【感想】シュレーディンガーの猫を追って

フィリップ・フォレスト, 澤田直, 小黒昌文 / 河出書房新社
(3件のレビュー)

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  • ぱとり

    ぱとり

    例えば、堀江敏幸の小説のように。あるいは蜂飼耳の散文のように。流れる言葉の連なりの中に、作家の思考の断片が幾重にもオブラートに包(くる)まれた状態で見つかるような文章に、惹かれる。フィリップ・フォレストはそんな文章を書く作家のひとり。

    例えば草むらの中に転がる軟式野球のボールの白さにはっとするように。今まで歩を進めていた草原とは隔絶した物語がその白さの佇まいから流れ出すように。文章の森の中にそっと配置された思考の断片に潜んでいた別の言葉の連なりが想像され、思考が繋がる感覚を得る。しかしそれは龍安寺の石庭に置かれた庭石のように観察者の意図を寄せつけぬようでもある。加えて、石の配置の意味するところを量りかねるだけでなく、存在そのこと自体に気付かない思考の断片もまた幾らでも草陰に埋もれて散らばっている。目に見える言葉の辞儀通りの意味をいくら汲み取ったと思ってみても、自分はフィリップ・フォレストの綴った言葉の何を読み得たのかといつも不安に思う。

    『彼の話をするときになぜ「戻ってくる者」という語を必要としたのか、じつのところ、わたしにはよくわかっていた。そして、庭にあの猫が出現するのを見た「最初のとき」から、シュレーディンガーの有名だがかなり難解な「思考実験」のことを考えた理由もよくわかっていた』―『反=猫という仮説』

    失った娘=黒猫、という心象を巡るエクリチュールの輪舞。還元主義的にこの物語の言葉の連なりを分解してみれば、量子力学的実在の意味と夜闇の中に現れ消える黒猫の物語、そして大きな痛みを共有しつつすれ違う夫婦の暮らし、ということになるだろう。しかし作家の試みは、言葉の大部分が費やされる量子力学的な現実の解釈の探求の中に、喪失の痛みを紛れ込ませること。それをまた俯瞰して見つめるように陰と陽の間を行き来する。物語の歩みはどこまでも散漫かつ緩やかで、シュレーディンガーの人生や、エヴェレットの解釈を巡るエピソードなどを織り交ぜながら、言いたいことの核心には触れずに進んでいく。密やかな徴の中に込められた幾つもの意味の欠片が、結晶の中で屈折し散乱する光ように無数の思考となって引き出され、輪郭が明らかだった筈の一つの言葉の濃度をどこまでも淡くする。そして、連なった言葉の行く先は、断章ごとに霧散するかのよう。波紋の消えた水面に元の波紋の痕跡を見出そうとするような哲学的思考の様式は、禅を経て陰陽へ至りやがてシュレーディンガーの猫の生死についての思考に再び戻ってくる。そこにフォレストの祈りを微(かす)かに認めることができる。

    『だからこそひとは、せめて自分の飼い猫に、師の姿を見出そうとする。そして、人生の稀に見る相対性を諭す、意義深くも言葉を伴わない唯一の教えを授かるのだ。(中略)猫は、虚無と戯れ、震える大気を目で追い、物影として見える亡霊を狩り出し、獲物と影を交換し、今度はその影を顧みずに、いっそう捕らえがたい何かへと目を向ける。こうして猫は、世界の不条理を白日の下にさらけ出し、そこに何かしらの意味を見出そうという意図の滑稽さを暴き出す』―『「わたしたちの畑を耕さねばなりません」』

    十五年の時を掛けても昇華させることの出来ない思い。あり得たかも知れない現実をコペンハーゲン派的世界観の中で一つの現実と納得することで得た一瞬の安堵のようなものは、そのあり得たかも知れない現実に生きる自分自身の分身の意味を丁寧に理解することによって、たちまち霧消する。そして「逢ふ魔が時」である「たそかれどき」から始まった物語は、明け方の光が蒙を啓くかのように全てが元の形に戻り閉じる。「たそかれどき」や「かはたれどき」はこの世とあの世の淡いの時という古の日本人の死生観を、フォレストが物語の流れに重ねていたことを最後に気付く。
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    投稿日:2021.06.03

  • いなえしむろ

    いなえしむろ

    タイトルでSFと思ったら間違い

     でも物理学の教科書ってわけでもない。ふわふわしたエッセイ集のようなファンタジーかな。温泉に浸かりながら脳を空っぽにして読むとすんなり入ってくる気がする(飽くまで想像)。じっくり酒飲みながら読むくらいならいつでもできそうなんだが、今週は読了ノルマがたくさんあるから、一旦パス。

     
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    投稿日:2017.09.04

  • michy110

    michy110

    日本経済新聞社小中大
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    シュレーディンガーの猫を追って フィリップ・フォレスト著 喪失がもたらす省察と詩学
    2017/8/19付日本経済新聞 朝刊
     フィリップ・フォレストを読むには覚悟がいる。現代文学の研究者として地歩を固めていた男は一九九六年、四歳になる娘を癌(がん)で亡くした。その喪失に対して「言葉は救いにはならない」にもかかわらず、彼は作家になる。フォレストの作品はよって終わることのない喪の変奏なのだ。小説としては六作目にあたる本書も然(しか)り。思索的(スペキュラティヴ)なタイトルは新奇だが、テーマの反復は文学的戦略である以上に、この作家の必然である。


     海辺の村に滞在中の語り手が、ある日、庭で猫を見かける――起こる事件はたったそれだけ。猫は「現れる姿を見せる前に、立ち去る姿を見せる」のだが、この観察は誰にも親しいものだろう。そこから語り手は、存在と不在について、科学、哲学、文学、創作の断片を織り交ぜた思索に入る。その中心が量子力学における思考実験「シュレーディンガーの猫」だ。

     量子の世界で起こる矛盾を示す寓話(ぐうわ)。この架空の実験では箱に入れられた猫が、観測者が蓋を開けるまで「死んでいて、かつ、生きている」状態に陥ってしまう。また、猫の生死が定まらないことから、世界が無限に分岐しているという並行世界(パラレルワールド)の理論が生まれる。この事象に作家が関心を寄せた理由は言わずもがなだ――ならば娘も死んでいて、かつ、生きているのではないか。ならば娘が死ななかった世界もあるのではないか。

     狂気と紙一重のそんな科学的省察に詩学が加わる。〈いる/いない〉の境にいる存在として、猫ほどふさわしい動物はいまい。こうして猫に関する古今東西のテクストが想起される。あるいは猫を選んだシュレーディンガーこそが詩人であったのか。作家の個人的喪失と夢想はまた、量子力学時代の虚構作品を逆照射しているかのようだ。SF文学、日本のサブカル作品に、なぜこれほど並行世界モノが溢(あふ)れているのか。仮想現実装置の普及や、物語のゲーム化と並び、そこにはなにか時代的な喪失があるのではないか。

     そして猫は、やはり〈ある/ない〉の際にある「言葉」の謂(い)いでもある。語り手は喪失に押し潰されつつ、存在と物語を信じると宣する。そう、それなしで人は猫を追いはしまい。希望というにはあまりに幽(かす)かであろうとも。

    (澤田直、小黒昌文訳、河出書房新社・3200円)

    ▼著者はフランスの作家。日本の文学や写真の批評も手がける。邦訳された著書に『永遠の子ども』など。

    《評》慶応大学教授

    新島 進
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    投稿日:2017.09.02

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