【感想】堀辰雄/福永武彦/中村真一郎

堀辰雄, 福永武彦, 中村真一郎 / 河出書房新社
(7件のレビュー)

総合評価:

平均 4.2
1
4
0
0
0

ブクログレビュー

"powered by"

  • aya

    aya

    230913*読了
    この時代の作家さんにも全然詳しくないなぁ。
    この3名の名前を見ても代表作も何も想起しなかった。

    堀辰雄さんの収録作は「蜻蛉日記」をアレンジしたもの二作。
    ただ訳すわけじゃなくて、堀さんなりの表現が入ってるというのは、なかなか気づけないのだけれど。

    福永武彦さんが池澤夏樹さんのお父さんとは知らなんだ。それも解説にひっそりと書いてあって、驚いた。文学者の子は文学者になるのだなぁ。これぞ血、遺伝。ただ、生前そこまで交流はなかったそう。池澤さんが幼い時に離婚をされている。
    福永武彦さんの小説は妙に怖くて、惹きつけられる。
    信仰深く病気に臥せっていて世を知らない女性と、世を捨てて己の欲望のままに生きる男性の話。
    この世が終わる、ドッペルゲンガー、そんな妄信の中に生きる妻の話。
    それが本当に思い込みだったのかは分からぬまま知り絶える姉とその夫、そして妹との交流を通したある町の話。
    どれも救いがなくて、絶望を感じる。そこが魅力的なのだよなぁ。

    中村真一郎さんの収録作は実話なのだと思っていたのだけれど違うのかしら。
    緩急の付け方が巧みすぎて、本当にすごい。
    前半は論文のように元政上人について語られているのに、急にとある闇を抱えた女優と京都行きが決まり、そこからの激しさったら。
    父親を憎む女優との心の交流。京都滞在中の様子はまるで映画を観ているよう。
    そして突然の悲劇。そこからまた、緩やかに物語は終焉へ。

    今、2023年の60〜80年ほど前はこんな小説が生み出されていた。
    そう思うと人間の脳って進化してるの?退化してるの?
    こんな小説をたくさんの人が読む世の中は高尚な気がしてしまう。
    続きを読む

    投稿日:2023.09.13

  • kuma0504

    kuma0504

    堀辰雄の「かげろうの日記」と「ほととぎす」。
    ここにはヨーロッパ仕込みの見事な「平安文学の心理小説化」がある。前回配本の森鴎外からもう一歩進んでいる?

    平安貴族の生活が生き生きと描写されて、物忌みや、待っていることしか出来ない貴族女性の立場、子供のような道綱(藤原道綱)の振る舞い、揺れ動きながらたまに男を手玉にとる道綱母の行動など、なかなか興味深い。

    道綱も成人したころに、夫は他の女に産ませた「撫子」という少女を連れてくる。次第に情が移ってきちんと育て始めたころに、頭の君が撫子を求めてひつこいぐらいに道綱に連絡する。「まだほんの子供ですから」と「いや一目だけでも」何度も何度も同じやりとりをする中で、道綱母の中に女が目覚める。原典にこんな場面があるんだろうか?

    そんな気持ちを知ってか知らずか、あれほど通いつめていた頭の君が来なくなり、ついには他の妻を盗んでどこぞへこっそりと姿をくらましたという噂を聞く。「これは自分のせいだ」道綱母は確信する。ーーこの辺りは原典を確かめるまでもない、完全に堀辰雄の創作だ。1939年(昭和14年)の発表。中村真一郎、福永武彦、そして加藤周一ら東大の若き知性が、堀辰雄を慕って軽井沢を尋ねるのはこの後のことである。

    福永武彦の「深淵」。
    信仰篤い処女の35歳女性と、放火殺人犯との出逢いと2人が堕ちてゆく様を描く。1956年刊行。この同じ年に「古事記」の現代語訳も出している。そのせいか、端正でおとなしい文章というイメージとは違う、荒々しい描写が続く。

    ずっと、聖女のように周りから見られ本人もそう努力してきた女性の「隠れた欲望」が露わになるのは堀辰雄「ほととぎす」と同じ。現代小説なので、非常に精微に描かれる。

    「雲のゆき来」中村真一郎
    江戸時代の漢詩人元政上人の生涯と作品を辿りながら、若い国際女優の楊(ヤン)とその父を巡る旅をすることになった「私」の小説である。

