【感想】モオツァルト・無常という事

小林秀雄 / 新潮社
(56件のレビュー)

総合評価:

平均 3.9
17
12
12
3
1

ブクログレビュー

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  • レコスケ

    レコスケ

    美麗な文章で綴られる芸術論ですが、アイロニーやユーモアもあり批評のレベルにとどまらないと思う。
    豊かな歴史的観点からの考察もさすが。
    「骨董」に関する氏の「骨董の世界が所謂「美術鑑賞」と異なるのは、品物を買ってから始まり、そこから品物が此方の生活に触れてくるのだ」との下り、サブスクとレコード購入の違いを日頃思う自分としては膝を打った。続きを読む

    投稿日:2023.12.29

  • planets13

    planets13

    前半のほうには力強さや、言葉の鋭さがはっきりとしている。後半の骨董については、ちょっとグダグダとなった感がある。

    投稿日:2023.12.24

  • こべこべ

    こべこべ

    小林秀雄初読。有名な批評家だから、どんな文章を書くのかと思ったらほとんどがエッセイに近い印象だった。明晰な分析というより、文学に近い。
    期待は裏切られたが、文章はめちゃくちゃ上手いし、これはこれで良い収穫だった気がする。「モオツァルト」が一番好きで、「西行」も良かった。いつか「本居宣長」読みたい。続きを読む

    投稿日:2023.04.20

  • ToKi

    ToKi

    本文は、モーツァルト・美を求める心と題して、noteで投稿したものです。

     
     水曜日の朝、ぼくはモーツァルトのシンフォニー第40番第1楽章を聴いて、泣きそうになったのを思いだす。その日は、いつもより早く起きていたから丁度良いと思い、かけていた。
    しかし、何故モーツァルトは、シンフォニーで何役にも転じたのか、語り部であり、聴者であり、忘れ河である。
    彼は、自らの楽曲の中で自問自答を繰り返していたのか。
    ふとそんなことを思い、狂った感覚が襲った。
    しかし、ぼくは音楽に詳しい訳では無い。空き時間に未開の地に足を踏み入れんとする者である。
    しかし、不思議だ。あの時に感じたものはいまでは、やはり偽りの鮮明の中に埋もれてしまっている。

     何故か小林さんのモオツァルトは読んでいなかった。それ熟読することは、高校生のぼくにはまだ早いのかと思っていたが、モーツァルトのあの躍動を凝縮したシンフォニーを聴いて心奪われた以上読んでみたくなった。
     Ⅰ   モーツァルト
     水曜日に聴いたシンフォニーは、無名のピアニストによる演奏だった。しかし、その後もモーツァルトのシンフォニーのことで頭は一杯で、頭の中で何度も繰り返し響いていた。
    しかし、もう一度聴きたい。メニューインの演奏があったのでそれを聴いた。なるほどこうなるのか。ぼくは彼の演奏に惹かれてしまった。メニューインは小林さんのお気に入りのヴァイオリニストとのことで、彼の来日時に、愛情を持ってこう書いている。
     「第一日目の演奏を聴いて、何か感想を書くことを約したが、きつと感動してしまつて何も言ふ事がなくなるだらうと考へてゐた。その通りになつた。タルティニのトリルが鳴り出すと、私はもうすべての言葉を忘れて了つた。バッハだらうが、フランクだらうが、それはもうどうでもよい事であつた。魂を悪魔に渡してから音楽を聞くといふこともある。タルティニは嘘をついたのぢやあるまい。たゞ、私は夢の中で、はつきり覚めてゐた。そして名人の鳴らすストラディヴァリウスの共鳴盤を、ひたすら追つてゐた。あゝ、何んといふ音だ。私は、どんなに渇ゑてゐたかをはつきり知つた。
    メニューヒン氏は、こんな子供らしい感想が新聞紙上に現れるのを見て、さぞ驚くであらう。しかし、私は、あなたの様な天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と不幸とをよく理解してゐる大人である。私はあなたに感謝する。」

    『メニューヒンを聴いて』(1951年)

