快男児! 日本エンタメの黎明期を支えた男
高橋 銀次郎(著)
/日経BP
作品情報
武士に生まれながら、明治維新後、「ランプ」の普及をいち早く読み、石油卸業を開業して大成功を収めた大浦新太郎。日本での成功に飽き足らなかった新太郎は、早々と海外に目を向け、外国商社に頼らず単身外国で陶器を売り込むなど、たくましい商魂を発揮していた。そんな新太郎が生涯をかけた大事業として取り組んだのが、日本の伝統的なエンターテインメント、軽業芸を世界に広めることだった。度重なる不運や裏切りで、一文無しになる新太郎。だが、新太郎はあきらめなかった。一座の芸を育て、わずかな可能性にかけて渡航を重ね、ついに欧米で大成功を収めるのである。海外での成功の次は、日本のエンターテインメントの育成に力を注ぐ。まだ20代前半だった松竹創業者に協力するなど、日本近代芸能を陰で支えたのであった。今や世界に誇る一大産業に育った日本のエンターテインメント。その基礎を築いた男の波乱万丈の物語である。
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商品情報
- シリーズ
- 快男児! 日本エンタメの黎明期を支えた男
- 著者
- 高橋 銀次郎
- 出版社
- 日経BP
- 書籍発売日
- 2020.12.19
- Reader Store発売日
- 2020.12.19
- ファイルサイズ
- 1.9MB
- ページ数
- 356ページ
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この作品のレビュー
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快男児!
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日本のエンタメの黎明期を支えた男
著者:高橋銀次郎
発行:2020年12月21日
日経BP
ここ数年、スカイというIT系企業のテレビCMが大量に流れている。藤原竜也が出演するあのCM。その創業社長である大浦淳司氏の曾祖父のことを書いた本。この関係、ネット上にも出ていないし、知っている人は少ないかもしれない。
大浦新太郎は、日本にはなかったサーカスのようなエンタメ集団をつくり、アメリカ興行を大成功させた。元日経新聞記者で小説家の著者が書いた、事実を元にしたフィクション、すなわちアレックス・ヘイリーのいう「ファクション」作品。物語風で読みやすいが、事実関係はほぼ間違いないだろう。登場人物や団体名も実名ばかり。
20年ちょっと前、まだ株式会社スカイがマスコミ露出していない時期、僕はスカイ(当時はスカイ・シンク・システムという社名だった)が提供するラジオ番組の構成をした。半年限定(翌年に上場を予定していたのでマスコミ規制がかかるため)で、創業社長の大浦淳司氏が出演し、ベンチャー企業の経営者を招いて話を聞くという番組だった。その番組のコーナーで、一時期、大浦氏自身のそれまでの歩みを語ったりする時間があったが、そこで出てきたのがこの本の主役、大浦新太郎だった。
僕は番組を越えて興味を持ち、東京の歌舞伎座と同じ建物にあった松竹の図書館にまで調べに行ったことがある。その時の資料もまだ残っているし、購入した「ニッポン・サーカス物語」(白水社)は、本書「快男児!」の参考文献にも挙げられている。
大浦新太郎は、幕末の江戸で下級武士の4男に生まれ、遠縁にあたる水口藩(滋賀県)の下級武士である大浦家に16歳で養子に入ったが、2年もしないうちに廃藩置県となり失職した。京都へ出ると、そこには行燈からランプへ、菜種油から石油へという新しい世界があった。石油卸商をすることを決意、神戸のアメリカ商館に乗り込み、大量の買い付けに成功して石油を売り歩いた。商売は成功し、直接販売だけでなく卸商も手がけたが、従業員が始まったばかりの石油先物取引に無断で手を出して失敗し、大損。電気の登場もあって会社を解散した。