    「私」は、なぜ藤原惺窩や林羅山や伊藤仁斎や石川丈山ではなく、ほぼ無名に近い元政上人に心惹かれたのか。当代の「世界」である中国を日本人でありながら、自らのものにし、「異なる伝統の調和を実現」し「美しい精神の舞踏」を舞った知識人として、自分を見たということが一つ。もう一つは中村自身の最初の妻との「私的体験」の合わせ鏡があったのではと池澤夏樹は推測している。

    私はこの作品に、もう一つの「合わせ鏡」を見た。「うまく作られた小説家」である中村真一郎と、「うまく作られた評論家」である加藤周一という合わせ鏡。不幸を描く小説家、展望を語る評論家。しかし、世界を観るレンズは、この小説を読んで思うが、同じ精度を持っていた。加藤周一が当初目指した小説は、このような内容だったのではないか?しかし、加藤は遂にこんなに「うまく」は小説を書けなかった。
    続きを読む

    投稿日:2017.12.23

  • yasu2411

    yasu2411

    高校時代に、図書同好会というサークルに入っていたが、1級上の先輩が福永武彦を愛読していた。当時は特に惹かれるものはなかったのだが、今読んでみると、意識の流れの描写が洗練されていて上手いと思う。
    堀辰雄のかげろうの日記も楽しく読んだ。中村真一郎もそうだが、昔の作家はきちんと古典に学び、吸収していたのだなと感心する。続きを読む

    投稿日:2016.06.12

  • kouhei0210

    kouhei0210

    長編というか、いろいろなタイトルがおさまっていて
    500P弱を読み終わりました。
    堀辰雄氏・福永武彦氏(池澤夏樹氏の父)・中村真一郎氏
    3人の作品。
    堀辰雄氏の「かげろうの日記」「ほととぎす」は
    いまいちわかりませんでした。
    福永武彦氏の「深淵」「世界の終り」「廃市」は
    3作品ともとてもよかったと思います。
    狂気・退廃・情念などがにじみ出ていたと思います。
    中村真一郎氏の「雲のゆき来」は漢文や漢詩
    古文詩などが多くあって、読みづらい部分が多く
    ありましたが、それを差し引いてもとてもよかった
    と思いました。
    やっぱり自分の知らない作品それも古典的な作品
    に出逢える機会は大切だと思います。
    この全集の企画はそういういみではとても期待しています。
    続きを読む

    投稿日:2015.05.17

  • abraxas

    abraxas

    同名のアニメですっかり有名になってしまった『風立ちぬ』でなく、「かげろうの日記」とその続篇「ほととぎす」を採ったのは、大胆な新訳が売りの日本文学全集という編者の意図するところだろう。解説で全集を編む方針を丸谷才一の提唱するモダニズムの原理に負うていることを明かしている。丸谷のいうモダニズム文学とは、
    1 伝統を重視しながらも
    2 大胆な実験を試み
    3 都会的でしゃれている
    ということだが、堀辰雄の「かげろうの日記」は、「蜻蛉日記」の現代語訳ではなく歴とした小説である。言葉遣いこそ王朝物語にふさわしい雅やかな雅文体をなぞっているが、主人公の女性心理はまぎれもなく近代人のそれであり、自意識が強く、内向的で、引っ込み思案なところのある女のエゴが一人称の語りの中にまるごと投げ出されている。色好みの貴公子に愛されながら、相手の不人情な仕打ちにプライドを傷つけられ、すねてみたり、逃げ出してみたりせずにはいられない女心が十二単を着せられ、堀辰雄好みのもの寂びた曠野の風景の中にたたずんでいる。まさに、丸谷流のモダニズム文学ではないか。

    「深淵」「世界の終り」「廃市」の三篇のなかでは、やはり「廃市」をとりたい。いかにも福永武彦らしい、透明な叙情性に溢れた佳篇である。白秋の故郷、筑後柳川を思わせる掘割に区切られた水都は、水によって外部と切り離されることで、他の町とだけでなく、時の流れからも切り離され、端唄、小唄、義太夫といった芸ごとに堪能な町の名士たちによっていまだに華やかなりし頃の名残りをとどめている。水路を行く船に舞台を組み、囃子方を乗せ、歌舞伎の一場面を演じてみせる祭りの場面など、ヴェネツィアのカルナバルの夢幻的な宴を髣髴させる。

