この作品のレビュー
平均 4.2 (306件のレビュー)
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あなたは、高校時代の先生の名前を覚えているでしょうか?
人間は群れで生きる生き物であり、日々誰かしら新しい人と出会い、その名前を記憶していくことを繰り返していきます。そんなことはないと思われるかもし…れませんが、あなたは無意識のうちにテレビのニュース報道や、ネットのSNSを通じて日々新しい人たちと出会っているはずです。一方で私たちの記憶容量には限界があります。関係しなくなった人の名前は自然と忘れていくものです。それは、かつて恩師として私たちにいろいろな知識を授けてくれた学校の先生も同じことです。担任はまだしも、ましてや特定科目の先生の名前まで記憶し続けるのは容易ではありません。しかし、世の中は広いようで狭いものです。そんなかつての恩師と居酒屋で偶然にも再開する、そういう可能性だってゼロではありません。あっ!あれは!という瞬間、『必ず黒板拭きを持ちながら板書した。「春は曙。やうやう」などとチョークで書き、五分もたたないうちにすぐさまぬぐってしまう』というあの日の授業の光景が蘇る瞬間。しかし一方で『名前が出てこなかった』と、光景は思い出してもそんな先生の名前がどうしても思い出せない…そんなもどかしい思いに駆られる瞬間もあるかもしれません。
この作品は、元教師と生徒が二十年の時を経て街の居酒屋で偶然にも再開する物語。『名前がわからないのをごまかすために「センセイ」』と呼んだことをきっかけに『「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ』と、元教師のことを『センセイ』と呼ぶ女性の物語。そして、それは『歳は三十と少し離れている』という男と女の恋の物語です。
『正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ』、『カタカナで「センセイ」だ』というのは、主人公の大町ツキコ。『高校で国語を教わった』ものの『担任ではなかった』こともあって『さほど印象には残っていなかった』という『センセイ』と、『数年前に駅前の一杯飲み屋で隣あわせて以来、ちょくちょく往来する』関係になったツキコ。『キミは女のくせに一人でこういう店に来るんですね』と『センセイ』と言葉を交わすツキコは『キミは今年三十八になるんでしたね』、『今年いっぱいはまだ三十七です』とやりとりするも『センセイ』の名前を思い出すことができません。結局、『名前がわからないのをごまかすために「センセイ」と呼びかけ』て『以来センセイはセンセイになった』という結果論。そんな『センセイ』と『肴の好みだけでない、人との間のとりかたも、似ている』と感じるツキコは、『歳は三十と少し離れているが、同じ歳の友人よりもいっそのこと近く』『センセイ』を感じ出します。そんな『センセイ』の家にも行ったことがあるというツキコ。『夫人は亡くなったと聞いていた』ため、最初こそ『少し身構えた』ツキコですが、やがて『センセイの家で最後の一杯をしめくくる』ようになります。そんな『センセイ』とは『約束をするわけでもない、たまたま居合わせるだけ』という関係のため『数週間顔を見ないこともあるし、毎晩のように会うこともある』という間柄。そんな中、しばらくの間『センセイと、口をきいていない』という状況が発生します。『いつもの居酒屋で、ちょくちょく顔はあわせるのだが、口を、きかない』、『わたしも知らんぷりだし、センセイも知らんぷり』という二人。『そもそもの始まりは、ラジオ』だったというそのきっかけ。『贔屓の球団は、どちらですか』という『センセイ』は、『ワタクシは、むろん巨人です』と熱意がこもった口ぶり。ラジオの『中継は巨人阪神戦だった』というその場で『贔屓の球団はないが、じつはわたしは巨人嫌い』と『アンチ巨人』なもののはっきり言えないツキコ。そんなツキコは『巨人がお嫌いですか』と訊く『センセイ』に、『だいきらいですね』と返すと『日本人なのに、巨人が嫌いとは』と答える『センセイ』。『ツキコさん、勝ちましたね』と巨人が勝ったその試合のあと、『不穏な空気が、センセイとわたしの間にたちこめていた』という状況を経て口をきかなくなった二人。そんな状況を『居酒屋でセンセイに会って知らんぷりをしあうのは、帯と本がばらばらに置かれているようで、おさまりが悪い』と感じ出したツキコは、ある時『無闇矢鱈とセンセイに会いたくな』ります。そして、いつもの居酒屋で湯豆腐を注文する『センセイ』を見て、同じく『湯豆腐』を頼むツキコ。そんなツキコは『センセイ、これ』とあるものを贈ります。それをきっかけに『センセイとわたしの、いつものやりとり』が復活した二人。そんな二人の静かな日常が淡々と描かれていきます。