     しかし、クラシックは、元気が無いと聴く気が起きないという時期がぼくにもあった。長明の言うところの朝顔と露か。oasis、レディオヘッドあたりが、丁度良いという時期が。しかし、歩いているとメヌエットのG.minorが、ぼくを急がせ次第に足取りは速くなる。

     小林秀雄が、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけないと言った楽曲は、弦楽五重奏曲第4番 ト短調 K.516である。
    ぼくのアレグロに対する印象は、まるで、そっほを向いているように感じた。小林さんは、正確な足取りであるとおっしゃっていたが、ぼくが思うにそれは、ジャック・スパローのあの歩き方である。音がほんの少し響く地面をあの様に独りで歩いている。そして時折振り返る。多分何も見るものは無いし、見てもいない。衝動的に、そうしたに過ぎまい。 それ故、涙はついてこれない、涙ですら見えぬのだから。涙は彼の曲となる。彼の涙は、モオツァルトという忘れ河を経て、あのような明るい曲となる。涙はもはや、追いつけぬばかりではなく、何も覚えてなどいないのではあるまいか。その数滴の涙めいめいが人をヴァイオリンとを表す。モーツァルトの曲はいつも新鮮だとあるが、モーツァルトを思いだし耳を傾けると、何もかもを忘れた涙が、曲として生まれてくるからではあるまいか。しかし、これはモーツァルトに限ったことでは無く、全ての人もそうである。それが、孤独という人間存在の本質と小林さんは、書かれている。そうなると彼の楽曲はいよいよ深い。モオツァルトという人は、決して急いでいる訳では無い、ドン・ジョバンニを見ているとそんな気がしてくる。サリエリはドン・ジョバンニの上演を僅か6日で打ち切らせた。騎士長が、父レオポルトに見えたのだ。彼は父親の呪いがモーツァルトにかかっていると直感したのだ。しかし、モーツァルトにとっては果たして、レオポルトの呪いであったのか。呪いであり祝福であるかのようだどうやらサリエリは、次なる祝福を我が物にしたかったのだろう。

     小林さんが交響曲第39番 変ホ長調 K. 543第4楽章は、まるで明け方の雲のようだとおっしゃっていたが、捕らえた小鳥をかごの中で、野生のままにしておくが如く、この表現には感動した。余すことのない自然と生み出されたそれが、この第4楽章から伝わってくる。ハイドンのシンフォニーの繊細さとは違う、カーテンの匂いのするようなものでなく、冷たい川の水のようなものをモーツァルトからは感じる。ブルーノ・ワルターの指揮は、本当に素晴らしい。

     Ⅱ 批評の神様の音楽会
     小林秀雄は、文学青年でもあり音楽青年でもあった。彼の父親の職業柄また、父親の短命ともあり、しかし、海外製の蓄音機が小林秀雄の音楽への造詣を深めるに至るきっかけとなった。
    こうして思えば、無常という事は、小林秀雄の傍に、いつも音楽があったという事の象徴だとも言える。彼も宣長は、ブラームスで書いてます。といっていた。
     第一部までモーツァルトについて触れてきた、この第二部では、美を求める心を小林さんの音楽との関係について触れながら進めていく。
    私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりとした美しさの経験が根本だ、と考えている…。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。 美を求める心より   
     美しいものは、既にそこにある。我々は、めいめいの目で耳でそれを見出さなくてはならない。勿論、人それぞれである。無常という事は、多分、モーツァルトに最も影響されていると思う。これも、ぼくの考えであり、そうでなくても構わない。これは、こう言う歴史でこう言う価値があり云々とは、それほど重要ではない。その先が重要なのである。現代に於いては、これが欠落しているとしか思えぬ。

     音楽や芸術それだけではなく、自然それが、人間の創造性のダイナミクスの源であるという事は、多分、何となく分かる人も多いだろう。 梅の花だって、木に咲いているものだけが美しいのではない、散ってもなお美しい、勿論、そのようなクオリアは、人によって明らかに違ってくるもの。かつての王侯貴族達が、アートを欲していたのは、まさに一種形式的なものから自らを解毒しようとしていたのではあるまいか。
     
