【感想】ロビンソン漂流記

ダニエル・デフォー, 吉田健一 / 新潮文庫
(19件のレビュー)

総合評価:

平均 3.5
1
8
4
2
0

ブクログレビュー

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  • じゅう

    じゅう

    「ダニエル・デフォー」の冒険小説『ロビンソン漂流記』を読みました。

    「高橋大輔」の著書『ロビンソン・クルーソーを探して』を読んで、久しぶりに『ロビンソン漂流記』を読みたくなったんですよね。

    -----story-------------
    ひとりで無人島に流れついた船乗り「ロビンソン・クルーソー」 ――孤独と闘いながら、神を信じ困難に耐えて生き抜く姿を描く冒険小説。
    -----------------------

    初版の正式なタイトルは、

    『「自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述」(The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner: Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque; Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates)』

    という、ムッチャ長い名前だったようです。


    子どもの頃に読んだ記憶では、ワクワクドキドキする冒険物語という記憶があったのですが、改めて読んでみると随分イメージが違っていました。

    難破した船から独りだけ生き残り、孤独に耐えながらも、生き抜くために衣食住について知恵と工夫と努力で自給自足の仕組みを作り上げ… そして野蛮人(人食い人種)から襲撃に怯えながら過ごす無人島の生活、、、

    神の存在や正義について真剣に考え、苦悩したり、喜んだり、悲しんだり等、精神面の描写が克明に描かれていて、単なる冒険小説ではなく、哲学的、宗教的要素も強い作品でしたねぇ。


    考えに一貫性がなく、支離滅裂に思案したり、自分に都合の良いように利己的に考えたりするところは、ちょっと苛立ちを感じながら読みましたが、、、

    よくよく考えてみると、それが真剣に物事を考えている際の、人間の思考なんだろうなぁ… と感じました。


    子どもの頃は、きっとダイジェスト版のような作品を読んだんでしょうね。
    この内容は、子ども向けじゃないですねぇ。

    28年と2ヶ月と19日に及ぶ無人島の生活は、ワクワクドキドキする内容ではなく、自分の生き方を見つめ直すような内容でしたね。


    そして、本書を読んで改めて感じたのは、衣食住を全て自分独りで行おうとすることの困難さ。

    小屋を建てたり、テーブルやイスを作ったり、食器や籠、農機具等の様々な道具を作ったり、衣類を縫ったり、パンや乾物等の加工食品を作ったり… 何も無いところから、全てを行うなんて、自分にはできないだろうなぁ。

    自分が住んでいるところ、着ているもの、食べているもの… それらが、多くの人(職人)の手を経て作られていて、様々な器具や工具、道具等によって加工されているということを改めて感じました。


    それから、モノを多く持つことのムダについても、考えさせられましたね。

    「この世にあるどんないいものでも、我々が使用できる範囲でしか、我々にとって価値がないことを知った。」という「ロビンソン・クルーソー」のコメント… 自分の生活を振り返る、良いきっかけになりそうです。
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    投稿日:2022.05.25

  • めい

    めい

    このレビューはネタバレを含みます

    言わずと知れた冒険小説。主人公ロビンソン・クルーソーの半生を描いた作品。無人島でのサバイバル生活が有名だが、奴隷になってみたり農園を経営してみたり大金持ちになってみたり、意外と他にも忙しい。ただ30年弱無人島にいたので、物語の8割が無人島生活について語ったものではある。

    これだけ怒涛の人生を送っているのに、語り口が恐ろしく淡々としている。事実を年代順に並べました、感がすごい。訳文も、まるで英語の教科書の例題みたいで、温度がないというか主観性がないというか(訳の問題ではなく、おそらく原書がこういう文体なのだろうと思う)、、、唯一主人公の感情に触れられるのは「神」や「宗教」について彼が考えている時だが、その思考も状況によってコロコロ変化し一貫性がない。この一貫性のなさがなにより"人間らしい"と言えるのかもしれないが、そういうメッセージを主張する作品であるとは思えない。ただ、「神」や「宗教」は人間が人間の為に作ったものなのだ、ということは感じた。主題じゃないだろうけど。

    だらだらと事実を羅列して悪戯に文章を長くし、淡々と物語を進めていくこの手法?は、18世紀イギリス周辺の「旅行記」とか「漂流記」における主な"やり方"だったのだろうか、と思わせるくらい、この物語と「ガリバー旅行記」の序盤に似た雰囲気を感じた。だが、社会への風刺と批判を主題においた「ガリバー旅行記」とは違い、主題が最後まで曖昧で主人公の思考に一貫性もない「ロビンソン漂流記」は、それだけで読み応えが雲泥の差である。ただ、正しく「旅行記」「漂流記」としては後者の方が正解なのかもしれない。

