金環日蝕
阿部暁子(著)
/東京創元社
作品情報
知人の老女がひったくりに遭う瞬間を目にした大学生の春風は、その場に居合わせた高校生の錬とともに咄嗟に犯人を追ったが、間一髪で取り逃がす。犯人の落とし物に心当たりがあった春風は、ひとりで犯人探しをしようとするが、錬に押し切られて二日間だけの探偵コンビを組むことに。かくして大学で犯人の正体を突き止め、ここですべては終わるはずだった──。《本の雑誌》が選ぶ2020年度文庫ベスト10第1位『パラ・スター』の著者が、〈犯罪と私たち〉を真摯かつ巧緻に描いた力作。
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商品情報
- シリーズ
- 金環日蝕
- 著者
- 阿部暁子
- ジャンル
- 小説 - ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
- 出版社
- 東京創元社
- 書籍発売日
- 2022.10.28
- Reader Store発売日
- 2022.10.31
- ファイルサイズ
- 1MB
- ページ数
- 409ページ
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この作品のレビュー
平均 4.0 (119件のレビュー)
-
『罪を犯す時、人はどんな気分なんだろうか。あの男は、一夜明けた今どこにいて、何を思っているのだろう』。
法務省が作成している2022年版の犯罪白書によると、2021年のこの国における犯罪件数は56…万8,104件と、戦後最少を更新したそうです。日々のニュースを見ていると、その真逆のイメージを抱いてもしまいますが、統計上からはこの国はどんどん犯罪のない安全な国へと変わっていっているのが現実のようです。
とはいえ、そんな説明だけでは素直に安心などできない状況もあると思います。あなたの元にも日々届き続けているであろう怪しいメールの数々を見ても私たちはこの瞬間も決して油断などしてはいけない、犯罪被害と隣り合わせな日常を生きている現実もあるように思います。心から安心できるような日常を手に入れることはなかなかに難しいことなのだと思います。
さて、ここに、主人公が『きゃあっ!』という悲鳴を聞く場面からスタートする物語があります。『札幌ドームが鼻先にそびえる住宅地』に起こったある『犯罪』の先に展開していくこの作品。そんな物語の中に『人間はいくつもの顔を持っている』という言葉を噛み締めることになるこの作品。そしてそれは、『人間は、置かれた状況によっちゃ簡単に良心なんて手放せる。罪悪感なんて五秒で忘れる』という言葉の重みを読者が噛み締めることになる物語です。
『きゃあっ!』という悲鳴と共に、『札幌ドームが鼻先にそびえる住宅街』の一角で『老婦人が転倒するのが目に飛びこん』できたというのは主人公の森川春風(もりかわ はるか)。『見間違えるはずもない、斜向かいの家にひとりで暮らしている小佐田サヨ子だ』と思う中に、『ベースボールキャップとマスクで顔を隠した黒ジャンパーの男』が『小ぶりの紙袋』をサヨ子から奪い取るのを見た春風は、『トートバッグを投げ捨てて走り出』します。『距離が縮まらず、歯嚙み』する春風の『視界の左端を』『黒い影が』すり抜けます。『あっちから回ってください!』と『真っ黒な詰襟の学生服』に言われ『挟み撃ち』を理解した春風。そんな春風の元に『女が相手なら振り切れると考えたのだろう』男が向かってきます。『左手で右腕袖口をつか』み、『いける』と判断した春風でしたが『いっきに男を背負う寸前』、『クラクションが鳴り響』き『軽自動車』に突き飛ばされてしまいます。『大丈夫ですか』と少年に訊かれ、『私はいいから追っ ー』と言葉を呑みこんだ春風。『目を離した隙に男』はいなくなってしまっていました。そんな春風に手を差し出す少年の『詰襟の学生服』につけられた校章を見て、『二年前に卒業した市内の道立高校』のものだと認識した春風は、『道路のほぼ真ん中に』『何かが光』るのを目にします。