この作品のレビュー
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アートはあらかじめ正確な青写真があってそれに沿って作品をつくるというやり方をしない。じぶんがやろうとしていること、つくろうとしているものが、あらかじめ見えているわけではない
シニカルにみれば、アート…を掲げた方が社会に出やすい
アートとはなにかという問いに突き動かされているわけではない
社会の要求にそれなりにうまく応えることができてきたことへ自己肯定ができない
どうやるのは聞かれるが、なぜそれをやるのかは誰も聞かない
これからやろうとしている理解不能なことに、なぜ?という問いを投げない
→ここでやりたいんだなと思う。
彼らはなぜ?と問わなかった。私はそのことを通じて底知れない感覚で満ち溢れている世界があることに、、、
ずっと抱えてきたわがままを押し通した。わからなさが壁になるのではなく、蝶つがいになるような関係。
何をしようとしてるのかわからないままに、わたしに使われてくれた。それも頑固にわがままにじぶんを押し通すこの「わたし」に。
わからなさの一点でつながっていた。そのつながりは見返りを求めないもの、
雇用においては、じぶんの存在がなにか手段として使われている、あるいは自由がふさがれているという想いがある。
★アートに何ができるかという問いはかすめもしなかった。アートと社会という問題設定にも乗らなかった
→僕もここだな。書で何かやろうとか、してはいけなんだと思うな。
アートは、多くは、流通する社会的通念の側からその価値が提示される。(町おこし、社会福祉、文化イベント、、、)→つまりなぜやるか、どんな価値があるか「わかった」ものとして、実施される
アートが社会的使命を持つことは否定する。。それは自分でコントロールでできる。
社会的使命感という自分でコントロールできる、自分が世界を変えられるという発想自体が、おかしい
わからなさの受容こそが、闇や破滅に向かわない方法である
なぜが問われないことが魅力であるのは、なぜ?が一番自分を突き動かす原動力であるから。
わかりやすさではなく、『わからなさ』を連帯にする
★★★早急な話題性を自分たちででっち上げるのではなく、外部からそれらが語られ始める状態へともっていくことのほうがはるかに大事
→これだな。自分のやっていくことはここにある。最初からラベリングしないでいい。もっとわかりにくくて良い。自分のできることは、自分のやっていることをわkらないままにしつつ、それでも一歩一歩進めていくことだと思う。語彙に回収してはだめ。
アートと社会という問題設定にはない。
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★その土地土地で現在進行形の自分の時間軸で出会った人との関係をもとに、土地と自分が交差する点で立ち現れてくるイメージに飲み込まれていくような感じ。それが結果的に、作品制作につながっていった。自分が被写体を捕まえて写真にひきずりこむのではなく、体に東北がズブッと刺さってくる感じ。積極的に容れ物のような機能をもち始めたようなこと
志賀の社会を考えるとき、この「容れ物のような機能」、つまりは『器』ということがポイントになる
★わかりやすさの誘惑を退けつつ、わからなさを連帯の綴じ目としてとらえなおすこと、それは『イメージの通り道』をじぶんの身体のうちに設けることだと受け止めた。ここでのイメージとは、言葉へつづめようのない存在の根拠、もしくは原-物語。そのような「イメージ」のなかにじぶんがはいれるかどうかに、その方法に、自分の生死がかかっている。
→これを自分なりに捉えなおすと、僕はこのイメージのことを、都度発生する『間』に生成する『運動』として言語化しているなぁ。その運動の回路をひらきつつ、その運動に飲まれながら、その運動の円滑な展開に自分を関わらせること。この時の【運動】を、志賀は『イメージ』だと言っている。生成の展開力、それ自体としての【イメージ】。ロゴスともいえると思う。
震災後のアーティストが多様したのは、『使われるという』という言葉
芸術に社会性があるのではなく、芸術が根をはる場所が社会だ
★制作は、他者にさらされ、ときに他者に身を預けることで、つねにおなじように「わたし」であろうとする強迫から解き放たれる、そのような偶然をはらんだ可能性、それをたぐりよせる行為として制作はある。その可能性は、じぶんとは別の存在、つまりは他者との偶然の遭遇によって、他者のほうからいわばわたしに贈られるものだ。が、わたしの存在もまたみずからそうと気づくことなく、それを他者に贈り返している、
★★志賀が「社会」と呼ぶのは、『わからなさ』の知らせを聴き取ることで成立するコミュニケーションという出来事が恒常的に起こる場のこと。何かを共有するのではなく、たがいにわからないままに交わるというそのことが、『ある別の知らせの出来』であるような、そういうコミュニケーションの場。
→★★【現在】への移行を共にしつつ、その運動は分有する行為。その運動というものこそが、「社会」なのだろうと思う。いわば「共に現在に移ろう」という行為の中に、「社会=現在」というものが、内的に感受される。
