本当は怖い 京ことば
大淵幸治(著者)
,リベラル社(編集)
/リベラル社
作品情報
京都で60年暮らす著者が送る、京都流コミュニケーションの入門書
"はんなり"したイメージとは裏腹に、柔らかい言葉に強烈な皮肉を込めて話す「京」の人々。
そこには本能とも言うべき判断基準があり、優雅に、柔らかく、遠回しな言い方を選んで話している。
だから、言われたことをその通りに受け取ると、痛い目にあうことも多い。
そんな独特のコミュニケーションを60年以上観察し、また自ら辛酸を嘗めてもきた著者が「京都暮らしはじめてさん」のために、贈る京都流コミュニケーションの入門書。
これを読めば、旅行も生活も安心!
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この作品のレビュー
平均 4.5 (2件のレビュー)
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常々著者に私淑するファンの一員であると公言する身として、これは応募せずばなるまいと応募してみはしたのだが、まさか本当に当たるとは思っていなかった。むしろ、当たらないのを見越したうえで、oldmanさん…に願いを託したのだったが、果たしてoldmanさんのほうはどうだったのだろうか。
なにはともあれ、当たらずとも遠からず(なんのこっちゃ)拙評を書くと宣言していた以上、ここはやはり書かずばなるまい。
――と、意気込んで、書こうとしたものの、よくよく考えてみれば、その宣言はトム・スコット=フィリップスの『なぜヒトだけが言葉を話せるのか:コミュニケーションから探る言語の起源と進化』と絡めたうえでの書評というカタチで公表する――と約してのものだった。
家内からも軽度の認知症と酷評されるほど物忘れと筆不精が酷いので、長らく放置していたのだが、そこはご勘弁いただくとして、まずはこの本がなにをコンセプトとして書かれているのかを措定したうえで、そのありようを捉えてみたい。
そもそも言語とはいったい、なんなのだろうか。
もしそれが一般に考えられているようにひととひととのコミュニケーション(意思疎通)のために生み出されたものだとしたら、当然、そこには話し手としての自分、そして聞き手としての相手がいなければならない。つまりはコミュニケーションが成立するうえでの最小単位は【我】と【汝】すなわち【自】と【他】の存在であり、それがなければ会話そのものが成立せず、話者のみ存在するならば、単なる独り言に過ぎないものとなる。
こうした事情から、最小単位としての我と汝が対話するうえにおいての心理状況こそが言語の基底をなし、その上においてはじめて意思の疎通は成り立つといえる。
しかしながら、言葉は単に発されるだけではなく、発されるその前に、いわばプレ言語としてヒトの心内に存在し、その意味において発語されたものが、はじめて言語としうる存在となるのである。
ま、こんな書き方をしたからといって、本気で論じているわけではないが、少なくとも言語が言語であり、コミュニケーションのツールであるためには、それ相応の内心語が前提としてあらねばならないのである。
著者は、本書の冒頭、リップサービスひとつをとっても、「その舞台が『京』だとなると、話はまったく違ってくる」として、つぎのようにいう。
「京民性」とでも呼べばいいのだろうか。まさにオンリーワンの人々が住んでいる「空間」が「京」というところである
、と。
つまりは、京都村というある意味、閉ざされた空間で営まれ、培われてきた特異な言語生理による言葉の発出原理。それには、ツークッションもスリークッションもおかれた婉曲語法がある。
彼は、本書を書くに当たって、京ことばに二種類があるとして『本書の使い方』につぎのように記す。
わたしは、京都人を「京都ジン」と表記し、そのジン種が用いるオモテ向きの言語を「京ことば」と呼んでいるが、その中身である話者の思いを「内心語」と呼んで区別している。番号つきの大見出しの表題が表向きのことば、それに続く中見出しの表題が裏の意味を含んだ京都ジンの内心語である
、と。
つまりは、オモテとウラの言葉を同時に比較対照できるようにしてくれているのだ。
この「内心語」こそは、彼のいうオンリーワン存在としての「京民」が京都村コミュニティのために生み出した伝統的言語戦略の根幹であり、それに先立つものとしての初期的言語形態であるといっていい。それを彼は京都ジンの言語生理と捉え、「京ことば」そして「京都ジン」を懇切丁寧に解説していく。
たまたま評者よりさきに本書の書評を開陳したโพลาริส星さんによれば、「言葉の奥の内面側の世界にまでサラリと掘り下げ」て書かれてあり、「対人スキルという意味でも就活中の若い人や漫才師さん芸人さんなんかにもオススメ」の一冊になるという。
確かにそういう部分があるのは大いに認めるにしても、その空間にあるのはやはり人と人が系統発生的にではなく、個と個としての一対一の関係性のなかで遭遇する異文化との対峙において、個を個としてあらしめるか、それとも汝として我を一体化させるかという、その一点において不可欠な「言語戦略の要諦」を説いたもの。それが、本書であるといっていいだろう。