新聞でハワイのことを読み、日本の陶器が5倍10倍の値段で売れていることを知ると自らも大量の陶器を買い付けてハワイに行き、販売を試みた。これも成功、すべて売れ、いったん帰国して、今度は倍の陶器を仕入れた。また、英国人が日本人の軽業師を連れて興行したら大受けだったとの話を聞いていたので、甲府の軽業師一座を連れて興行も行った。興行は大成功だったが、人口の関係で3日が限界だった。陶器需要も一巡していて、なんとか売り切る感じだった。
サンフランシスコ経由で日本に帰る船を待っていると、カリフォルニアで興行しないかと誘いを受けた。1ヶ月間行い、好評だったが、約束のギャラは払われずに興行師はとんずらした。一座を帰したが、ハワイでの成功を知って自分も行きたいと望んでいる一座の他のメンバーが代わりにやってきた。それからまた興行をするが、どこでも大好評だったものの、やはり2度、興行師にだまされた。気持ちもおれ、借金をして帰国した。ハワイに行ったのが1886年2月、帰国が1887年7月だった。
翌年、また12人を連れてバンクーバーへ。今回はいい興行師に巡り会え、興行を重ねた。日本から自分たちも参加したいとの希望者が増え、4座50人を超える大所帯となり、アメリカとヨーロッパでそれぞれが興行した。4年間で300万円の資産も出来た(今だと400億円超)。しかし、アメリカでの反応を見ていると「驚異」から「称賛」に変わりつつあることが分かり、このあたりで引き上げようと決意する。
帰国後、300万円の資産を元に貸金業を始めたが、借金のかたに手にした見世物小屋が数軒あった。自分では経営する気がなかったので、適任者を探していると、大谷竹次郎という若者に出会う。彼のやる気にひかれ、お金の支払いは後でいいからと、新京極の阪井座を譲った。竹次郎の興行は成功し、次々と小屋を買っていった。双子の兄・松次郎とつくった会社が「松竹」だった。
新太郎は彼らを見込んでお金を貸し、期待を寄せた。彼らが困ると相談に乗り、力を貸した。やがて、京都の南座、大阪進出、東京の歌舞伎座も彼らの経営となった。大浦新太郎がいなければ、今日の松竹はなかったかもしれない。
***(以下は詳細内容)***
第1部
水口藩は加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍)の孫が立藩。その水口城に下級武士として仕えていた大浦新太郎は、16歳で大浦家に入った養子。大浦の遠戚で江戸出身だったが、すでに義父は死亡し、義母と暮らしていたが、養子になって2年もしない時に廃藩置県により失職した。警察官か教師になる一般的な道筋を断り、京都へ行けば職にありつけるかと思って義母から紹介された甥の後藤秀治を訪ねた。案内された京都は、天皇も東京へ行ってしまい、すっかり寂れていた。失望し、甲賀へ戻り、職探しもうまくいかず2年。後藤から手紙が来た。京都へもう一度来いと。
京都は2年で復興していた。「西京新報」の記者になっていた後藤にすき焼きを食べさせられ、ランプを見せられた。菜種油を使う行燈より、はるかに明るいランプ。石油を燃やす。これから普及するに違いないと思った新太郎は、石油を売ろうと決意した。神戸のアメリカ商館にジョージを訪ね、大量の石油を売ってもらう交渉に成功した。
ランプの普及ペースは著しく、石油商は成功した。めし屋で故郷の友人・坂口健太郎の妹・菊と偶然再会した。武士くずれの客からセクハラを受けながら働く彼女は、そろばんが上手だったことを思い出し、めし屋を辞めさせて自分の会社へ。故郷から兄の健太郎も呼び寄せて働かせた。