     1982年12月28日小林さんは、病床についていた。同年春から音楽を聴くことは無くなった。聴く気力も体力も無いのである。しかしその日、1階のテレビから、あのメニューインの演奏が放映されている。小林さんは、夫人と共に最後まで聴いていたという。宮沢賢治に、眼にて云ふという詩がある。
    あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
    わたくしから見えるのは
    やっぱりきれいな青ぞらと
    すきとほった風ばかりです。
    苦しいさはあったはずである。しかし、多分、彼の人生で最も何とも言えないものに包まれた一時であったことだろう。その約2ヶ月後、小林さんは、息を引き取った。
     美を求める心とは、即ち、人の心也。
    人間が生きる原動力となる。茂木健一郎さんが小林さんは、エピファニーの人だとおっしゃっていたが、このエピファニーというものを我々は、大切にしなくてはならない。本質は必ずしも美しいとは、限らない。美は思うほど美しいものではない。だからといって美しくないわけではない。一枚の木葉も地面におちていれば、隠すものは、そうあるまい。しかし、一と度手に取り、月にかぶせてみよ。
    我々は、創造の萌芽の芽吹く世界に怠惰しているに過ぎない。そんなものは、場違いではあるまいか。現代人が最も癪に障る。それは必ずしも考え抜いたからというものでは無くともそうであるものではないあるまいか。

     モーツァルト、これで良かったのか?
    答えてくれても良いじゃないか。
    答えてくれそうにないな。
    ぼくはまた、忘れ河の水を飲むのか。
    しかし、君は人間だな。ぼくは完全に忘れることは出来ない。思い出せもしない。

     悲しさは疾走する。涙は追いつけない。
    然れど涙は忘れ河を通り、永遠に回帰する。





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    投稿日:2023.03.15

  • ゆん

    ゆん

    初めて小林秀雄の著作を読み、勝手に想像していたより内容がとっつきやすいことに驚いた。少し調べると、彼の評論の姿勢・内容に対する批判を見たが、そう言いたくなるのも理解できると思った。一方で、そうだそうだ!と私がならないのは、読んでいて彼の文章に「友達らしさ」を感じてしまったからだと思う。

    坂口安吾の「教祖の文学-小林秀雄論-」を青空文庫で読んだ。小林秀雄に対する批判は真っ当だなと思う笑

    いくつか、そうだなと思ったところを抜粋する。
    ・私は然しかういふ気の利いたやうな言ひ方は好きでない。本当は言葉の遊びぢやないか。....美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない、といふ表現は、人は多いが人は少いとは違つて、これはこれで意味に即してもゐるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思ひこんで取り澄してゐる態度が根柢にある
    ・あげくの果に、小林はちかごろ奥義を極めてしまつたから...小林秀雄も教祖になつた
    ・人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。歴史の必然などといふ、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪へたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。だから小林はその魂の根本に於いて、文学とは完全に縁が切れてゐる。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である
    ・彼はもう文学を鑑賞し詩人を解するだけだ。歴史の必然とか人間の必然といふ自分勝手な角度によつて、彼はもう文学や詩人と争ひ、格闘することがないのである。争ふとか格闘するといふことは、自分を偶然の方へ賭けることだから、彼はもう偶然などは俺にはいらないといふ悟りをひらいてゐるのだ
    ・思想や意見によつて動かされるといふことのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見てゐやしない。つまり小林の必然といふ化け物だけしか見えやしない。平家物語の作者が見たといふ月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいふそんな月が一体そんなステキな月か。平家物語なんてものが第一級の文学だなんて、バカも休み休み言ひたまへ。あんなものに心の動かぬ我々が罰が当つてゐるのだとは阿呆らしい
    ・文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふといふことでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚づつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない
    ・人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。仮面をぬぎ裸になつた近代が毒に当てられて罰が当つてゐるのではなく、人間孤独の相などといふものをほじくりだして深刻めかしてゐる小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当つてゐるのだ。自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない
    ・文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、人生の主題眼目は常にたゞ自分が生きるといふことだけだ。良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたといふ兼好法師はどんな人間を見たといふのだ。自分といふ人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたつて何も見てゐやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力といふものが見えなければ
    ・人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなつてしまふのだから。自分一人だけがさうなんだから。銘々がさういふ自分を背負つてゐるのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ