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    投稿日:2019.06.11

  • transcendental

    transcendental

    18世紀イギリスの文筆家ダニエル・デフォー(1660?-1731)による漂流冒険譚、1719年。子ども向けの冒険物語として知られるが、孤島に漂着して自活していくロビンソン・クルーソーは近代的な経済合理性に基づいて行動するホモ・エコノミクスの原型であり「資本主義の精神」を先取りするものであるとして、経済学者(マルクス、ヴェーバー、大塚久雄など)からも注目されてきた。以下、精神史上の観点から気になった点をいくつか挙げる。

    □「中間の身分」

    物語の冒頭、外国への冒険旅行を望む息子に対して、実直な商人である父親は「中間の身分」という興味深い概念を持ち出して、青年の向こう見ずな企てを思いとどまらせようと説得を試みる。

    「ここにいれば、私は然るべき後援の下に、努力によって出世し、安楽な生活を送ることができるのだった。外国に行って、各種の冒険をして普通の人間とは違った具合に名をなすのは、窮迫してどうにもならない人間か、あるいは非常に大きな野心を抱いた、優れた人間か、いずれかがすることだった。そういうことは、私には望めないことか、あるいは私には卑し過ぎることだった。私のはその中間の身分、あるいは下級の階級の上層ともいうべきもので、父は長い経験によって、それが一番いい身分であることを知っていた。それは人間が幸福に暮すのに最も適していて、その日その日の労働をして生活している人間に付きものの不幸や悲惨や労苦に脅かされることなく、また上流階級の弊風たる虚栄心や、奢侈や、野心や、嫉妬にも悩まされることがなかった。・・・。富も貧困も知らずにいることを願った賢人は、それによってこの中間の身分が、幸福の真の規準であることを示したのだ・・・」

    「注意して見ていれば、人類の不幸は人類の上層と下層に最も多いことが解る、と父は私に言った。しかしその中間にいるものはそれほどの転変に曝されることがなく、一方においては乱脈な生活と贅沢、また一方においては過重の労働、必需品の欠乏、また栄養の不足のために自ら生じる精神や肉体の苦痛を知らないのだった。この中間の身分はすべての徳行と安楽に適したものであり、平和と余裕に恵まれ、節制、健康、安寧、社交、またすべて望ましい快楽が約束されているのだった。この身分のものは安穏に一生を送って、何の心配もなく死ねるのであり、腕や頭の労働で苦しむこともなく、生きて行くために奴隷のように働くこともなければ、精神の平静を奪い、体を疲れさせる各種の複雑な事情に悩まされることもなかった。嫉妬や、偉大な事業に対する野心に苦しまされることもなく、安楽な境涯で一生を送り、生きて行くことの楽しさだけを実直に経験し、自分が幸福であることを感じて、一日一日とその真価を知って行くのだった」

    ここには、18世紀イギリスの中産階級(都市における有産の市民階級)が自らに対して思い描く理想像がよく表れているように思われる。彼らは、節制を旨とする勤勉実直な職業人たることを自らの規範とし、飽くまで現実的な日常生活に根差した堅実さを通して倹しい幸福を獲得しようと目指した。労働者階級のように、物質的な必要=欠乏に肉体が従属させられることもなく。上流階級のように、頽廃的な欲望によって理性が盲目になることもなく。いづれの方向であれ"極端"に傾くことを抑制し、精神的にも肉体的にも中庸たることに自分たちの階級の美徳を見出した。それは、現実の世界に対する明朗で健康的な肯定の姿勢であると云える。

    □「人類普遍の病」

    しかし、現実の世界を、"極端"に走ることなく中庸という位置において肯定することは、実は極めて困難な精神的営みである。それは、近代が更に深化してのちに、ロマン主義的感性(世界を虚偽と汚濁に満ちたものと見做し、世界との調和的な関係を断念し、世界を見捨て世界から見捨てられ、残された自己の内面という"極端"に沈潜することでそこに毀損されざる絶対的な真理と美を追求しようとする構え)というそれ自体ひとつの"極端"である精神の構えが精神史上の大きな事件として現れた、ということからも明らかであろうと思う。そして、ロビンソンがそもそも航海に出ようとした動機に、このロマン主義的感性と同根のものがあるように感じられる。

    「私は自分の生涯で、人間というものが最もかかり易いある病気に対する戒めの役を、いつも務めさせられてきたのであって、人間の苦労の半分はこの病気から生じると思われるのであるが、それは、神と自然によって自分が置かれた状態に満足しないということなのである」

