子力学だった、ということではないかとも思うのだ。

    私たちが科学を理解する前には、神が宇宙を創造したと信じるのは自然であった、しかし、いまの科学は説得力ある説明を提供してくれる。私が神の心を知るというとき、それは、神は存在しないが、もし存在するとすれば神が知っていたであろうすべてを知るという意味である。私は無神論者である。
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    投稿日:2023.09.07

  • pironas

    pironas

    タイトル通り、なんで?と気になったので読みました。科学を学べば、神はいなかったとわかるでしょ?と思っていました。でも学べば学ぶほど、世界のなりたちの美しさや絶妙さに神の存在を思わずにいられなくなるということでした。算数でつまずく私には垣間見ることもかなわぬ境地。続きを読む

    投稿日:2023.08.09

  • kmsusami

    kmsusami

    結論から言うと自然界の法則が科学者によって示されたとしても、その法則があるのは神様が創造したのではないかと。バチカンの地動説で犯したミスを現代のビッグバンへの見解を書いてあり天地創造に対しての対応が興味深く書かれていた。アリストテレスからホーキンスまで示されてきた法則をわかり易い図解で説明されていたが70を超えた文科系の人間には難しかった。きつかった。続きを読む

    投稿日:2023.08.04

  • ぷぅ

    ぷぅ

    前半は面白いと思って読んでいたが、途中から難しい物理の説明がほとんどわからず、その部分はサラッと読むだけになってしまった。それが分かる理系の人にはより面白く読めるかもしれない。
    対立するかのように思える科学と信仰は、決して矛盾するものではない。むしろ、科学的探究心は神の創造の業をもっと知りたいという純粋な信仰から湧いてきたものなのだ。
    著者は「宗教」や「教会」と「神への信仰」は別物であると捉えている点も興味深かった。
    続きを読む

    投稿日:2023.05.05

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