    抜粋という量ではないが、どれもこれも私に刺さった。そうだな、そうだよな、と思いながら、やはり一方で小林秀雄に対する共感は消えない。坂口安吾の考えも心の底から賛同するが、私にはこれは生まれ持った性質の違いであって、どこまでも平行線で続くもの、同じ人間だからと同じ到達点に至らないところだと感じている。(これは全く持って私の感想なのだけれど)
    坂口安吾のような人を私はとても好きだし、そういう言葉に救われることもあるのだけど、そのようになれるかというと別で、生来の考え方・捉え方は小林秀雄的な曖昧さに近い。

    世の中はそのように曖昧に存在すると思っているし、言語化できないニュアンスを小林秀雄と共有していると私は感じてしまった。論理的に云々ではなく、直感でそう感じたというところが大きい。必ずしもすべての評論に納得するわけでもなく、小林秀雄先生万歳!となるほど心の底から納得しているわけでもないんだけど、なんとなく君の言いたいことはわかるよと思いながら読んでいたというのが近いかな。急に絵や音楽を思い出したり、自分の心がこういう風に動いたと書きまとめることを自分もやるからだろう。

    特に好きだったのは「西行」の「いかにすべきか我心」が問題であった、という評論。
    西行も、小林秀雄も、そして私もあまりにも自分の心を過剰に捉えているのかもしれないが、どうしてかそういう風になって生きているので、それを認識し変えようとしながらもどうしてもそうなる心というのを持て余しているのだ。
    高校生の時に「行方無く月に心の澄み澄みて果ては如何にか為らんとすらむ」という一首に出会った時の衝撃を、小さいころからの自分と同じ状態を詠った歌人への同朋意識を、私はいまだに持ち続けている。

    モオツァルトがかなしいか、いや全てがかなしいのである。

    そういう心は浮世を離れてしまうので、坂口安吾的な人からの叱咤はいつも私を引き戻してくれるのだ。
    もう少し小林秀雄を読みつつ、坂口安吾も読みたくなってきた。
    続きを読む

    投稿日:2022.07.16

  • yoshidamasakazu

    yoshidamasakazu

    小林秀雄 「 モオツァルト 無常という事 」 表題のほか、中世文学、日本美術、骨董に通じる美意識を捉えた随筆。美意識を 耳で捉えている印象を受ける。逆説的な表現も とても面白い


    表題の「モオツァルト」はモーツァルトの愚劣な生活と完璧な芸術の不調和に目付けした名随筆。肖像画と実生活からモーツァルト像にアプローチする方法も斬新


    「モーツァルト」で 語られた「美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって〜普通一般に考えられているより遥かに美しくもなく愉快でもない」が、他の随筆の美意識にも つながっているように思う


    「モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」について、モーツァルトの音楽に 疾走感はあると思うが「かなしさ」とは何か。レクイエム、ミサ、オペラなど作品の悲しさ? モーツァルトの天才ゆえの孤独の悲しさ?掲載時(昭和21年の敗戦直後)における聞き手の悲しさ?



    著者らしい逆説的な名言の数々
    天賦の才というモーツァルトの重荷
    「才能があるおかげで仕事が楽なのは凡才に限る〜凡才が容易と見る処に〜天才は難問を見る〜強い精神は容易な事を嫌う」

    「努力は困難や障がいの発明による自己改変の長い道だ。いつも与えられた困難だけを、どうにか切り抜けて来た苦労人は、発育不全な自己を持っている」

    モーツァルト作品
    *世間の愚劣な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったもの。制作とはその場その場の取引であり〜熟慮専念する時間はなかった
    *即興は彼の命〜外部からの不意打ちに対する決意の目覚め〜彼のこの世に処する覚悟
    *モーツァルトは何も狙いはしなかった〜モーツァルトは目的地を定めない。歩き方が目的地を作り出した〜他人の歌を上手に模倣するほど、自身のかけがえのない歌を模倣するに至る

    続きを読む

    投稿日:2022.01.20

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