    「しかしそういうことをするのが若いものの常であり、またその愚を悟るのは年取ってから、あるいは辛い経験に教えられてからであるのが普通である。私の場合もそうだった。しかも私はまだ病気が治らなくて、島での自分の生活に満足することができず、ここからどうして脱出しようかということを終始考えているのだった」

    ひとつの場所にとどまり続けることができない、ということが近代精神の本質ではないか。社会が近代的に再編制されていくにつれて、個人は交換可能なひとつの機能として断片化され、自分がいまここに在らねばならぬという存在の必然性を喪失する。そこから自分の存在理由を汲み取るべき土壌=故郷を喪失する。断片化された世界ではその意味連関が崩壊し、人間は存在の秩序から追放される。世界は人間にとって一顧だに値せぬ虚構となる。そのような世界が差しだしてくる尤もらしい理由はどれも、常に既に欺瞞であり峻拒すべき虚偽である。にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ、人間は不可能にも自分の存在根拠を求めて現実に対して否定を繰り出さずにはおれない。否定を繰り出しては一時的に見出される土壌=故郷も、自らの存在根拠を徹底的に掘り崩していく否定精神の"極端"の前では、直ちにその虚偽を曝け出す。こうして無限の自己否定という"極端"の極みというべき運動が生起する。

    近代は、自己否定の無限運動という"極端"を内包している。「神と自然によって自分が置かれた状態に満足しない」のが近代人であるならば、彼らはいつもいまここからの「脱出」を企てているのであり、それは超越への志向に憑かれた存在と云えるのではないか。中庸の徳を内破するロビンソンの漂白への意志は、近代という時代の幕開けにあたり、とても象徴的なものであると思う。

    □帝国主義的・植民地主義的近代人の原型

    にもかかわらず、孤島に漂着したロビンソンは、「病的」(ゲーテ)と評されるロマン主義のイメージとは正反対に、陽光の下で生命力に溢れており、生存のための活動に精力的に従事する。そこでの彼は、近代西欧人のもうひとつの相貌である帝国主義者・植民地主義者の姿を見せる。当初は一切の生活手段を欠いた孤島で生き延びるために、彼は三つのことをした。則ち、「自然」「自己」「他者」の三者の支配=管理である。

    ○自然支配=管理

    原初の自然は、ロビンソンが漂着したときの孤島と同様に、人間存在の外部にunheimlichな世界そのものとして存在していた。そのような状況下でまず必要なことは、人間に対して疎遠な存在でありときに脅威ですらある自然を、人間にとっての生存条件=資源=手段として客体化し、heimlichな存在に加工することであり、それによって自然を人間世界の内部に人間に従属するものとして取り込むことである。自然を、そこから人間にとっての有用性や利益が上がるような資源へと改変するために、原始の人類と同様にロビンソンが必要としたのが、衣食住にかかわる日用品や農具など様々な道具である(ベルグソンは、道具を製作し使用するという点に動物から区別される人間の本質を見出し、人間を「homo faber 工作人」と規定したが、ここで重要なのは、その道具が自然支配の為の手段であり、自然そのものを道具化しようとする点ではないかと思う)。

    「・・・、ここで言っておきたいことは、理性が数学の本質であり、根源であるのと同様に、すべてを理性に従って工夫し、最も合理的な判断に基いて行動すれば、我々はどんな手工にも長じるようになるということである。私はそれまで工具というものを手にしたことがなかったのであるが、努力と、労力と、工夫によって、殊に工具があれば、必要なものはなんでも作れることを発見した」

    そうした道具類を使って自然を加工し組織化することによって、狩猟や採集だけでなく農業や牧畜というより安定的な生産活動が可能となる。さらに棚など家具も作り、次第に増えていく道具類や農産物をそこに分類して整理整頓することに満足を覚えるロビンソンの姿は、資源化された自然を合理的に再配置する管理者のそれであり、また同時に彼が自身の生活を合理的に組織化しようとしていることの表れでもあろう。

    「しかし今言ったような方法で板を作り始めてからは、洞穴の片側に一フィート半ほどの幅の棚を何段にも渡して、その上に工具や、釘や、鉄具や、要するにこれまで散らばっていたものをすべて別にして載せ、どこに何があるかすぐ解るようにした。・・・。洞穴はそのために、色々な必需品の倉庫と言った外観を呈してきて、なにか入り用なものがあれば、それを探して廻らずにすみ、すべてがそのように整頓されていて、殊に、何でもそのように豊富にあることに、私は非常な満足を感じた」