商売は順調でこなしきれなくなったため、直接販売だけじゃなく、小売店への卸もしていた。当然、利幅は少ない。西南の役で政府は日銀券を増発、物価高により円安となった。石油の輸入価格は上がり、卸の利幅はますます少なくなってきたことを菊が指摘。しかし、値上げはしなかった。諸物価高騰で人々が困っているなかで値上げはできないと。渋沢栄一の講演会で聞いた話に影響されていた。自らの利益ばかりを考えていてはいけない。
そんななか、石油の先物取引が始まった。しかし、博打のようなそういう取引には一切手を出さず、実業家として歩んでいた。ところが、健太郎と菊が、知らない間に先物取引に投資をしていて、大損を出した。卸の利幅縮小を取り戻そうとしたためだった。仕方なく、会社を清算し、従業員の給料をちゃんと払い、再就職先を世話した。廃業には、これからは電気が普及するとの読みもあった。
第2部
西京新報に載っていた、布哇(ハワイ)情報に目が釘付けとなった。通信社に勤める森正義という人物が書いた記事だった。日本の陶器が5倍や10倍の値で売れているとも書いてある。ハワイで雑貨を売りたいと思い、陶器千個を買い付けてサンフランシスコ行きの貨物船に。ハワイで下船したまではよかったが、250ドルもの関税を要求され、荷物を渡してくれなかった。途方に暮れた新太郎がとりあえずホノルルの町に出て歩いていると、偶然にも森正義と出会う。事情を説明すると、自分の記事を読んで、実際に商売しにわざわざ来てくれたことに感動した森は、250ドルを貸して荷物を出させた。
店舗を構えて販売したが、3日間は売上ゼロ。しかし、4日目から少しずつ売れ始め、2ヶ月目には大口購入があって全て売り切れた。買ったのは欧米人で、日本人は貧しくてそれどころではなかった。サンフランシスコ経由で帰国。翌年(1886)2月、再び倍の陶器を積み、番頭2人を連れてハワイへ。
前回のハワイ滞在中、あることを耳にしていた。英国人が日本人軽業師を連れて興行したところ、大受けしたという。西洋のようなサーカスはないが、日本には優秀な軽業師がいる。商売になりそうだ。京都、大阪の人気一座には断られたが、甲府で宝川伝吉一座を口説いて、ハワイへ同行させた。安藤総領事館の協力により、オペラハウスが借りられ、カラカウア大王夫妻を招き、2日間の興行は大成功した。寝転んで足で樽を扱う、竿に子供を乗せてそれを肩に乗せる、梯子を使った危険な「極芸」、傘芸など、どれも大受けだった。追加公演を決め、3日目も大盛況だったが、4日目にはピタリと客足が止まり、10分の1にも満たない状態に。ハワイでこれを見る金銭的余裕のある人は2000人足らずで、1回500人以上入れたため、もう限界であることを見誤っていた。
一方、陶器も前回ほどの売れ行きはなかった。こちらも富裕層に限りがあり、前回の需要がピークだった。ただ、連れて行った2人の番頭が頑張って、なんとか5000円分の陶器は売れた。
直行便が少ないためサンフランシスコ経由で帰国することに。船の待ち期間に3人の日本人が訪ねてきて、ハワイでの評判を聞いたので船を待つ間に興行してくれないか、と言ってきた。3回の興行は好評だった。最後にお礼を言おうと藤井総領事に挨拶に行くと、1ヶ月のカリフォルニア州興行を提案された。スペリーという大富豪を訪ね、契約をし、ブリックスという支配人が取り仕切ることになった。ブリックスは、給料の払いは興行が済んでからだと条件をつけた。ロサンゼルス、サンディエゴ、サンタバーバラと興行して1ヶ月、いずれも好評。給料をもらいに行くとブリックスはホテルをチェックアウトしていた。持ち逃げされた。
お金がなく、サンフランシスコにも戻れない。見かねた通訳が近場で2週間の興行を見つけてくれた。それをこなしてなんとかサンフランシスコに戻れた。藤井総領事とともにスペリーに支払を要求、しかし、支配人を探して契約どおりに支払っていないことを証明しろという。金は支払ってもらえず。