★★つまり、ここで言われているアートというのは、【現在】を共に制作する、ないしは、制作し続ける行為だといえると思う。【現在】への移行(イメージとしての運動)に共に流さているために、互いを捧げ、共に相互作用しあう中で、そのイメージの回路を協働で開いていく、開き続けていく行為。そしてそこでこそ、人は『社会』に内在し続けることができる。社会を作り出す、作り続けていく行為こそがアート。
わからなさによって隔てられ、融合や合一ということがおよそありえないままで『ともにある』ということ。
じぶんではない別の何かがじぶんの存在を蹂躙し、通り抜けていく、そういう経験が起こす場所が、もはやプライベートスペースとしての私室やアトリエ、工房ではありえなくなった、
アートは、別のなにかに出会うこと、そのことによってじぶんがなにかわからない存在の未知の可能性、あるいは根拠にふれること。
★★撮ることで、村人たちのなかに入り込み、さらに撮ることに村人を巻き込んだ。印画紙の中に、いまじぶんを支えている「社会」を立ち上がらせ、そしてそれを曼荼羅のような宇宙へと開いた
社会は、何かを共有することを前提にしていない。唯一共有していたものがあるとすればそれは「わからなさ」であった。(ナンシー「無の分有」と同じかな)
アートである限り、「社会」の外に立つということはありえない。しかし、それらの概念や枠組みが失効した地点にまで遡行して、自らの先行きを見通せない活動のなかから、「社会」がいかに生成するか。
アートと社会という問題設定の上に乗るものではない。いいかえれば、町おこし、地域社会の活性化というものでも、文化イベントでもない。社会のためにアートはなにができるかというものでもない。
普通、アートは流通する社会的通念からその価値を提示する。地域の活性化、イメージアップのためにアートが動員される。
★★早急な話題性を自分たちででっちあげるのではなく、外部からそれらが語られ始める状態へともっていくことのほうが大事
アートと社会という問題設定にのること自体に慎重。アーティストが社会的使命感を持つこと、これには否定的。
わからなさの受容こそが、闇や破滅にむかわない方法。<なぜ>が問われないことだ最大の魅力。しかし実は【なぜ?】が一番私を突き動かす原動力なのかもしれない。
→【意味】が(事前に)なくても、身体が動いていることへの確信。
アートが、こどもの感性と想像力を豊かにする、、、流通するその口当たりの良さにへきえきする
そのために誘惑し、焚き付け、そそのかすこと=教育
存在することのはげみを他者に贈り続ける活動、そういう意味をアートはもっている
社会を考えるとき、社会がつねに揺れ動くものであること、どこに震源があるかは定かでないままに、たえず受容しているものであること、そういう変容の兆しがとてもありふれた場所にありながら、ありふれた場所だからこそ、だれも気付かないであいることにあらためて思いを向ける必要がある
→【生きてある場所】の分有としての「社会」の発見としての相互行為。
社会は、ある法体系や規約により成り立つものではない、ひとがそれの起動する理由もわからずに巻き込まれ、押し流されていく、だれが指示者なのかも不明の、不透明な力動態。
社会的な緊張状態の痛点の兆候を読む診断力を、地下の不可視の揺動を記録する地震計のような感受性と呼ぶ
★専門科学の知がつい見逃してしまうような些細な兆候に感応し、そこから推論を積み上げていくタイプの知。19世紀末から出現。
★★何か全貌がわからないが、無視しえない重大な何かを暗示するものを、息をひそめてうかがう感覚
もともとの社会は、対面的でしかも重層的な感情的負荷をもつ≪つきあい≫
★社会は、抽象的な脈絡のままで使用される恐れがある
→社会など、ほんとうは客体的にはない』のに、それがそもそも客体的に【ある】かのような前提をもってしまうということ。<現実>というのもそうだ、多くの人はその実態のないものの中で、そこで流通するふるまいをすることで社会的存在になると思い込んでいる。しかしそこには、『わからなさ』を連帯にしたコミュニケーションはない。つまりそこでは『現実』に立てないということかな。
社会は、大地と同じく、人が根を下ろしているところだが、見えないのだと思う。
あきらかに自然発生的な世間に対立するものとして、もはやsocialの【親しい仲間どうしの集まり】という意味を超えて、それまでにはなかった諸個人の対等な関係とするつながりの【社会】の可能性が発見された
人々の相互行為、そうした制度(社会システム)のいわば下部構造として機能してきた人々の相互行為、とどのつまりは社会を生成させる基盤としてはたらきだすものとして社会的なものはある
もはや社会的な観念も存在しない。孤立し、隣人とかかわりをもたず、とりあうような状態を社会と呼べるのか?
各人の生活が、構造とコミュニタス、状態と行こうを交互に経験するもとしてあるように、社会もまたひとつの事物ではなく、ひとつの過程。
社会は、生成する。その社会の生成のダイナミクス。一方で枠組みとしての制度かあり、他方、それをゆさぶり、こわし、再編成する活動のプロセスがある
無を分かち合うこと。続きを読む投稿日:2022.03.02
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