『パトローネ ー 写真用フィルムをおさめる円筒形の遮光ケースを飾りにしたストラップだった』と転がっているものを見て『男のジャンパーのポケットからとび出したもの』だと思う春風は、『どうしてあの男がこれを?』と思います。場面は変わり、『森川春風さん』、『北原錬(きたはら れん)くん』と『地下鉄大通駅の南北線改札前』で再会した二人。『昨日サヨ子を病院につれて行くために別れる間際』に『連絡先を交換』した春風は、サヨ子から昨日のお礼ということで預かったお金で錬を『回転ずし店』に招待したのでした。昨日の話をする中にサヨ子が『警察には届け出るつもりはない』と聞く錬は、『あのストラップってどうしたんですか?』と春風に訊きます。そのストラップが春風の大学の写真展で売られていたグッズであることを説明する春風。そんな春風は、すでにそれを入手した可能性のある人物を八人まで絞り込んでいることを説明します。そんな説明に『俺は、あいつを捕まえられなくて悔しかった』と、春風と共に『あいつ』を捜したいと言う錬。再度場面は変わり、大学の図書館前で待ち合わせをした二人はストラップを購入したと思われる八人のリストを元に学内を巡り始めます。そして一人、また一人と可能性が潰えていく中、一人の学生が怪しい所作を示します。『鐘下実』という名前をスマホに打ち込み『かねした、みのる』と『胸の中で復唱』する春風。そんな春風が『鐘下実』の行方を追う先に、物語冒頭からは全く想像も出来ない衝撃的な犯罪を読者が目にすることになるミステリーな物語が始まりました。
“ひったくりの犯人を突きとめた。事件はそれで終わらなかった。私たちは、ある男が歩んだ道を、辿り直すことになる”と、本の帯に意味ありげに記されるこの作品。その書名「金環日蝕」には、2012年5月21日に、日本各地でも観測することのできた印象的な天体現象が自然と思い起こされもします。とはいえ、この作品はそんな天体現象を描いた作品というわけではありません。
『中心は暗闇に沈んで何も見えないのに、その輪郭だけが強烈なかがやきを放つ』。
「金環日蝕」という天体現象が見せるそのダイナミックな光景を、物語の雰囲気に象徴的に比喩しながら物語は展開していきます。
そんな物語を二つの側面から見ていきたいと思います。まずは、作品の舞台となる北海道の描写です。北海道を舞台に描く作家さんというと桜木紫乃さんが思い浮かびます。釧路に生まれ江別に暮らされる桜木さんの描く北国の風景は独特な世界観に彩られています。それに対して大学時代を彼の地で過ごしたという阿部暁子さんがこの作品で描く北海道は、札幌の市内にある国立大学のリアルな風景です。
『今の季節、キャンパスはどこを見ても絵画のような色彩だ。地面はイチョウの落ち葉に覆われて黄金色の絨毯を敷いたようになり、あちこちでナナカマドが小さく燃える火のような実をつけている』。
物語冒頭に記される秋真っ只中のキャンパスを赤と黄が美しく彩っている様が見事に描写されます。また、こんな描写もあります。
『二講時が終わったあと、春風は皐月と札幌駅前のスープカレー店に出かけた』、『スープカレーのランチセットが来るのを冷たいラッシーを飲みながら待っている』
ガイドブックにも記されるとおり、『札幌駅前のスープカレー』は有名なお店のようです。そして、決定的な記述が登場します。
『「そしてこちらが、かの高名なクラーク博士の胸像です」、「観光客が見て”これじゃない”って思うやつですね」 、「”博士が遠くを指している例の像は羊ヶ丘展望台にあります”という説明を私も二回したことがある」』
キャンパスに『クラーク博士の胸像』がある札幌駅近くの国立大学と言えばこれはもう北海道大学しかありません。他にもどう考えても北海道大学しかありえない表現が多々登場します。しかし、この作品ではなぜか大学名が頑なに伏せられます。どうしてそこまでして大学名を伏せるのだろうと思いましたが、それは物語に登場するある人物が重大犯罪に関わっていくからなのだろうと思います。
次にこの作品で度々登場する『心理学』です。主人公を務める春風は大学で『心理学』を専攻しています。『過去に何があったかは関係ない、肝心なのはこれから何を為すかである』というアドラーの言葉に高校時代に触れたことから『大学で心理学を学ぼうと決めた』という春風。そんな『心理学』についてこんな問いかけがなされます。