2001年に刊行されたこの作品。高校時代に国語を教わった教師と居酒屋で偶然に再開したことをきっかけに二人の間に静かに、穏やかに、そして緩やかに愛情が育まれていく様が美しい日本語表現と情景描写を背景に極めて淡々と描かれていきます。当初その雰囲気感から60年代、70年代を描いている作品なのかと思いましたが『消費税入れて、千円ちょうど』、『長嶋の采配は、いいですね』という表現から1990年代以降、さらには『わたしは携帯電話をバッグから出し』というダメ押しの表現から1990年代後半という、作品刊行当時のリアルな作品であることがわかりました。
そんなこの作品の魅力は幾つもありますが、ここでは”飲食”と”用を足す表現”について取り上げたいと思います。
そもそものツキコと『センセイ』の出会いは居酒屋でした。『まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう』と頼むツキコの声に重なるように『塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆』と頼んだ『センセイ』。『趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた』というそのきっかけは、なんとも庶民っぽさに溢れていて、読書のハードルを一気に下げてくれます。また、『代金はセンセイが払った。次に同じ店で会って飲んだときには、わたしが勘定をした』と最初の二回こそ奢りあったものの『三回目からは、勘定書もそれぞれ、払うのもそれぞれになった』と気楽な付き合いを長く続けようと二人の呼吸が合っていく様が自然に描かれます。『肴の好みだけでない、人との間のとりかたも、似ているのにちがいない』とツキコが感じるのは、恐らく『センセイ』も同じなのだと思います。三十近い歳の差を超えて二人の男女が気持ちを寄せていくのにとても自然な演出に”飲食”の場面が効果的に役割を果たしていきます。一方でこの場面と対になるのが、かつての同級生、小島との関係でした。『センセイ』と語らう場である居酒屋と対照的に『ビルの地下にあるこぢんまりとしたバー』が二人が通う場となります。オーダーは小島が『チーズ入りのオムレツ。チシャのサラダ。牡蠣のくんせい』と終え、ワインで乾杯します。そして、『知らぬ間に勘定を済ませてしま』う小島と、確かに小島は小島で女性を大切に思う気持ちをさりげなく表しますが、一方でそんな場を『この場所に自分がいるべきではないような気がする』とツキコは感じます。普通に考えれば、三十も歳の離れた男女の関係よりも同級生との関係の方が当然に自然です。この作品ではその歳の差の違和感を、逆に同い年の小島を登場させることによって、恋は年齢だけではないという感覚、大切なのはお互いが一緒に違和感なくいられること、ということを読者に自然に意識させていきます。この辺りの構成の上手さが光る作品でもある、そう思いました。
次に、作品を読んでいて強烈な違和感を感じる”用を足す表現”についてです。この作品は言ってみれば恋愛小説です。情景描写も美しいですし、純愛の雰囲気感にもたまらないものがあります。そこにいきなり、『わたしは手洗いに行き、勢いよく用を足した』、『手洗いに行き、座ったまま小さな窓から外を眺めた』、そして『用を足す。膀胱が落ちつけば、大仰な気分もしぼむかと思った』と、幾度も”用を足す”場面がリアルに登場します。私が読んできた小説では、小川糸さん「さようなら、私」で同様に女性主人公が、こちらはモンゴルの大平原ですが、”用を足す”場面が繰り返し登場しました。小説でこのような場面を使うこと自体稀だと思いますが、”飲食”が日常であるなら、”用を足す”のも日常なはずです。主人公の感情の変化は、こういった日常の当たり前の行動の中にこそ現れるものだと思います。何気ない無意識の行動が故にそこに気持ちの変化が見えやすいとも思います。”用を足す”という行為を当たり前のように描いていく川上さん、こちらも上手さをとても感じました。