    このように、自己の存在条件を確保するために自然を資源として征服するという発想は、近代人の典型的な自然観であると云ってよい。

    ○自己支配=管理

    さらにロビンソンは、長期にわたる孤島生活を生き延びるために、自己の規律化・生活の合理的組織化を図る。まずは、日々の日課を規則的な時間割として編成し、計画的にそれを実行することによって、時間管理を行った。併せて、一日の活動を振り返り・反省し・翌日以降へ活かすために、日記をつけ始めた。「時間割に従わせる」「日記をつけさせる」、これらは、近代の学校が、生徒の生を資本主義社会における労働者として相応しい形に規律化させるために取る、常套手段である。

    「私は、一日のうちにしなければならない仕事の性質に従って、規則的な日課を立てて暮らしていた。その第一は神に仕えることと、聖書を読むことで、これは一日に三度欠かさずに実行した。次は銃を持って狩りに出かけることで、雨が降らない限り、普通この仕事に毎朝三時間を過ごした。第三は手に入れた獲物を選り分けたり、貯蔵用に加工したり、また料理したりすることで、以上のような仕事に、一日の大部分が費やされた」

    こうして、孤島という極限状態を生き延びようとするロビンソンの生活は、同時に、自然を効率的に搾取するのに相応しい実務的人間として、自己の心身を規律していく訓練の日々ともなる。そこでは、現状に対する絶望によって生活への意欲が消沈してしまうことは致命的であり、常に状況から積極的な意味を見出していく前向きで実際的な態度が、ひとつの"道徳"として要請される。

    「私は次のように、帳簿の貸方と借方と同じ形式で、私の生活で楽なことと辛いことを並べてみた。『悪いこと 私は救出される望みもなく、この絶島に漂着した。良いこと しかし私は生きていて、船の他の乗組員は全部溺死した。・・・。』とにかく私はこれによって、どんなに惨めな境遇でも、何かそこには積極的な、あるいは消極的な面で、有難く思っていいことがあるという事実を明らかにすることができた。そして私自身が経験したような、最悪の境遇でも、そこに何か我々を慰めてくれて、良いことと悪いこととの貸借表の中で、貸方の方に記入すべきものが必ず見出せるのである」

    このとき、世界に対する解釈は、生存にとって有用か否かという観点から査定されることになる。則ち、本来自由であり外部から統制されるべきものではないはずの、世界に対する内面の在りようを、有用性という特定の価値基準に従属させることを強いられる。世界は、質的な意味を喪失し、有用性という尺度によって比較可能な量的存在となる。

    こうした道徳による内面管理は、内面に対する植民地主義と云えるのではないか。道徳とは、個人をして支配権力に都合よく振舞わせる為の手段である(当人は自分の自由意思に基づいて行動していると錯覚させられているが)。これによって、支配権力は統治に費やすコストを低く抑えることができると同時に、個人をして支配層のために利益を上げる資源とすることができる。そもそも管理とは、何らかの目的を達成する為のヨリ効率的な手段・資源として他者を従属させ、それを利用することである。道徳による内面管理とは、自己の内面を資本主義社会における生存=労働のための資源として自ら植民地化してしまっていると云えないか。

    ○他者支配=管理

    孤島に侵入してきた「野蛮人」を物理的暴力によって排除したり、或いは奴隷として宗教的に教化しようとするロビンソンの姿は、まさに植民地の現地人に対する当時の西欧人の振舞いそのものであろう。キリスト教に基づく啓蒙思想は、植民地主義的な自然支配・他者支配を正当化するイデオロギーとしても機能してきた。

    以上のように、「自然」「自己」「他者」の三者に対する支配=管理というロビンソンの営みから見えてくるのは、道具的理性により他者(そこには自然だけでなく自己自身さえも含まれる)を搾取する植民地主義的な人間の姿である。



    デフォーが描き出したロビンソン・クルーソーという人間は、その後の近代西欧がたどっていくことになる様々な相貌を、予め映し出していたと云えるのではないか。
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    投稿日:2018.10.09

  • inki9298

    inki9298

    昔読んだ印象とだいぶ違った。
    無人島みたいなところに行ってみたくなったけど一人ぼっちで長期間行くのはやだなぁ

    投稿日:2018.08.15

  • masa104masa

    masa104masa

    ダニエル・デフォーの「ロビンソン漂流記」。なんとしても生きていこうとする勇気がわいてきます。

    詳しくはHPで
    http://masaathlon.net/

    投稿日:2017.07.20

  • sate

    sate

    読まなくても良かった。「塩狩峠」で主人公が読んでいたので、読んでみた。楽しかったのだけど、読まなくても良かった。ところどころで泣いてはいたのだけど。

    投稿日:2015.02.03

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