『心理学を勉強してると、人の心が読めるようになったりするんですか?』と訊く錬
↓
『心理学は科学的に人間を理解しようとする学問』と答える春風は『心は、読んだり言い当てたりする対象ではなくて、輪郭や性質をさぐっていくもの』と説明します
『心理学』というものに対する一般論としての説明だと思いますが、そんなことを聞いてきた錬にこんな風に春風は逆質問をします。
『錬くんは、他人の心を読みたいと思ったりするの?』
↓
『それができたら、防げることもたくさんあるんだろうなって思います。人間は噓をつくから』と返す錬は、『もしそういう噓が心を読んで全部わかったら、昨日のおばあさんみたいにひどい目にあわされる人もいなくなる』とその理由を説明します。
一方で、春風自身も人間の心についてこんな風に感じています。
『私も、とてもやさしい気持ちになれる時があれば、殺したいほど誰かを憎む時もある。心って何なのか、どれが本当なのか、それを知りたくて心理学の勉強を始めた』。
人の心とそれを学ぶ『心理学』を物語中で繰り返し取り上げてもいくこの作品。それは、この作品が人が犯す『犯罪』にさまざまな方向から光を当てていく物語でもあり、そんな『犯罪』を垣間見る主人公の春風が、一方で冷静に『心理学』を学ぶ視点から俯瞰していこうとするものでもあるからなのだと思いました。
そんなこの作品は〈序章 発端〉と〈終章 勇気〉に挟まれた五つの章から構成されています。上記で舞台をご紹介したので、次はそんな物語で視点の主を務める二人の登場人物をご紹介しましょう。
・森川春風: H大学二年生、文学部、家族は母と兄、父はタイに単身赴任、高校時代に柔道部に所属していたことが物語の冒頭に見せる姿に連動する
・志村理緒: H大学一年生、文学部、家族は母と妹、父は離婚、高校時代に居酒屋でアルバイト中に、物語の黒幕とも言えるある人物と運命的な出会いを果たす
この作品は内容紹介に”〈犯罪と私たち〉を描いた壮大なミステリ”ともうたわれています。ミステリにネタバレは禁物です。ブクログの他の方のレビューを見てもこの物語に描かれていく衝撃的な物語については一様に伏せられていらっしゃいます。私もそれに倣い、核心部分に触れることは丁寧に避けたいと思いますが、この作品には誰もが知る今の世の中を象徴する、ある『犯罪』の舞台裏がリアルに描かれていきます。それは唐突に登場します。上記で少し触れた物語冒頭〈第一章 探偵〉では、主人公・春風が偶然遭遇した、知り合いのおばあさんが『小ぶりの紙袋』を強奪される場面が描かれた後、犯人が現場に残した『パトローネ ー 写真用フィルムをおさめる円筒形の遮光ケースを飾りにしたストラップ』を元に、それを購入した人物を探す場面が描かれていきます。この部分だけ読むとどこか”学園モノ”を思わせるようなどこかほのぼのした雰囲気を感じさせます。「金環日蝕」という重々しい書名に”純文学”を想像してこの作品を手に取った読者を驚愕させる”軽さ”を見せていく物語冒頭。それが、次の〈第二章 家族〉、〈第三章 発覚〉と進むにつれ、物語は違う顔を見せていきます。
『人間の顔はひとつではない。天と地ほどの振り幅で、慈愛から残虐までを同居させている… 人間はいくつもの顔を持っている』。
そんな表現の先に描かれていく物語は、冒頭の雰囲気感から一変、超重量級の内容を描く物語へと作品を変容させていきます。
『別に、貧しさにおびえたことのない人たちに不幸になってほしいだなんて思わない。むしろ誰もがしあわせであるほうがいいと思っている。けれど自分は、彼の役に立つためなら、苦しめられる人たちを踏みつけて進むことができるのだ』。
主人公のそんな強く決意が語られてもいく物語は、謎が謎をどんどん生んでもいきます。そして、そこに冒頭から巧みに伏線が張られていたことに読者は衝撃を受けます。一点だけ触れておきましょう。〈第一章 探偵〉の冒頭に春風が起床後洗面所で洗顔をする場面が描かれます。