話がズレた。いいたいことは本書の値踏みにあるのではない。言語はなんのために生まれたのか、ということ。そしてトム・スコット=フィリップスの見立てを文字っていうなら、「なぜ京都ジンだけが京ことばを話せるのか」そして「京コミュニケーションから探る京ことばの本質とはどのようなものなのか」という問いに答えようとした……。それが、著者のこれまでに著した諸作における最終目標であり、長年にわたって種々の言語資料を収集かつ渉猟してなったこの本こそは、その一大研究成果であるといっていいのではないだろうか。
京という一種、閉ざされた言語空間において、京ことばを個体発生的かつ語用論的に読み解く。それこそが京独特の言語生理、すなわち「言語の社会的遺伝子」を研究する者に課せられた役務といえるだろう。
最後になったが、約束どおり、トム・スコット=フィリップスの論との絡みで例えるならば、著者のいう言語の社会的遺伝子は、つぎのような解釈になる。
京都ジンの社会的言語戦略が進化したのは、京都村のような階層的社会では、集団が大規模になると、その生活が非常に政治的なものになるからにほかならない。そうした世界では、他者の心を読み、可能なかぎり操作誘導し、懐柔もしくは韜晦する能力が重要な適応形質となる。
そして、さらに蛇足を付け加えるならば、
京民流意図明示コミュニケーション、すなわち「京ことば」は複雑かつ被支配的な階層社会を生き抜く言語技術を高度に洗練したものであり、発信者は受信者の心を操作し、受信者は発信者の心を読もうとする。それに対して、歴史上経験したさまざまな推測が想定している機能(性、政府、政治、計画など)はすべて、彼らの用いる言語コミュニケーションの言語生理的機能が関係している
、ということになるのである。
へい、おあとがよろしいようで。続きを読む投稿日:2022.03.18
京都言葉の本音を解説した書籍である。タイトルに「本当は怖い」とあるが、京ことばに裏表があることは有名である。本書は京ことばを駆使する人を京都ジンと他所の日本人と異なる人々のように位置付けるが、むしろ普…通の市民感覚を覚えた。
本書は最初の京ことばに「わたし、アホやさかい」を紹介する。これは自分がアホと謙遜しながら、こちらに理解できるように説明しない貴方が愚かであると遠回しに嫌味を言っている。本音は「どこにでもあるような与太話を長々と聞かされてエラい迷惑やった。またおんなじこと、しはるんやったら、相手しませんで」である(18頁)。
本書の面白いところは、この言葉を営業のプレゼンテーションでの応答で使っていることである。マンション投資の迷惑勧誘電話が節税の話から始めるような、要領を得ない長話の営業トークにはウンザリさせられる。
「アホだから分からない」は話の内容を理解できるか否かではない。顧客側にとって重要なことは自分の価値があるかである。売り手の都合を押し付けて買い手の価値を無視した押し付けトークは、自分にどのような価値が得られるか分からない。京ことばと言えば歴史や伝統というイメージがあるが、Customer Successの21世紀にビジネス感覚と合致する。
本書は京都ジンを怒らせた例として、定年過ぎの年配男性が京都でタクシーに乗って「ワシ、昔、京都地裁におったんや」と話したことを紹介する(27頁)。公務員の組織自慢が下らなく腹立たしいことは京都ジンという特殊な人々に限った話ではなく、民間感覚と重なる。
京都は歴史的に天皇のお膝元であることが自慢と考えられがちであるが、朝廷は京都の行政権を持っていた訳ではなかった。明治時代になると天皇も公家の多くも東京に引っ越した。現代の京ことばの話し手の圧倒的多数は公家ではなく、町人の子孫だろう。京都ジンは東京人以上に民間感覚が強いと言える。
業界横並びの昭和の村社会では、付き合いで出費しなければならないことが多い。儲かっている企業ならば人一倍出さなければならないという圧力がかけられることがある。これに対して京都ジンは異なる。「カネがあり余っていても、客がくる限り、そんな無駄使いは一切しないのが京都ジンの知恵であり、始末精神なのだ」(36頁)。
金を使って金が循環することが経済発展という発想には昭和の古さがあるが、歴史的スパンで見れば昭和だけが異常となるだろう。江戸時代の江戸の大商人も同じである。江戸の大店は贅沢を禁止していた。「無駄な金遣いを省いてこそ、身代の大きさを保っていられる」(山本一力『つばき』光文社、2017年、136頁)。
「最近の調子は」「儲かっていますか」などの質問に「ボチボチでんな」がある。「パッとしない」「今一つ」という意味である。これは大阪の言葉として知られているが、本書は京ことばとして紹介する(37頁)。「ボチボチでんな」は商売だけでなく、「元気にしたはりますか」という人間の状態の質問の回答にもなる(38頁)。
これは素晴らしい文化である。日本には「元気ですか」「大丈夫ですか」との質問には、「元気です」「大丈夫です」と答えさせようという暗黙の強要があることがある。それによって質問者は問題ないと正当化してしまう。「ボチボチでんな」には相手の思惑には乗らない面白さがある。続きを読む投稿日:2022.03.22
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