予定より大幅に長い拘束となった一座は、もう帰りたいと新太郎に言う。新太郎は、コロラド州デンバーでの興行だけして欲しい。その間に一座の別のメンバーに来てもらい、そしてアメリカでの興行を続けたいと提案した。ハワイでの成功報を日本で読んで知っていた交代要員の座員がやって来た。自分たちもしたいと意欲的だった。伝吉らは帰国の船に乗った。
一座はカンザスシティで汽車を降りた。しかし、右も左も分からぬまま、興行ができずに2ヶ月。ホテルへの借金が膨らんだ。仕方なく、現地で雇ってもらうことに。ホテルの口利きで4つに分かれた。それぞれが頑張り、ホテルへの借金も減ってくると、評判を聞きつけた興行師がやってきて興行を申し出てきた。一つの話に乗ったが、またも騙されてお金を持ち逃げされた。今回ばかりは心が折れたが、このままではいられないと、最後に別の興行の話を受け、ワシントンへ。今回は半額を前払いしてもらった。そして、どうしても行きたかった憧れの都市、ニューヨークに。1986年11月だった。予定ではここに1日だけ、あとはワシントンに行く。
ワシントン興行が終わると、次の予定はなかった。そこへ、世界一の曲馬団の団長であるバーナムの甥を名乗る2人が訪ねてきた。自主興行より我が曲馬団に雇われないかといわれた。「大浦新太郎日本軽業一座」の名は掲げつつも、バーナム曲芸団の一員として雇われることに。しかし、またも騙され、給料は支払われず、それどころか契約を立てにイギリスにまで連れて行かれた。イギリスで領事に相談、抗議をすると相手は逃げた。アメリカに戻され、一行は帰国。新太郎だけ残り、なんとかサンフランシスコにたどり着いて、藤井領事にお金を借りて帰国した。1987年7月だった。
1888年2月に一座12人を引き連れてバンクーバーへ。雪の中で途方に暮れていると、宿泊先の日本人経営のホテル主がテラーという興行師を紹介してくれた。また騙されるのではと警戒しつつも、その人柄にひかれ現地で興行。好評だったが赤字、テラーが負担してくれ、サンフランシスコ行きの汽車賃まで負担してくれた。そして、アメリカの主要都市で信用できる興行師のリストもくれた。
そのリストを元に、あるいは、現地でうまくいった興行師から聞いた次の都市の興行師を頼り、各地で興行を成功させた。カンザスシティでもリベンジ興行できた。アメリカで一座は大評判だった。しかし、新太郎は不安を覚える。漠然とした不安。何だろう。拍手が以前とは違う。以前は「驚異」の拍手だったが、今は「称賛」になりつつある。このままだとそれも消えていくのでは・・・ニューヨークで見たバーナムの曲馬芸を思い出した。あれが必要だと。帰国し、曲馬を模索し始めた。新聞広告で募集をかけると、高給にひかれて大勢が集まったが、まともに曲芸が出来たのは5人の集団だった。伊賀出身が3人、甲賀出身が2人、遊び仲間。忍者の子孫だった。
彼ら5人は、アメリカ人と違って鞭を使わず、話し合いを繰り返した。日本語で話し合え、納得すると言うことを聞いてくれるという。彼らは馬の背に立ち、とんぼ返りをし、疾走する馬に追いついて3人で飛び乗った。忍者が来たとアメリカで大受けした。
ヨーロッパでも評判になっており、また、日本でも評判に。日本から我々も参加したいと申し出があり、宝川達吉一座に加え、新たに3座を参加させ、「大浦サーカス」はあわせて4座50人を超える団体となり、それぞれがアメリカとヨーロッパ各地で興行をおこなった。本部はニューヨークの一等地に。しかし、2度目のアメリカチャレンジから4年、あることがきっかけで考えるようになった。そろそろ引き時かもしれない。各座とは1年契約を更新していたが、日本に帰りたいというところを無理矢理頼み込んで契約更新してもらっていた。帰すべき時でもある。4年間の興行と雑貨販売で資産は200万ドルをはるかに超えていた。日本円で200万円、京都市内中心の土地は百坪でも1万円しない。現代の価値にすると400億円になる。