『髪をヘアターバンでまとめて冷水で洗顔した』あと、『ドライヤーをかけながらセットしていく。前髪はとくに念入りに』。そのあと、『鏡の中の自分を見つめながら前髪をかき上げた』春風という何のことはない、”軽い”描写がなされていくこの場面
そのシーンに何故か春風の決意が唐突に語られます。
『過去に何があったかは関係ない。肝心なのは、これから何を為し、どんな自分となるかだ』。
このレビューだけ読まれた方は当然のことですが、この作品を読まれてこの場面に行き当たった方であっても、この場面の本当の意味は決してわからないはず、というより私のレビューを見ないで読まれた方は完全スルーされると思います。どうして、『前髪をかき上げ』ることと、こんな強い思いが交錯するのか?せっかくこのレビューをお読みいただいたあなたには、是非この箇所を覚えておいていただければ、阿部さんが如何に巧みに伏線の数々を作品に散りばめられ、見事に回収していく緻密な物語を構築されていくかをお分かりいただけるかと思います。
そんな物語は、〈第四章 反転〉でその全容を見せた後に、いよいよ〈第五章 対決〉へと進み、〈終章 勇気〉で鮮やかなまでの幕を下ろします。ストーリーを二転、三転させながらどこに決着するのか予断を許さないミステリ作品として、全ての謎が明らかになり、中盤の超重量級の物語が、結末へ向けて不穏さをどんどん増していく展開は見事という他ありません。
『中心は暗闇に沈んで何も見えないのに、その輪郭だけが強烈なかがやきを放つ』。
そんな「金環日蝕」の強烈な印象を読者に深く刻み込み、読者のさまざまな感情を激しく揺さぶりながら、それでいて光を見せる結末へと読者を導いていく阿部さんの鮮やかな手腕。単行本416ページの物量を全く感じさせない見事な構成力に最後の最後までとても魅了された作品でした。
『人が騙し騙されることは、きっと永久になくなることはないのだろう。人が欲望を捨てられない限り、そして、誰かを信じようとする限り』。
一見、”学園モノ?”を思わせるどこか軽いタッチで始まる物語が、突然、社会問題化もされている超重量級の『犯罪』に光を当てていくこの作品。そこには、全く立場の異なる二人の女性視点の”壮大なミステリ”が描かれていました。大学を描くリアルな描写の数々に”学園モノ”の雰囲気も感じさせてくれるこの作品。おびただしく張られた伏線の数々が、一つひとつ丁寧に回収されていく見事な構成に唸るこの作品。
まるで”純文学”を思わせるような書名と表紙に抱くイメージからどこかズレた登場人物たちが繰り広げる極めてアンバランスな物語。そんな物語のその先に、強烈な光と対になるように漆黒の闇が顔を出す絶妙な構成の物語。書名と表紙の強いインパクトがいつまでも尾を引く素晴らしい作品でした。続きを読む投稿日:2023.05.06
このレビューはネタバレを含みます
詐欺をテーマにした面白くも恐ろしい小説。人間の悪意と残酷さが刻みつけるようで、読み進めるのが怖くて読み切るまで大変だった。
レビューの続きを読む
様々な巧みな詐欺により登場人物達が続々と騙されていくリアリティある描写、…そして読者的に信頼していたはずの人物すらある意味ではを働いていた部分などが特に恐ろしかった。そして彼らもまた詐欺をすることで感覚が麻痺したり、それを楽しんでいる自分を恐れ、良心を捨てきれないのにやってしまうのが恐ろしい。また詐欺に向かってしまうような理不尽で困窮した立場の話も多く出てきており、それもまたやるせなさや、それを強要するような人間の悪性に慄く。最後まで詐欺そのものの黒幕の姿が見えないこともタイトルも相まって恐ろしい。
本作のラストでは詐欺をした過去もその才能もまた呑み込んでそうでない道を選ぶことができた人々のエピローグで話が締められている。詐欺の才能と本能を持つ人間は確かに存在し、そうせざる得ない状況に追い込まれることがある以上、詐欺は無くなることは決してない人間の必ず持つ多面性の一側面であり宿業のようなものなのだろう。だからこそ自らの宿業を認識した上でそれを跳ね除けていきたいという、か細いながらも強い希望を願わずにはいられない。
続きを読む投稿日:2024.04.06
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