    眠りの中に閉じ込められたような街に主人公はすっかり魅了されてしまうが、時空から隔絶した人工的な水上都市は、周囲の都市ではすっかり失われてしまった文化にどっぷり浸かっていることを羞じも嘆きもしない点で頽廃のきわみにあるのかもしれない。仮寓先の旧家の当主とその妻、妻の妹の間にある公然の秘密が、無邪気な仮寓者の振舞いによって明らかにされてゆく。互いを思いやる愛情が、かえってことをややこしくし、もつれあった愛情は悲劇的な結末を迎えることに。ヨーロッパ世紀末的な頽廃を日本の地方都市に移植し、ウォーター・ヒヤシンスのごとき儚げな花を咲かせた「廃市」は、私小説好きな日本の土壌の中では稀な西欧的なロマネスクと成り果せている。

    中村真一郎からは「雲のゆき来」一篇だが、これがすごい。江戸時代の名僧で漢詩や和歌に秀でた元政上人に始まる該博な知識を披瀝した随筆風の小説は、友人からかかってきた一本の電話で様相が一変する。友人が引き合わせたのは、ドイツ系ユダヤ人の父と中国人の母を持つ新進女優の楊嬢だった。母を捨てた父を憎む女優は、「舞踏会の手帖」よろしく父の愛した五人の女性に会うために京都を訪れる。止むを得ず同道することになった「私」は、ドン・ジュアニスムを嫌悪する女優と行く先々で議論する羽目になる。リルケやフロイトを引き合いに出し、父を憎む心理の虚妄を突く「私」の前に遂に女優は号泣する。ヨーロッパでの再会を期して分かれた二人だったが、待っていたのは女優から「私」にあてた手紙だった。

    博引傍証とペダントリーに満ち満ちた衒学的小説とも見える「雲のゆき来」だが、作家に言わせれば、こんなものはペダントリーの裡には入らない、と馬鹿にされるのがオチだろう。まず、元政と彼が影響を受けた詩人の漢詩が白文で何篇も引用されるので、漢詩漢文の素養がなければ端から相手にされない。そこへ持ってきて、文学から文学を作るブッキッシュな作家を認めようせず、作家の個人的体験の露骨な告白とやらを後生大事に下僕的リアリズムを信奉する批評家たちに対する鬱憤が炸裂する。私小説に慣れた日本の文壇から見たら、なんという形式的な小説作法か、と呆れられるような作為的な構造を持つ小説。おまけに、作者を思わせる男と若い女が、ひとつベッドに腰をかけ酒を飲みながら、恋に落ちたり、寝たりすることなく、リルケの女性遍歴と元政の遊女との恋愛事情を女優の父の女出入りの多さに絡めて論じ、男と女の愛について延々と夜を徹して語り合わせるなど、読み手の下意識を徹底的に愚弄してみせる。

    分かり合うことの難しい人間関係のなかで、どのように相手を理解し、関係を構築してゆくか、というのが主題だとすれば、それを語るのになんという手間の掛け方よ、と嘆じたくなるが、その手間隙をかけるところにこそ、文学や芸術の持つ面白みがある、というのが作家の信じていることなのであって、豪徳寺の桜見物にはじまり、京都は深草詣で、果てはヴェネツィア映画祭に至るまで足を運ばせるのもそこにこそ分かり合える者同士の愉しみがあるからなのだ。言い換えるなら、こんなまわりくどい小悦は御免だという読者には無縁の小説である。そういう意味で、新しく編まれた日本文学全集の前途を占う試金石のような巻といえる。評者のように懐かしい思いで読む読者は別として、日本文学ってこんなに面白かったのかと目を輝かせる新しい読者が得られるように偏に願うものである。
    続きを読む

    投稿日:2015.04.13

  • 河出書房新社

    河出書房新社

    西欧文学を学び、日本の古典に赴いた知の作家たち。豊かな言葉をもって、巧みな手法と仕掛けで物語を紡ぐ。堀辰雄「かげろうの日記」、福永武彦「深淵」、中村真一郎「雲のゆき来」他。

    投稿日:2015.03.25

Loading...

クーポンコード登録

登録

Reader Storeをご利用のお客様へ

ご利用ありがとうございます!

エラー(エラーコード: )

本棚に以下の作品が追加されました

追加された作品は本棚から読むことが出来ます

本棚を開くには、画面右上にある「本棚」ボタンをクリック

スマートフォンの場合

パソコンの場合

このレビューを不適切なレビューとして報告します。よろしいですか?

ご協力ありがとうございました
参考にさせていただきます。

レビューを削除してもよろしいですか?
削除すると元に戻すことはできません。