決意して、帰国することにした。船に乗ったのは、1892年5月だった。しかし、日本で彼はブロードウェイで見たミュージカルをしてみたいと思っていた。
第3部
帰国して5年、雑貨の輸出を続け、アメリカで得た300万円で貸金業を始めていた。京都の新京極は廃仏毀釈でお寺がなくなり、その土地に遊興施設となり、門前に見世物小屋が並んでいて、新太郎はそこにもお金を貸していたが返済が滞りがちで、抵当に取っていた小屋の主になっていた。その数4座。座の経営をする気のない彼は、4座のうちの一つ阪井座の金主(きんしゅ)の大谷栄吉を紹介される。江戸時代から小屋での興行は、座主(小屋所有者)、仕打ち(興行師)、金主(興行への出資者)の三者が役割分担していた。興行が成功すれば仕打ちは座主に賃料を払い、金主に歩を支払う。ところが不入りで打ち切りとなれば、思った賃料は入らず、金主は歩がもらえないどころか出資金も返ってこないことだってある。
新太郎は栄吉に阪井座を買ってくれないかと交渉したが、栄吉にその気がなく、適任者として他の人物を紹介される。やって来たのは21歳の若者、大谷竹次郎。栄吉の息子だった。栄吉と妻は、四条にある祇園館(南座、北座と並ぶ名門)で売店を経営。双子の松次郎と竹次郎も幕間に客席を回って土産を売る手伝いをしていた。兄・竹次郎は寿司屋に養子に入り、竹次郎は歌舞伎などの芝居に魅了され、阪井座で仕打ちをしていた。みなぎるやる気に対して新太郎は、お金は後でいいからと阪井座を譲って期待を寄せた。
初興行の初日、警察から中止命令が入った。建物の老朽化が理由だった。しょげ返る竹次郎に対し、祇園館が売りに出ていることを教え、お金も貸した。竹次郎は立地で無理がある四条では興行せず、新京極の阪井座を取り壊してそこに移築した。歌舞伎座と命名した。よく思わない連中からの邪魔は入ったが竹次郎の興行は盛況で、その後、次々に小屋を手に入れ、兄の松次郎と「松竹」をつくって、竹次郎が歌舞伎座、松太郎が大黒座、夷谷(えびす)座、布袋座、明治座を経営した。新太郎が教えたブロードウェイと同じ座主が興行師となる方式で、上演期間や上演時間が約束通り行われない悪しき習慣をやめ、また料金も入場料のみにして座布団代など不透明な料金は一切とらないようにしたのも人気の秘訣だった。
竹次郎は南座買収もめざし、大阪にも進出。さらには東京の歌舞伎座を買おうとしていた。一株60円で3000株、18万円の買い物を株主たちと約束したにも拘わらず、なぜか直前になって取りやめを言われた。関西の若造に売るのがいやらしい。新太郎が乗り込み、株主たちと交渉、なんとか信用されて売ってもらえることに。しかし、ふっかけられて一株70円、21万円での買い物となった。
取引成立、竹次郎に報告した新太郎。しかし、21万円で買ったことは告げず、株は少ししたら18万円で絶対に買い取って欲しい、びた一文まけない、と言った。酒をあまり飲まない2人だったが、今日ばかりはと、黄昏時の築地へと繰り出した。
新太郎は、その後も穏やかな人生を送ったが、ただ一つだけ、ブロードウェイのミュージカル日本上演だけは果たせなかったことを残念に思った。だが、子供か孫か、その下の世代の人がきっと実現してくれるだろうとも思った。投稿日:2023.05.07
明治のエンジェル投資家のスタートアップ人生。
武士からスタートアップ企業家に転身し、松竹などをサポートするエンジェル投資家の話。時代の全てを先取りし過ぎて、彼の真意や思いが未だに日本のエンタメ界に根…付いていないように思われる。大局を掴みつつ、トータルにエンタメをプロデュースしつつ、ビジネスとしてちゃんと機能させる必要性を理解した人が明治時代に存在し、平成にいないパラドックスを感じる。続きを読む投稿日:2020.12.24
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