そして、この作品は何と言っても『歳は三十と少し離れている』という元教師と生徒の間柄であった二人が二十年の時を経て再開し、大人の、極めて大人の恋愛物語が描かれるところがある意味で衝撃的です。あなたは、高校時代の時に担任でもなかった先生のことを覚えているでしょうか?しかも生徒だった当時にすでに五十近い男性教師のことなど覚えているでしょうか?私は教職に就いたことはありませんので、先生の側から生徒がどのように見えているのかは分かりません。この作品の『センセイ』は、『よくも一生徒の名なぞ覚えているものだ』とツキコが感心する通り、彼女のことを覚えていました。『キミは女のくせに一人でこういう店に来るんですね』という会話から進む二人の関係。”年の差婚”という言葉はあれども幾ら偶然の再開のきっかけがあっても普通にはこの年齢差ではその先に関係が進むのは流石にありえないとも思えてしまいます。そんな二人は『日本人なのに、巨人が嫌いとは』と野球のことで揉めたと思えば、『センセイ、山登り、よくなさるんですか』と、キノコ狩りに出かけたり、ついには『ツキコさん、次の土曜日曜と、島にいきませんか』と一泊の旅行に出かけたりと関係を次第に深めていく様が描かれていきます。このことだけだと普通の恋愛物語にも感じられますが、そこで交わされる言葉は、『芭蕉も知らないんですか、キミは』『芭蕉ですよ。教えたでしょう、昔』とか、『ツキコさん、多生の縁て、どういう意味か、ご存じですか』といった『センセイ』の国語の教師の側面が顔を出したり、『ツキコさん、あなた理科の授業もきちんと聞いていなかったんですね』と、まるで教師と生徒そのものの会話が登場したりと元教師と生徒との関係性がどこまでも引きずられていきます。ただ、ツキコも今や四十を前にした大人です。『センセイ』にそう言われても『そんなもの教わりませんでしたよ、授業では』とそんな『センセイ』の攻撃を打ち返していきます。この作品では、この『センセイ』とツキコの活き活きとした会話が何よりもの魅力ですが、教師と生徒の立ち位置はどこまでも変わりません。しかし、年の差こそ離れていても二人とも大人の男と女でもあります。お互いの感情が近づけば近づくほどにお互いの存在を意識する感情が生まれていきます。『ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょう』と訊く『センセイ』。長寿社会の現代にあって七十歳という年齢は決して死が迫り来ることを意識する年齢ではないと思います。しかし、それは自分の人生がその年齢の基準にあるからです。恋愛感情を抱く相手が三十代であるとしたら、その意識はどうしてもその差に向いてしまわざるを得ません。自分に秘めた思いがあるのであれば、それをなんとか形にしたいと思うのは自然な感情の現れでしょう。淡々と描かれていた静かな大人の恋愛物語が、スピードを上げ、かつ、ほのかな高ぶりを見せていく物語後半、そして…と結末に至る物語は、年の差を超えてお互いを慈しみあった一人の男と一人の女の姿をそこに見るものでした。
『センセイ、好き』、『ワタクシも、ツキコさんが好きです』という、『歳は三十と少し離れている』元教師と生徒が偶然の再開を機にお互いを意識し、お互いの存在を感じ、そしてお互いを愛しみあっていく様を描いたこの作品。それは、『わたしたちは、いつでも真面目だった』という二人が、お互いのことを大切にしながら、お互いのぬくもりを感じながら、そしてお互いの存在をなくてはならないものと意識していく中に紡がれていく愛のかたちを見るものでした。
何気ない日常の描写の連続に気持ちが入っていかない思いで始まった読書が、いつしかその世界観にすっかり夢中になっていたこの作品。気がついたらため息が漏れそうな余韻の中に結末を見る、全編に登場する印象的なそれでいて存在を主張しない「センセイの鞄」の絶妙な位置付けが作品を静かに彩るこの作品。独特な雰囲気感の中で静けさの中に灯る一本の蝋燭の炎を見るような、そんな作品でした。続きを読む投稿日:2021.11.27
お酒が出る本を探して出会いました。
年齢差がある恋の話ですが、酒好きとしてはその出会い、その空気感に憧れます。
後半少しだけ違和感を感じる部分はありましたが、お酒を飲みながら読み終えたこと嬉しく思い…ます。続きを読む投稿日:2024.03.16
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